愛媛県教育委員会が昭和46年に刊行した『三崎半島地域民俗資料調査報告書』によると、節分に墓参する事例が西宇和郡瀬戸町川之浜にあると紹介されている。「オオトシ(節分)には四センチほどのタワラギにトベラの葉をさす。それを墓の数だけマスに入れ、別にオクマ(お米)とお水を持ってお墓まいりをする。夕方、墓一つ一つにタワラギを供え、水をあげ、最後に墓全体にオクマをばらまく。帰って同じタワラギを仏壇、床、神棚、門、オエベスサン、オコウジンサンにそれぞれ一つずつ供える。夜が暗うなったら大豆をバリバリ炒る。その時にはトベラをホウロクの中に入れる。必ず男が片肌ぬいで、アゲハチマキしている。その間にもの言うたらいかん。出来たら男が「福は内、鬼は外」と三べんする。あとの豆は年の数ほど食べると病気しない。(川之浜)」
節分にタワラギ(オニグイ)を神棚、仏壇、門などに供えて飾ったり、大豆をホウロクで炒って、その豆を食べるといった例は、この地方でもよく見られるものだが、墓参して、墓にタワラギを飾り、墓地で散米する例は珍しいのではないか。そもそも節分は、豆の呪力を以って、厄払いや災難を除ける儀礼が基本で、一般的には自分の年齢の数だけの豆を紙に包み、四辻に捨てて後ろを振りかえらずに帰ってくるとか、かつては正岡子規の句にあるように手ぬぐいやふんどしを四辻や橋といった境界領域に捨てる例が多い。
節分に墓参し、豆ではなく、散米する行為にはどういった意味があるのだろうか。一つ考えられるのは、川之浜では節分を「オオトシ」と呼んでいるように、節分が年の変わり目の行事であることが意識されていることから、言ってみれば、川之浜の節分は新年を迎えるための儀礼としての性格が、太陽暦(新暦)が採用されてからも、強く残っているといえる。その節分に墓参することは一種の正月における先祖祭りなのではないかという解釈である。ただ、この解釈では、周辺地域では12月の巳正月(仏の正月)から、念仏の口開けの正月16日まで墓参する儀礼が見られず、旧暦時代の節分は正月前後にあたることから、矛盾が生じてしまう。推測であるが、この節分の墓参が、新暦採用以降に発生した習俗で、正月16日以降に必ず節分が来るようになってからのことであると考えれば納得がいく。
しかし、これでも節分の墓参の意味が釈然としない。そこで二つ目に考えたのが、墓地を境界領域ととらえる解釈である。四辻、橋、村境といった節分で豆を捨てる場所と同様、墓地はあの世とこの世を結ぶ境界であり、そこに散米することで厄払いしようとするのではないか。ただ、この解釈では豆ではなく、米を用いることの疑問が払拭できない。
つまるところ、残存した新年の先祖祭りの要素が、節分の行事の中に組み込まれてこのような形になったのかと考えてしまう。結局は他地域の同様の事例との比較を試みなければいけないのだが、この一事例から様々なことを思いめぐらせてみた。
2002年04月23日