愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

民俗社会に見る排除の仕組み

2001年07月18日 | 信仰・宗教
「民俗」とは、世代を越えて伝承される文化のことである。「歴史」は時代とともに変化していくものであるが、「民俗」は時代が変わったとしてもほぼ同じ形で伝えられていく。例えば昔話や伝説、例えば祭りや芸能、例えば年中行事などなど。これらは、我々の祖父・祖母の生まれた時代と比較しても、ほとんど変わることなく今に伝えられている。
 さて、我々の年中行事の一つに「正月」がある。多くの人が神社に初詣に行き、神様にお賽銭を投げて、その年の無事を祈る。「正月」以外にも夏の「輪抜け」や秋の「祭り」の際に神社に行って神様を拝むことをする。また、年中行事以外にも「宮参り」や「七五三」など人生儀礼(通過儀礼)においても神社に行き、神様を拝む。我々の生活の節々には神様を拝む行為が見られるのである。
この神様とは何者なのか? 宗教としての神道の立場から見れば、神様は神聖・超越的であり、氏子を守る存在である。ただし、神様の宿る神社は日本の歴史において、特に明治時代以降、国家政策によって整備されたものということを忘れてはいけない。実は神様については、民俗の立場から見ると、多様な信仰の姿が見られるのである。「八幡」や「稲荷」、など、古くから祀られた神様もいれば、「天神(菅原道真)」、「和霊(山家清兵衛)」など、人が神に祀られる場合もある。神様は元来存在するものだけではなく、創出される場合があるのである。そして人が神に祀られる場合、その多くが「祟り」が関係している。人々は「祟り」を鎮めるために神様として崇敬し、神社に祀って「祟り」の「怖れ」を回避するのである。
 「怖れ」の回避の手段には、神に祀り上げる方法の他に、共同体(村)から追放する方法がある。例えば、医療の未発達な江戸時代において、流行病が起こると、病を神様に見立て、神輿に乗せて村はずれまで送り、追放しようとしていた。今でも各地に流行病を祀った祠が村境に残っている。共同体に危険を及ぼす存在を、共同体の外に追い払い、危険を回避しようとするのである。
 病による共同体からの追放といえば、歴史的にはハンセン病患者の例が多い。三瓶町鴫山にはハンセン病を患った姫が都から追放され、たどりついたと伝えられる場所がある。また、四国遍路(お遍路さん)の中にもかつて(戦前)はハンセン病患者が多数存在した。お遍路さんは四国の88ヶ所の霊場を巡ることによって願をかなえようとする信仰人であるが、かつてその中には自分の住む村を追放され、行き場・死に場を求めて四国にたどり着いた人がいたのである。そして、四国の人々はお遍路さんを弘法大師の化身と信じ、彼らに対して、金銭や食事などの接待をして、善行を行った。追放されつつも、それを受け入れる場として四国遍路は機能していたといえる。
 民俗の立場から日常社会を眺めてみると、人は共同体(村)の中に生きるものの、「怖れ」を抱かせる者を祀り上げて「神様」という超越的存在としたり、村から追放しようとする行為に及ぶことがわかる。
 「祓え(ハラエ)」という言葉がある。自分の身を安全にするために、自らに危険を感じるものを排除しようとする行為である。日本の民俗社会には自らを守ろうとして「祓え」を行うものの、それは自分本位の行為であって、追放されるものの立場にたって物事を考えていない。無責任なのである。排除される者の立場で複眼的に思考できる社会になれば、現代社会の様々な問題も解決するのだが・・・。
 一例を挙げておこう。現代社会に残る問題の一つに、女性差別がある。民俗社会においても女人禁制といって儀礼の場から女性を排除しようとする例が多い。大相撲の土俵にも女性は上がってはいけないと大相撲協会は頑なに主張する。また、京都の祇園祭でも山鉾巡行では女性が排除される。これらは男性本位の儀礼であるため女性が排除されるのだが、その排除の理由に「ケガレ」を持ち出すことがある。ところが、それらの歴史をひもといてみると、大相撲の土俵に女性が上がってはいけないと強く主張するようになったのは明治時代からであり、相撲の伝統から言えば、つい最近のことである。また祇園祭は平安時代から続いているが、江戸時代初期以前は山鉾巡行に女性も参加していた。女性の「ケガレ」は、男性が女性を排除するために持ち出した論理にすぎないのである。男性本位社会の視点から見れば、「ケガレ」という排除の理由が正当化されているような錯覚に陥るが、男性は排除された女性の立場を考える視点を欠いているのである。
 集団の中で、自分は何者なのか? そして他者(相手)は何者なのか? 無意識のうちに他者を排除し、自らの勝手な安心を得てはいないか? 複眼的な視点を持って、自分そして世の中を見つめてほしい。

*上記は7月16日に八幡浜工業高等学校において生徒・教職員を対象とした人権・同和教育講演会で講演した際に配布したレジュメの文章である。

2001年07月18日

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木梨之軽太子の神話

2001年07月08日 | 信仰・宗教

『古事記』下巻允恭天皇条に木梨之軽太子の話が載っている。允恭天皇の亡き後、九人の皇子のうち、一番年上の木梨之軽太子が皇位を嗣ぐことになっていたが、同母(忍坂之大中津比売命)妹である軽大郎女をひそかに愛しており、インセスト・タブーを犯していた。木梨之軽太子が詠った歌に次のようなものがある。「あしひきノ山田を作り山高み下樋を走せ下娉ひに我が娉ふ妹を下泣きに我が泣く妻を今夜コソは安く肌触れ」。異母の場合は許されたが、同母兄妹の関係はタブーであったため、百官と天下の人等は軽太子に背いて、弟の穴穂命を支持するようになる。軽太子は大前小前宿禰大臣の家に逃げ込むも、結局、宿禰は軽太子を捕らえ、穴穂命に差し出した。そして軽太子は「伊余ノ湯」(現在の愛媛県松山市道後温泉)に流罪となったのである。流される際に軽太子は次の歌を歌う。「王を島に放らば船余りい帰り来むゾ我が畳みメ言をコソ畳ト言はメ我が妻はゆメ」、つまり自分は島に流されても必ず帰る。私の畳を大切にしておいてくれ。畳と言うが、私の妻(軽大郎女)のことだ。妻よ身を謹んで過ごせ、という意味である。この歌については、『日本思想大系 古事記』に真福寺本を底本として活字化されているが、そこには「王を島に放らば」は「意富岐美袁 斯麻尓波夫良婆」と記されており、「波夫良婆」(ハフラバ)と表現されている。「ハフル」ということであり、思想大系ではこれに「放つ」の語をあてているが、ハフルというと、「葬る」をすぐに思い浮かべてしまう。放逐の意味であろうが、単なる都からの放逐ではなく、この世からの放逐を示唆しているといえるのではないだろうか。日本国語大辞典に引用されたものでは、観智院本名義抄に「殯」の文字も「ハブル」とされている。軽太子は、自らの歌で「ハフル」という語を用いているが、これは一種死を意識して詠んだと考えることはできないだろうか。軽大郎女に対して、必ず戻るから身を謹んで過ごすように伝えていることで矛盾を感じるかもしれないが、結局、待ちきれずに「君が往き日長くなりぬ造木ノ迎へを行かむ待つには待たじ」と言って、軽大郎女は兄軽太子を追っていく。そして二人は出会い、軽太子は「隠り国ノ泊瀬ノ山ノ大峰には幡張り立てさ小峰には幡張り立て大小にし仲定める思ひ妻あはれ槻弓ノ臥る臥りモ梓弓起てり起てりモ後モ取り見る思ひ妻あはれ」と歌う。また、次のように歌い二人とも自ら死を選んだのである。「隠り国ノ泊瀬ノ河ノ上つ瀬に斎杙を打ち下つ瀬に真杙を打ち斎杙には鏡を懸ケ真杙には真玉を懸ケ真玉なす吾が思ふ妹鏡なす吾が思ふ妻有りト言はばコソに家にモ行かメ国をモ偲はメ」。「隠り国ノ」は泊瀬の枕詞で、山に囲まれて隠っている場所を意味し、泊瀬は、現在の奈良県桜井市初瀬町のあたりで、古くから葬送の場とされていた。泊瀬(はつせ)は「果てる場」とも解釈できるが、いずれにせよ軽太子、軽大郎女は死を選択してしまう。軽太子が伊予に流される際に「ハフル」の語を用いたのも、最終的に、二人の死を予感していたのかもしれない。
また、次のような解釈もできはしないか。つまり島(四国)に流されるということが「ハフル」ことであれば、都から見ると四国が空間的に死の世界だという認識があったのではないかということである。以前、『今昔物語集』の長増法師の説話を紹介した文章でも取り上げたとおり、四国が異界であると古代人が無意識のうちに考えていた可能性があるという仮説である。後の四国遍路の成立の要因となった異界性が、木梨之軽太子の神話にも垣間見ることができると言えまいか。

2001年07月08日

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八幡浜市穴井歌舞伎の概要

2001年07月07日 | 祭りと芸能

<穴井について>
江戸時代~明治22年までは穴井浦で、もと宇和島藩領であった。明治22年に真穴村になる。昭和30年に八幡浜市に合併し、現在に至る。「大成郡録」(宝暦年間)によると家数79軒、人口701人、牛39、馬3、鰯網7帖、網船14、荷船1、小舟59。江戸時代は鰯漁が盛んであったことがわかる。愛媛県編年史8によると、天明6年に、穴井本浦で大火、226軒を焼失したという記録がある。明治20年代末に綿織物業が八幡浜から導入され、大正元年には工場5、綿布4万3400反を記録している。現在は、座敷雛で有名である。

<伊勢踊りについて>
穴井歌舞伎は長命講伊勢踊りの「ワキ踊り」と呼ばれていた。伊勢踊りは八幡浜市穴井の神明神社の春季大祭、旧暦1月11日をはじめ、毎月11日に行われる。行事次第は次の通りである。午前10時に、拝殿内で第1回目の伊勢踊りが奉納される。奉納時間は約15~20分。10時45分に2回目を奉納。この時は円陣の中のご婦人達はいない。お詣りにきたついでに歌を歌い、一回目が終わると下山し、食事の準備をする。11時25分に3回目奉納。その後に宿元で昼食をとる。食事は講員の婦人達が宿元で準備する。昼食後、午後1時20分に4回目奉納。2時に5回目奉納。2時半に6回目奉納して終了する。午後4時に再び宿元に集まり、直会が行われる。この時に盛り上がって歌舞伎の名場面を演じる人もいたという。6時すぎに散会する。
伊勢踊りの芸態については、男ばかりの踊り手が拝殿の中央に円陣をつくる。神前に向かって右の壁際一段高くなった場所に太鼓打ち1人、残りの男全員唄い方として座る。女性講員は輪の中心にかたまって、神前に向かって座り、唄い方に合わせて歌を歌う。踊り手の装束は白の千早に括り袴、黒烏帽子に白足袋をはき、青竹につけた白幣を持つ。踊りは、輪になったまま神前の方向にむき、両手で御幣を掲げて礼をする。歌が始まると、順まわりの進行方向に向き、御幣を胸元でささえて、上の句が歌い終わるのを待つ。歌が下の句がはじまると、唄い方に合わせながら、御幣を振りながら進む。踊り自体は平易であり、人目を引きつける芸能ではない。

<長命講伊勢踊保存会>
明和2年(1765年)に川上太郎兵衛より習うと県指定文化財の申請書にある。昭和35年に県指定重要無形文化財「長命講伊勢踊り」となる。明和2年以降、毎月11日に行う。少し衰えて年4回ほどになっていた。しかし、安政4年に御神殿を増築した際に、神職薬師神氏と庄屋により、講を再組織、現在にいたる。神職、大世話係1名、小世話係5名、内1人が宿元をつとめる。男女とも50歳以上(42歳という人もいる)の希望者は誰でも講員になれる。(安政年間、老人仲間入りが50歳だった?)現在は、ほとんどは60歳以上で実質70歳以上の方が多い。事実上、長命講=穴井老人クラブとなっている。

<南予地方の伊勢踊りの事例>
宇和島市下波:神明神社秋祭り、9月16日小学校2~6年生の男子が踊る。実際には少子化で女子も参加する。男子6人が女装。菅笠をかぶり、右手に御幣、左手に扇。派手な衣装。人目をひきつける。これは後に発展した形。穴井の方が素朴で、原型をとどめているといえる。かつては、祭りの余興として地芝居があったという。大分の杵築から師匠を招いて本格的にやった時もあった。華やかな伊勢踊りの例といえる。

三崎町二名津:2月10,11日。踊りは家祓い。新築した家、不幸のあった家などの希望者で行う。天明元(1781)年に集落に火災があり、火鎮めのために始まったといわれる。三崎町三崎にも伊勢踊りがあり、42歳の厄年の者が踊る。厄祓いを主体とした伊勢踊りの例である。

<穴井伊勢踊り指定の理由>
1,当時の形をそのまま伝承していること。2,信仰団体として古い歴史を持つこと。3,他の芸能のように、観衆主義、技術、技巧主義になっていない。これが県指定文化財の申請書に記されている。

<穴井歌舞伎>
天明3年(1783)正月11日からは御旅所の神賑わいとして芝居奉納されたのがはじまりといわれる。伊勢踊りの和気踊り。対外的に「穴井芝居」、「穴井歌舞伎」と呼ぶ。長命講の者が伊勢神宮参拝の際に、大坂、琴平等で歌舞伎を見物していたと思われる。衣装の寄進は主に厄年の者。引幕は明治初期の物が現存。幕は大坂から、衣裳は京都から購入したものである。

<「和気」の意味>
岐阜県益田郡萩原町上呂の久津八幡宮の祭礼記録「久津八幡宮祭礼日記」の記述に、「一、獅子、一、和気狂言 羅生門、一、神楽(後略)」とある。つまり、獅子のワキとしての狂言なのである。穴井でも本筋は伊勢踊りで、その脇的存在としての歌舞伎なのである。

<「踊り」の意味>
江戸時代における芝居の統制を『宇和島・吉田両藩誌』等をもとに見てみると、宝永6(1709)年6月「芝居物等一切向後停止申付候事」、宝永6(1709)年9月 「歌舞伎芝居物向後停止申付候事」とあり、芝居、歌舞伎については藩の統制を受けていた。寛政11(1799)年11月の吉田藩の歌舞伎統制(『三瓶町誌 下』336頁)によると、「在々ニおいて神寺祭礼之節或ハ作物虫送祭なとと名付、芝居見せ物同様の事を催し、衣裳道具等をも拵、見物人を集、金銭を費し候義有之由、相聞不埒之事ニ候。(中略)依而自今以後遊芸歌舞伎、浄瑠璃、おどり之類、惣而芝居同様之人集堅く制禁たるべく候。此度右之通相触候上ハ、若、不相止ニおいて無用捨、急度咎有之者也」とあり、現在は穴井歌舞伎と言うが当時「芝居」とは称せず、「和気踊り」と言ったのは、村民が行っているのはあくまで「踊り」であり、「芝居」・「歌舞伎」ではないという、対外向けのカムフラージュであったと考えられる。
なお、明治時代に入って、県が明治6年1月に小唄三絃遊芸営業の外禁止の件(一種の風紀指導)で「一、歌舞伎狂言ハ愚民ニ勧善懲悪ヲ教ルノ近道ニモ候ヘハ淫娃醜態ノ風無之自然忠孝節義ノ事跡ヲ興行可為致事、但白昼ハ面々家業有之候間夜中興行可致事」と指導したり、明治6年8月、諸興行物規則税則改正の件「税則 一、相撲、芝居、能等ノ類  一日七十五銭」とあるように、歌舞伎は藩や県により規制されたものであり、村では実質的に歌舞伎を演じていても地域行事の中の「踊り」として、お上の眼をそらせようとしたのだろう。

<穴井歌舞伎の起源>
起源伝承については、二百年前に集落が火災。寺にまで飛び火。赤い下着をつけた女性が猛火の中飛び込み、本尊を運び出す。その女性は大神宮の祭神天照大神であろうと村の人は考える。そのお礼に舞台を建て、神に奉納するようになった(『ふるさと賛歌』4より)とか、県指定文化財申請書には天明3年(1783)に創設とある。実際の所は不明である。なお、衣裳保存の木箱銘に「安政四歳」(1857)と記されていることから、江戸時代末期には盛んであったことがわかる。なお、地元の神明神社の拝殿には参宮絵馬がある。安政4年のもので歌舞伎「勢州阿漕浦」が描かれた絵馬である。当時の地元の者が歌舞伎に興味を持っていたことを示す資料ともいえるだろう。なお、史料として残っている「芸題録」では慶応3年(1867)の記録が最も古く、現在残る舞台用の引幕では明治6年(1873)のものが最古である。

<上演日>
旧正月11日に神明神社の春祭り(伊勢踊り)にて演じられ、後に旧正月15日の天満神社の春祭りでも演じられている。もともとは11日のみと推測される。「芸題録」によると慶応3~明治18年までは11日のみである。明治19年以降は11,15日両日となっている。これは観客の増加により、一日では対応でいなくなったのではないだろうか。

<手附・三味線>
住所の明確な者のみ、ここで挙げてみる。
手附(振付け)
八幡浜、鶴吉、明治19
(出身地、氏名、穴井に来ていた時期)
宇和島旧城下、瀬川寿幸、明治20~21
広島市、坂東周調、明治22~29
別府稲荷町、嵐梅香、明治34
土佐、嵐三津十郎、明治35
宇和島戎町、坂東和吉、明治35
楠浜(川之石)、斉藤百太郎、明治35~大正12
大洲町中村、市川海老治、明治36~38
別府町塗師町、実川玉太郎、明治39
西国東郡真玉村、市川雀三郎、明治40~45

三味線(弾語)
八幡浜カ、鶴沢市松、慶応3~明治3
八幡浜、鶴沢勝七、明治4~29
川之石、野沢勝七、明治27~30
川之石、野沢勝平、明治28~31
川之石、野沢勝之助、明治31~大正12年
御荘、竹本花牒、明治45
手附は宿元に宿泊し、正月から上演終了まで約2週間滞在したという。
<名優>
水地定次郎(遊芸稼人鑑札を持つ。)、井上栄太郎、山下徳市、中広藤太、石崎久一、竹本久右衛門、薬師神新一、西川藤吉、竹本藤右衛門、中村正行など。中村藤市(浄瑠璃)、来留島林渡(浄瑠璃)

<舞台>
神社の御旅所に舞台があったが、昭和8年に火災にあう。その後、昭和12年に穴井公会堂落成。網元中江為松が寄附集めに尽力したという。舞台幅は15メートル強(7間半程度)。舞台左に花道を設置。花(祝儀)の紙を貼る。舞台右手前に浄瑠璃、三味線が位置する。

<観客>
桟敷:舞台中央前に中桟敷があり、地区の有力者が座る。その後ろの席を大くじで、穴井7常会(北浦、須賀川、中浜、中浦、上浦、本浦、南浦)の位置を決める。そして小くじで、各常会の位置の中で前後を決める。なお、舞台右脇に上座(あげざ)があり、有料であった。周囲に他地区からの観客が位置する。大島、三瓶、川上、双岩からも来ていた。

<青年団活動へ>(民俗行事からの乖離、そして消滅)
皇紀2600年奉祝演芸大会にて上演。以後、青年団による演芸大会にて歌舞伎上演。ただし、演芸大会では現代演劇、楽器演奏に駆逐され、昭和20年代後半以降、歌舞伎は演じられなくなる。

*以上は、平成13年6月12日に八幡浜市穴井公民館で地元の方々を対象とした講演で話した内容をまとめたものである。

2001年07月07日

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提婆達多と女人成仏

2001年07月02日 | 信仰・宗教
久々に『梁塵秘抄』(日本古典文学全集)を読んでみた。研究対象として精読するのではない。平安時代末期に民衆が抱いていた仏教思想を知ることのできる歌謡集として、学生時代以来、時々、手に取っては流し読みしているのである。
今日、特に興味を惹かれたのは、法文歌のうち法華経二十八品の提婆品十首であった。愛媛県内の祭礼・芸能を調査すると、よくダイバとかダイバンと呼ばれる鬼が登場し、このダイバの語源・起源について究明しなければいけないと常々思っていた。法華経に登場する提婆達多がこれに関係していると推測はできるのだが、未だ論拠を得ていない。そのような中、提婆品を読んでみたのである。内容は法華経提婆達多品第十二に即したものであるが、これを平安末期の民衆が受容していたことが読みとれて面白い。
「釈迦の御法を受けずして、背くと人には見せしかど、千歳の勤めを今日聞けば、達多は仏の師なりける」
「達多五逆の悪人と、名には負へども実には、釈迦の法華経習ひける阿私仙人これぞかし」
「達多は仏の敵なれど、仏はそれをも知らずして、慈悲の眼を開きつつ、法の道にぞ入れたまふ」
この三首は、提婆達多が釈迦の教団に背いて敵対し、敗れて地獄に堕ちたのだが、実は釈迦が前世において法華経を習った師である阿私仙人が提婆達多であったというものである。そして、提婆達多は釈迦にとっては敵であったが、それにこだわることなく、成仏を保証している。悪人成仏ともいえるが、前世において法華経を受持した功徳に起因する成仏といえるだろう。
さて、祭礼・芸能に登場するダイバについてであるが、例えば八幡浜市川名津の川名津神楽では、「大魔(ダイバもしくはダイマと呼ばれる)の舞」があり、神面1人と鬼面2人の3人舞が演じられる。これは神と大魔の問答で、神の御訓によって、大魔がこれまでの悪行を悔い改めて国家の守護神となることを約束する内容となっている。神が大魔に「汝は朝家に弓を引き、切先を向けたる天若日子の如き者の子孫なるが故に、体内より牙歯が生え、角が生え、毛髪は草木の如くして、悪逆悪心を以て己が身を苦しむ。汝今こそ本体に還り、姿を改めて、王家に従い申さば、神道に尊き加護まします」と告げて、大魔は国家の守護神となるのである。「汝今こそ本体に還り」とあるのは、大魔が王家に弓を引くも、もとは王家に従っていた存在であったことを示している。仏教と神道の違いはあるが、提婆達多も、この大魔ももとは仏神の同胞であり、現世において逆らうものの、結局は成仏なり、神の加護を受けるという共通点を持っている。
法華経に見える提婆達多が変容して、民俗芸能の中にダイバとして受け入れられる歴史的過程について考察しなければ!と、改めて思った次第。
ところで、『梁塵秘抄』の提婆品は、提婆達多のことだけではなく、女人成仏についても触れられている。
「女人五つの障りあり、無垢の浄土は疎けれど、蓮華し濁りに開くれば、龍女も仏に成りにけり」
「凡す女人一度も、この品誦する声聞けば、蓮に上る中夜まで、女人永く離れなむ」
罪障深いとされる女人も、法華経提婆品を聴聞したり読誦すれば成仏したり、女人の姿を永遠に脱する、つまり罪障から逃れられるというのである。裏を返せば、女人はそのままでは成仏できないという、思想の根本に女性忌避、性差別が垣間見え、仏教における女人救済の論理を象徴する内容となっている。
そして提婆品十首のうち最後に紹介されているのが次の首である。
「常に心の蓮には、三身仏性おはします。垢つき穢き身なれど、仏に成るとぞ説いたまふ」
これは女人のことのみを指しているのか、提婆品の締めとして女人と提婆達多双方を指しているのかわからないが、おそらく、罪障を背負い、「垢つき穢き身」とされた女性が、自らの成仏を願って謡ったものであろう。
女性忌避・性差別の思想に、仏教が多大なる否定的役割を果たしたのは明らかであると、提婆品を読んで痛感させられた。

2001年07月02日

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