愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

八幡浜ちゃんぽん

2008年07月20日 | 八幡浜民俗誌
宇和のスーパーで買い物をしていたら、見慣れない「八幡浜ちゃんぽん」が商品化されていた。製造場所を見れば、八幡浜市外。しかも中予地方。これなら、「八幡浜ちゃんぽん」ではなくて、八幡浜風ちゃんぽん?

八幡浜ちゃんぽんもメジャーになってきたかな~と思いつつ、本場を重視せないけん。

というわけで、この写真は、本場、八幡浜・新町のロンドンの店舗の宣伝幕を載せようと思った次第。

正月コラム「暦と六曜の歴史」

2008年01月01日 | 八幡浜民俗誌
明けましておめでとうございます。正月・年始めには、つい「暦」を見て、今年の運勢を知りたいと思ってしまいます。もともと暦は、語源が「日(か)読み」とも言われ、今日が何月何日ということを理解するために作られたと同時に、その日がどのような日か、吉なのか凶なのかを知ることも重要視されていました。今回は、暦に記載された吉凶判断の歴史の一端についてご紹介します。
現代の人は、暦を見て、結婚式は「大安」の日をえらんで、お葬式は「友引」の日をさけることが多いですね。これが昔からの「当たり前」だと思ったら、じつは、違うのです。江戸時代の暦(カレンダー)を見わたしても、「大安」や「仏滅」、「友引」など(これを六曜といいます。)は出てきません。暦(カレンダー)に六曜が記載されるのは、明治時代以降の民間暦であり、「大安」や「仏滅」などは近代以降に信じられるようになったものです。江戸時代以前には、百科事典のような何事にも詳しい書物には、以下のように出てきますが、一般庶民は気にしていなかったようです。
①『事林広記』(中国の宋時代)・・・大安・留連・速喜・赤口・小吉・空亡、②『和漢三才図会』(江戸時代中期)・・・大安・留連・速喜・赤口・小吉・空亡、③『天保大雑書万暦大成』(江戸時代後期)・・・先勝・友引・先負・物滅・泰安・赤口、④現在・・・先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口。
この①から④を比較してみると、「大安」は、江戸時代後期には「泰安」とも書かれます。また、「仏滅」は、江戸時代後期には「物滅(ぶつめつ)」と出てきますが、「物が滅する」と同じような意味で、江戸時代中期以前には「空亡」と呼ばれていました。現在のように「仏が滅する」ので縁起が悪いといわれるようになったのは、明治時代以降のことのようです。
さらに、「友引」は「ともびき」とも「ゆういん」とも呼びますが、これは江戸時代中期の「留連(りゅうれん)」が訛ったものです。現在のように、「友引」は災いが友人にも及ぶので、葬儀は行わないなどとは、江戸時代以前の庶民は考えることはなかったのです。
「大安」・「仏滅」・「友引」などの六曜が流行するきっかけは、明治五年十二月三日を明治六年一月一日とした「改暦」、つまり太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(新暦)への暦法の変更といわれています。その改暦の法令の中に、暦注(吉凶の記述)の廃止が含まれていました。それまでは、八専(はっせん)・十方暮(じっぽうぐれ)・犯土(つち)など、日々の吉凶判断が暦(カレンダー)に記載されていたのですが、明治六年以降に政府が発行する暦からは、吉凶判断は消えてしまいました。
この暦注廃止のために吉凶を知ることができなくなり、庶民は困惑してしまいます。そこで明治時代中期以降には、政府発行の暦だけではなく、吉凶判断を記載した暦が民間から発行されるようになります。その中に、江戸時代の暦には記載がなかった「大安」・「仏滅」などの六曜も記載されるようになってきます。これをきっかけに、それまで一般的でなかった六曜を、人々が日々の吉凶判断に使い始め、戦後になって定着していったのです。(ちなみに、皇室の結婚式で「大安」を選ぶようになったのも戦後の昭和三十四年からです。)このように、吉凶を知りたいという願望は、人間のごく普通の心意ではあり、それを知ることで精神的に安心できる効用もあります。ただ、吉凶知識自体、時代に伴う変化が激しいものです。その点だけはご注意を!
皆様にとって、今年も一年、良い年でありますように。

南海日日新聞 2008年1月1日付掲載

八幡浜地方の民俗誌

2004年02月28日 | 八幡浜民俗誌
八幡浜地方の民俗誌

八幡浜市・西宇和郡域の日刊地方紙である『南海日日新聞』に掲載させていただいた文章です。私にとって南海日日新聞社は、フィールドワークの機会と文章を継続して書く機会を与えてくれた育ての親のような存在です。平成11年から連載していたのですが、14年以降は、若干力尽き(ネタ切れ?)、小(長?)休止状態で、親不孝をしていました。最近、ようやく復活しつつあり、16年5月頃から月2回程度、連載を再開する予定です。
(各方面から、再開希望の声をいただきありがとうございました。)



平成13年6月~平成16年1月掲載分 
伝承文化を見直す
正月の伝統と現代
「唐獅子の里」八幡浜
五反田柱祭りと「伝統」
「精霊船流し」
「こやらい」と一人前
幻の四国霊場-大黒山吉蔵寺-
竜神渡りと雨乞い
「へち」と「へんど」
栗野浦の穴風呂
実盛送りについて

平成13年3月~6月掲載分 
地震の時の唱え言
若衆と娘の民俗2-青年団と若者組-
若衆と娘の民俗1-祭りと盆踊りの夜-
仏像を盗むこと
疱瘡の民俗
五月節供
中津川の百矢祭2
中津川の百矢祭1
川名津柱松6-山口県岩国市行波の神舞との比較-
真穴の座敷雛2-座敷雛の歴史-
真穴の座敷雛1-座敷雛の現代性-
方言「おちょっぽ」
彼岸と社日
上郷の火乃神大明神
八幡浜を訪れたデコ芝居
「めんどしい」という方言
花いちもんめ

平成12年7月~平成13年2月掲載分 
俗信と民間療法
節分の飾り物
おさん狸の伝説
姫塚と癩(らい)病
正月の注連飾り2
正月の注連飾り1
祭日を「モンビ」ということ
冬至の民俗
ヒロシマへ行くこと
「だんだん」という方言
「人を神に祀る風習」
南瓜の方言
穴井歌舞伎
川名津柱松神事の榊台
八幡浜市大島の牛鬼
八幡浜の石鎚信仰(1)-川之内のお山踊り-

平成12年3月~7月掲載分 
エンコ祭り
大法寺マリヤ像と妙見信仰1
大法寺マリヤ像と妙見信仰2
フカの湯晒し
五ツ鹿踊
南予地方の牛鬼1
南予地方の牛鬼2
川名津柱松4-関の意味-
川名津柱松3-ショウジョウサマ-
川名津柱松2
川名津柱松1
八幡浜の遍路道
カワウソの恩返し
佐田岬半島の裂織り文化

平成11年10月~平成12年3月掲載分 
五反田柱祭り①-大分県との比較から-
「佐田岬半島」の名称
「チンチ」の謎-宮田登氏の訃報に寄せて-
ネズミ騒動
十日えびす
節分の豆まき
八幡浜と民俗
アワンボウとカイツリ
正月のお年玉
新と旧の正月
八幡浜の修験寺院
郷土料理さつまの由来
ミンマ(巳午)の行事
亥の子の話2-子供の役割-
亥の子の話1-亥の子と慰労-
「西予」という地域名称
カワウソと人の交流誌
家族や他人の呼び方
「よもだ」の話
唐獅子の分布と歴史


地震の時の唱え言

2001年06月14日 | 八幡浜民俗誌
地震の時の唱え言

 ここ数年、阪神・淡路大震災、鳥取県西部地震、そして先日の芸予地震と、西日本で大規模な地震が発生している。西日本は地震の活動期に入ったといわれ、今後も大地震が起こる可能性もある。そこで、防災意識の喚起のためにも、民俗の立場から、今一度、地震に関する伝承文化をまとめておきたいと思う。
 地震の予兆に関して、ナマズが暴れると地震が起こると言われている。これは茨城県の鹿島神宮にある要石が、普段はナマズを押さえているが、手をゆるめると地震が起こるという伝説が江戸に広まり、鯰絵として絵画の主題になったり、文芸にも取り上げられて広まったものである。また、夜中にキジが鳴くと地震が来るというのも全国的に聞くことのできる予兆の言い伝えである。
 さて、実際に地震が発生した時に、かつては地震が止むようにと唱え言をしていたという。全国的に見ると、地震の時の唱え言としては「マンザイラク(万歳楽)」があり、江戸時代から、危険な時や驚いた時に唱える厄除けの言葉として有名である。八幡浜市では、地震の時に「コウ、コウ」と叫んだといい、また大洲市でも同じく「コウ、コウ」と言うと地震が早く止むとされる。感覚としては、落雷の時に「クワバラ、クワバラ」と唱えるようなものであろう。このクワバラは桑原のことで、菅原道真の所領の地名であり、道真が藤原氏により大宰府に左遷され、亡くなった後、都では度々落雷があったが、この桑原には一度も雷が落ちなかったという言い伝えから、雷の鳴る時には「クワバラ、クワバラ」と言うようになったと『夏山雑談』に記されている。この唱え言は謡曲「道成寺」など、歌舞伎や狂言の台詞にも登場し、一般に広まったものである。大洲市のことわざで「麻畑と桑畑に雷は落ちぬ」というが、桑の木はは比較的低いため、桑畑(桑原)には実際に雷が落ちる可能性が低いといえるのかもしれない。
 話は戻って、地震の時に「コウ、コウ」と叫ぶ事例は高知県にもある。これについては、坂本正夫氏が『とさのかぜ』十九号にて紹介している。高知県中部では「カア、カア」、土佐清水市や宿毛市、大月町などの高知県西部では「コウ、コウ」と言うらしい。また仁淀川上流の吾北村や池川町などの山村では、地震は犬を怖がるのでコーコー(来い来い)と犬を呼ぶ真似をすれば地震がやまると言われている。『諺語大辞典』には「地震ノ時ハカアカア、土佐の諺、地震の時は川を見よの意なりと云う」とある。坂本氏によると、地震が発生したら、落ち着いて川の水の状態や海水面の変化などをよく観察し、山崩れや津波の来襲に気を付けるようにという科学性に富んだことわざだというのである。
 八幡浜の「コウ、コウ」も「川、川」が訛ったものと思われるが、実際に地震が起こった場合は、冷静に周囲の状況を見て、行動することが大切だということを示唆しているのであろう。

2001/06/14 南海日日新聞掲載

仏像を盗むこと

2001年05月24日 | 八幡浜民俗誌
仏像を盗むこと

 西宇和郡三瓶町鴫山で、地元の庵の仏像がかつて九州の者に盗まれたのだと聞かされた。この事例については明治時代後期に記された『双岩村誌』に詳しく、次のような記述がある。「何でもむかし鴫山の庵の御本尊様は一寸八分の阿弥陀如来で、そうして金むくの仏像におはしたが、或る年のことに豊後ノ国からわざわざ之れを盗みに来て、そうして穴井から将にその船を出そうとしたのである。ところが御本尊様は豊後の者に盗まれて行かるるのを欲せられない。此の為めに七日七夜の間盗人の虫をせかせて、鴫山から取り返しに来るのを待って居られたそうであるが、然るにその当時の鴫山人は余程不信心であつたと見えて誰れも取り返しに行かなかった、それでとうとう仕方なく阿弥陀如来は豊後ノ国に渡られ五百羅漢で名高い或る寺院の七扉奥くに安置されておはしますとうふことである。」 これと同様の話は実は宇和海沿岸各地で聞くことのできるものである。
 同様の伝承は東宇和郡明浜町高山にもある。対岸の村の者がやってきて、石鎚信仰のご神体を盗んでいったというのである。また、藤田圭子著『段々畑水荷浦-耕して天に至る-』(私家版)に宇和島市遊子水荷浦の西福寺薬師堂の本尊薬師如来にまつわる伝承が掲載されている。この薬師如来は、行基菩薩の作と言われ、かつては満野氏の守本尊であったという。満野氏は戦乱を避けて水荷浦中浦に居住したが、嗣子がなく、薬師如来は西海寺に安置された。ある時、九州から賊船が来て、この薬師如来を盗み取り、船を漕ぎだして数十里逃げ去ったと思ったが、夜が明けてみると不思議なことに水荷浦の沖に漂っていた。そこで賊は如来の威徳を感じて海岸の上に捨て、逃げ去ったという。
 以上の事例は、単に仏像を骨董品として窃盗したというより、儀礼的な「盗み」の事例ではないかと思われる。というのも、かつて様々な民俗行事の中で「盗み」慣行が存在した。例えば、エビス盗みといって、村で不漁が続いたときに他村のエビス神などを、豊漁になるからといってこっそり盗んでくるという習俗があった。宇和海沿岸でも、エビス神は盗まれるといけないからといって、コンクリート製の祠で頑丈に鍵をかけたりしているところもあり、この慣行が存在したことが確認できる。
 先に挙げた仏像盗みの三事例に共通するのは、対岸の地区の者が盗みにやってきたということである。しかも船を用いて盗んでいることからも、漁民による盗みと見ることができ、エビス盗みの慣行の延長線上にあるものとも理解できる。
 盗人が九州(豊後)からやってくるのも興味深く、ご神体盗みは、同一の漁業圏域内で行われることが多いので、仏像盗みがこの延長線上にあるとすると、これは愛媛県南予地方と大分県の豊後水道を挟んだ文化交流の一事例とも言えるのである。

2001/05/24 南海日日新聞掲載

疱瘡の民俗

2001年05月17日 | 八幡浜民俗誌
疱瘡の民俗

 疱瘡(ほうそう)とは天然痘のことで、感染性が強く、人々に最も恐れられてきた疫病である。幕末から明治時代にかけて宇和島藩領内では種痘が広く普及し、次第に天然痘の発生が少なくなり、現在では撲滅されたとされているが、疱瘡に対する人々の恐怖心は消滅わけではなく、八幡浜各地の民俗にその痕跡を垣間見ることができる。
 例えば、中津川のダイミョウジ山に疱瘡神が祀られた祠がある。かつて疱瘡が流行して、それを鎮めるために祀られたといわれるものである。ご神体は現在は田中山大元神社に合祀されているが、かつて、神社の脇にある小山に普段は祀られていた。そして春祭りになると、神社総代と地区の子供(家の長男)が、疱瘡神のご神体を移した神輿を担いで、ダイミョウジ山の祠に持っていって供物を奉納したという。これは戦後間もなくまで行われていた。
 この行事は、疱瘡自体を、疫病をもたらす神に見立てて、毎年、村内から村境の山へ神送りの形式で送り出すという儀礼といえる。恐ろしい疱瘡を神として祀り上げることによって、鎮めようとする心意が働いたもので、これは、祟りをなす者を神に祀り上げることにも共通する事例である。
 そもそも、八幡浜地方にて疱瘡(天然痘)が発生・流行したのは、『八幡浜市誌』に引用されている「二宮庄屋記」によると、安永二(一七七三)年に「疱瘡、麻疹流行に付、死者夥(おびただし)く有之」、また、弘化二(一八四五)年に「正月より十二月迄、疱疹流行、真網代に死者四十三人」とあり、二回の流行が確認されている。また、『大成郡録』によると、宝暦年間(一七五〇年頃)に八幡浜浦(現八幡浜市中心部)で祀られていた神に「疱瘡神」が含まれており、これ以前にも八幡浜において疱瘡の流行があったと思われる。
 なお、現在でも疱瘡神を祀っている神社が谷にある。谷の氏神である宮鷺神社である。創立年代は不詳だが、明治四十二(一九〇九)年に一宮神社と青鷺神社が合祀されたもので、この青鷺神社が疱瘡神として祀り上げられたものである。疱瘡などの流行病に効験があるとされ、『双岩村誌』にも「大峠(谷)に有名なる疱瘡の神、青鷺神社の鎮座し、疱瘡の神として崇敬が厚い」とある。
 疱瘡が流行した際に、それを鎮めるために人々は祀り上げて病を神へと転換させているが、一度祀り上げられると、それが逆に病除けの効験を持つという人々に福をもたらす神になっているのが興味深い。このような神の生成過程は、医療の未発達な時代に、人々が恐ろしきものから自らの生活を防御するための方策であり、民俗の知恵であったといえるのでないだろうか。

2001/05/17 南海日日新聞掲載


五月節供

2001年05月10日 | 八幡浜民俗誌
五月節供

 五月節供つまり五月五日(端午の節供)をめぐる年中行事といえば、一般的に鯉幟や武者人形を飾り、粽や柏餅を食べる習慣などがある。八幡浜ではかつては、五月節供になると、菖蒲で鉢巻きをしたり、菖蒲湯をわかして入浴したり、菖蒲酒を飲んだりしていた。これらはいずれも夏病みをしないまじないだとされていた。この菖蒲に関する習俗も全国的に見られ、蓬などとともに家の軒に挿すというところも多い。このような習俗はすでに平安時代に著された『讃岐典侍日記』や『蜻蛉日記』などの記録にも見えているが、もともと、五月五日を祝う端午節供は、中国において邪気を祓うために行われていた習俗が古代の貴族社会に受け入れられ、その後、全国に広まったものとされている。
 さて、明治時代後期に著された『双岩村誌』に、端午の節供について次のような記述がある。「五月五日、五月ごりやうえ又たは五月の節句と称し、菖蒲、蓬、萱等を軒端に挿み、菖蒲を酒に浸して呑み、始めて男児を挙げたる家にては初幟を建てて祝宴を催ほす」
 「五月ごりやうえ」とは「五月御霊会」のことで、御霊会といえば京都の八坂神社の祇園祭の原型となった行事で、激しい力で祟りをなすような御霊(怨霊)を鎮めることからはじまったものである。なお、五月節供を「ゴリョウ」と呼ぶのは全国的に見ても西日本の一部の地域のみで、愛媛県内では東宇和郡の山間部で聞くことができ、広島県や長崎県対馬でもこのように呼んでいる。
 また、八幡浜市大島や穴井では、五月節供には、男子の生まれた家では鯉幟を立て、床の間にシバダンゴを供える。このシバダンゴはサンキラの葉で包んだ団子のことである。そして菖蒲、蓬、萱を軒先に挿して、子供達がそれを持って「蚤の腰弱れ、親の腰強れ」と呼びながら畳を叩く。同じ様な事例は三崎町にもあり、かつては蓬と真萱を小束二本作り、「蚤の腰弱れ、旦那の腰強れ」と言いながら家中の畳を叩いてまわるということをやっていた。保内町でも同様に、男子は菖蒲の葉で鉢巻きをし、女子は髪にさしたりして「蚤の腰弱れ、旦那の腰強れ」と言って家中を叩いてまわった。この「蚤の腰」の文句は、邪悪な力を弱めて、人間の生命力を回復させようする意味が込められていると思われる。
 このように、五月節供は単なる子供の健康を願う祝いの行事ではなく、菖蒲が夏病み防止のまじないとなったり、「五月御霊会」の呼び方や「蚤の腰」の文句が象徴しているように、邪悪なもの(御霊)を祓い鎮め、人々が健康を回復させようと祈願する行事といえるのである。

2001/05/10 南海日日新聞掲載

中津川の百矢祭2

2001年05月03日 | 八幡浜民俗誌
中津川の百矢祭2

 中津川の百矢祭の由来は、『八幡浜市誌』によると、五反田元城の家臣井上治部少輔が初めて庄屋になった永禄三(一五六〇)年ごろ、彼の生国大和国の風習から、武芸の奨励を目的として始めたものと紹介されている。中津川の大元神社は、正長元(一四二八)年に若山大元神社から勧請したもので、神社には社殿を造営した際の棟札が、宝徳三(一四五一)年から延宝六(一六七八)年までのものが四枚残っており、百矢祭が中世に始められたという伝承はあながち虚構ではないようである。八幡浜市内各所の祭りの起源は、古くても江戸時代にまでしか遡ることができず、戦国時代以前からの伝統を受け継ぐと考えられる祭りは、この中津川の百矢祭以外には見られないと思われ、この祭りは中世的要素を持つものとして貴重と言える。
 なお、愛媛県内の弓祭りは、①川之江市・宇摩郡新宮村、②越智郡、周桑郡、北条市、③南予地方の以上の三地域に集中的に分布しており、それ以外の地域では全く見られない。これらの弓祭りは室町時代から戦国時代にかけての中世に起源が遡るものが多く、やはり中世的な祭事といえる。ちなみに、県内最古の弓祭りに関する史料は、北条市夏目の池内文書の中にある明応九(一五〇〇)年「熊野谷権現社役之事」で、文中に「正月十日(中略)祝はふしゃの役也」とある。
 南予地方の事例としては、東宇和郡野村町長谷の天満神社の百矢行事がある。十三の的を作り、太郎組、次郎組とに分け、十三の的を射て、終わりの一矢でカワラケを付し、これを射落として終了するものであった、明治四十五年に以降中断しており、祭りの起源・由来に関しては不詳である。しかし、この神社の創建も中世に遡り、中世以来の祭りであったと推測できる。(『渓筋郷土誌』参考)
 さて、百矢祭のような歩射行事以外に、南予地方には各地に流鏑馬も存在していた。瀬戸町三机八幡神社、宇和町東多田八幡神社、明浜町大浦天満神社、野村町白髭三島神社の祭りに行われ、県内では南予にのみ伝承されていたものである。しかも宇和周辺に分布していることに気が付く。これらの淵源も中世に遡るといわれ、中世に宇和を治めていた西園寺氏が伝えて周囲に広まったものとも推察されている。
 南予地方の祭りを代表するものとしては、牛鬼や鹿踊、四ツ太鼓、山車、唐獅子、相撲練りなどが挙げられるが、これらはいずれも江戸時代に宇和島藩領内において流行し、定着した近世的要素の強いものである。今ではほとんどが廃れてしまった弓祭りは、伊達家入部以前の中世西園寺氏の治下において流行したものと思われ、現存唯一の弓祭りである中津川の百矢祭は、南予全般を見渡しても、古い型の祭りの残存と言えるのである。

2001/05/03 南海日日新聞掲載

中津川の百矢祭1

2001年04月27日 | 八幡浜民俗誌
中津川の百矢祭1

 八幡浜市中津川では、毎年四月十九日に大元神社の春祭として、百矢祭が行われている。地元の四十二歳と六十一歳の厄年の者が、約十メートル離れた場所に設置されている直径一メートル程の的の中央に掛けられたカワラケを目がけて、矢を射る行事である。
 地元ではこの行事を「百矢祭(ひゃくやさい)」とか「お百矢」と呼んでいるが、全国的に見ると、これは歩射(ぶしゃ)と呼ばれる儀礼に分類することができる。馬に乗らずに弓を射ることから、歩射の名が付けられたものだが、馬に乗って射るものを流鏑馬(やぶさめ)と呼んでいる。
 実は、南予地方において、歩射の行事が現存している例は、中津川の百矢祭が唯一である。流鏑馬もかつては南予地方に存在したが、すべて断絶しており、南予において最後に残った弓祭りとして貴重な行事といえる。ただし、その中津川でもかつての祭りの賑やかさは見られず、少ない観客の中で細々と継続している状態である。
 明治時代後期に著された『双岩村誌』によると、「お百矢は最も荘厳なる行事にして、多く鎮守の境内に矢来を結び、的を立て、それに対して座席を設け、両端に左大臣、右大臣の役目を勤むる者裃を着けて着座し、その間に弓手すらりと列座し、順次おほまいと呼びつつ的を射り、矢取りの少年二人代はる代はる矢を拾ふ」とある。しかし、時代とともに儀礼の内容は簡素化され、現状はこの村誌の記述とは大きくかけ離れてしまっている。
 まず、祭日についてであるが、かつては四月九日であったが、昭和三十年代はじめに双岩村が八幡浜市に合併した際に、市内の祭日である四月十九日に変更し、今に至っている。
 また、百矢祭は、現在では厄年の厄落とし行事に変容しているが、もとは中津川の中の馬地、上日ノ地、下日ノ地、矢野畑の四集落から若者を二人ずつ弓手をとして参加させるという形であったという。そして、かつては的までの長さは二十メートル以上あったといい、もとは十五間(三十メートル弱)であったが、次第に短縮され、現在は十メートル程度になっている。百矢祭が行われる場所も、平成三年頃以前は、大元神社境内もしくは参道であったが、現在は神社に隣接する広場に移っている。
 村誌の記述のように、放った矢を拾うのは、地元の子供の役割であり、「矢取り」と呼ばれ、これに参加するとお菓子などが配られた。しかし、現在では祭日の四月十九日が平日の場合、学校が休みにならないので、子供が参加できず、矢取りの役目を果たす者がいなくなり、今では大人が行っている。
 以上のように、百矢祭の儀礼は簡素化され、かつての荘厳さが薄れてきつつあるが、この祭りは南予地方に現存する唯一の弓祭りであり、将来への伝承・継続のためにも、地元で再評価がなされ、記録・保存が講じられるべき時期に来ているのではないだろうか。

2001/04/27 南海日日新聞掲載

川名津柱松6-山口県岩国市行波の神舞との比較-

2001年04月20日 | 八幡浜民俗誌
川名津柱松6-山口県岩国市行波の神舞との比較-

 神楽と柱松行事が一体となっている川名津柱松と類似した祭りに、山口県岩国市行波の神舞(ゆかばのかんまい)がある。これは毎年行われるものではなく、七年に一度行われる行事で、現在、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。先日の四月七、八日に実施されたので、川名津柱松との比較検討を試みるため、私も見学に出かけてみた。
 この行波の神舞の特色を挙げてみると、川畔に松の木で作った四間四方の神殿が設けられ、ここで神楽が奉納される。神殿の中央には天井から天蓋が吊り下げられ、この天蓋を上下左右に揺らしながら神楽を舞う。神殿から二十間離れた位置には柱松が立てられ、松の高さは十三間半(約二十五メートル)と決められている。柱松の頂上には日月星をあらわす赤白銀の三色の鏡をかたどった輪形が飾られる。
 川名津柱松でも、神楽を舞うハナヤと呼ばれる神楽屋が設けられ、ハナヤの中央には天蓋が吊り下げられている。この天蓋を神楽の「巴那の舞」の時に紐でゆすって色紙や紙吹雪をまき散らす。また、ハナヤの西側には十二間の高さの柱松が立てられる。なお、この高さは閏年には十三間という決まりになっている。このように神楽・柱松が行われる設えに両者の共通性は多い。設えで大きく異なるのは、行波では神殿から柱松までの間が二十間あり、その間に八関と呼ばれる八つの小屋を立て、柱松登りの前に鬼神と奉吏(ほうり)が八人づつ小屋の前に立ち、問答をすることである。松登りをする者はこの八関を越えてから、松に登るのである。しかし、設えの面では川名津とは異なっているが、川名津でも柱松の下に木組みで「関」というものを作り、松登りするダイバンはそこで祈祷をしてから松明を背負って松に登る。神殿と柱松の間を「関」と呼ぶことについては共通しているのである。
 松登りに関しては、川名津ではダイバンが松明を背負って登り、柱松頂上にて鎮火の祈願をして松明を下に投げ落とし、そして頂上に据え付けられたショウジョウサマと呼ばれる藁人形や白木綿も下に投げる。その後に東方の綱をわたって曲芸的な所作をしながら地上に降りてくる。行波では、松登りをする者は松明を背負うわけではないが、柱松の頂上で、日月星の輪形に点火することになっている。点火しない場合には、頂上部の松の小枝をちぎって、下に投げ落とす。観客は、縁起物になるからといってこれを我先にと拾おうとする。投げ終わった後、川名津と全く同じように曲芸的な所作をしながら地上に降りるのである。
 実際に行波の神舞を見学すると、あまりにも川名津柱松との共通していることが多いのに目を奪われてしまう。川名津柱松の起源については不明な点が多く、これら県外の事例と比較検討することで、明らかになることが多いと思われる。この点については、別稿で紹介することにしたい。

2001/04/20 南海日日新聞掲載


方言「おちょっぽ」

2001年03月29日 | 八幡浜民俗誌
方言「おちょっぽ」

 郷里を離れると、誰しも自分の方言を意識してしまう。普段何気に使っていた言葉が地元を離れると通じないことを発見し、驚きを感じるのだ。私の場合、高校を卒業して郷里を離れ、東京で大学生活を送る際に愛媛の方言を再認識させられたが、就職して愛媛に戻った後、愛媛県内各地の出身者と交流する中で、愛媛の中でも八幡浜出身者にしか通じない方言が多いことも発見させられた。その方言の代表的なものを挙げてみると、「にやす」、「ぞぶる」、「ひなち」、「つべ」、「おちょっぽ」というところであろうか。これらは八幡浜とその周辺でのみ通じる言葉である。簡単に意味を説明すると、「にやす」は、なぐるという意味であるが、それよりもニュアンス的には強く、打ちのめすといった感じである。「ぞぶる」は「どぶる」とも言い、川の水に入ることを意味する。「ひなち」は日、期日、日どりの意味で「日にち」が訛ったものである。「つべ」はお尻のことで、運動会の競争で最後の者をビリとは言わずに「つべ」と呼んでいた。ただし、日本国語大辞典によると、これは四国各地で聞くことのできる方言だということである。
 さて、八幡浜人にしか通じない究極の方言は「おちょっぽ」ではないだろうか。これは正座することを意味し、家では親に、そして学校では先生に叱られると「おちょぽしなさい!」とよく言われたものである。東宇和郡城川町にてこれを使用する例を確認している以外、八幡浜、西宇和郡以外では類例を知らない。「おちょっぽ」に類する方言としては、温泉郡重信町に「おちゃん」という言い方がある。これは今ではかなり高齢の人しか使っていない言葉であるが、語源については不明である。
 さて、南予地方には正座することを、「おつくなみ」とか「おつくやみ」と言う地域がある。これも今では高齢の方のみが使用する方言であるが、伊方町九町越では「おつくなみ」、北宇和郡三間町音地では「おつくやみ」という。同じ正座を意味する「おちょっぽ」よりも格式ばった言い方だということである。この方言の語源は「つぐなむ」という古語で、身をかがめるとか、しゃがむといったもともとの意味があり、これが現在では中国、四国地方に方言として残っている。高知県では「きちんとすわる」の意味で「つぐなむ」という方言が使われている。推測の域を出ないが、八幡浜の方言「おちょっぽ」は「おつくなみ」を砕けさせた言い方なのではないだろうか。「おつく」プラス「っぽ」が訛って「おちょっぽ」になるといった具合である。つまり、かつては正座の方言には丁寧語の「おつくなみ」、日常語の「おちょっぽ」の二種類が存在していたものの、「おつくなみ」は次第に使われなくなり、「おちょっぽ」のみが現在残ってしまったと言えるのではないだろうか。

2001/03/29 南海日日新聞掲載

彼岸と社日

2001年03月22日 | 八幡浜民俗誌
彼岸と社日

 春分、秋分を中日として、それぞれ前後の三日ずつをあわせた七日間を彼岸という。彼岸はもともとは仏典に出てくる「波羅蜜多」の訳語で、「到彼岸」と書き、涅槃の世界に到達する、つまり悟りの境地に達することを意味している。この彼岸の期間には、寺院において法会が行われることが多いが、これは日本独自のものであって、中国やインドには見られない行事である。彼岸に関する民俗としては、この期間に墓参をするというのが一般的である。彼岸に入ると家族揃って先祖の墓参りをし、墓地の清掃をしてシキミなどの「花」を生け替える。そして茶碗に水をそそぎ、米を供え、線香をあげて供養をするのである。
 また、彼岸の頃には農事との関わりの深い行事も行われる。例えば、伊方町九町では、彼岸の吉日を選び、農作物を守るために、うさぎ狩りやいのしし狩りを行っていたという。瀬戸町塩成でも行われていて、これを山狩りと言っていた。また、九町では、地区の者が大勢で農道の整備をする「道つくり」も彼岸の行事であった。彼岸は、季節の変わり目であり、農事上での目安になっていたのである。
 ただし、農事上の目安は彼岸ではなく、「オシャンニチ」であったとする地区も多い。「オシャンニチ」は「お社日」のことで、暦の上では、年に二回あり、春分、秋分にもっとも近い戊(つちのえ)の日のことである。たいていは、社日は彼岸の七日の間に来るので、彼岸と社日の習俗が混交したのであろう。社日に関する習俗の事例を挙げてみると、八幡浜市穴井では、オシャンニチに「虫祈祷」が行われる。地区の者が寺に集まり、念仏を繰り返し唱え、札を貰い、これを竹に挟んで畑に立てるのである。そうすると、虫害を被らず、豊作になるという。また、瀬戸町大江では、この日は土を休める日なので田畑の仕事をせずに休み、土地に鍬を立てることを忌むという。
 愛媛県内の社日に関する民俗の特徴として、春の社日に山から「山の神」が里に降りて来て「田の神」(農神)となり、「田の神」は秋の社日に再び山へと帰っていくという農神去来の信仰が強く残っていることが指摘されている(『愛媛県史民俗編下』)。松山平野や南、北宇和郡に色濃く残る神観念であるが、八幡浜地方にもこれに類する民俗が存在する。例えば、かつて八幡浜市若山や大島では、オシャンニチに、野菜などを三宝に載せて、座敷に供える風習があった。これは家の神や恵比寿、大黒に供えるといい、農神(田の神)を迎えるための行事であると地元では認識されているわけではないが、もともとは農神を山から里(家)へ迎え入れる儀礼の一種と見ることができる。
 このように、社日は単なる季節の変わり目ではなく、農作業を始める上で、それを見守る神を招き入れる日だったのである。

2001/03/22 南海日日新聞掲載


上郷の火乃神大明神

2001年03月15日 | 八幡浜民俗誌
上郷の火乃神大明神

 八幡浜市上郷の梅之峠というところに、一本の巨大なクスノキがそびえ立っている。このクスノキを調査した「さんきら自然塾」の水本孝志氏達によると、幹周は五〇〇センチ、樹高は約一四メートルで、現在、八西地域で確認されている巨樹クスノキとしては、五番目の大きさらしい。樹齢は地元の人によると、三〇〇~三五〇年といわれている。
 このクスノキの近くには、「火乃神大明神」という火伏せの神を祀ったお堂があり、その脇には「神の水」と呼ばれる湧き水が出ている。イボが直ったり、飲むと肝臓が良くなったりすると地元では評判の名水として知られている。ちなみに「神の水」の名称は最近になって付けられたもので、『愛媛新聞』にこの水が取り上げられて以降、使われるようになったそうである。
 さて、「火乃神大明神」については、次のような由来伝承が残っている。
 今から三五〇年前に、吟兵衛という修験者が、一人馬に乗って名坂峠を越え、上郷梅之峠にたどり着いた。そして、地元の娘と結婚して、この地に住み着いたという。クスノキはその時に植えられたとも言われている。吟兵衛には、権律師正蔵坊という修験者の弟子がおり、彼が「火之神大明神」を祀り始めたという。その修験者の系譜は既に途絶えてしまっており、吟兵衛の子孫にあたる家の者がお堂や湧き水を管理されている。
 この修験者について調べてみた。明治五年に編纂された『神山県寺院明細帳』(愛媛県立図書館蔵)によると、明治時代初期に上郷が属していた郷村に、延命山大覚院という修験寺院があり、玄良という者が住み着いていた。この寺院は天台宗系の本山派に属し、祈祷檀家が一五〇軒あったと記されている。そして、この寺院の開基が、万治二(一六五九)年に門覚という者によると記されているのである。今からほぼ三五〇年前のことである。クスノキが植えられた時期、「火之神大明神」が祀り始められた時期と重なっており、この延命山大覚院というのが、吟兵衛や権律師正蔵坊が創始した寺である可能性がある。
 明治時代初期には修験道廃止令により、各地の修験者は帰農したりして系譜が途絶えてしまうことが多い。梅之峠のこのお堂も、修験者が帰農し、祀り手がいなくなり、小堂として管理されている。かつては毎年四月三日にお堂の中に西国三十三カ所霊場の掛軸を飾って、地元の者が集まり、お祭りをしていたというが、現在では廃れてしまっているようだ。祀り手の修験者が消え、お祭りも無くなってしまったものの、地元では火伏せの霊験は信じられ、また、そこから出る湧き水は病気直しの効果があると信じられている。民間に土着した信仰の源流が、修験者の活動にあったことを示す一事例と言えるだろう。

2001/03/15 南海日日新聞掲載

八幡浜を訪れたデコ芝居

2001年03月08日 | 八幡浜民俗誌
八幡浜を訪れたデコ芝居

 明治時代から戦後間もなくまでは、庶民の娯楽として村芝居やデコ芝居、人形浄瑠璃などがあった。八幡浜では穴井歌舞伎が有名であったが、これは地元の者の手による芝居で、地芝居とか、農村歌舞伎と呼ばれるものである。また、人形浄瑠璃(文楽)では、三瓶町の朝日文楽や明浜町の俵津文楽(菅原座)が有名で、明治時代には双岩にも人形浄瑠璃があったというが、いずれも地元の者によるものである。
 地元以外の者、つまり他所から訪れてきて芝居などが上演される場合もあった。昭和三十年頃まで、正月から春にかけて、阿波から三番叟が訪れていたという例が知られているが、これは正月の祝いとその年の豊作祈願のためという神事性を帯びた芸能で、単なる娯楽だけではない要素があった。つまり、芝居などの庶民娯楽を簡単に分類すると、地元の者の手によるものと他所からの訪問によるもの。そして、単に娯楽として行っていたものと、神事芸能としての性格を有したものというように分けることができる。
 ここでは、他所から八幡浜を訪れたデコ芝居の一例を紹介してみたい。
昭和二十三年十一月のことであるが、三瓶や八幡浜に、高知県のデコ芝居「西畑デコ芝居」が来て上演をしたという記録が残っている。「西畑人形巡業日記」という資料であるが、これは『土佐西畑デコ芝居』(高知県春野町発行)に収録されているものである。この西畑デコ芝居は、明治十二年頃、仁淀川の河口に近い吾川郡仁西村西畑(現高知県春野町西畑)の大工・柳井十蔵が、正月十四日のカイツリ(子供達が銭さしを持って村内の家々をまわり、お金や若餅を貰う行事で、高知県や愛媛県南予地方にかつて見られたもの。)の余興として、卵の殻に目や口を描いてデコ人形を作り、踊ったのが始まりといわれる。これが人気を呼んで、他村からも招かれるようになり、次第に浄瑠璃を基に芝居化し、デコ頭や衣装を構え、上演し、やがてこれが職業化している。明治時代末期から昭和の戦前期にかけて、四国、中国、九州一円を巡業し、土佐のデコ芝居として有名となった。高知県では各地にデコ芝居があったが、土佐の元祖は西畑デコ芝居だと言われている。
 「西畑人形巡業日記」によると、昭和二十三年十一月七日に三瓶町朝日座で、十二日に同町皆江で、十五日から真穴の大嶌頼海庵寺で、十八日に大島でそれぞれ上演し、二十一日に八幡浜から高知に帰郷している。これを見ると、穴井歌舞伎や朝日文楽といった地元の娯楽が盛んだった場所で上演していることに気付く。それだけこれらの地区は芝居という娯楽に興味があったのだろう。
 この西畑デコ芝居も、上演の最初には場を清める意味で三番叟が演じられていたという。これは八幡浜の穴井歌舞伎の例にしても同様である。これら娯楽としての芝居も、原初を追求すると神事との関係が必ず出てくるのである。

2001/03/08 南海日日新聞掲載


「めんどしい」という方言

2001年03月01日 | 八幡浜民俗誌
「めんどしい」という方言

 唐突ではあるが、私の妻は伊予郡松前町、つまり中予地方の出身である。同じ愛媛県内の出身者同士ということで、結婚当初から夫婦間に言葉や慣習にさほど違和感の無いまま、これまで暮らしてきたつもりだったが、先日、私がある事で妻に対して「めんどしいんじゃないか」と声をかけると、妻からは「私は面倒くさくないわよ」という返事が返ってきた。「めんどしい」が見苦しいという意味だと理解していなかったのである。
 その時初めて「めんどしい」が南予独特の方言だということに気付いた。その後、東予地方や県外の知人に「めんどしい」の意味がわかるかと聞くと、必ず「面倒だ・わずらわしい」の意味が帰ってきた。これは南予人にしか通じない言葉だったのである。
 気になったので、小学館『日本国語大辞典』の「面倒」に類する言葉を拾い読みしてみたが、見苦しいという意味で「めんどしい」を使う地域は、愛媛県南予地方以外に全国どこにも見つけることができなかった。
 この辞典によると、「面倒」にはもともと、四つの意味があるようである。一つ目はわずらわしいこと。これはごく一般的に使われる意味である。二つ目は、困る、大変だという意味である。これは北陸地方で聞くことのできるもので、例えば富山県氷見では「家内が亡くなってめんどなことになりました」と使う。ここでの「めんどう」は、困った、大変なという意味で、決して、葬式を挙げるのがわずらわしいと言っているわけではない。
 三つ目は、恥ずかしいという意味である。南予の「めんどしい」にも恥ずかしいというニュアンスは含まれているが、徳島県海部郡では「人に見られるのはめんどい(恥ずかしい)」と言い、高知県幡多郡や大分県大野郡、長崎県平戸でも同様の使い方をする。純粋に恥ずかしいといった意味なのである。
 そして四つ目が見苦しいの意味である。この意味の「めんどしい」は、全国でも南予地方以外は確認できないが、岡山県や近畿地方から北陸地方にかけての広い範囲では見苦しいことを「めんどい」と言っている。南予の「めんどしい」に最も近い用法であろう。
 さて、『広辞苑』によると、面倒の語源は、馬道のことをメンドウといい、そこを通るのがわずらわしいからという説明をしている。しかし、この説では、「わずらわしい」は説明できても、「恥ずかしい」や「見苦しい」の意味は説明がつかない。やはり、「面」つまり体裁・表面が倒れる(もしくは崩れる)ことから、見苦しいという意味になり、そこから人前では恥ずかしいという意味が出てきたのではないか。
 このように、南予地方の「めんどしい」は『広辞苑』の語源説をも覆す良い材料になったのである。

2001/03/01 南海日日新聞掲載