愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

タンポポ 語源の謎

2009年04月23日 | 口頭伝承
タンポポという日本語はとても不思議だ。「popo」と発音するのは、汽車ポッポか去年流行した鼠先輩の歌くらいなもので、これが昔から使われていたというのも面白い。日葡辞書にも「Tanpopo」とあるし、文明本節用集にも「蒲公草 タンホホ」とあるので、少なくとも室町時代には「タンポポ」と呼んでいたことは間違いない。この語源は、タンポポを別名「鼓草」ということから、鼓の音を擬したとされる。柳田國男もそのように説明している。各地の方言を見てみると、静岡ではタタンポコ、タンタンボ、東海から近畿地方にかけてはタンポコ、大分ではタンポッポ、また、岐阜・愛知ではチャンポコなどがある(日本国語大辞典参照)。確かにいずれも鼓の音を擬したような方言ばかりである。江戸時代の和漢三才図会には「蒲公英 和名不知奈、一云太奈、俗云太牟保々」とある。「太奈(タナ)」は「田菜」のことで、それに鼓の音の「ポポ」が付いたのではないか。いくらなんでも「タン」も「ポポ」も両方、鼓の音から来ているとは考えにくい。タナ(田菜)がベースにあって、タンポポへの派生していったのではないか。そのように考えてはいるのだが、いまいち自分の中でも納得ができない。あくまで主観ではあるが、「popo」と日本語の不調和を感じずにはいられない。幼児語でもないし、全国各地の方言でも共通性が見られる「タンポポ」。この語源には、強い影響力を持つ文化的背景があるように思う。たとえば、タンポポは漢語もしくは仏教用語のような外来語であるとか・・・。この語源は詳しく調べたことがないので主観めいていることを書いてみたが、この時期、家の近くに生えているタンポポ見るたびに気になって仕方がない。

方言「しゃぐ」

2009年04月07日 | 口頭伝承
物を押しつぶすことを「しゃぐ」というが、これが愛媛の方言だとは全く知らなかった。日本国語大辞典では、岡山市、愛媛県、高知県幡多郡、熊本県芦北郡での方言のようだ。よく使っている言葉なので、いまさら、これが方言だと気づく自分が少し恥ずかしくなった。

おたふくかぜ

2008年07月10日 | 口頭伝承
今「おたふくかぜ」がはやっている。下の娘の通う園では、今日は、なんと三分の一近くが耳下腺炎。そろそろウチも発症するか?と様子を見ているが、今のところ元気。この「おたふくかぜ」(流行性耳下腺炎)は、耳下腺が腫れて「おたふく」のような顔になることに由来するのは間違いないが、いつも悩むのが「お多福」と「おかめ」と「乙御前(おとごぜ)」の関係。同一なのか、違うのか、芸能の仮面等を見ていて、すっきりしない。谷崎潤一郎の『卍』に「お多福風にかかった」という記述があるが、これが発表されたのが昭和3年。それ以前に「お多福風」「阿多福風」「阿多福風邪」等の記述は見つけていない。注目しているのは幸田露伴の『五重塔』(明治24年発表)の「顔は子供の福笑戯に眼を付け歪めた多福面(オカメ)の如き」という記述。「多福面」と表記してルビをふって「オカメ」と読ませている。「おかめ」は江戸時代、『東海道中膝栗毛』など数多くの文献に出てくる。「お亀」と表記されるが、『日本国語大辞典』に掲載される語源説では「両頬の張り出した形がカメ(瓶)に似るところから〔俗語考〕」となっていて、「亀」は当て字のようだ。同じく『日本国語大辞典』によると、文化・文政年間に、江戸の飯倉片町で「お亀団子」という名物団子があって、店の女房が「おかめ」に似ていたことが理由らしい。となれば、大まかにいえば「お多福」は近代以降に定着し、それ以前は「おかめ」が一般的だったと推察できるのではないか。ただし、狂言の女面である「乙御前」との関係性はよく調べていないので、まだまだ頭の中がすっきりしない。


鳥坂峠

2008年06月25日 | 口頭伝承
香川の善通寺から三野へのトンネルも鳥坂という名前。峠の名前にあまりにも鳥坂が多い。鳥越もそうだ。
これは鳥が越える坂だから、というのが定説だろうが、もしかして峠の語源のトウが本当の語源ではないか。トウプラス坂、トウプラス越え、という具合。
要するに、鳥は関係ないという説。いかがだろう。

入道雲を「伊予太郎」と云うこと

2008年05月18日 | 口頭伝承
南予の気象に関する方言で、入道雲の事を「伊予太郎」と呼ぶ。松山でも、昔から高校野球の頃、つまり堀之内に松山市民球場があった時代、そこで夏の甲子園の県予選が行われる頃に、球場から松山城方向の空に出る雲を「伊予太郎」といっていたそうだ。

岩波文庫に『物類称呼』という江戸時代の全国の方言集があるが、その14頁を見ると、類例が出ている。

「夏雲 なつのくも 江戸にて坂東太郎と云(坂東太郎といふ大河あり)、大坂にて丹波太郎と云、播磨にて岩ぐもといふ、九州にて比古太郎と云(比古ノ山ハ西国の大山なり)、近江及越前にて信濃太郎と云、加賀にていたちぐもといふ、安房にて岸雲と云。今案に、これらの異名夏雲のたつ方角をさしていひ又其形によりてなづく」

以上のように記載されています。この記述から考えると、
江戸=坂東太郎(利根川方面から出る入道雲)
大坂=丹波太郎(丹波方面から出る入道雲)
近江・越前=信濃太郎(信濃方面から出る入道雲)

これを見ると、愛媛で「伊予太郎」と呼ぶのは、何かおかしな気もする。「伊予方面から出る雲」と考えれば、大分や広島や高知あたりの方言なのだろうかと思えてしまう。インターネットで検索すると、やはり広島県の沿岸部や山口県の島嶼部では「伊予太郎」の方言があるようだ。

この事例を見ると、日韓の「日本海」名称論争を思い浮かべてしまう。「日本海」呼称は、日本の領海だから「日本海」というのではなく、「向こうに日本が位置する海」というように、朝鮮半島主体で成立した呼称なのかもしれないという勝手な仮説。近代の国家・国境意識の高まりとともに、日本海=日本の領海起源説が一般化したのかもしれない。あくまで推測であるが・・・。

大分県に「愛媛街道」があったり、畿内から阿波国に行く途中に「アワジ(淡路)」があったり、津島町畑地(ハタジ)も、幡多郡へ通じる路という説もある、という具合に、名称成立過程と主体の位相、そして、その後の認識変容には興味深いものがある。

ただ、松山の「伊予太郎」は城山という伊予のシンボルで語られるので納得できるが、南予で「伊予太郎」と使うのは不思議な気もする。昔は南予は自分たちの住んでいる土地を「伊予」とは強く意識していなかったのだろうか。(これもあくまで推測です。)


方言「おらぶ」

2008年05月15日 | 口頭伝承

愛媛の方言「おらぶ」。過去形にすると「おらんだ」。

小学生の時に、(問)「どこの国で大声で叫んだでしょう?」、(答)「オランダ」。と、しょーもないダジャレを言っていたが、方言ベースなので、これは全国に通じるダジャレではなかった。

江戸時代の辞書(安永年間版)の『物類称呼』(岩波文庫、157頁)には、「おめきさけぶと云詞のかはりに、九州及四国にて、おらぶと云。神代巻ニ哭聲(おらぶこゑ)と有、いたくこゑをはかりに泣をおらぶと云と聞えたり。平家物語ニをめかせ給へと有は、うめくといふにひとしき事にや。東国にておめきさめくといふは、おめきさけぶの転語か。雨々と泣なといふ心ならん」

以上のように記述されている。神代巻つまり『古事記』に既に「おらぶ」は出てくる言葉らしい。江戸時代には既に九州・四国の方言と認識されているようだが、言葉としては古いもののようだ。

そういえば、ヘヴィメタルバンド陰陽座のアルバム『煌神羅刹』に「おらびなはい」という曲があるが、この陰陽座の瞬火さん・招鬼さん・狩姦さんは八幡浜のご出身。


愛媛の民話に関する参考文献

2008年05月06日 | 口頭伝承
愛媛の民話(昔話・伝説)主要参考文献

※1990年以前に刊行された昔話・伝説に関する書籍です。(ただし、ごく一部で、これ以外にも数多くの刊行物があります。)

著者・書名・発行所・発行年
石井民司 日本全国国民童話 同文館 1911
中田千畝 和尚と小僧 温故書屋坂本書店 1927
高木敏雄 日本伝説集 東京武蔵野書店 1943
関敬吾 日本昔話集成(全6冊) 角川書店 1950
西園寺源透 伊予の伝説 (稿本) 1921
周桑高女郷土研究会 周桑郡郷土彙報 1930
西園寺源透 伊予の怪岩奇石 (稿本) 1945
合田正良 黄金の鶏と小判 教育社 1948
合田正良 伊予路の伝説-狸の巻 新居浜郷土文化研究会 1951
玉井通孝 松山付近の伝説 自刊 1956
武田明 伊予の民話 未来社 1958
小西定行 大洲奇談考 自刊 1958
吉海中学校編 郷土の伝承1-民話 1959
真鍋博 愛媛の昔語り 朝日出版 1960
八木繁一 伊予の植物と伝説 八木生物研究所 1960
川之石高校文芸部 民話・民謡 1966
森正史 えひめ昔ばなし 南海放送株式会社 1967
愛媛県川之石高等学校文芸部 赤陣太物語 愛媛県川之石高等学校文芸部 1967
和田良誉 すねぐろ物語 文宝堂書店 1968
和田節夫 おんだらいだら物語-佐田岬半島のとっぽ話 文宝堂書店 1969
玉川町教育委員会・教育研究会 玉川の民話 1969
松山聖陵高校普通科編 伊予路の昔々(伝説集) 1969
加藤盛男 別子ライン付近に伝わる民話-主として五十年前に祖母から聞いた話 自刊 1969
和田良誉 だいろくてん物語 黒点俳句会 1970
門多正志 宇和町民話集 宇和町教育委員会 1971
大沢文夫 今治の伝説 今治商工会議所 1971
和田節夫 続・佐田岬半島とっぽ話-からすのこっぺ物語 黒点俳句会 1971
合田正良 伊予路の伝説 愛媛地方史研究会 1971
大西中学校編 大西の伝説 1971
波方町立波立小学校編 波方の民話 波方町教育委員会 1972
武田明 四国路の伝説 第一法規出版 1972
和田良誉 日本の昔話5 伊予の昔話 日本放送出版協会 1973
広見町近永小学校 とっぽ話 1973
大島郷土史研究会 ふる里の民話 吉海町教育委員会 1973
野口光敏 日本の民俗38 愛媛 第一法規出版 1973
白木優 小中学生のための野村町の伝説 野村町史談会 1973
鶴村松一 松山市の伝説 自刊 1973
大谷女子大学説話文学研究会 広見町昔話集 1974
大谷女子大学説話文学研究会 広見町笑話集 1974
小田町公民館編 小田の民話 1975
鈴木泰助・吉岡忠 西海の郷土史話と民話 西海町公民館 1975
愛媛県教育研究協議会国語委員会編 愛媛のむかし話 日本標準 1975
和田良誉 伊予のとんと昔 講談社 1976
日本口承文芸協会 伊予大三島の昔話 1976
越智郡公民館連絡協議会編 越智郡むかしむかし 1976
合田正良・合田一慶 伊予三島市の歴史と伝説 伊予三島市教育委員会 1976
北宇和連合婦人会 きたうわの民話集 1976
北条市立立岩公民館編 立岩の民話Ⅰ 1976
和田良誉 伊予の民話 愛媛文化双書刊行会 1976
兵頭茂 里の昔話 兵頭茂 1976
神野昭 久万高原の文学と伝承 1977
永美明美 茂八でっぽう 津島町郷土史研究会 1977
愛媛県教育研究協議会学校図書館委員会 愛媛の伝説 日本標準 1977
北九州大学民俗研究会 美川の民俗 1977
松山市連合婦人会編 ふるさとのおはなし-松山の伝説 1977
松山市教育委員会編 松山のむかし話-民話 1977
北宇和高校日吉分校 日吉村の民話 1978
兵頭茂 里の昔話 第二集 兵頭茂 1978
稲田浩二・小沢俊夫 日本昔話通観22 愛媛・高知 同朋社 1979
和田良誉・村上譲 日本の伝説36 伊予の伝説 角川書店 1979
和田良誉 えひめのトッポ話 愛媛県観光協会 1979
城川町教育委員会編 城川のむかし話-民話・伝説 城川町文化財保護協会 1979
愛媛県生活環境部県民生活課 ふるさとの伝説発祥地 愛媛県生活環境部県民生活課 1980
えほん えひめのむかしばなし研究会 えひめのむかしばなし 南海放送 1980
信藤英敏 新宮村の昔ばなし 信藤英敏 1980
大沢文夫 今治地方の伝説 文学社 1980
兵頭茂 里の昔話 第三集 兵頭茂 1980
日本児童文学者協会編 愛媛県の民話 偕成社 1980
信藤英敏 新宮村の昔ばなし 1980
城川町教育委員会編 城川のむかし話第二集 城川町文化財保護協会 1980
南宇和高校文芸部編 南郡の民話 1980
えほん えひめのむかしばなし研究会 えひめのむかしばなし 南海放送 1981
小田町教育委員会・小田のむかし話編集委員会 小田のむかし話伝説 小田町文化協会 1981
伊予市教育委員会 伊予市のむかし話-伝説 1981
松本孝三ほか 日本伝説大系12 四国 みずうみ書房 1982
中島町教育委員会・中島のむかし話編集委員会 中島のむかし話-伝説- 中島町文化協会 1982
三間町教育委員会 三間のむかしばなし  1982
平井辰夫 石鎚の昔話 1982
重信町教育委員会 重信のむかし話 1983
藤田浩樹 四国八十八か所伊予国霊場の昔話し フジタ 1983
肱川町のむかしばなし編集委員会 ひじかわ町のむかしばなし 1983
川之江市立葱尾小学校 葱尾こども風土記 川之江市立葱尾小学校 1984
西条市教育委員会社会教育課 西条の民話と伝説 西条市教育委員会社会教育課 1984
川口一夫 大鰻の小太郎 川口一夫 1984
西条市教育委員会社会教育課 西条の民話と伝説 第2集 西条市教育委員会社会教育課 1985
菊間町中央公民館 きくまの民話と伝説 第1集 たぶらかされた話 菊間町中央公民館 1985
川内町老人クラブ連合会・昔話を集める会 ふる里の記録第3集 民話・伝説篇 川内町老人クラブ連合会 1986
朝倉中央公民館 朝倉とその周辺の伝説と民謡 朝倉中央公民館 1987
芥川三平 旧別子の伝説 別子文庫 1988
大瀬中学校 大瀬の昔話 第1集 大瀬中学校 1988
魚島村公民館 魚島村むかしむかし(伝説・民話・民謡) 魚島村公民館 1989
大瀬中学校 大瀬の昔話 第2集 大瀬中学校 1989
「内子のむかし話」調査編集委員会 内子のむかし話 愛媛県内子町教育委員会 1989
和田良誉 南予トッポ話 空飛ぶボラ 財団法人 愛媛県文化振興財団 1990
小原子穂 郷土の俚謡 伊予・よしうみ 小原子穂 1991

笑い話「日本は3倍広い」

2008年01月26日 | 口頭伝承
*以前、八幡浜市向灘で聞き取りした話をもとに大本が構成した話です。


 まだ自動車道路がない頃の話。

 前は宇和海、後ろを山に囲まれた港町・八幡浜の親子が、山側の米どころ宇和盆地にある山田薬師・花祭りに行こうとして、笠置峠を登った。

 花祭りでは甘酒も振舞われて、近郷近在、多くの参詣者が歩いて集まってくる。父親は何度か行ったことがあるが、息子は花祭りが初めてで、甘茶が飲めると聞いて、とても楽しみにしていた。

 峠の頂に着いた瞬間、宇和盆地の景色が目の前一面に広がった。平地の少ない八幡浜で育った息子は「とっと、宇和はがいに広いなあ。たまげた、たまげた。」と素直に驚く。

 そこで父親は真面目に答える。「坊よ。たまげたらいけん。宇和もこんだけ広けんど、日本はなあ、この三倍も大きいがやけん、よう覚えとけよ。」

 息子ばかりか父親も「井の中の蛙、大海を知らず」。ただし、息子は父親の言葉を真に受けて、少しは「世間」というものを知って、ひとつ大人に近づいたような気持ちになったとさ。


「おむすび」「おにぎり」と昔話

2007年10月18日 | 口頭伝承
県内の某ラジオ局から、「おむすびころりん」の昔話に出てくるおむすびは、どんな形だったのかという質問を受けた。各種の絵本を見ると、ほとんど三角おむすびが描かれているが、実際はどうだったのか、というのである。しかし、そもそも昔話は、「むかしむかしあるところに」とあるように特定の時代、特定の場所が明示されることの少ない言語伝承である。そして、おむすびの形は時代、地域、そして握る人によって様々であり、昔話「おむすびころりん」のおむすびが本来どんな形だったのかを考えるのは無理がある。とはいうものの、無理を承知で「おむすび」をめぐる民俗を調べてみたくなる。これは性分なのだから仕方がない。

さて、握り飯のことを「おむすび」とも「おにぎり」とも言うが、まずはこれについて考えてみたい。『日本国語大辞典』によると、「おむすび」は握り飯を丁寧に言う語、「おにぎり」も握り飯の丁寧語で、もとは女性・子供の語と紹介されている。この女性・子供の語であるという根拠としては、『古事類苑飲食部』に紹介された江戸時代の資料「守貞漫稿」に「握飯 ニギリメシ、古ハドンジキト云、屯食也、今俗、或ハムスビト云、本女詞也」という記事があり、「にぎりめし」という言い方は、昔は「どんじき」といい、現在、一般には「むすび」といい、もともとは女性の言葉だったというのである。江戸時代には、一般に「にぎりめし」と「むすび」が使用されており、これらが、それぞれ丁寧を示す接頭語「お」をつけて、現在の「おむすび」・「おにぎり」になったことがわかる。

なお、「どんじき(屯食)」とは、江戸時代、京都の公家社会で、握り飯の呼称であり、『安斎随筆』二十二に「屯食 ドンシキとよむ是ニギリメシの事なり 飯を握りかためるなり」とあったり、随筆『松屋筆記』十二に「公家にては今もにぎりめしをドンジキといへり」とある。

また、「ムスビ」といえば、高皇御産霊神(タカミムスヒノカミ)・神皇産霊神(カミムスヒノカミ)など、神名に使われる「ムスヒ」との関連が考えるむきもある。「ムスヒ」は、「ムス」が生じる、「ヒ」は霊威のことであり、天地、万物を生み、または成長させる霊妙な力を意味する。折口信夫が「産霊の信仰」で、「結ぶ」の語源を、内容のあるものを外に逸脱しないようにした形から、と述べているように、「ムスヒ」と「結び」を関連付けて考えている。しかし、『日本国語大辞典』には、「ムスヒ」は後世、「結び」と解されるが、これとは別語源であると指摘している。よって、「オムスビ」の「ムスビ」を神霊の力「ムスヒ」と関連付けるのには賛同できない。

ちなみに「おむすび」は関東、「おにぎり」は関西という話も聞いたことがあるが、この分布についてはわからない。

本題の「おむすび」・「おにぎり」の形についてであるが、先にも挙げた江戸時代の資料「守貞漫稿」の「握飯」の項目では「三都トモ形定ナシト雖ドモ、京坂ハ俵形ニ製シ、表ニ黒胡麻ヲ少シ蒔モノアリ、江戸ニテハ、圓形或ハ三角等径一寸五分許、厚サ五六分ニスルモノ多シ、胡麻ヲ用フルコト稀也」とある。つまり三都(江戸・京都・大坂)とも形は定まってはいないが、京都や大坂では俵形に作り、黒胡麻を少しつけるものがある。江戸では、円形もしくは三角形のものが多く、胡麻を使うものは少ないというのである。全国各地でどうだったかは不明だが、江戸と京・大坂方面では、形が異なっていたのがわかる。

昔話と「おむすび」の関連についてであるが、おむすびが出てくる昔話といえば、まず猿蟹合戦を思い浮かべる。蟹はおむすびを、猿は柿の種を拾い、猿は柿の種とおにぎりを交換しておむすび食べるというのだが、その後のストーリーの展開に関わるのは柿の種であって、おむすびはこのストーリーの主要な位置を占めていない。

それよりも、おむすびというと、やはり「おむすびころりん」である。昔話研究では、これは「鼠浄土」とか「鼠の楽土」といわれる話である。愛媛県内に伝えられたこの種の話を探してみると、『日本昔話通観22愛媛・高知』(同朋社)に数例が掲載されている。『通観』で紹介されているモチーフ構成は次の通りである。①正直爺が山仕事のとき、休んで重箱から握り飯をとって食べようとするところがっていき、三回も続いてころがり、重箱もころがって穴に入る。爺が穴をのぞいていると爺もころがりこむ。②穴の中では鼠たちが「八十八まで猫の声いーやアよ」と言って臼をひいており、爺が入っていくと、大喜びで握り飯のお礼を言って重箱いっぱい宝物をくれる。爺はそれをもらって帰る。③隣の欲深爺はこれを聞いて重箱いっぱい握り飯を詰めて山仕事に行き、穴を見つけておいて重箱ごところがして穴に入れ、自分も入る。④穴の中では鼠たちが「八十八まで猫の声いーやアよ」と言って臼をひいているので、爺は鼠の宝物を全部取ろうと思って猫の鳴き声をまねる。鼠たちが皆逃げ散ると穴はつぶれ、爺は下敷きになって死ぬ。

この類話として、愛媛県内5箇所の昔話が載っているが、転がった物に注目してみると、北宇和郡三間町兼近・同町戸雁・南宇和郡一本松町(旧一本松村)に伝わった話では、転がったのはおむすび・握り飯であるが、具体的な形状はわからない。ただし、越智郡大三島町明日や八幡浜市日土町に伝えられた話では、おむすびではなく、団子がころがったことになっている。ストーリーの中で、おむすびと団子が入れ替わり可能であるならば、おむすびの形状も団子と同様に丸型と想定することができるのではないだろうか。

また、先に紹介した京・大坂と江戸の違いを考えると、同じ西日本の愛媛(伊予)でも、おむすびは三角ではなく丸型(俵型)だったのではないか。

以上、推測の域を出ないが、強引に愛媛における「おむすびころりん」のおむすびの形を考察すると、それは、丸(俵)型だった・・・・、これが一応の結論である。

まさに自分のこと

2006年08月20日 | 口頭伝承
伯方町誌を眺めていたら、地元に伝わる「ことわざ」が数多く掲載されている。

「地震のときはトトトトトトととなえれば助かる」 とある。

これは、カーカー、コウコウという唱え言葉は今までも各書で見たことがあるが、

トトトトトトは、初めて見た。語源はなんだろう?

また、

「おんびき飛んでも休みが長い」(おんびきは蛙のこと)

つまり何事もこつこつやることが大事という意味。

まるで自分のことを言われているようで、少々内省・・・。

「かんかんづくし」と盆踊唄

2005年08月25日 | 口頭伝承
 NHK教育テレビの番組「にほんごであそぼ」のエンディングに「かんかんづくし」という唄が流れている。歌詞はこんな感じ。「かーんかんかんかんかん かんかんづくしを言おうなら かーんかーんかんかんかんかん かーんかーんかんかんかんかん みかん きんかん 酒にかん こども羊かん やりゃ泣かん 親のせっかん そりゃいかん そりゃいかん そりゃいかん 不信感 関取裸でかぜひかん ハークション悪寒 やかん あきかん ドラムかん 降ってもぴーかん 体育館 おまえどんかん 気がきかん 気がきかん 気がきかん 先入観 わたしゃ やまかん はたらかん 同感 時間 空間 宇宙間 ついでに音感 リズム感 歌はじゃっかん かいかん かいかん かいかん 達成感 人生達観 せにゃいかん ふーんふん いけすかん かんかんづくしを言おうなら かーんかーんかんかんかんかん かーんかーんかんかんかんかん 完」。
 ウチの2歳の子供も唄って楽しんでいるほど、幼児に親しまれている唄だ。NHKもよく作曲したものだと思いきや、『愛媛県民謡保存調査報告書』(昭和57年、愛媛県教育委員会編、184ページ)に、南宇和郡西海町(現愛南町)内泊に、類例が載っているではないか。盆踊りの際の音頭のさし言葉として紹介されている。「早口」言葉として「エーサー かんかんづくしで やらうなら みかんきんかん 酒のかん 子供に羊かん やりにやかん 親のせっかん 子が聞かん 田舎の姉さん ヤレコリャー 気がきかんよー ヨーホイヨーホイ ヨイヤナー エーサー」とある。
 この「かんかんづくし」は一時期、全国的に流行したものなのだろうか。

2005-08-25

「竜の島」と「杏の里」

2004年09月02日 | 口頭伝承
※本稿は『文化愛媛』52号(2004年)に掲載した原稿である。

「竜の島」と「杏の里」‐八幡浜・三瓶‐

 現在でこそ、南予用水の開通により、水不足の年は少なくなったが、平地に乏しく、大きな河川のない南予地方の沿岸部では、以前は頻繁に日照り・渇水に見舞われていた。雨や水への祈りは民衆にとって普遍的なものだが、南予地方では特に竜神・竜王への信仰と結びついて人々の切実な願いとなっていた。八幡浜も例外ではない。特に八幡浜沖の地大島(じのおおしま)にある大入池(おおにゅういけ)にまつわる伝説は、まさに典型的な竜神への祈りを表している。
 この話は、八幡浜地方で日照りが続くと、市内五反田にある保安寺(ほあんじ)の住職が地大島の大入池に渡り、雨乞い祈祷を行う由来を述べたものである。内容は次のとおりである。
保安寺の裏には小さい池があり、ここに竜神が住んでいた。しかし竜神は成長して大きくなり手狭になったので、地大島の大入池に移ることにした。ある日、竜神は若い娘に化身し、舌間(したま)浦の漁夫に島まで渡海を頼んだ。漁夫は承知して娘を乗せたが、舟が沈むかのように娘は重いので不審に思っていたが、娘は自分が保安寺の竜神であり、大入池に渡ったことを誰にも話さなければ大漁にすると告げた。実際、漁夫はその後大漁続きであったが、不思議に思った周囲の漁夫に問いつめられて竜神を渡したことを話すと元の貧乏漁夫に元戻りしたという。大入池に渡った竜神は、保安寺で育てられたお礼に、代々の住職が一代につき三回まで大入池で雨乞いをすれば、必ず雨を降らすことができる修法を授けたという。
その雨乞いの方法は、住職が「火もの断ち」といって、熱火によって料理した一切のものを断ち、ただ生食のみで寺内の八大龍王の前で七日間昼夜の別なく勤行し、更に舌間の雨乞山に登って祈念した後、舌間から地大島の大入池に行き、池中の竜神へ読経するというものであったという。一度雨乞いを行うと、住職は三年の寿命を竜神に捧げるともいわれていた。なお、保安寺と同じく、寺の池が狭くなったので竜神が大入池に渡ったという話は、三瓶町垣生(はぶ)の三宝寺にも伝えられている。竜神は報恩のため、この三宝寺の住職にも雨乞い祈祷の修法を授けたとされる。昭和のはじめに旱魃があった際、住職が請雨(しょうう)陀羅尼(だらに)を誦(とな)えると忽然と雨が降ったという。
さて、竜といえば、アジア、特に中国文明圏ではしばしば王権の象徴とされるが、日本国内各地の竜神にまつわる伝説を眺めてみると、竜が女性に化ける話は多く、また、竜が棲んでいたという場所は、寺の近くの池もしくは淵などであることが多い。それらの場所は、王権や寺の建立とは無関係に、もともと、水を司る神が棲む聖地であったとされる。実際に八幡浜でも、竜神・竜王が祀られている場所を見てみると、水源となる川の上流域だったり、池だったりする。竜神・竜王は、水を司る神ゆえに雨乞いの御利益(ごりやく)に関わったのである。
 ただ、地大島の大入池のほとりにあるお籠り堂の寄進者を見てみると、八幡浜市向灘(むかいなだ)などの漁民や船主の名前が多いことに気付く。また、八幡浜から宇和海沿岸の漁に出る際には、この竜王宮の前の海を通過するが、その際に酒を奉納したりしていた。トロール漁船が漁に出る時にも竜王沖で船を止めて豊漁を祈願してから出漁しているという。単に雨への祈りだけではなく、豊漁など他の祈願への広がりが見られるのも、漁師町である八幡浜の特徴といえるだろう。
 話は変わるが、八幡浜市合田(ごうだ)地区はかつて「杏の里」と呼ばれ、家々の庭先に杏の木が植えられていた。<一望千本合田杏>と称され、三月頃の開花時期には合田一円が花の名所となり、また、五月には住民は甘い果実を喜んで収穫していた。この杏は「千鳥(ちどり)」という姫が合田にもたらしたという言い伝えがある。「千鳥」は鎌倉時代初期の武将で梶原景時(かじはらのかげとき)の長男梶原景(かげ)季(すえ)の妻とされる女性である。景季が戦死した後、千鳥は流れに流れてこの合田に漂着し、住処としたという。千鳥はここで経文を書き続け、一生を終えたが、この千鳥姫が道中薬用として杏の種を携帯していた。村人は塚を立てて姫を供養するとともに、家々に杏の種を植えて姫を偲んだのである。
実際に、合田には「ちどりが丘」と呼ばれる所があり、そこに「梶原源太景季妻チドリ」の銘の入った塚がある。バッポ石と呼ばれる海岸の丸平石を積み上げ、石造の聖観音菩薩像を祀った祠を建てている。祠の中には姫が書いたと伝えられる墨書した石経も安置されている。観音像は大正十年に建立されたものだが、かつてはここにお籠り堂もあり、姫の命日とされる五月十七日には地元の人々が参集していたという。
 梶原景季と千鳥については、江戸時代の『平仮名盛衰記』を典拠とする浄瑠璃「梅ヶ枝(うめがえ)」に登場することで有名である。千鳥は、愛する夫景季の出陣に必要な金を調達するために無間(むげん)地獄に落ちるのもいとわず金策に心を砕き、現世で富を得るも、来世に地獄に落ちるとされる。合田に千鳥姫の伝説があることは、この浄瑠璃の知識に影響されたもので、歴史的事実とは異なった形で定着したと考えられるが、姫が流れ着くことや、一生経文を書き続けて、来世に対して罪業をはらそうとしたことは原典にも記述のないオリジナルな伝承である。仏教的に罪深いとされる姫を合田の人々は快く受け入れ、そして死後も供養し、姫からは杏という財産を享受したのである。
なお、姫が漂着したという伝承は、合田に隣接する白石地区にもある。らい病にかかった京都の公家のお姫様がうつぼ船に乗せられ、流れ着いたといわれるもので、地元の人によると、姫はこの地で暮らしていたものの、白石は漁村で賑やかなため、静かな山村をのぞまれ、三瓶町鴫(しぎ)山(やま)地区に移住したという。鴫山では、姫のために小屋を建て、食べ物をかわるがわる差し上げていた。姫は、この地にらい病がおきないよう、法華経を石に書写しながら、ついには亡くなったといわれる。そして村人は姫をしのんで、海から丸平石を運んで積み上げ、姫塚として霊を慰めたという。
現在でもその塚は鴫山にあり、中に一石五輪塔が祀られている。また、付近の畑の脇に姫を葬ったといわれる場所も残っており、集会所には姫が法華経を書写したといわれる青石も保管されている。
 以上の話では、罪業を背負った姫が自らの後生の安穏を願うと同時に、杏や無病といった住民に幸せをもたらしている。先に挙げた竜神渡りの話も、女性に化ける竜は雨乞いや豊漁の御利益がある。この地方の話では、女性が住民に幸せを運ぶ存在として語られていることが多いのも特徴の一つといえるだろう。


「おむすび」「おにぎり」と昔話

2004年06月27日 | 口頭伝承

 県内の某ラジオ局から、「おむすびころりん」の昔話に出てくるおむすびは、どんな形だったのかという質問を受けた。各種の絵本を見ると、ほとんど三角おむすびが描かれているが、実際はどうだったのか、というのである。しかし、そもそも昔話は、「むかしむかしあるところに」とあるように特定の時代、特定の場所が明示されることの少ない言語伝承である。そして、おむすびの形は時代、地域、そして握る人によって様々であり、昔話「おむすびころりん」のおむすびが本来どんな形だったのかを考えるのは無理がある。とはいうものの、無理を承知で「おむすび」をめぐる民俗を調べてみたくなる。これは性分なのだから仕方がない。
 さて、握り飯のことを「おむすび」とも「おにぎり」とも言うが、まずはこれについて考えてみたい。『日本国語大辞典』によると、「おむすび」は握り飯を丁寧に言う語、「おにぎり」も握り飯の丁寧語で、もとは女性・子供の語と紹介されている。この女性・子供の語であるという根拠としては、『古事類苑飲食部』に紹介された江戸時代の資料「守貞漫稿」に「握飯 ニギリメシ、古ハドンジキト云、屯食也、今俗、或ハムスビト云、本女詞也」という記事があり、「にぎりめし」という言い方は、昔は「どんじき」といい、現在、一般には「むすび」といい、もともとは女性の言葉だったというのである。江戸時代には、一般に「にぎりめし」と「むすび」が使用されており、これらが、それぞれ丁寧を示す接頭語「お」をつけて、現在の「おむすび」・「おにぎり」になったことがわかる。
 なお、「どんじき(屯食)」とは、江戸時代、京都の公家社会で、握り飯の呼称であり、『安斎随筆』二十二に「屯食 ドンシキとよむ是ニギリメシの事なり 飯を握りかためるなり」とあったり、随筆『松屋筆記』十二に「公家にては今もにぎりめしをドンジキといへり」とある。
 また、「ムスビ」といえば、高皇御産霊神(タカミムスヒノカミ)・神皇産霊神(カミムスヒノカミ)など、神名に使われる「ムスヒ」との関連が考えるむきもある。「ムスヒ」は、「ムス」が生じる、「ヒ」は霊威のことであり、天地、万物を生み、または成長させる霊妙な力を意味する。折口信夫が「産霊の信仰」で、「結ぶ」の語源を、内容のあるものを外に逸脱しないようにした形から、と述べているように、「ムスヒ」と「結び」を関連付けて考えている。しかし、『日本国語大辞典』には、「ムスヒ」は後世、「結び」と解されるが、これとは別語源であると指摘している。よって、「オムスビ」の「ムスビ」を神霊の力「ムスヒ」と関連付けるのには賛同できない。
 ちなみに「おむすび」は関東、「おにぎり」は関西という話も聞いたことがあるが、この分布についてはわからない。
 本題の「おむすび」・「おにぎり」の形についてであるが、先にも挙げた江戸時代の資料「守貞漫稿」の「握飯」の項目では「三都トモ形定ナシト雖ドモ、京坂ハ俵形ニ製シ、表ニ黒胡麻ヲ少シ蒔モノアリ、江戸ニテハ、圓形或ハ三角等径一寸五分許、厚サ五六分ニスルモノ多シ、胡麻ヲ用フルコト稀也」とある。つまり三都(江戸・京都・大坂)とも形は定まってはいないが、京都や大坂では俵形に作り、黒胡麻を少しつけるものがある。江戸では、円形もしくは三角形のものが多く、胡麻を使うものは少ないというのである。全国各地でどうだったかは不明だが、江戸と京・大坂方面では、形が異なっていたのがわかる。 昔話と「おむすび」の関連についてであるが、おむすびが出てくる昔話といえば、まず猿蟹合戦を思い浮かべる。蟹はおむすびを、猿は柿の種を拾い、猿は柿の種とおにぎりを交換しておむすび食べるというのだが、その後のストーリーの展開に関わるのは柿の種であって、おむすびはこのストーリーの主要な位置を占めていない。
 それよりも、おむすびというと、やはり「おむすびころりん」である。昔話研究では、これは「鼠浄土」とか「鼠の楽土」といわれる話である。愛媛県内に伝えられたこの種の話を探してみると、『日本昔話通観22愛媛・高知』(同朋社)に数例が掲載されている。『通観』で紹介されているモチーフ構成は次の通りである。①正直爺が山仕事のとき、休んで重箱から握り飯をとって食べようとするところがっていき、三回も続いてころがり、重箱もころがって穴に入る。爺が穴をのぞいていると爺もころがりこむ。②穴の中では鼠たちが「八十八まで猫の声いーやアよ」と言って臼をひいており、爺が入っていくと、大喜びで握り飯のお礼を言って重箱いっぱい宝物をくれる。爺はそれをもらって帰る。③隣の欲深爺はこれを聞いて重箱いっぱい握り飯を詰めて山仕事に行き、穴を見つけておいて重箱ごところがして穴に入れ、自分も入る。④穴の中では鼠たちが「八十八まで猫の声いーやアよ」と言って臼をひいているので、爺は鼠の宝物を全部取ろうと思って猫の鳴き声をまねる。鼠たちが皆逃げ散ると穴はつぶれ、爺は下敷きになって死ぬ。
 この類話として、愛媛県内5箇所の昔話が載っているが、転がった物に注目してみると、北宇和郡三間町兼近・同町戸雁・南宇和郡一本松町(旧一本松村)に伝わった話では、転がったのはおむすび・握り飯であるが、具体的な形状はわからない。ただし、越智郡大三島町明日や八幡浜市日土町に伝えられた話では、おむすびではなく、団子がころがったことになっている。ストーリーの中で、おむすびと団子が入れ替わり可能であるならば、おむすびの形状も団子と同様に丸型と想定することができるのではないだろうか。
 また、先に紹介した京・大坂と江戸の違いを考えると、同じ西日本の愛媛(伊予)でも、おむすびは三角ではなく丸型(俵型)だったのではないか。
 以上、推測の域を出ないが、強引に愛媛における「おむすびころりん」のおむすびの形を考察すると、それは、丸(俵)型だった・・・・、これが一応の結論である。

2004年06月27日


「魚」の幼児語

2004年03月25日 | 口頭伝承

愛媛県内でも、地域によって「魚」を意味する幼児語が異なっている。おおまかにわけて、松山地方から南予にかけての人には「ジジ」が通じて、菊間町より東寄りになると、「ジジ」は通じなない。今治地方では「タイタイ」とか「トト」と呼ぶようだ。関東地方でも「トト」というらしく、魚型をしたお菓子「おとっと」の語源とも思える。
「ジジ」については、手もとにある『日本国語大辞典』(以下辞典)を見てみると、少しばかり、関連しそうな記述があった。面白いテーマなので、簡単にまとめて見た。辞典によると、物が焼けるかすかな音を表す語。これに類する方言で、熊本県球磨郡五木では、魚を焼くことを「じじしてあげる」という。さらには、焼き魚自体を「ジジ」という事例が、同じ五木や、肥後菊池にある。魚肉を「ジジ」というのは、山口県豊浦郡、愛媛県松山、福岡県企救郡、熊本県芦北郡、宮崎県延岡にある。比較的九州に近いところに分布しているので、愛媛でも松山以西(中予・南予)で聞くことができるのも頷ける。
つまり、「ジジ」の発展過程は、①魚を焼く音としての「ジジ」→②焼いた魚を表す言葉としての「ジジ」→③魚全般を表す言葉としての「ジジ」、といえるだろう。
次に、「タイタイ」であるが、辞典によると、魚の幼児語。広島県比婆郡、山口県、大分県の方言だという。また、「タイタイ」は、もともと、幼児が両手を重ねて物を請う時に言う語、また、幼児に向かって物をくれるように言う語という。この事例は『本朝廿四孝』や『松翁道話』などの江戸時代の文献にも見えるようだ。また、幼児が両手を重ねて物を請うこと自体を「タイタイ」という事例が、江戸時代の俳諧書の『続山の井』に見える(「餅つつじたいたいするやわらべの手」)。
「タイタイ」は方言としては、青森県三戸郡、上方、岐阜県郡上郡、名古屋、徳島県、香川県、愛媛県、高知県にあり、類語で「てえてえ」が宮城県仙台にある。このようなことから、語源としては、タベタベ(給え給え)の義もしくは、「戴々」の字音かと推察できる。そこから、魚が餌を欲しがる様と、子供が物をねだる様を同じと見て、魚を「タイタイ」と呼ぶようになったのではないだろうか。決して代表的な魚である「鯛」からきた「鯛々」が語源ではないと思う。
つまり、「タイタイ」の発展過程は、①子供が物を欲しがる(給え給え)→②その様子は魚が餌を欲しがる様子とダブる。→③「魚」自体を「タイタイ」と呼ぶようになる、ということではないだろうか。
次に「トト」である。辞典によると、魚をいう幼児語、女房詞とある。狂言本の『腰折』に、「ととをくれうならば、はがわるいほどに、ほねはいや、みばかりくれいと云」とあるように、江戸時代には既に「トト」と呼んでいたようだ。元禄5年成立の『女重宝記』に「うをは、とと」とある(魚を「トト」と呼ぶ意味)。室町時代の辞書である『節用集』には、「斗斗 トト 倭国小児女、魚を呼びて斗斗と曰ふ。類節に云く、南朝、食を呼んで頭となす。魚を呼びて斗となす。此れ本や。」とある。室町時代には既に「トト」に関して、このような説明があるが、語源の詳細については、不明としか言いようがない。

2004年03月25日


タンポポの俗信

2004年03月24日 | 口頭伝承

愛媛で聞くことのできる俗信「ミミツブシ:タンポポの綿毛が耳に入ると耳が聞こえなくなる」を考えてみた。
 そもそも「タンポポ」については、文明本節用集に「蒲公草 タンホホ」とあったり、日葡辞書に「Tnpopo」とあるように、中世には既に「タンポポ」と呼ばれていたことがわかる。江戸時代の和漢三才図会に「蒲公英 和名不知奈、一云太奈、俗云太牟保々」とあり、正式には「蒲公英(ホコウエイ)」と呼ばれ、日本名として「不知奈(=藤奈)」、「太奈(=田菜:田んぼに生える草の意?)」があり、その俗的な言い方として「太牟保々(たんぽぽ)」と呼んでいた。なお、漢方では「蒲公英」は、解熱、健胃薬であり、食されていたようである。
 タンポポの語源は、大言海によると、「タン」は「タナ(田菜)」の転で、「ホホ」は綿がほほけていることからだというが、柳田国男『野草雑記』(定本22集)によると、タンポポの方言にツヅミクサ(鼓草)があり、鼓の音を擬したものではないかという。
 さて、「ミミツブシ」であるが、本草綱目啓蒙によると「馬勃<略>ほこりたけ、みみつぶれ、みみつぶし 讃州」とあり、キノコ科の「埃茸」のことを「みみつぶし」といっている。必ずしもタンポポの方言だけでないことがわかるが、さらに調べてみると、キク科の多年草であり、タンポポに似た植物である「ジシバリ」のことを「ミミツブシ」という事例が愛媛県重信町にある(『日本国語大辞典』より)。類例として、タンポポの方言に「ミミツンボ」というところが大分市にあるが、同じく重信町や周桑郡では「ジシバリ」のことを「ミミツンボ」という。また、柳田『野草雑記』によると、福井市ではススキの穂を「ミミツンボ」という(以上『日本国語大辞典』)。
 なお、タンポポ、ジシバリを食べたり、綿毛が耳に入ると聞こえなくなるという文献や事例は、私の手元の一次資料では確認できない。
 そもそも耳に異物が入ることは歓迎すべき事ではないが、綿毛が外耳に入ったところで、即、耳が聞こえなくなるとは考えにくい。また、耳元で吹いたとしても、押し込まない限り、耳に入るとも考えにくい。医学的にはタンポポの綿毛が耳に入って鼓膜につくと耳閉感(耳がつまった感じ。高所での耳詰まり感のこと)になるらしいが、過去の文献や各地の方言を見ていくと、耳が聞こえなくなるという俗信は、「タンポポ」の語源が鼓の音に由来していることと、何か関係しているのではないだろうか。
なお、『日本民俗大辞典』下633頁によると、今も利用されている民間薬としても「蒲公英(タンポポ)」が「健胃、利尿、催乳」の効能があるとして紹介されている。

2004年03月24日