さて、中国に次ぎ、「宗教が人生で大切」と答えた人の割合が、世界の中でも突出して少ない国民集団が私たち日本人であることは、このように数字の比較によって明らかである。
これは何を意味し、何が原因し、私たちに何をもたらすものなのか?
繰り返しとなるが、特定の新宗教・新々宗教系の信仰を堅持している人でない限り、日本の社会関係の中では「宗教」は極めて軽んじられている。
(もちろん、これは価値観ないし内面の問題であり、教団の規模がどうだとか、法律上とりわけ税法上保護されているとかといった外的事実とは関係がない。)
そのことは、私たちの日常会話で宗教(信念、信仰、意味、価値、人生、真実等々)関係の話題が全く現れないこと、それどころか忌避され、ほぼタブーに近い状態に置かれていることがよく表している。
要するに、私たちにとって宗教とはほとんど「あってなきがごとし」のあり様である。
この状態はほとんど私たちの感覚レベルにまで落ちて普遍化したものであり、社会心理的にいえば「空気」(山本七平氏)となって私たちを支配している。
いわば「宗教なんかカンケーない」というのが私たちの共通認識、共通感覚、いわば集団的な「心の目」と化しているわけだ。
この視点からは、私たち自身がその内にある、当該の価値観-心的状態の特殊性を相対視することができないのは当然である。
したがって、まさに価値観の中核に関するこれほどの顕著な調査結果であるにもかかわらず、この項目はWVSを解説した日本の一般向け文献には、管見の限り全く表れてこない。
それも、この常識的視点からすれば当然であろう。いわゆる「有識者」のセンセイ方も、自身の言説が世に流通してナンボの業界事情に汲々とされているだろうからだ。それほど「宗教」とはウケが悪いのである。
つまりは価値観の深層・中核すなわち「宗教」に触れない客観めかした記述こそが「価値あり」とされているというわけだ。それにしても、そうした自らの価値観の特殊性に切り込まずして、いったい何が「価値観の研究」なのだろう。
では、そもそも「宗教」とは何か。
この点を明確にしなければ、このWVSの調査結果の重要性が見えてこない。
「宗教」とは、私たち日本の一般人にとって、狭くは例のオウム真理教事件や、某「科学」・某「学会」、広くはイスラムのテロリズムや宗教戦争といった、原理主義のイメージが直ちに想起されるワードである。
言ってしまえば「危険な信じ込み」という神話的観念、そして俗にいう「イワシの頭も信心から」という呪術的心性を包括したものが「宗教」だとされている。
私たちの典型的な「宗教」のイメージ((c)朝日新聞社)
要するに私たちにとって「宗教」とは、非合理的な信念体系や怪しげな呪術と、それを盲目的に共有する集団及びその活動を一緒くたにした概念ということになろう。ここには「何と愚かなのだろう」というニュアンスが色濃く付随している(不思議にもキリスト教がその例外となっているのは、明治以来の舶来上等主義の伝統によるものに違いない)。
しかし少し距離化し俯瞰してみれば、あらゆる価値の根源ないし頂点には「絶対的な存在」があり、そもそも価値観とはそれにもとづく信念体系の別称である。
主観的なニュアンスの強い「信念体系」などというより、客観的に「コスモロジーのシステム」とでも換言したほうが、「宗教」という観念を巡る私たちの混乱がわかりやすく整理できるだろう。
宇宙観・世界観・人生観をひっくるめた「コスモロジー」――だとすれば、近現代の合理主義の下にある私たちも一つの特殊なコスモロジー(近代科学主義的コスモロジー)の支配下にあることが相対視することができるからだ。
(先見的なコスモロジー心理学に関して、ぜひ当ブログでも紹介してきた岡野守也先生(サングラハ教育・心理研究所)の著作・ブログを参照していただきたい)
そもそも、コスモロジーなき人間集団など存在しない。
私たちのコスモロジー……それは「あらゆる価値は究極的には存在せず、すべての根底は結局モノだけ」という、考えてみれば奇妙なコスモロジーである。
いわば、絶対的な価値と一体になった前近代的・神話的コスモロジーが「宗教」なわけだが、それが世俗化され絶対性が抜き取られた近代主義もまた、ひとつのコスモロジーであることに違いはない。
かくして、私たちの人生は極めて平板なものとなってしまった。
価値など究極的には存在しない。人生には意味もクソもない。
人生は私(たち)の楽しみのためにある――すなわち「楽しくなくちゃ人生じゃない」。
この感覚が常識化すれば、いわゆる「お笑い」があらゆるメディアの支配的基調となり、うつ病・ひきこもりが広範な社会病理現象として現れるのはむしろ当然である。
結局、それが「世の真実」なのだから。
しかし、世界的に見てこの社会心理は明らかに特殊、さらに踏み込めば「異常」といってもいいものであることを、WVSの調査結果は示している。
そのことを、さらに調査結果に基づき具体的に見ていこう。
これは何を意味し、何が原因し、私たちに何をもたらすものなのか?
繰り返しとなるが、特定の新宗教・新々宗教系の信仰を堅持している人でない限り、日本の社会関係の中では「宗教」は極めて軽んじられている。
(もちろん、これは価値観ないし内面の問題であり、教団の規模がどうだとか、法律上とりわけ税法上保護されているとかといった外的事実とは関係がない。)
そのことは、私たちの日常会話で宗教(信念、信仰、意味、価値、人生、真実等々)関係の話題が全く現れないこと、それどころか忌避され、ほぼタブーに近い状態に置かれていることがよく表している。
要するに、私たちにとって宗教とはほとんど「あってなきがごとし」のあり様である。
この状態はほとんど私たちの感覚レベルにまで落ちて普遍化したものであり、社会心理的にいえば「空気」(山本七平氏)となって私たちを支配している。
いわば「宗教なんかカンケーない」というのが私たちの共通認識、共通感覚、いわば集団的な「心の目」と化しているわけだ。
この視点からは、私たち自身がその内にある、当該の価値観-心的状態の特殊性を相対視することができないのは当然である。
したがって、まさに価値観の中核に関するこれほどの顕著な調査結果であるにもかかわらず、この項目はWVSを解説した日本の一般向け文献には、管見の限り全く表れてこない。
それも、この常識的視点からすれば当然であろう。いわゆる「有識者」のセンセイ方も、自身の言説が世に流通してナンボの業界事情に汲々とされているだろうからだ。それほど「宗教」とはウケが悪いのである。
つまりは価値観の深層・中核すなわち「宗教」に触れない客観めかした記述こそが「価値あり」とされているというわけだ。それにしても、そうした自らの価値観の特殊性に切り込まずして、いったい何が「価値観の研究」なのだろう。
では、そもそも「宗教」とは何か。
この点を明確にしなければ、このWVSの調査結果の重要性が見えてこない。
「宗教」とは、私たち日本の一般人にとって、狭くは例のオウム真理教事件や、某「科学」・某「学会」、広くはイスラムのテロリズムや宗教戦争といった、原理主義のイメージが直ちに想起されるワードである。
言ってしまえば「危険な信じ込み」という神話的観念、そして俗にいう「イワシの頭も信心から」という呪術的心性を包括したものが「宗教」だとされている。
私たちの典型的な「宗教」のイメージ((c)朝日新聞社)
要するに私たちにとって「宗教」とは、非合理的な信念体系や怪しげな呪術と、それを盲目的に共有する集団及びその活動を一緒くたにした概念ということになろう。ここには「何と愚かなのだろう」というニュアンスが色濃く付随している(不思議にもキリスト教がその例外となっているのは、明治以来の舶来上等主義の伝統によるものに違いない)。
しかし少し距離化し俯瞰してみれば、あらゆる価値の根源ないし頂点には「絶対的な存在」があり、そもそも価値観とはそれにもとづく信念体系の別称である。
主観的なニュアンスの強い「信念体系」などというより、客観的に「コスモロジーのシステム」とでも換言したほうが、「宗教」という観念を巡る私たちの混乱がわかりやすく整理できるだろう。
宇宙観・世界観・人生観をひっくるめた「コスモロジー」――だとすれば、近現代の合理主義の下にある私たちも一つの特殊なコスモロジー(近代科学主義的コスモロジー)の支配下にあることが相対視することができるからだ。
(先見的なコスモロジー心理学に関して、ぜひ当ブログでも紹介してきた岡野守也先生(サングラハ教育・心理研究所)の著作・ブログを参照していただきたい)
そもそも、コスモロジーなき人間集団など存在しない。
私たちのコスモロジー……それは「あらゆる価値は究極的には存在せず、すべての根底は結局モノだけ」という、考えてみれば奇妙なコスモロジーである。
いわば、絶対的な価値と一体になった前近代的・神話的コスモロジーが「宗教」なわけだが、それが世俗化され絶対性が抜き取られた近代主義もまた、ひとつのコスモロジーであることに違いはない。
かくして、私たちの人生は極めて平板なものとなってしまった。
価値など究極的には存在しない。人生には意味もクソもない。
人生は私(たち)の楽しみのためにある――すなわち「楽しくなくちゃ人生じゃない」。
この感覚が常識化すれば、いわゆる「お笑い」があらゆるメディアの支配的基調となり、うつ病・ひきこもりが広範な社会病理現象として現れるのはむしろ当然である。
結局、それが「世の真実」なのだから。
しかし、世界的に見てこの社会心理は明らかに特殊、さらに踏み込めば「異常」といってもいいものであることを、WVSの調査結果は示している。
そのことを、さらに調査結果に基づき具体的に見ていこう。
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