愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

続「ののさん」の語源

2013年03月31日 | 口頭伝承
寛文11(1671)年成立の『堀河百首題狂歌集』に「みどり子のののとゆびさし見る月や教へのままの仏成らん」という秋の歌がある。「のの」が仏や月の意味で使われるが、仏と月の関係性は全く見当がつかないと思っていたので、この歌の存在には驚いた。幼い子供が指さした月を「のの」と呼び、これが仏であるという。この歌を起源に「のの」が広まったと言いたいのではなく、江戸時代17世紀後半には既に「のの」の言葉が月や仏という多様な意味を持って広く分布していた可能性があるということである。つまり江戸時代中期、後期以降に生まれて広まった言葉というよりは、江戸時代初期以前成立の言葉であるということだ。

この「のの」の上古性については、2012年9月29日付福井新聞「越山若水」に次のような文章があったので、引用しておく。

なぜ月や仏を「ののさま」と呼ぶのか、万葉学者、中西進さんの「美しい日本語の風景」(淡交社)から教わった。説明が少し長くなるが、引用すると…。まず基本にあるのが「のんさま」だという。これを幼い子どもたちが「のんのんさま」と繰り返し、さらに「ののさま」と短縮した。では「のんさま」とは何だろう。かつて律令制度の下、法律を管理する役所・式部省を「法(のり)の司(つかさ)」といい、人々は「のんのつかさ」と発音していた。つまり「のんさま」は「法さま」起源の言葉というわけだ。さらに8世紀ごろ、比叡山では中秋の名月の前後、月に向かってお経を上げていた。仏法でいう無明の闇を照らし人々を救い出す「法の月」から、月を「法さま」と呼んだ。

この中西進説もいまいちすっきりするわけではないのだが、上古性を指摘していることと、月と仏の双方を「のの」とする理由が明示されていて興味深い。

私は「のの」が先で、それが訛って「のんの」や「のんのん」になったと勝手に思っていたが、全国の「のの」方言をネット上で見てみると、単に「ののさん」というより「のんのん」と呼ぶ地域が結構多い事に気づかされる。水木しげるが幼い頃に世話になった「のんのんばあ」も鳥取県境港あたりで神仏に仕える人を「のんのん」と呼んでいたことに由来するようだ。中西進説は「のんのん」が短縮されて「のの」となったとするが、その可能性は否定はできない。

あと、今朝、ツイッター上でご教示いただいた説がある。「信仰の場で使われる金属楽器の残響が語源」というもので、仏壇のおリンの音が「のんのん」と聞こえることに由来するというものだ。なるほど、その可能性もある。

宝暦4(1754)年、大坂竹本座初演の歌舞伎演目「小野道風青柳硯」に「弁(わきま)へ知らぬ稚子が、鉦(かんかん)が鳴る、仏(のの)参ろ、と仏(ほとけ)頼むも」という台詞があるように、神仏に関する金属音楽の音の幼児語表現は多い。「のの」「のんのん」を残響音と捉えた場合、印象に残りやすく、この言葉が広く普及した要因と考えてもいいのではないかと思う。

というわけで、「のの」については先に挙げた説以外に、「法さま」語源、残響音語源があって、ますます混迷してきたのでありました。

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「ののさん」の語源

2013年03月31日 | 口頭伝承
仏さま、ご先祖さまを「ののさん」って呼ぶけれど、この語源は何なのだろう?

いつものごとく『日本国語大辞典』を開いてみると、「のの」の項目があって、これは幼児語であり、神、仏や日、月などすべて尊ぶべきものをいう語であると解説されている。仏さまを指すだけではなかった。ホント、いろんな意味がある。老僧(秋田県、千葉県)を指したり、曾祖父母(千葉県)、祖父(福井県)、老年の父親(宮崎県)、父(徳島県)、兄(三重県)、曾祖母(千葉県)、祖母(千葉県)などを指したり、地域によってさまざまである。

この語源を特定するのはなかなか難しい。『日本国語大辞典』では、(1)鳴神(なるかみ)の音をいうノノメクから出た語(久保田の落穂)、(2)如来の意の如如の転か(物類称呼)、(3)ノム(祈る)の転か(嬉喜笑覧)、(4)南々の義。南は南無阿弥陀仏の南(燕石雑誌)。以上の4つの説が紹介されている。幼児語ということは日常に用いられる言葉が転訛したと見るべきで、そうなれば(4)の南無阿弥陀仏の南々が適当かと思われるが、確証はない。

長野県北部や新潟県では月のことを「ののさま」というようだが、南無阿弥陀仏の転訛での「のの」とすれば、なぜ日、月の意味も出てくるのか。よくわからない。

そもそも祖父など存命の老齢の者を「のの」と呼ぶ事例も多いが、私は仏さま、死者を意味する言葉だという感覚が強いので、元気なおじいちゃんを「ののさん」といったら不謹慎だと思ってしまう。生きているおじいちゃんに対して南無阿弥陀仏なんて言わないし、やはり南々説もちょっと無理がある。

ただ、僧侶や老齢者が死者を祀る際に「南無阿弥陀仏」もしくは「南無妙法蓮華経」もしくは「南無大師遍昭金剛」を唱えることはあるので、そこから来た言葉と解釈すれば理解できなくもない。祀られる仏、祀る僧侶や老齢者。どちらの側というのは関係なく、その関係性を有する両者を、幼い者の立場では「南々」としたのかもしれない。

すっきりしないが、まあ、今後の課題としておこう。






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京都市消防局「文化財防災マイスター」制度

2013年03月29日 | 災害の歴史・伝承
「文化財防災マイスター」

そんな制度があるなんて知らなんだ。

京都市消防局。

http://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000091699.html

一日、もしくは半日の研修。

初期消火や応急手当、救命講習といった内容。

対象は京都で寺社などの観光ガイドなどをやっている方々。

ちょっと興味深い事例。

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新刊『触穢の成立ー日本古代における「穢」観念の変遷ー』

2013年03月28日 | 民俗その他
新刊本です。

大本敬久『触穢の成立ー日本古代における「穢」観念の変遷ー』(A5判、134頁、創風社出版)

学生時代 1992~94年に書いた原稿です(ワープロ 文豪mini5で入力)。95年に愛媛に戻ってからこのテーマから離れていましたが、縁あって冊子にしていただきました。

本書の概要はこちら。
http://www.soufusha.jp/book/new.html#syokuenoseiritu

【内容】
「触穢」と「罪穢」。日本文化に深く刻まれたケガレ思想。六国史の「穢」の記載や、弘仁式、延喜式の穢規定など古代日本における文献史料を分析することにより奈良時代、平安時代初期から中期のケガレ観念の変遷や「触穢」の成立過程を明らかにする。古代のケガレは「罪穢」に収斂されることがあるが、古代、中世、近世、近代と各時代の「罪穢」の用法の変遷についても提示にし、歴史学、民俗学におけるケガレ論の論点と課題を整理する。

【主要目次】
序章 ケガレと穢
第一章 ケガレ・穢に関する研究史と課題
第二章 触穢規定成立以前の「穢」
第三章 触穢の成立
第四章 「罪穢」の用法と変遷
第五章 触穢思想の成立と仏教との関係
結語


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「古代布・太布の技術守る 那賀・伝承会発足30年」

2013年03月18日 | 衣食住
2013/3/17付の徳島新聞の記事

「古代布・太布の技術守る 那賀・伝承会発足30年」

http://www.topics.or.jp/localNews/news/2013/03/2013_13634987148254.html


徳島県那賀町木頭の太布(たふ)。古代布とも称される。その保存、継承に取り組む「阿波太布製造技法保存伝承会」。木頭でも一時途絶えたというが、昭和58年に93歳で亡くなった県無形文化財技術保持者の岡田ヲチヨらが復活させ、昭和59年に伝承会を結成。

その活動が30年目となったという。

楮の皮を原料とする太布。愛媛県内でも昭和20年代前半までは織っていたという聞き書きはある。四国中央市山間部である。製品も若干ではあるが残っている。しかし、繊維をとる技術、織る技術は途絶えた。

この徳島新聞の記事によると、

「発足時に約20人いた会員は8人に。明治期に木頭地区全体で年間2千反(幅35センチで長さ2万メートル)に上った生産量は、一時は2千分の1の1反(長さ10メートル)まで落ち込んだ。町村合併で補助金も半分以下に削減された。(中略)2010年からは徳島市地場産業振興協会と連携するなどして都市部へのPRにも努めている。太布の魅力に引かれて徳島市内から太布庵に通う人が現れたり、県外から注文があったりして、現在では生産量は3反まで持ち直している。」

30年前に保存継承を目的とした活動が始まっていたことは貴重である。愛媛で太布文化の「復活」は可能なのだろうか。おそらく不可能に近い。しかし、もしかしたらまだ織っていたのを見たことがあるといったような聞き書きは可能かもしれない。

時間をとって、一度、新宮や富郷など四国中央市山間部で年配の方々に話を聞いてみることにしよう。そういう思いをかきたててくれる記事でした。

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災害の記憶と伝承ー民俗学の視点からー

2013年03月10日 | 災害の歴史・伝承
西予市宇和町伊延に蛇骨堂という祠がある。かつてここは荒地で大蛇が住み人々に危害を加えて苦しめていたが、中世の武将・宇都宮永綱が開墾した際に大蛇を退治し祀ったとされる。実はこの付近の急傾斜地では土石流危険渓流が数多く見られ、昔より山肌の木々を割くような土砂崩れが発生していた。人々はこれを大蛇と見立て、地元の開墾伝承として記憶化してきたのだろう。このような災害を怪異に見立てる事例は全国的にも見られ中部地方の「やろか水」(洪水)とか「蛇抜け」(山崩れ)、江戸時代の妖怪絵に出てくる「天狗礫」(落石)などがある。土地土地の伝説の中には、先人が経験した災害の恐怖の原因を神々や妖怪といった超自然的存在の為せる業と考え、それを地元の物語として構築し、後世に伝えるための災害記憶装置となっているものが実は多い。
 なお、ナマズが暴れると地震が起こると言われているが、江戸時代初期以前には龍の仕業と考えられていた。江戸時代初期の「大日本国地震之図」を見ても日本列島を龍が取り囲んでいる。『増補大日本地震史料』によれば江戸時代以前の地震を「龍動」、「龍神動」と記す例もある。地震災害も龍といった超自然的存在が原因と考えられていた。
 さて、地震が発生した時に、人々は地震が止むようにと唱え言をしていた。全国的に見ると、地震の時の唱え言としては「マンザイラク」があり、江戸時代から危険な時や驚いた時に唱える厄除けの言葉として有名である。八幡浜市では地震の時に「コウコウ」と叫んだといい、また大洲市でも同じく「コウコウ」と言うと地震が早く止むとされる。松山市垣生でも一九四六(昭和二一年)年昭和南海地震の際に大声で「カアカア」と言ったという実体験もある。今治市伯方町でも「トトトトトト」と唱えれば助かるという伝承がある。おおまかには南予ではコウコウ、東予はトウトウ、中予はカアカアが多いようである。感覚としては、落雷の時に「クワバラ、クワバラ」と唱えるようなものであろう。この地震の唱え言は高知県にもある。『諺語大辞典』には「地震ノ時ハカアカア、土佐の諺、地震の時は川を見よの意なりと云う」とある。つまり地震が発生したら落ち着いて川の水の状態や海水面をよく観察し、山崩れや津波の来襲に気を付けるようにという意味である。ただし「コウコウ」はもともと「斯く斯く」(こうだ、こうだ)で、人を打ったり、折檻したりする時の掛け声である。『幼稚子敵討』に「かうかうかうと軍兵衛が刀を抜取、背打にする」とあるように歌舞伎の台詞にも出てきているように、江戸時代に歌舞伎で人を打ったりする際の掛け声「こうこう」が、地震を鎮めるまじない言葉として一般化したものと推察できる。
 さて、口頭伝承以外に災害の記憶を伝えるものに石碑がある。例えば徳島県海陽町の海岸部を歩いているといたるところで「南海地震津波最高潮位」と刻まれた石碑が見られる。一九四六(昭和二一)年の昭和南海地震でこの地を襲ってきた津波の記憶を今に伝えている石碑である。これが建てられたのは一九八五(昭和六十)年。合併前、当時の海南町が主体となって建てられた。後世に津波の危険性を伝えるためには文献記録や看板表示ではなく石碑にすることで永年の記憶化を図ったといえる。石碑が建てられたのは津波から約四十年後。次第に世代が交代し口伝えで津波の記憶が地域住民の中で共有化しづらくなったことに起因したのかもしれない。この石碑のある地区では津波で八五名もの犠牲者が出ているものの四十年経つと記憶は風化し、忘却されてしまい、新たに津波の悲惨さを伝える石碑建立という記念化行動を起こしたのである。それぞれの津波石には、発生時、建立時、そして今現在の「記憶」化や「忘却」対策の想いが込められている。
 そして、津波の記憶は石碑として建立すれば必ず後世に伝わるというわけでもない。例えば岩手県大船渡市三陸町吉浜の吉浜川河口で見つかった大きな津波石。一九三三(昭和八)年の昭和三陸津波で海から約二百メートルも流されたもので、幅約三メートル、高さ約二メートル、重量約三十トンの巨石である。ここに「津波記念石 前方約二百米突 吉浜川河口ニアリタル石ナルガ昭和八年三月三日ノ津波ニ際シ打上ゲラレタルモノナリ 重量八千貫」と刻まれている。実はこの津波石は一九七〇年代の道路工事で地中に埋められてしまい、今回の東日本大震災での津波で道路が崩壊し再び地表に現れたのである。昭和三陸津波が一九三〇年代。道路工事で埋められたのが一九七〇年代。約四十年の時間が経過している。先に挙げた徳島県の津波石建立も四十年後。やはり世代の交代で記憶の風化が起こってしまい、吉浜の津波石も後世に保存するという意識よりも開発が優先され、次第にその石の存在も忘却されていったのだろう。このように、石碑を建立しても、もしくは石に刻んだとしてもすべての記憶が後世に伝わるわけではない。
 なお、愛媛県には有史上の南海地震等での津波被害を受けてきた高知県、徳島県等に比べると地震、津波に関する石碑は少ない。愛媛でも江戸時代の宝永、安政南海地震等で宇和海沿岸部を中心に津波が押し寄せたことを記録する文献史料が数多く残っている。ただし村浦が壊滅し大多数の死者が出たという具体的記述は、高知や徳島等に比べると少ないのは事実である。やはり、記念碑、供養塔を建立する主体は「個人」ではなく「地域」といった集団であり、その村浦で多くの犠牲者が出るといった未曾有の出来事でない限りは、記念碑、供養塔といった津波碑は残りにくいのかもしれない。つまり、甚大な被害が出た地域では津波碑が残って後世に記憶を伝えることができるが、村浦を壊滅させるまでいかない津波被害の地域では、かなりの建物被害が出たとしても津波碑は建立されず、数十年後には地域の中での津波の記憶は忘却されやすいといえる。
 このように災害の記憶については地域に現在残っている伝説だけではなく、災害の歴史的事実が伝承化もしくは忘却化されるメカニズムについても、民俗学の立場で深く洞察していくことが必要だと、二〇一一(平成二三)年東日本大震災以降、痛切に感じている。

※本稿の初出は「災害の記憶と伝承ー民俗学の視点からー」『文化愛媛』69号、2012年である。

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龍澤寺の山門の「拱北之古道場」

2013年03月04日 | 信仰・宗教
西予市城川町龍澤寺の山門に掲げられている扁額に「拱北之古道場」と書かれている。この意味であるが、調べてみると、諸橋轍次『大漢和辞典』に出ていた。「拱」は、こまねくの意味で、「拱北」(キョウホク)は「衆星が北辰に向うこと。拱辰に同じ。」とある。北辰とは北極星のこと。天体の中で動くことのない北極星に、多くの星が向かうという意味が転化して、「四方の民が天子の徳化に帰する」の意味になったようである。龍澤寺の「拱北之古道場」については、四方(東西南北)の民(民衆)が天子に集まることがさらに仏教の布教に重ねあわされて、「多くの衆生(民衆)が集まってくる古くからの仏教の道場」という意味に解釈できる。(これは先日3月2日に、宇和町内の方から質問を受けたので、調べて回答した内容である。)


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