まとめ
このように四象限の枠組みから、人間集団の内面が歴史にとって不可欠の半面であったことが見えてくる。単純に「心を抜きに歴史が存在しうるか」と思考実験してみれば、それは事実だとしか言いようがない。歴史的事象は内面と外面で一体であるというこの原点に立ち返るならば、見失われた左下象限・集団的内面の領域を補完する歴史観が、意味も展望もある真にリアルなものとして今後正統性を持つであろうと当然に予見 . . . 本文を読む
著者はその執筆意図を「歴史を学ぶのは、現代をよりよく知るため」であると述べ、また現代の生態学的な危機を超えるため、現代日本が江戸時代の持続可能な社会に学ぶことを期待していると言う。実際、閉鎖環境下の狭隘な国土で、農業をベースに三千万を超える人口が長期にわたり生活水準を維持・増進しつつ、生態学的な均衡をも実現していたという驚異的な事実は、真に文明の名にふさわしく、私たち日本人はかかる先祖たちの達成 . . . 本文を読む
これを幻影にとどめず、対応する外面の経済・社会的な証拠によって現実世界に繋ぎ止めうるのが、鬼頭氏が提示している江戸システムだと言いたい。鬼頭氏は本書によって、いみじくも渡辺氏が述べている「彼らの第一印象の網にかかった…高度で豊かな農業と手工業の文明、外国との接触を制限することによって独特な仕上げぶりに到達した一つの前工業化社会の性格と特質」を、「国民、生産物、商業、法律等々についての正確な情報 . . . 本文を読む
本書と『逝きし世の面影』との関連について
ところで、本書冒頭でも言及されている渡辺京二氏の『逝きし世の面影』は、幕末・明治初期に訪日した外国人の記録を文化人類学的観察として読み解くという、本書とは全く異なるアプローチによって「文明としての江戸」を描き出した、真に画期的な業績であった。それは異文化ギャップが浮き彫りにした文明の心性を再生する試みであり、その意図は次のような一節に端的に表現されて . . . 本文を読む
こうして「文明としての江戸システム」は、いわゆる「文明開化」で単に滅び去ったのでなく、その後の歴史の展開に連続し、近代国家成立を可能ならしめた遺産でもあったことが、ますます明らかになりつつあるとしている。
数百年にわたって浸透し、江戸時代後半の百五十年に緊密に全国を結合し、高度に洗練された市場経済のシステムは、それまで現実の変化を抑制していた種々の規制を撤廃することによって、短期間の内に資 . . . 本文を読む
一方で「それは、少なくとも平常年にあてはまることであって、凶作によって供給量が減少すればただちに問題が生じる危険水域」だった。さらに栄養バランスにも地域によって極端な偏りが見られるなど、農業社会としての限界をも指摘する。先に見た人口増加率の顕著な地域差からすれば、栄養状態に同様の傾向があっただろうことは想像に難くない。しかしそうだとしても、全体に関する基本的事実を認識することがまず重要である。 . . . 本文を読む