【註記】
(1)頼富本宏「空海・弘法大師と善通寺」(香川県歴史博物館編・発行『創建一二〇〇年空海誕生の地 善通寺』2006年、6頁)
(2)上山春平『朝日選書461 空海』朝日新聞社、1992年
(3)『平成23年度企画展「四国へんろの旅―絵図・案内記と道標」図録』愛媛県歴史文化博物館、2012年、44頁、今村賢司執筆
(4)早稲田大学文学部道空間研究会編、発行『現代社会と四国遍路道』、1994年、21頁、および『四国遍路のあゆみ(平成12年度遍路文化の学術整理報告書)』、愛媛県生涯学習センター、2001年、184~185頁
(5)森正人「『空前絶後!』四国八十八ケ所霊場出開帳―スペクタクルとしての巡礼と巡礼空間の生涯―」(『人文論叢(三重大学)』第22号、2005年、78~80頁)
(6)註5に同じ。
(7)註3に同じ。45頁
(8)註5に同じ。79頁
(9)拙稿「厄年の民俗―愛媛県の事例―」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第8号、2003年)
(10)『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館、2000年、「厄年」の項、佐々木勝執筆
(11)小池淳一「厄年と陰陽道―儀礼史的理解をめざして―」(『儀礼文化』第25号、儀礼文化学会発行、1998年)
(12)註9に同じ。
(13)『新訂増補故実叢書』第9巻、明治図書出版、1952年。『新訂増補故実叢書』第9巻、明治図書出版、1952年。なお、江戸時代における厄除け大師の信仰の歴史、変遷については川崎大師平間寺(神奈川県、真言宗智山派)の事例が参考となる。『川崎大師の寺宝と信仰展図録』(川崎市市民ミュージアム編、発行、2013年)によると、川崎大師において厄除け信仰が興隆したのは1700年代後半以降であり、そのきっかけは徳川御三卿の一つ田安宗武が宝暦6(1756)年に42歳の厄除け祈願に宝篋印塔を寄進し、その後、11代将軍徳川家斉が寛政8(1796)年に25歳の前厄に、次いで文化10(1813)年に42歳の前厄に厄除け祈願、参詣をしたことであった。この将軍の厄年参詣の開始が庶民への厄年慣習の広がりの契機となった可能性もあり、真言宗寺院において42歳厄年伝承の創出される素地が18世紀後半から19世紀前半に出来上がっていたと推察できる。
(14)註9に同じ。
(15)幼学の会編『口遊注解註』勉誠社、1997年
(16)『日本古典文学大系15源氏物語二』岩波書店、1959年
(17)『新訂増補故実叢書』第22巻、明治図書出版、1952年
(18)註9に同じ。
(19)拙著『触穢の成立―日本古代における「穢」観念について―』創風社出版、2013年
(20)岡田荘司『平安時代の国家と祭祀』続群書類従完成会、1994年
(21)新谷尚紀「ケガレの構造」(『岩波講座日本の思想』第6巻、2013年)
(22)三橋正『日本古代神祇制度の形成と展開』法蔵館、2010年
(23)三橋正「神仏関係の位相―神道の形成と仏教・陰陽道―」(ルチア・ドルチェ、三橋正編『「神仏習合」再考』勉誠出版、2013年、29~61頁)
(24)註23に同じ。
(25)註23に同じ。
(26)武内孝善「空海は東寺を下賜されたか」(『日本歴史』第779号、2013年)
(27)註26に同じ。
(28)註26に同じ。
(1)頼富本宏「空海・弘法大師と善通寺」(香川県歴史博物館編・発行『創建一二〇〇年空海誕生の地 善通寺』2006年、6頁)
(2)上山春平『朝日選書461 空海』朝日新聞社、1992年
(3)『平成23年度企画展「四国へんろの旅―絵図・案内記と道標」図録』愛媛県歴史文化博物館、2012年、44頁、今村賢司執筆
(4)早稲田大学文学部道空間研究会編、発行『現代社会と四国遍路道』、1994年、21頁、および『四国遍路のあゆみ(平成12年度遍路文化の学術整理報告書)』、愛媛県生涯学習センター、2001年、184~185頁
(5)森正人「『空前絶後!』四国八十八ケ所霊場出開帳―スペクタクルとしての巡礼と巡礼空間の生涯―」(『人文論叢(三重大学)』第22号、2005年、78~80頁)
(6)註5に同じ。
(7)註3に同じ。45頁
(8)註5に同じ。79頁
(9)拙稿「厄年の民俗―愛媛県の事例―」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第8号、2003年)
(10)『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館、2000年、「厄年」の項、佐々木勝執筆
(11)小池淳一「厄年と陰陽道―儀礼史的理解をめざして―」(『儀礼文化』第25号、儀礼文化学会発行、1998年)
(12)註9に同じ。
(13)『新訂増補故実叢書』第9巻、明治図書出版、1952年。『新訂増補故実叢書』第9巻、明治図書出版、1952年。なお、江戸時代における厄除け大師の信仰の歴史、変遷については川崎大師平間寺(神奈川県、真言宗智山派)の事例が参考となる。『川崎大師の寺宝と信仰展図録』(川崎市市民ミュージアム編、発行、2013年)によると、川崎大師において厄除け信仰が興隆したのは1700年代後半以降であり、そのきっかけは徳川御三卿の一つ田安宗武が宝暦6(1756)年に42歳の厄除け祈願に宝篋印塔を寄進し、その後、11代将軍徳川家斉が寛政8(1796)年に25歳の前厄に、次いで文化10(1813)年に42歳の前厄に厄除け祈願、参詣をしたことであった。この将軍の厄年参詣の開始が庶民への厄年慣習の広がりの契機となった可能性もあり、真言宗寺院において42歳厄年伝承の創出される素地が18世紀後半から19世紀前半に出来上がっていたと推察できる。
(14)註9に同じ。
(15)幼学の会編『口遊注解註』勉誠社、1997年
(16)『日本古典文学大系15源氏物語二』岩波書店、1959年
(17)『新訂増補故実叢書』第22巻、明治図書出版、1952年
(18)註9に同じ。
(19)拙著『触穢の成立―日本古代における「穢」観念について―』創風社出版、2013年
(20)岡田荘司『平安時代の国家と祭祀』続群書類従完成会、1994年
(21)新谷尚紀「ケガレの構造」(『岩波講座日本の思想』第6巻、2013年)
(22)三橋正『日本古代神祇制度の形成と展開』法蔵館、2010年
(23)三橋正「神仏関係の位相―神道の形成と仏教・陰陽道―」(ルチア・ドルチェ、三橋正編『「神仏習合」再考』勉誠出版、2013年、29~61頁)
(24)註23に同じ。
(25)註23に同じ。
(26)武内孝善「空海は東寺を下賜されたか」(『日本歴史』第779号、2013年)
(27)註26に同じ。
(28)註26に同じ。