愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

岡山県倉敷市の自然災害伝承碑 明治17年高潮災害

2023年12月29日 | 災害の歴史・伝承
今日は岡山県倉敷市広江町の自然災害伝承碑調査に来ています。明治17年(1884)8月25日、台風で大波と高潮により干拓堤防が決壊し福田地区で広範囲が浸水被害。流失家屋742戸、犠牲者536人。その犠牲者の合葬之碑が建立されています。愛媛県松山市でもこの高潮による災害伝承碑がありその関連調査。









【追加】
倉敷市広江町の明治17年高潮災害の「千人塚」(市指定史跡)。国土地理院自然災害伝承碑登録の「合葬之碑」には身元不明256人が葬られる。それ以外に同地に昭和3年建立の慰霊の為の五輪塔や地蔵堂前に「百回忌供養塔」等計5基の供養塔がある。埋葬だけではなくその後の慰霊、供養を伝える石碑も重要。












高校生との課題解決プロジェクト~愛媛県宇和島市吉田町の地震・津波防災~

2023年12月10日 | 災害の歴史・伝承
今後三〇年以内に七〇~八〇%程度の確率で発生が想定されている南海トラフ巨大地震により、揺れによる建物の倒壊や津波による浸水によって甚大な被害が想定されている愛媛県南予地方の宇和海沿岸部。そこに位置する愛媛県宇和島市吉田町北小路の愛媛県立吉田高等学校(津波の浸水想定高は六.〇m)では二〇二三年度に愛媛県の防災教育実践モデル事業や地域の課題解決プロジェクトの一環で、過去の災害を学んで防災に活かす学習を全校で取り組んできた。吉田高校からの依頼で筆者も防災学習の講師として加わり、災害史学習や防災ソングの作成に協力をしてきたところである。

初回は、七月六日に「過去の災害に学ぶ―吉田付近の地震・津波史―」の演題で普通科一、二年生を対象に座学の講演を実施し、一七〇七年に発生した宝永地震、一八五四年発生の安政南海地震と一九四六年に発生した昭和南海地震での吉田における避難や被害状況を解説した。この講演の中で吉田藩立間尻浦庄屋赤松家文書の「永代控」を取り上げ、安政南海地震時の吉田の住民の避難行動を取り上げたところ、古典の授業の中で、この「永代控」を生徒が読んで現代語訳をしようという取り組みにも繋がった。本稿は、この初回の講演、古典学習の参考となる基礎データとして作成した資料であり、高校の授業だけではなく広く周知するため、投稿したものである。
なお、二回目は八月二一日に生徒有志、教員とともに防災町歩きを実施し、「永代控」の記述を基に、安政南海地震時の住民避難の経路を実際に歩いてみた。その様子を愛媛新聞が取材して八月二四日付で以下のように記事掲載されたので紹介しておく。

「古文書の震災記録、巡って避難路確認 宇和島・吉田高生が防災学習 宇和島市吉田地域に伝わる古文書に記された南海トラフ地震の被害状況を基に、吉田高校(同市吉田町北小路)の生徒約一五人が地域を歩く防災学習が二一日、あった。生徒は身近な場所を襲った揺れや津波を教わりながら、高台避難の経路を確認した。県の防災教育実践モデル事業などの一環で、県歴史文化博物館専門学芸員の大本敬久さんが講師を務めた。古文書は、同市吉田町立間尻の江戸期の庄屋赤松家が保管する「永代控」。吉田藩へ村の出来事を報告するために作られ、一八五四年の安政南海地震の状況を記録している。永代控によると、地震発生後には引き波で船が沖で流出し、午後八時ごろに庄屋に一.八メートルほどの津波が来た。余震が続く中、住民は高台の寺などに避難し、帰宅できずしばらく小屋で生活していた。生徒は海沿いの住吉神社を出発し、赤松家では実際の永代控を目にした。記録に沿って当時の住民が避難した三カ所の寺を巡り、海抜一七メートルの大信寺では避難に備えた防災倉庫を確認した。大本さんは、津波は何度も押し寄せ、最大の海面上昇は数時間後だったと説明。吉田地域は津波が川を遡上してくる可能性が高いとして、できるだけ川沿いではない避難路を選ぶことが大切とアドバイスした。(後略)」

そして、この生徒有志と教員による防災町歩きの経験を活かして、一一月一六日に実施された遠足では、テーマを「過去の津波の経験」とし、八月の町歩き箇所に加え、安政南海地震時に吉田藩主が避難した立間地区の医王寺や、将来の南海トラフ地震で集落の中央部にまで津波浸水が想定されている喜佐方地区の高台にある八幡神社を訪問場所に加えて、遠足が実施された。

また、「永代控」の記述を基に、生徒が主体となって宇和島市吉田町の防災ソングを作る取り組みも同時並行で行われ、一一月二四日に地元の吉田愛児園で披露され、講師、助言役として筆者も参加した。作詞は一、二年生、振り付けは三年生が行い、作曲は音楽教員が主導して防災ソングは完成した。こちらも愛媛新聞が取材し一一月二九日に以下のような記事として掲載された。

「宇和島の吉田高生が防災SONG制作 園児に振り付け指導、津波避難の大切さ伝える 宇和島市吉田町北小路の吉田高校の生徒が、約一七〇年前に吉田地域で起きた大地震を記録した古文書を基に、津波避難の大切さを伝えるオリジナル曲「吉田防災SONG」を制作した。生徒は二四日、吉田愛児園(同市吉田町西小路)を訪れ、園児に歌詞や振り付けとともに命を守る行動を教えた。古文書は同市吉田町立間尻の庄屋赤松家に残る「永代控」。一八五四年の安政南海地震で地域に津波が押し寄せ、住民が避難した様子を記録している。生徒は古文書の口語訳やフィールドワークを通して当時の住民の行動を学び、作詞などに役立てた。歌詞には住民が山に逃げたことや、諦めずに努力し復興を遂げたことなどを盛り込み「登れ逃げよ吉田っ子 命をつなげ吉田っ子」と呼びかけている。振り付けは頭上での指さしや腕を振る動作で、走って高台避難する行動を表現した。同園で同校の二年生約二〇人は、園児と2人一組になり「波が来るから逃げるんよ」などと歌詞の意味や動きを教え、繰り返し踊って練習した。(後略)」

以上のように、残された過去の災害史料を高校生の防災学習に活かし、その成果が地元の園児にも伝わる防災ソングを創作し、地域の防災力を高める一助となった取り組みであり、今後の地域の歴史文化研究成果の発信、展開のモデルケースともいえる。別投稿で、吉田高校での防災学習で使用した資料も掲載しておきたい。


高校生が制作 津波防災ソング 愛媛県宇和島市

2023年11月29日 | 災害の歴史・伝承
1854年安政南海地震津波での避難記録を基に高校生の防災ソング創作サポート。地域の歴史文化を活かした災害「事前復興」の取り組み。

11/24に宇和島市の吉田高校、吉田愛児園の交流会が11/29愛媛新聞に掲載されました。

歌詞は吉田高校1、2年生、振付は3年生が創る。

防災ソングの基となった史料は、2018年に調査・撮影、2019年に愛媛県歴史文化博物館で展示・図録掲載、2023年に吉田高校の防災学習→町歩き→防災ソング制作。

ひとつの史料を防災教育や創作活動に繋ぐのに5年(時間かかりすぎ。他にも宇和島、八幡浜、西予の津波記録あるも「創作」に至らず。八幡浜ではミュージカルで実現をと勝手に妄想中)。

防災ソングを多くの方に歌って踊ってもらえるか。これから。道半ば。

宇和島での防災イベントありましたらぜひ防災ソング披露を吉田高校にご相談ください。

2023年11月29日付愛媛新聞8面

宇和島の吉田高生が防災SONG制作 園児に振り付け指導、津波避難の大切さ伝える

宇和島の吉田高生が防災SONG制作 園児に振り付け指導、津波避難の大切さ伝える

 宇和島市吉田町北小路の吉田高校の生徒が、約170年前に吉田地域で起きた大地震を記録した古文書を基に、津波避難の大切さを伝えるオリジナル曲「吉田防災SONG」を...

愛媛新聞社

 


松山市の災害史講座

2023年11月25日 | 災害の歴史・伝承
【松山市の災害史講座】一遍会第622回例会。12/2(土)13時半〜愛媛県県民文化会館別館にて。「過去の災害に学ぶー松山市の水害・土砂災害の歴史ー」をテーマに松山市で大きな被害の出た明治17年高潮(海岸部で53名が溺死)、昭和18年水害(重信川が決壊し広範囲が浸水)、平成30年7月豪雨などを取り上げる予定です。会員外は参加費500円。



愛媛のハザードマップ

2023年11月20日 | 災害の歴史・伝承
【愛媛県内の南海トラフ巨大地震での津波マップ】

このたび愛媛新聞が公開したデジタルハザードマップ。

津波、洪水、土砂災害。これまで自治体がHP上で公開するマップよりもアスセスしやすく、スムーズに操作できる。スマホでも見やすく、しかも立体表示。

自分が住んでいるところの災害リスクをイメージしやすい。





歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑩

2023年11月15日 | 災害の歴史・伝承
9 内陸直下型の地震―中央構造線断層帯と愛媛県―
南海トラフや東北地方太平洋沖を震源とする地震はプレートの沈み込みを起因とする海溝型地震であるが、内陸の活断層の活動によって発生する地震も江戸時代には数多く発生している。その中でも中央構造線断層帯も地震発生の成因として無視することはできない。中央構造線はフォッサ・マグナ以西の西南日本を内帯と外帯に分ける大断層線であり関東から四国を横切って九州に至る大きな断層である。
 この中央構造線断層帯と関係があると推定されるのが文禄5(慶長元・1596)年閏7月12に和泉、摂津、山城を中心に被害をもたらした大規模な直下型地震である。震源は兵庫県南西部から大阪府北部にかけての有馬―高槻断層帯であり、完成間近であった伏見城が倒壊したことで知られ、慶長伏見地震と呼ばれている。この地震の直前の9日には伊予で慶長伊予地震が発生し、現在の愛媛県松山市の薬師堂の建物が崩壊していることが「薬師寺大般若経奥書」から判明している。また、伏見地震前日の12日には豊後で慶長豊後地震が発生し、「沖の浜」(現大分市)で家屋が流されるなど別府湾で津波被害が発生している。わずか4日間で九州、四国、近畿を東西に連ねる形で連続して内陸型の大地震が起こっているが、これは中央構造線断層帯の一部の活断層と有馬―高槻断層帯で地震が連続して発生したものとの説もある。これと同じように一連の活断層群で連続して大きな地震が発生したのが平成28(2016)年の熊本地震である。この慶長の地震が海溝型の東海、東南海、南海地震のような「連動」なのかどうか、そのメカニズムは充分に明らかになっていないが、「連続」して起ったのは史実である。


【主な参考文献】
愛媛大学防災情報研究センター企画・編集・発行『南海トラフ巨大地震に備える』アトラス出版、2012年
大本敬久「災害の記憶と伝承―民俗学の視点から―」(『文化愛媛』第69号、愛媛文化振興財団、2012年)
山本尚明「愛媛県沿岸域に来襲した津波の記録と高さおよびその特徴」『文化愛媛』69号、愛媛文化振興財団、2012年
内閣府政策統括官(防災担当)編『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1707宝永地震』内閣府、2014年
高橋治郎「地震と道後温泉」『愛媛大学教育学部紀要』第61巻、2014年
加藤正典「古文書から西条の宝永地震を振り返る―地震発生と、その後の災害、復旧の記録―」(『伊予史談』377号、2015年)
愛媛県立伊予高等学校地域研究グループ編・発行『松前町・伊予市の昭和南海地震』2016年
大本敬久「愛媛県における災害の歴史と伝承」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第21号、2016年)
大本敬久「愛媛県の地震史ー昭和南海地震を中心にー」(『伊予史談』383号、2016年)
柴田亮「1707 年宝永地震の地殻変動を示唆する史料」(『歴史地震』32号、2017年)
愛媛県歴史文化博物館編・発行『四国・愛媛の災害史と文化財レスキュー』2020年
大本敬久「昭和南海地震における地域別被害数値」『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』28号、2023年

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑨

2023年11月14日 | 災害の歴史・伝承
8 愛媛県松山市沖の津波伝説
松山市内には地震による浸水の言い伝えが残っている。松山市沖の興居島ではいつの時代のどのような被害かというのは歴史学的には実証はできないが、鷲ヶ巣というところがあり、そこは、海が今のようには近くなくて田畑がもっと広かった。そして釣島まで歩いていけたという。興居島で最初に開かれたと伝えられる集落であるが、この鷲ヶ巣を大きな津波が襲い、大半の家が押し流されて田や畑も一緒に流されたという伝説が残る。そこに「かさね」という岩がぽっこりと顔を出し、海岸から100mほど離れた海の中となってしまったと伝えられている(松山市興居島中学校編『ふるさと興居島』(1985年発行)、「伝説から探る伊予灘の津波」(『松山百点』280号、2011年発行)でも紹介)。このように島の一部が沈んでしまったという話が興居島に残っている。これは現実的に考えると、南海トラフ地震、もしくは瀬戸内海付近を震源とする内陸型地震により沈降現象が起こり、海水が流入して長期に浸水しまう現象がもととなって、このような伝説が成立した可能性があるだろう。いつの時代の被害かは不明であるが、瀬戸内海の地震による地盤沈降、そして長期的な高潮等の被害を反映させた伝承ではないだろうか。
この興居島だけではない。中島本島の鐃地区にも類似伝承がある。「おたるがした」というころがあり、地震があって島中がぐらぐらと揺れだした。これは大事になる、津波じゃ。はよみんな山の中に逃げんと大事になる。家も畑も波に洗われて、何にもないと。とてつもない大きなたるがごろんと山の根っこにころがっている。村のもんは誰いうことなしに、あのたるのあったところを「おたるがした」というようになった。要するに大きなたるしか残らなくて、一面流されてしまったと伝承である(中島町教育委員会編『中島のむかし話―伝説―』(1982年発行)、「伝説から探る伊予灘の津波」(『松山百点』280号、2011年発行)にても紹介)。
もう一つ有名なのは、由利島の伝承である。現在は無人島であるが、由利島にあった寺院が、鎌倉時代の地震によって、松山市古三津に移ってきたという言い伝えがある。これは現在も古三津にある儀光寺のことであるが、寺伝では、もともと寺は由利島にあり、儀光上人の開祖と伝わっている。鎌倉時代の弘安年間に地震・津波の天災に遭い、本尊の導きによって、現在地の古三津に移転し、以来700年祀られていると境内の案内表示にも書かれている。この由利島が沈んだという言い伝えについては、鎌倉時代の弘安年間に津波が起きるような大きな地震があったという歴史上の記録が実は確認できない。これは実際には弘安年間でない可能性もあるし、南北朝、室町期かもしれない。もしかしたら、単なる創作の伝説かもしれない。ただし、島が沈んだ伝説というと、瀬戸内海周辺では愛媛県の対岸の別府湾に、瓜生島という島があり、それが沈んだという伝説がある。これは年代が確定できていて、慶長豊後地震の際の出来事とされている。この瓜生島伝説は実際には、別府湾沿岸が高潮被害、津波被害を受けて、それを地震後約100年経った後に、話が創作されて島が沈んだという形になっている(瓜生島伝説の形成過程については、加藤知弘「府内沖の浜港と『瓜生島』伝説」(『大分県立芸術文化短期大学研究紀要』35号、1997年)や岩瀬博「沈んだ島―大分県瓜生島伝説を中心に―」(『大谷女子大国文』33号、2003年)などに詳しい)。歴史学上はこの種の伝承はほぼ無視されることが多いが、由利島、中島、興居島という松山市沖の近接する島々に類似する伝承が残っている。これは過去の浸水被害の事実を反映させて伝承された伝説と考えられ、今後、瀬戸内海でも予想される地震による地盤沈降と浸水被害を考えたときに、あながち無視できない口承の文化遺産といえる。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑧

2023年11月13日 | 災害の歴史・伝承
7 瀬戸内海沿岸部の津波と地盤沈降・高潮被害
 愛媛県でも宇和海沿岸部には過去に地震で津波がきたという記録は数多いが、松山市、伊予市といった中予地方、そして今治市、上島町、西条市、新居浜市、四国中央市といった東予地方、つまり瀬戸内海沿岸部ではどうなのか気になるところである。愛媛県内の災害を考えるには瀬戸内海、宇和海の両方、そして中山間地域も視野に入れないといけない。
 まずは東予地方の西条市について紹介したい。1966年発行の『西条市誌』の中に、宝永4年の大地震による「津浪」のために「深の洲」新田が欠潰れしたと書かれている。宝永地震の際に津波被害があったされているが、実は瀬戸内海の津波被害に関すると思われる史料の解釈は非常に難しい面がある。
 一例として松山藩壬生川浦の番所記録を挙げてみたい。壬生川は西条市東部、旧東予市であるが、江戸時代には松山藩領内であった。その記録で、宝永つまり1707年の宝永地震の際に「高潮が満ち候よう相成り、ところどころ新田など流失」とある。これをどう考えるか。宝永四年の大地震があって、その後、高潮、津波がきて、そして潮が満ちて、新田が流された。だから地震の直後に津波がきて、流され、被害があったと解釈することもできる。しかし、この「その後」というのがいつの時期なのか判断が難しい。一ヶ月後かもしれないし、三年後かもしれない。要するに、その後に地盤が沈下、沈降してしまって、それによって地震発生以前には満潮や大潮になっても潮が陸地にあがることはなかった場所が、地震後は潮がどんどん入ってくるようになる。それで、新田が流失してしまったと解釈することもできる。この二つの解釈のうち、南海トラフ地震が起きると、四国地方においては隆起する場所もあれば、沈降する場所、要するに地盤沈下して、地面が沈んだままになってしまうという被害がある。地盤が沈下して元の高さに戻らない。そのために海岸部では潮が入りやすくなってしまう。
また、西条市玉津の碇神社棟札があり、宝永4年に地震が発生して高潮が満ちるようになり、翌年に高潮によって社殿が大破し、正徳2年に遷宮したと記されている。『西條誌』(天保13(1841)年完成)にも明神木の碇神社について「宝永の高潮」の記述が見られる。巻之四に「明神木村 村名の義、昔ハ碇明神の社、当村の下にあり、此社に大樹あり、四方に挺(ルビ:ヌキンデ)、仰山に見ヘければ、明神木とは名けたりと云、(中略)当村、昔ハ今の御舩室の少し上にありて、海に瀕し、漁家多かりしが、宝永の高潮に破損し、今の処に移る」とある。また巻之二には近江屋が築いた新田が「宝永の高潮に、此新田破損、其残りたる分を、善助新開と呼」とあり、神社や堤塘が被害を受けただけではなく、開発された新田が被害を受けていたことも記されている。このように瀬戸内海沿岸地域では南海地震が発生した後に、地盤が沈降して満潮時や大潮のときに海水が越えるのが常態化し、大きな台風が来た場合に大水害が起こるという地域特性が見られるのである。
同様の被害は昭和南海地震で旧北条市でも起こっている。北条鹿島に渡る乗船場のすぐ近くに、昭和37年3月に建てられた堤防工事碑がある(写真参照)。正面に「北温海岸防波堤竣工記念」とあり、裏面に「松山市堀江町より北方へ北条市浅海町に至る全長十五粁の海岸は従来標高三米自至四米の石積堤防又は天然海岸で年々再々高潮の災害を受けていたが昭和二十一年十二月の南海地震によりこの海岸では約六十糎の地盤沈下を生じ(中略)昭和二十九年より関係者当局の格別な配意と地元民の撓まざる努力により(中略)昭和三十六年三月これが改良事業の完成を見た」とある。これは地盤沈下の被害の典型といえる。
 ところが、いろんな史料を探してみると、「藤井此蔵一生記」という江戸時代末期から明治時代にかけての史料がある。これは大三島の上浦(現今治市)出身の藤井此蔵が記したもので、安政南海地震の記述が見られる。そこには、津波があって潮が七、八回干し上がって満ち引きがあった。そしてその後、満ちてきたとある。これは現象としては、やはり津波と考えるのが適当だろう。このように、瀬戸内海に津波が全くなかったとは言いきれない。参考までに香川県の史料を見ておきたい。宝永地震に関する記述のある「続讃岐国大日記」には「同(宝永四年十月)四日、未刻大地震、地烈(裂カ)出白水、高松城下人屋多崩人死、亦潮高満、平日増六尺、陂堤損破、其餘越月、十二月治」とある。潮が満ちて、通常に比べて6尺高くなったとある。6尺というと2m弱である。約2m増して、そして防波堤損し破ったということで、これは津波被害と考えるのが適当であろう。瀬戸内海においても過去の大地震によって津波による被害が発生していたのである。また、『四国防災八十八話』(国土交通省四国地方整備局企画発行、2008年)第60話「瀬戸内海の津波」には昭和南海地震の際の大洲市長浜港沿岸の津波に関する記述がある。「昭和二一年(一九四六)一二月二一日の午前四時過ぎ地震が発生しました。汽車で松山へ通学していた私は、いつも起きる四時過ぎに玄関に出てみると、家の前には潮がさしていて、水深三〇~五〇センチメートルはありました。(中略)五時頃に、長靴をはいて表通りへ出てみるとやはり路面二〇センチメートルはあります。静かに潮位が上がった感じでした。」とあり、昭和南海地震の発生直後に数十㎝の津波が大洲市長浜町で記録されているが、これは地震による地盤沈降が原因で地震発生直後に海水が流入し浸水が始まったと推定できる。つまり、瀬戸内海沿岸部の津波は「地震発生から1時間以上経てから来るもので、避難する時間は充分にある」とは限らない。地震発生から数分で浸水が始まることも想定しておくべきであろう。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑦

2023年11月12日 | 災害の歴史・伝承
6 昭和南海地震―直近の南海トラフ地震―
直近の南海トラフを震源として発生した地震は昭和21(1946)年の昭和南海地震である。震源は紀伊半島沖、地震の規模はM8.0で、全国で1330名が犠牲になっている。この地震は現在でも体験者からの聞き書きが可能であるが、その記憶は十分に継承されているとは言い難い。ここで災害の記憶ではなく「忘却」について一事例を紹介したい。
徳島県海陽町の海岸部には各所で「南海地震津波最高潮位」と刻まれた石碑を見ることができる。昭和21年12月21日未明にこの地を襲ってきた津波の記憶を今に伝えている。この石碑が建てられたのは昭和60年で、当時の海南町が主体となって建てられたものである。海陽町は江戸時代から繰り返し津波被害を経験しており、後世に津波の危険性を伝えるためには文献記録や看板表示ではなく石碑にすることで永年の記憶化を図ったといえる。石碑が建てられたのは津波発生から約40年後。次第に世代が交代し口伝えで津波の記憶が地域住民の中で共有化しづらくなったことに起因したといえる。この石碑のある地区では昭和南海地震津波で85名もの犠牲者が出ているが、40年経つと記憶は風化し、忘却されてしまい、新たに津波の悲惨さを伝える手段として石碑建立という記念化行動を起こした。また、海陽町に建てられている津波碑には平成8年のものもある。これは昭和南海地震から50年目にあたり、津波犠牲者の49年目の供養と同時に、地震、津波の記憶を刻む行為であり、前年には阪神淡路大震災が発生し、地震に対する危機意識が高揚していたことも一つの起因といえるだろう。このような災害の記憶の継承の事例を見ると、平成7年の阪神淡路大震災、同23年の東日本大震災、同28年の熊本地震など、近年の地震被災についても長期にわたっての継承活動が必要だと感じさせられる。
昭和21年12月22日付愛媛新聞には、愛媛県内の状況について次のように記載している「道後温泉止まる 県下の震害大(詳報二面)」、「天下の霊泉で鳴る道後温泉は震害で地下異変を生じ突然第一より第四にいたる各源泉全部閉塞してしまつたので当分の間休業のやむなきに立至つた」、「死者二四 不明六名 倒壊二百五十戸 県発表 正午現在」、「二十一日午前四時二十分県下一帯にわたつて大幅にゆれはじめた地震は昭和二年春以来(註:北丹後地震)の大地震、夜明けの夢破れた人々は戸外へ一斉に飛出し避難をするなどかつてない経験に朝のあいさつも『こわかつたなア』としみじみと驚きの表情をつづる、この日朝来県警察部に報告された震災状況は正午までに判明したもの死者二十四名、負傷者十六名、行方不明六名、計四十六名の犠牲者を出した、家屋の倒壊は二百五十戸(うち半壊百七十四戸)同床下浸水百二十戸、非住家百九十棟(半壊を含む)、道路の崩壊四十六ヶ所、橋梁の被害六ヶ所、海岸崩壊廿二ヶ所、このほか工場煙突の倒壊十四、同様倒壊鳥居一、通信関係は一時不通ヶ所が全県的に及んだが同日午後から逐次復旧、国鉄肱川鉄橋も一部被害を見たが十時二十分八幡浜駅発列車から復旧した」とある。まず道後温泉の湧出が止まったことが大きく見出して出ている。この道後温泉は、歴代の南海地震が発生するたびに湧出が止まっており、昭和南海地震では約70日間止まって、再開は昭和22年4月上旬のことであった。この地震は、愛媛県内では昭和2年の北丹後地震以来の大地震であり、地震発生から約8時間後、正午に愛媛県から死者24名と発表されている。昭和南海地震では死者26名とされ、そのほとんどが建物倒壊による圧死であった。津波襲来による人的被害は把握に時間がかかるが、建物倒壊による早急の救助活動により半日程度で、県内の死者の大半が把握できていたことになる。「床下浸水百二十戸」とあるのは津波による浸水被害であり、過去の宝永地震、安政南海地震では南予地方沿岸部(八幡浜市、西予市、宇和島市、愛南町)で大きな津波により犠牲者も出ているが、昭和南海地震は地震の規模が宝永、安政に比べて小さかったこともあり、愛媛県内では津波は南予で浸水した地区はあったものの、家屋が流されるといった甚大な被害や人的被害は出ていない。
そして、愛媛新聞記事では、県内被害状況が地域ごとに詳述され、「最たる被害地は伊予郡郡中、松前町で家屋倒壊は九十九戸、非住家三十七棟、死傷者八名を出しさんたんたる震災の光景を呈している」とあり、地震翌日の新聞では県内でも最も被害の大きかった地域が現在の伊予市郡中と松前町であり、死傷者8名、家屋倒壊99戸であることが紹介されている。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害⑥

2023年11月11日 | 災害の歴史・伝承
5 嘉永から安政へ―連続した災害―
嘉永7(1854)年は記録すべき大事件が続発した年であった。同6年6月にアメリカ使節ペリーが浦賀に入港。蒸気船(黒船)が正月に再来して、江戸幕府に日米和親条約を結ばせることになり、日本は幕末の動乱期に入った。4月6日には京都で御所付近から出火し町中が大火となり約5400軒が焼失している。6月14から15日には伊賀上野地震が発生し、伊賀上野付近では約600名が犠牲となり、東海から近畿地方でも大きな被害が出た。そして11月4日、駿河湾から熊野灘の南海トラフ東部を震源とする大地震が発生し、その約32時間後に、紀伊半島から四国沖の南海トラフ西部を震源とする大地震が連続して起きた。この2つの地震は関東以西の沿岸部に大きな津波の被害をもたらした。
様々な事件、災害が発生したことから11月27日には年号が「嘉永」から「安政」に改元され、この大地震は安政東海地震、安政南海地震と呼ばれている。しかし、政治を安定させたい幕府の願いも叶わず、安政2年10月2日には東京湾北部を震源とする大地震(安政江戸地震)が発生し、倒壊家屋は約15,000軒、大火が起こったこともあって約10,000人が犠牲となっている。
ここで、安政南海地震での松山地方の被害記録を紹介しておきたい。松山久米の日尾八幡神社神官であった『三輪田米山日記』が愛媛大学図書館に所蔵されている。地震翌日の11月6日の日記には「十一月六日 朝一天無雲、日光明 昼夜地震、郡中など大破損、人死など夥(おびただし)、又今津など大地さけ、尾たれの有家すくなきなど、城下も人家破損多、道後の湯などとまるはなしなど種々有之、又城下にも人死なども有之話も有之」とあり、まず郡中(現伊予市)での建物被害が大きく、多くの死者が出たことが記されている。今出(現松山市西垣生町)では地面に大きな亀裂ができたとあるが、後の昭和南海地震でも重信川対岸の松前町岡田地区にて道路が約100mにわたって亀裂が走るなど松山市から伊予市にかけての海岸付近において、南海地震では揺れによる建物、土木被害が発生しやすいことが地域的特徴といえる。松山城下でも住宅被害が多く、死者も出たとの伝聞情報も記されている。『米山日記』11月7日条では「昼一度大地震、夜両度甚、其外昼夜小震数度」、11月8日条に「小震数度」とあり、余震が頻発していたことがわかる。道後温泉の湯が止まったことも記録されているが、安政南海地震では道後温泉は105日間、つまり約3ヶ月の間、湧出が停止している(『松山市史』第1巻、39頁)。歴代南海地震では高い確率で道後温泉の湧出が止まっており、それは後に昭和南海地震でも同様であったが、この安政南海地震直後に不出となったことが湯神社所蔵の水行人の額に記されている。この額は地震翌年の安政2(1855)年4月12日に奉納されたもので、「嘉永七年申寅霜月五月地震てふ、天の下四方の国に鳴神のひびきわたりて、温泉忽ち不出なりて音絶ぬ故(中略)若きすくよかなるかぎりには赤裸となり雪霜の寒きを厭はず雨風のはげしきをおかして三津の海へにみそぎしてまたは御手洗川の清きながれに身をきよめ、夜こと日毎に伊佐爾波の岡の湯月の大宮出雲岡なる此湯神社に参りて温泉をもとの如くに作り恵み給へと祈り奉りしに(中略)明る安政二年きさらぎ廿二日といふに、湯気たち初め日ならずしてもとのごとくに成ぬ」とあり、ここには涌出の復旧を祈願して大人数で水行が行われ、道後、三津浜間の街道2里余りを裸で腹に晒白木綿を巻き、「御手洗川の清き流れで」汐垢離に往復して、神に祈願した。地震後に止まった湯は、翌安政2年2月22日に湯気が立ち始め、復旧したことが書かれている。湯神社に奉納されたものは他にも安政2年奉納の「俳諧之百韻」の俳額があり、安政元年の地震で停止した温泉の湧出祈願の俳諧が記されている。このように安政南海地震でも約3ヶ月間、湯が止まり、人々が復旧を必死の思いで祈願していた様子がわかる。
また東予地方での安政南海地震の記録については『小松藩会所日記』があり、小松藩内外の被害の状況が詳細に記録されている。安政南海地震記述を抜粋すると次のようになる。「一、(中略)町方商人共西方ゟ帰、大洲、宇和島辺最強、松山も海辺強趣伝承之一、北条広江今在家村沖手堤(中略)所々長く竪ニ破レ、就中石垣沖手江大分下り居頗ル大傷之趣、幸小汐時合差当患無之趣、新屋敷乗越先往来大分破レ居、三之坪以前之泉所高く洲ヲ吹出シ同所近辺百姓家庭江水吹出シ未止趣有之、北条新田幸神社堤大損、等承之。十二月朔日 一、昨日抔沖手殊の外大潮、今在家たんほ東堤地震ニて少々下り居候処等殆ント馬乗江及候位甚危所、幸西風ニて無難相済、北条御船入上下辺田畑江潮越込」とあり、水が噴き出すという液状化現象が見られたことや、現西条市今在家で地盤の沈降現象が見られ、大潮によって海水の侵入があったことを推察できる記述となっている。
 さて、瀬戸内海側の今治市の大浜村柳原家文書「地震記録」(今治郷土史編さん委員会編『今治郷土史』第5巻・資料編 近世3、今治市役所、1988年)が刊行されている。これは時系列でいつ、どのような大きさの地震が発生したか細かく記録されている史料である。加えて、後の地震の記録も残されている。例えば、例えば嘉永7年(安政元年)からであれば、約3年後の安政4年の8月25日に余震が起こっている。プレート境界型ではなく比較的深いところで発生するプレート内地震で、2001 年芸予地震と同じタイプの地震である。「地震記録」によればこのとき、安政南海地震の揺れの規模を十だとすると、この度の揺れは十二、三分ということで、1.2、~1.3倍であったと記される。要するに、安政南海地震よりも数年後の安政4年の地震の方が揺れは大きかったことになる。
 柳原家記録からは、安政南海地震発生以降、何月何日の何時にどのような規模の地震が起こったかが記されており、時系列で余震活動の発生頻度が分かる(表「安政南海地震の余震回数(現今治市)」参照)。大大、大、中大、中、中小、小、地鳴とあるのは史料の記述である。宇佐美龍夫『歴史地震事始』(1986年)や、震度判定の記録と今までの芸予地震などでの鳥居・石灯籠や建物の倒壊・損壊の程度により大体震度5強、震度6弱といった震度の区別ができる。ここから今治においては南海地震の本震は震度5強であったと推定することができる。そして本震から約10日から2週間で、ある程度余震が落ち着いたことが分かる。東日本大震災と比較すると、この震度や余震の回数は少ない。東日本大震災がマグニチュード9.0で、安政南海地震は『理科年表』によるとマグニチュード8.4であるため、東日本大震災よりは規模は小さい。しかし後世に発生した昭和南海地震はマグニチュード8.0と言われているため、昭和南海地震よりも安政南海地震の方が被害規模は大きくなっている。このことは、余震活動から地震の規模を推定する手がかりにもなり、貴重な史料記述であるといえるだろう。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害④

2023年11月09日 | 災害の歴史・伝承
3 古代の南海地震―最古の地名は伊予国―
文献史料で確認できる最古の南海地震の記録は『日本書紀』天武天皇13(684)年10月14日条であり、この地震は白鳳地震もしくは白鳳南海地震と呼ばれている。『日本書紀』の中でも神話等の場面ではなく律令国家形成期の7世紀後半の記述で、地方官制度も確立した時代の記録であり、国司から朝廷への報告内容が記載されているため、創作された記事ではなく史実としての信ぴょう性は高い。「壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也」と記されている。
10月14日に大地震が発生し、国々の男女が叫び、山が崩れて川は溢れ、国や郡の役所、一般庶民の家屋、寺社が破損し、人々や動物たちが損傷し、「伊予温泉」(現在の道後温泉)が埋もれて湯が出なくなったとある。つまり、古代の南海地震の記録で最初に出てくる地名は伊予(愛媛県)であり、道後温泉の被害が記録されている。そして土佐国の田畑50万頃(約12平方キロ)が埋もれて海となったとある。これは海岸付近の地盤が沈降してそこに海潮が入ってきて陸地に戻らなくなるという被害で、歴代の南海地震でも同様に地盤の隆起・沈降による海水面の変化の被害が出ている。
白鳳南海地震については同じ『日本書紀』の中に次のような記載もある。「庚戌。土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉」。これは同年11月3日条で、地震発生から18日後に土佐国司が白鳳南海地震の大津波によって租税を運ぶ船が多数被災し、朝廷に納めるべき「調」を納めることができなくなったと被害状況を報告している。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害③

2023年11月08日 | 災害の歴史・伝承
2 周期的に発生する南海地ラフ地震―繰り返される被害―
 南海トラフを震源とする地震は、およそ100年から150年の間隔で発生している。直近では紀伊半島南西沖を震源とする昭和南海地震が昭和21(1946)年12月21日午前4時19分に発生し、その2年前の昭和19年12月7日に紀伊半島南東沖を震源とする東南海地震が発生し、双方の連動地震では全国で計2500名以上が犠牲となっている。
 その前の南海トラフ地震は、昭和南海地震の約90年前、嘉永7(1854)年11月4日に東海、東南海地震が発生し、その32時間後の11月5日に南海地震が起きて、関東から九州までの広い範囲で大きな被害が出ている。地震の規模は昭和南海地震がM8.0、安政南海地震はM8.4と推定され、安政の方が地震規模は大きく、揺れ、津波被害も昭和より甚大であった。
 その安政よりも被害が甚大だったのがその約150年前、宝永4(1707)年10月4日の宝永地震である。東海、東南海、南海地震の3連動で発生し、地震規模はM8.6と推定され、『楽只堂年録』を見ると死者数は5,000名余りであったと記録されている。そして宝永の約100年前には慶長9(1605)年12月16日に慶長地震が発生している。この地震では津波被害が甚大で、房総半島から紀伊半島、四国にその記録が残っている。その前は慶長の約100年前、明応7(1498)年に明応地震が発生し、さらに137年前の正平16(1361)年6月24日に正平南海地震が起こり、『太平記』によると「雪湊」(徳島県由岐)では大津波によって1700軒の家々が被害を受けたとされている。その前となると正平の263年前という長い空白期間となるが、承徳3(1099)年正月24日に発生している。この年は地震と疫病が頻発したので元号が「承徳」から「康和」に改元され、「康和地震」と称されている。土佐国(高知県)で千余町が海底となった、つまり地盤の沈降による海水流入が大規模に見られ、歴代南海地震でも同様の被害が見られる。その康和の212年前の仁和3(887)年7月30日には仁和地震が起こり、近畿地方を中心に大きな被害が出ている。その仁和の203年前に発生した南海トラフ地震が、『日本書紀』に記された天武天皇13(684)年10月14日の白鳳地震である。このように、文献史料からひも解くだけでも、古代から現代まで南海トラフを震源とする大地震がおよそ100年から150年の周期で起こっていることがわかる。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害②

2023年11月07日 | 災害の歴史・伝承
1 連動する南海トラフ地震と「半割れ」
今後30年以内に70~80%程度の確率で発生が予想される「南海トラフ巨大地震」。「トラフ」は海底が溝状に細長くなる場所のことで、この地形はプレートの沈み込みにより形成され、地震の多発域となっている。南海トラフは静岡県の駿河湾から御前崎沖を通って、和歌山県の潮岬沖、四国の室戸岬沖を越えて九州沖にまで達し、フィリピン海プレートが日本列島側のプレートの下にもぐり込むことでひずみが蓄積され、限界に達したところで元に戻ろうとして巨大地震が発生する。これが南海トラフを震源とする地震の仕組みである。
 さて、「南海トラフ地震」イコール「南海地震」ではない。「南海地震」は紀伊水道沖から四国南方沖を震源とする地震で、「南海トラフ地震」のうちの一部である。駿河湾から遠州灘にかけて発生するのが「東海地震」、遠州灘から紀伊半島沖にかけての海域で発生するのが「東南海地震」。これら三つを総称している名称が「南海トラフ地震」である。宝永地震や安政東海・南海地震等、過去の地震ではこの三つの地震がほぼ同時もしくは数時間から数年の間に連動して発生していることが江戸時代以降の史料からも判明している。安政地震では11月4日に東海、東南海地震が発生し、関東から近畿まで大きな被害が出て、その32時間後に南海地震が発生して西日本に大きな被害が出ており、昭和地震では、1944年に東南海地震が発生し、その2年後の1946年に南海地震が発生しており、直近2回の南海トラフの大地震でいわゆる「半割れ」が見られることが各種史料からわかっている。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害①

2023年11月06日 | 災害の歴史・伝承
本稿は、2023年11月5日に、松山聖稜高校体育館で開催された「学際的・活動的 防災シンポジウム 南海トラフ巨大地震で発生する大津波で瀬戸内海沿岸部はどうなる!?」(段ノ上自主防災会主催。講師に岡村眞 高知大学防災推進センター客員教授、理学地質学、大本敬久 愛媛県歴史文化博物館専門学芸員、民俗学)で会場配布した資料である。

歴史資料から見た松山市周辺の地震・津波被害

大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)

はじめに
四国はこれまで100~150年を周期として、繰り返し紀伊半から四国沖の南海トラフを震源とする大きな地震(南海地震)に見舞われてきた。和歌山県、徳島県、高知県では建物の倒壊に加え甚大な津波被害が発生しており、岡山県、香川県、愛媛県など瀬戸内海沿岸地域でも南海地震の被害は大きく、昭和21(1946)年の昭和南海地震では岡山県51名、香川県52名、愛媛県26名が家屋の倒壊等によって犠牲になっている。愛媛県内では昭和南海地震において犠牲者が多かったのは現在の西条市、松山市、伊予市、松前町であり、南予よりも中予・東予での被害が大きかった。津波に関しては宇和海沿岸部において宝永南海地震(1707年)、安政南海地震(1854年)にて大きな被害が出たことが宇和島藩、吉田藩の記録等から判明している。愛媛県に被害をもたらしてきたのは南海トラフを震源とする海溝型の地震だけではなく、芸予地震等、安芸灘、伊予灘を震源とする地震も繰り返し発生しており、また愛媛県内には活断層が集中する中央構造線が東西に通っており、直下型の地震のリスクも抱えた地域だといえる。本稿では愛媛県、特に松山市をはじめとする瀬戸内海沿岸部の中予・東予での地震、津波被害の歴史について紹介してみたい。


愛媛・災害の歴史に学ぶ30 「災害」・「わざわい」の語源

2019年12月30日 | 災害の歴史・伝承
 現代では「災害」とは、災害対策基本法(第2条第1項)によると「暴風、竜巻、豪雨、豪雪、洪水、崖崩れ、土石流、高潮、地震、津波、噴火、地滑りその他の異常な自然現象又は大規模な火事若しくは爆発その他その及ぼす被害の程度においてこれらに類する政令で定める原因により生ずる被害をいう。」と定義づけられています。
 日本における「災害」の文字の初見は、『日本書紀』崇神天皇7年2月辛卯条であり、「今、朕が世に当りて、数、災害有らむことを。恐るらくは、朝(みかど)に善政無くして、咎を神祇に取らむや」とあり、『同』崇神5年条に「国内多疾疫、民有死亡者」とあるように、ここでの「災害」は疾疫により多くの者が亡くなった状況を意味しています(註1)。「災害」は、『万葉集』巻五にも「朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして世を度(わた)ることを得」(山上憶良)とあるように(註2)、奈良時代以前には既に用いられていた熟語でした。平安時代にも『権記』長徳4(998)年9月1日条に、春から「災害連々」とあったり(註3)、『平家物語』巻一に「霊神怒をなせば、災害岐(ちまた)にみつといへり」とあるなど(註4)、古典の中でも用例は数多く見られます。
なお、「災」の漢字の成り立ちは、下に火事の「火」と、上に「川」が塞がり、あふれる様子を表した象形文字であり(註5)、もとは洪水といった自然災害や火災を強く意味するものであったようです。
 さて、次に「災」の訓である「わざわい」の語源を考えてみたいと思います。『日本国語大辞典』(小学館)によると、「わざ」とは神のしわざの意であり、「わい」は「さきわい(幸)」などの「わい」と同源とされます。悪い結果をもたらす神の仕業という意味なのです。「天災」、「災難」、「災厄」などと使われるように、必ずしも地震、洪水などの自然災害に限定されるものではなく、身にふりかかる凶事や不幸なども含まれています。平安時代の『宇津保物語』俊蔭に「さいはひあらば、そのさいはひ極めむ時、わざはひ極まる身ならば、そのわざはひかぎりなりて命極まり」とあるように(註6)、「わざわい(災)」の対義語が「さいわい(幸)」とされています。同様の事例は『源平盛衰記』には「災(ワザワイ)は幸(サイハイ)と云事は加様の事にや」などでも見られます(註7)。現代のことわざでは「わざわい転じて福となす」というように「わざわい」の対義語を「福」と見なすこともありますが、室町時代成立とされる『日蓮遺文』経王殿御返事に「経王御前にはわざわひも転じて幸ちなるべし」とあるなど(註8)、古くは「幸」が対義語であったようです。
ちなみに「防災」という言葉は明治時代以前には確認できない比較的新しいものです。「天災は忘れた頃にやってくる」と言ったとされる寺田寅彦が命名したともいわれますが、昭和10年に岩波書店から刊行された講座『防災科学』の書名になった「防災」は寺田寅彦が命名したのは事実のようです。それ以前に刊行された書籍等に「防災」とついたものもありますが、寺田が関わったこの講座刊行が「防災」を一般名称化したとされています(註9)。

【註記】
1 今津勝紀氏「古代の災害と地域社会―飢饉と疫病―」(『時空間情報科学を利用した古代災害史の研究』)、日本古典文学大系『日本書紀上』
2 日本古典文学大系『万葉集二』
3 『日本国語大辞典』
4 日本古典文学大系『平家物語上』
5 『大漢和辞典』巻七
6 日本古典文学大系『宇津保物語一』
7 『日本国語大辞典』
8 『日本国語大辞典』
9 小林惟司氏『寺田寅彦と地震予知』(東京図書)