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JFK暗殺事件の真相―リチャード・ニクソンの疑惑②

2020-08-29 | JFK暗殺事件について
 たしかに暗殺されたケネディと大統領選を争い敗北した男、すなわちケネディを政治的に亡き者にしなければならないという動機は十分な男が、その日・その町にいたというのは、単に偶然と片付けてしまうにはあまりに不可解な話だ。

 ケネディのパレードは翌年の大統領選に向けた活動の一環でもあった。彼が再戦されれば、ニクソンが大統領になる可能性は閉ざされることとなるのである。

 ニクソンはケネディの前のアイゼンハワー政権では副大統領の地位にあって、例のピッグス湾の件の立案に深くかかわったという。
 ケネディが前大統領から引き継ぎを受けつつ事実上握りつぶしたピッグス湾進行作戦が、彼の暗殺の最大の契機であったことは、状況からしておそらく間違いない。

 ニクソンは在任中にホワイトハウス直属の非合法活動グループ「鉛管工」を組織し、政敵の信用失墜を画策した。その他数多くの彼の政治活動のダークサイドは、暗殺から約十年を経て発覚したウォーターゲート事件を通じてさんざん暴かれてきたとおりだ。
 彼の政治的事績はたしかに輝かしいものがあるが、その裏での非合法活動を厭わない暗部を、この事件によって自ら証明したのである。

 それは単に大統領再選を前に不安に駆られての行動などではなく、彼の政治生命の一部だったと考えるのが自然である。「汚い仕事」ももともとその政治活動と一体のものだったのだ。

 そんな男・ニクソンが、その日・その町に、しかも当日ケネディが降り立ったダラス・ラブフィールド空港という地点に、わずかの時間差でいたというのである。
 ……にわかに信じがたい話だが、先述のとおりニクソン財団も認めているとおりの事実なのである。

 しかしこの「ニクソンが暗殺当日にダラスにいた」という事実が、ニクソン寄りの保守的言論にとってもきわめて不都合だったことは、前掲の記事の書き方によく表れている。
 考えてみればあからさまなはずの、その重大な意味には触れずに、お涙頂戴の感動的な「お話」で事実を糊塗するのは、先に取り上げたP・シノン著など、この事件の公式説の側の言説に恒例のパターンとなっている。

 当日、ニクソンはジャクリーン夫人を慰める麗しい手紙を書いたのだという。だからどうしたというのだろう。何と入念に準備したことだろうと受け取ることもできるではないか。
 彼はマスコミのジャクリーンへの仕打ちに、怒りに打ち震えたのだという。誰がそれを見ていたのか。すべては後年の彼の述懐にすぎないのである。

 この記事が典型的なように、「不都合な事実」への「コンスピラシー・セオリー(陰謀論)」なるレッテル貼りが、世論を一種の「思考停止」に導くのにために実に便利な手段だったことがわかる。そもそも「陰謀論」なる言葉がCIAによるこの事件に関する世論誘導のために生まれた可能性が高いことは、以前に触れたとおりである。

 記事が認めているとおり、後年の大統領・ニクソンが、暗殺のまさに当日に、地方都市・ダラスにいたというのは、どれほどの天文学的確率で起こる事態なのだろう。これを単なる偶然と片付けるのは不合理である。
 普通に考えれば、そこに何らかの必然性があったと考えるのが自然だ。


 銃撃の瞬間について散々見てきたが、ここでも、「奇跡的偶然」はそれにとどまらない。

 よく知られているとおり、ウォーターゲート事件で明るみとなった上述の「鉛管工」グループのリーダーの一人が、元CIAのケースオフィサーE・ハワード・ハントであった。
 またメンバーにはフランク・スタージスというCIAの元契約工作員がいた。
 この2人は事件の報道において、いわゆる「ウォーターゲート・セブン」として悪名を馳せた男たちである。

 ハントとスタージス――この2人の男は、先に紹介したM・レーン著『大がかりな嘘』(”Plausible Denial: Was the CIA Involved in the Assassination of JFK?”)にて、ケネディ銃撃の現場責任者と実行グループのリーダーとして挙げられていた人物でもある。
 ハントに関しては、先に紹介したNHKスペシャルの番組でも、CIA部内からの「告発」において疑惑のケースオフィサーの一人に(あくまで背景としてだが)挙げられていたことに気づいた方もあるだろう。

 そのハントは、自身をケネディ暗殺と関連付けて報道した新聞社を訴えた名誉棄損裁判の第二審(第一審はハント勝訴)において、弁護士・レーンと対決しもろくも敗れている。

 その最大の理由は、「暗殺当日、ワシントンのCIAオフィスから帰宅し自宅にいた」とのアリバイ主張にCIA部内の証人しか用意できず、その内容も二転三転し陪審員に深い不信感を抱かせたことにある。

 レーン著では、「暗殺事件の報道を妻や子供たちと一緒にずっとテレビで見ていた」という証言が、当の子供たちによって疑われていることをレーンに指摘され、厚顔のハントが法廷で絶句する場面がとりわけ印象深い。
 またこの法廷では、ゴ・ディン・ディエム暗殺の濡れ衣を擦り付けた、ニクソン政権下でのケネディの信用失墜工作等々も、ハントは自身が実行したものとして実にあけすけに語っている。


 しかもニクソンには、オズワルドを殺したダラスのクラブ店主ジャック・ルビーともつながりがあった可能性が高い。

 後年、機密指定が解除されたFBIのファイルから発見された文書に、次のようなものがあるという。


出所:http://www.perryvermeulen.nl/featured-story-6/

 ルビーの年譜を見ると、確かに1947年までシカゴにおり、当時は「ジャック・ルーベンシュタイン」という名で後年改名したことがわかる。そして奇しくもちょうどこの年、彼はダラスに渡っている。
 これに関しては偽造文書との議論もあるようであり、その点はネタ元に譲るが、元の文書画像を見る限りいかにも本物らしい役所の様式となっている。
 元文書への注釈としてFBIが「This is sensitive(デリケートな・機密に関わる情報)」とコメントを付しているのも、その意味を考えればもっともというものだ。


 さて、ここまでであれば、この事件に興味がある人には比較的よく知られている情報にすぎない。
 少なくとも、当日ダラスにいた男・ニクソンが、ハントのような人物を後年配下として使っていたということは紛れもない事実である。
 問題はその意味するところの解釈である。

 天文学的確率の「奇跡的偶然」がダブルないしトリプルになる、それはその「偶然」なるものがほぼ百パーセントの「必然」であったことを意味する。
 これをも「陰謀論」というのなら、文字どおり「正真正銘の陰謀の存在した」としか考えようがないではないか。

 しかも暗殺当日には、先述のような疑惑のあるジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ大統領)もまた、ダラスに滞在していた可能性が濃厚である。
 詳しくは続けて述べる予定だが、暗殺のあった地方都市にまさにその日、4人目の大統領がそこにいたというのは、どうも事実であるらしい。
 
 驚くべきことである。「陰謀論」などというレッテル貼りで済ますことは到底できない。

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