またまた言い訳から始まりますが…
さきの「特攻論」については、現在のところほかに書くべきことがあるし、材料不足かつ書き手の気合いがまだまだ、ということでしばらく自重しようと思うのですが、そしたらとたんに書くモチベーションが…というと聞こえがいいようですが、ようするにやる気がなくなってしまいました。
そのうち時間を見て再開したいなと思います。
ともかくあの「特攻」ということについて、現在の私たち . . . 本文を読む
さて、前に書いたように悲惨なデータといいながら、なぜ殺害戦果というようなことをここであえてあげつらうかというと、なにより出撃した彼ら隊員が命を投げうって達成しようと強く願ったのは、その行動を冷静・虚心にとらえるなら「敵と刺し違える」という一事であったことはおそらく間違いないと思われるからです。
そしてそれがどの程度達成しえたのかを知ることは、単純に考えてもこのテーマに関する重要かつ不可欠な事実認識 . . . 本文を読む
かなり前から書き始めた「特攻」論がほとんどこだわりになりつつありますが、こだわりというのはほうっておくといつまでもこだわりとして残ってしまうものなのかもしれません。
そうだとすれば、いったんとことんこだわってそれを解消するものまた一つの手かとも思われます。
折に触れ書いていければと思いますので、よろしければお付き合いいただけると幸いです。
さて、単にこだわりでマニア的に書いてもしょうがないので . . . 本文を読む
引き続き2つ前の記事で引用した資料について。
まず注意しなければならないのは、この資料の扱っている1944年10月~45年3月は、全特攻作戦の前半期にあたる期間であり、45年4月に開始された沖縄戦から8月の終戦までの、いわば特攻後半戦の様相は不明であることだ。
(紹介した映画はその時期の話だったと記憶している。)
戦争最末期のその時期は、日本の航空戦力が質量とも底を尽き、訓練もままならないまま . . . 本文を読む
ここのところ、ほとんどこだわりのように「特攻」というテーマで書いている。いや、まさにこだわりそのものなのだろう。
さきの戦争をどう評価するかについては左右に内外にさまざまな見方がありえ、そしてそれらすべてが大体において正しいというのが総体としての歴史なのではないか、とすら思える。
しかし当面ここではそれは問題ではない。
明らかにしたいのはなぜ若い彼らには「国のために死ぬ」ということができたのか . . . 本文を読む
表示の画像は戦史関係の著述家である原勝洋氏が、昨年以来鳴り物入りといった感じで著作や雑誌記事で紹介している資料である。
これは「Observed Suicide Attacks by Japanese Against Allied Ships」(「観察された日本軍の連合国艦船への自殺攻撃」、米海軍情報部航空諜報課作成)と題された資料の一部で、航空特攻が開始された1944年10月から沖縄戦直前の1 . . . 本文を読む
二つ前の特攻隊に関する連載の記事に、「無条件降伏を迫るポツダム宣言受諾」云々と書きましたが、軽率なことにこれは不正確な、というよりもある種はっきりと偏向した認識だったようです。
当のポツダム宣言が意図したところを考えれば、それは文章自体がまるで矛盾したものとなってしまうほどの錯誤だったようです。
自覚したようでありながら、教育で、メディアで、教えられたように、刷り込まれたままを書いていたわけです . . . 本文を読む
「特攻隊の英霊に曰す 善く戦ひたり 深謝す」
――航空特攻の指揮官、海軍中将大西瀧治郎の遺書より
これまで書いてきたように、六十余年前にこの国の若者たちが遂行した特攻作戦について、それが私たち自身の歴史理解の「壁」となっていると同時に、だからこそ「突破口」にもなりうるだろうという問題意識-展望のもと、さらに述べていきたいと思う。
それは主観的な願いとしては、「特攻隊論も同 . . . 本文を読む
前回はずいぶん大仰なことを書き、言葉が滑ってしまっているような印象となっている感じがします。
若干気はずかしいところです。
つづめていえば、どの国もそうであるように、私たち日本人にとっても、国家レベルでのアイデンティティを求める心情があることは、集団を形成する人間の本質的な欲求として正当であり、そして、それは内面的な機能として、集団の健全さを保障する帰属意識‐求心力として現実に力をもつ、と . . . 本文を読む
これまで若干書いてきたとおり、このシリーズは当初は「特攻」を主題にした映画作品「俺は、君のためにこそ死にに行く」を発端に、その感想‐批評として更新していくことを予定して開始したものだった。
(思えば、この映画の題名こそが今後扱う「特攻」というテーマの核心にかかわる問題を図らずも表現していたように見える)
が、いろいろ調べていくうちに、この60年前の歴史上の事件は、そういうふうに「いい話だっ . . . 本文を読む
そういうわけで、前回の記事で書いたとおり、今後暫くはかつて日本人が遂行した「特攻」についてを課題に、更新を続けていく予定です。
ところで、なぜこれを行なうかについて、若干反省し、自分でもはっきりとわけて整理しておいたほうがいいように思われました。
こういうテーマに自然関心が向くについては、省みるとそこにはやはり個人的なこだわりというか無意識的な傾向性があるように思います。
私の場合は、自覚的に . . . 本文を読む
はやくも衣替えの季節となりました。
まだ涼しいですが、温暖化によりますます過酷になっている今後の猛暑を思うと、若干げんなりしてしまいます。早いところ大家さんにエアコンを直してもらわなければ。
わが社も最近の官製流行であるクールビズとやらをかかげ、いっせいに夏季の軽装となりました。
たしかに気候変動‐温暖化にはほとんどまったく効果がない「まやかし」ではあると思いますが、それはそれ。ネクタイがないの . . . 本文を読む
さて、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」をご紹介しているが、これが戦争の悲惨さの中にぎりぎりなものとしてあらわれた「美しさ」を見出すことを主題として描かれた作品だったのは明らかだと思う。
そのように映画が正当にも目指そうとしながら、しかし一方で明らかに限界があって描ききれていないように見えたことがある。
それはすなわち、「特攻」のネガティブな面とポジティブな面のそれぞれをしっかり分けて . . . 本文を読む
さて、先日鑑賞した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の、内容自体について書いていきたいと思う。
(そう書いていて思うのは、どうも映画それ自体をダシに、というかそれを離れて、現代日本人としての自分の思いを語ってしまいそうだということ。が、ブログという自由な場なのだから、たぶんそれもまたいいのだろう。お読みになって、映画の感想という文脈から飛躍していると感じられたら、笑ってお許しいただければと . . . 本文を読む
きのうは、最近封切られた特攻を描いた映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」を観にいった。
気にはなっていたが、テーマがテーマだけに、最近よくある軽くて陳腐な描き方がされていたら腹立たしいだろうと思い遠慮していたのだが、涙なくして見られないとても感動的な映画だと人に聞き、見に行く気になったのである。
そしていい意味で予想を裏切られたのだった。
この作品は、特攻という重苦しいテーマを正面か . . . 本文を読む