愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

節分の墓参

2002年04月23日 | 年中行事

愛媛県教育委員会が昭和46年に刊行した『三崎半島地域民俗資料調査報告書』によると、節分に墓参する事例が西宇和郡瀬戸町川之浜にあると紹介されている。「オオトシ(節分)には四センチほどのタワラギにトベラの葉をさす。それを墓の数だけマスに入れ、別にオクマ(お米)とお水を持ってお墓まいりをする。夕方、墓一つ一つにタワラギを供え、水をあげ、最後に墓全体にオクマをばらまく。帰って同じタワラギを仏壇、床、神棚、門、オエベスサン、オコウジンサンにそれぞれ一つずつ供える。夜が暗うなったら大豆をバリバリ炒る。その時にはトベラをホウロクの中に入れる。必ず男が片肌ぬいで、アゲハチマキしている。その間にもの言うたらいかん。出来たら男が「福は内、鬼は外」と三べんする。あとの豆は年の数ほど食べると病気しない。(川之浜)」
節分にタワラギ(オニグイ)を神棚、仏壇、門などに供えて飾ったり、大豆をホウロクで炒って、その豆を食べるといった例は、この地方でもよく見られるものだが、墓参して、墓にタワラギを飾り、墓地で散米する例は珍しいのではないか。そもそも節分は、豆の呪力を以って、厄払いや災難を除ける儀礼が基本で、一般的には自分の年齢の数だけの豆を紙に包み、四辻に捨てて後ろを振りかえらずに帰ってくるとか、かつては正岡子規の句にあるように手ぬぐいやふんどしを四辻や橋といった境界領域に捨てる例が多い。
節分に墓参し、豆ではなく、散米する行為にはどういった意味があるのだろうか。一つ考えられるのは、川之浜では節分を「オオトシ」と呼んでいるように、節分が年の変わり目の行事であることが意識されていることから、言ってみれば、川之浜の節分は新年を迎えるための儀礼としての性格が、太陽暦(新暦)が採用されてからも、強く残っているといえる。その節分に墓参することは一種の正月における先祖祭りなのではないかという解釈である。ただ、この解釈では、周辺地域では12月の巳正月(仏の正月)から、念仏の口開けの正月16日まで墓参する儀礼が見られず、旧暦時代の節分は正月前後にあたることから、矛盾が生じてしまう。推測であるが、この節分の墓参が、新暦採用以降に発生した習俗で、正月16日以降に必ず節分が来るようになってからのことであると考えれば納得がいく。
しかし、これでも節分の墓参の意味が釈然としない。そこで二つ目に考えたのが、墓地を境界領域ととらえる解釈である。四辻、橋、村境といった節分で豆を捨てる場所と同様、墓地はあの世とこの世を結ぶ境界であり、そこに散米することで厄払いしようとするのではないか。ただ、この解釈では豆ではなく、米を用いることの疑問が払拭できない。
つまるところ、残存した新年の先祖祭りの要素が、節分の行事の中に組み込まれてこのような形になったのかと考えてしまう。結局は他地域の同様の事例との比較を試みなければいけないのだが、この一事例から様々なことを思いめぐらせてみた。

2002年04月23日

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エンコの伝えた秘法

2002年04月22日 | 口頭伝承

周桑郡小松町新屋敷の某家に、エンコが伝えた秘法に関する言い伝えがある。昔、同家の先祖が近くの川で馬の体を洗っていたところ、エンコが馬を川の中に引きずり込もうとしてその足を抱え込んだ。驚いた馬は足にエンコをからませたまま、家にかけ戻りエンコは捕らえられ、重い石臼につながれる。命ごいをして助けてもらったが、お礼にと同家の先祖に喉に刺さった魚の小骨を抜くの秘法を伝授したという。そして、同家では代々この秘法が受け継がれている。興味深いのは、道具も伝えられていることである。梵字まじりの呪文が記されている紙片と小刀が小さな行李の中に納められ保管されている。喉の小骨を抜くには、口を開けて、そこに小刀を突っ込み、呪文を唱えると良いという。戦後間もなくまでは、近所からも小骨抜きを頼まれていたという。
エンコに関する同種の民話は日本各地で聞くことができるが、特定の家にエンコから教えられた秘法が伝承され、道具まで存在する例は珍しいだろう。

2002年04月22日

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古事記の国生み神話と「伊予之二名嶋」

2002年04月17日 | 地域史

 古事記の国生み神話の中に四国を指す名称として「伊予二名嶋」が出てくる。日本書紀の本文では「伊予二名州」、一書第六に「伊予州」とあるが、二名とは、「二並」という意味で、二組の男女が並んでいる国の意味であると、日本思想大系本の頭註では解説している。山本大・田中歳雄著『四国の風土と歴史』(山川出版社)によると、二組というのは、讃岐の飯依比古と伊予の愛比売、土佐の建依別と阿波の大宜都比売の男女それぞれ一対となって二並となっていると説明しているが、私はそうは考えない。
 私の考えるその二組とは、飯依比古(讃岐国:イヒヨリは飯の霊が依り付く意味か)と大宜都比売(粟国:オホは美称でゲは食(ケ)で、食物を名とする女性名。古事記には、同名の神が殺されて「二つノ耳於粟生り」とある。)が一組。これはいずれも食物に関係する神で男女一対と考えられたのだろう。そして、愛比売(伊予国:女性に対する美称)と建依別(土左国:タケヨリは強勇な霊が依り付く意味か)が一対。これはそれぞれ男女の美称からくる神名である。以上のことから、「伊予二名嶋」とは、讃岐・阿波と伊予・土佐の二組の島ということになる。食物に関係する男女神と、非常に立派な男女神の異なるイメージの男女の組み合わせである。伊予・土佐については、実際に風土的にも神名は合致する。静寂な(女性的な)瀬戸内海に面した伊予と、荒々しい(男性的な)太平洋に面した土佐といった具合。四国は「身一つに而面四つ有り」と表現されるが、東西で二分割できることを指摘しておきたいのである。
そもそも、この古事記の国生み神話では、数多くの神名、地域名が登場するが、畿内を中心にして周縁部に行くに従って、一定の法則性があることに気がついてしまう。というのも、畿内からある程度近い距離にある場所に食物を神名が多いのである。讃岐、阿波だけてでなく、吉備(黍)、淡路(粟)もその類であろう。食物は人間が自然を利用して得るものであることから、言ってみればこの地域は自然と人間の交流する場といった文化的世界と見なされていたといえるのである。それが、畿内から見てその外縁にあたる伊予・土佐は、風土性を神名としていることから、文化的世界というより、自然的世界なのである。畿内が王権の中心であり、古事記が編纂された場であることから、言ってみれば「人の世界」である。畿内の「人の世界」→周辺の「自然との文化の交流域」→「自然の世界」といった人と文化、自然の遠近感を当時の畿内の人が認識していたことを国生み神話は物語っているといえるのではないか。
さらに、九州に目を向けてみると、神名は筑紫嶋(九州)の場合「此ノ嶋亦、身一つに而面四つ有り」とあって、筑紫国:白日別(明るい太陽)、豊国:豊日別(豊かに照る太陽)、肥国:建日向日豊久士比泥別(勢いが激しい太陽)、熊曾国:建日別(勢いが激しい太陽)というように、すべて「日」が神名に付いており。太陽に関する神名である。言ってみれば、伊予・土佐の風土を神名とするのに比べ、太陽という天に近いという認識があるといえる。これは「自然の世界」よりもさらに遠い場所というニュアンスがあるのではないか。 やはり、古事記の国生み神話は、編纂者当時の国家の遠近認識が文化・自然をキーワードとすると如実に顕れてくるのである。

2002年04月17日

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