愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

人口減少社会の文化財の継承

2024年09月02日 | 祭りと芸能
今朝(9/2)の愛媛新聞11面。松山市福見川の提婆踊り(現在中断して5年目)をはじめ、人口減少が進む集落で、地域の文化財等の継承をどのように模索していくのか。昨年12月の愛媛大学地域共創研究センターと内子町教委主催のシンポジウムで紹介した内容が主に紹介されています。


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牛鬼に関するシンポジウム

2024年08月18日 | 祭りと芸能
9月23日(月)は、うわじま牛鬼カレッジ「牛鬼起源説」牛鬼のルーツを探ろう!で祭りの牛鬼について話す予定でして、いま参加者募集中です。

【講師】
大本敬久 愛媛大学地域協働推進機構 
宇神幸男 作家 
宮川真輔 丸穂牛鬼保存会顧問

【日時】9月23日(月)13時半〜

【会場】
宇和島市生涯学習センター(パフィオうわじま)

牛鬼の起源ってわかるのか?実際にはよくわからない部分が多いのですが、歴史的な古さ、地域的な広がりなど、ここまでは確実にわかる!というポイントを私からは紹介する予定です。

【参加申し込みフォーム※Googleへのログインが必要です】
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSe4mENm1Xkq39NmkvKCmxURYovhoyYBB2x2kCet-z042-SDRg/viewform

Googleアカウントお持ちでない方は、直接、パフィオうわじま(宇和島市生涯学習センター0895-49-5922)にお問い合わせください。










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牛鬼番組 NHK WORLD YOKAI—Exploring Hidden Japanese Folklore: USHIONI

2023年12月04日 | 祭りと芸能
牛鬼の特集番組「YOKAI(妖怪): Exploring Hidden Japanese Folklore – USHIONI 」。10月7日(土)・8日(日)にNHKの海外向け放送NHK WORLDで放映されました。

この夏の愛媛・宇和島牛鬼まつり、西予市明浜町狩浜の牛鬼、宇和島の闘牛の様子も紹介。

カリフォルニア大学の民俗学・日本文学研究のマイケル・デュラン・フォスターさんが愛媛来訪。私もご案内しながら牛鬼談義。

YouTubeで視聴可能です。リンクはこちらから。

YOKAI—Exploring Hidden Japanese Folklore: USHIONI


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高知県の五つ鹿踊

2022年11月23日 | 祭りと芸能


五つ鹿踊は、高知県西部と愛媛県南予地方に見られる民俗芸能である。一人立ちで和紙の張り子製の鹿の頭(かしら・地元では面ともいう)をかぶり、胸に鞨鼓を抱え、横縞模様の幌幕で半身を覆って踊る。一人立ちの鹿踊は、全国的に見ると東北地方に広く分布するが、西日本方面での分布は高知県西部と愛媛県南予地方のみであり、約九〇ヶ所で継承され、現在、高知県内では、四万十町地吉、四万十市西ヶ方、半家、宿毛市母島に見られる。かつては昭和初期頃に梼原町でも見られたいずれも愛媛県南予地方(旧宇和島、吉田藩領内)に隣接する地域に分布しており、高知県側には南予地方から伝播しているが、その年代は確定できない。南予地方では宇和島藩の初代藩主伊達秀宗(仙台藩主伊達政宗の長男)が元和元年(一六一五)に宇和島に入部した折に、家臣や商人、職人など約一二〇〇人が移住したとされ、それを機に、東北仙台から伝播している。慶安二年(一六四九)に宇和島城下の一宮祭礼(現宇和津彦神社祭礼)に町人町の裡町から鹿踊が出るようになり、宇和島藩領内と支藩である吉田藩(藩主は伊達家)の領内に江戸時代中期以降、広く伝播し定着したことがわかっているが、江戸時代に高知県(土佐藩)側に伝播した史料等は確認できない。

地吉では鹿踊や神輿をはじめとする道具箱に明治二十年代前半の墨書が確認できることから、藩境を越えて人の交流が困難だった江戸時代が終焉し、人、物、情報の交流が活発化した明治時代前半から半ばにかけて、愛媛側から伝播したと考えるのが適当であろう。実際に鹿踊の道具や面の製作年代や製作者を示す墨書は今回の調査事業では確認できなかった。地吉の記録では大正一二(一九二三)に鹿踊が出ている記録が残るが、儀礼的にも神輿の渡御行列や神事の中心に据えられることはなく、比較的新しい時代(近代)に神社の神事、祭礼に加わったと考えるのが適当だろう。

鹿踊は、地元での呼称は「シカオドリ」、「シシオドリ」、「シカノコ」等である。踊る人数によって「○鹿」と呼ばれることが多い。半家では五人で踊るので「五鹿」と呼ぶものの、踊り手は「シカノコ」と呼ぶこともあり、「五鹿」が対外的呼称、「シカノコ(鹿の子)」が地域内の一般呼称であるともいえる。

歌詞については、雌鹿隠しの歌が主であり、東北仙台や南予と高知県内で共通する。冒頭に「廻れ廻れ 水車 遅く廻りて 堰に止まるな 堰に止まるな」、最後が「国からも 急ぎ戻れと 文が来た おいとま申して いざ帰る」であり、これが高知、愛媛の五つ鹿踊の定型となっている。

 五つ鹿踊は東北の鹿踊が愛媛県南予地方、そして高知県西部に伝播した歴史を持ち、東北では江戸時代以降と形状など大きな変容を遂げている。一方、高知、愛媛の鹿踊は一六〇〇年代前半の東北の鹿踊が伝播し、そこからの変容が見られ、高知、愛媛の鹿踊を手掛かりとして、東北の鹿踊の歴史性や実態を明らかにすることも可能である。つまり、高知、愛媛の五つ鹿踊は、単に四国の一部に独自に見られる民俗芸能という扱いではなく、日本列島における広範囲な民俗芸能の伝播、変容事例として稀少かつ貴重と判断することができるといえるだろう。


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宇和津彦神社の秋祭り(愛媛県宇和島市)

2021年12月19日 | 祭りと芸能

※本稿は『文部科学教育通信』2021年10月号「郷土芸能探訪」に掲載した原稿である。

 

公開場所・期日 宇和津彦神社 毎年一〇月二九日

 

 

1 南国風土の宇和島

 宇和島市は、愛媛県南西部に位置する南予地方の中心都市で人口は七万人弱。三方は山に囲まれ、西側はリアス海岸の宇和海に接する。気候は太平洋側気候で、県都松山市や今治市、新居浜市といった県中部、東部の穏やかな瀬戸内海沿岸地域とは海域、気候が異なる。JR宇和島駅を降りるとワシントンヤシの街路樹景観が姿を現すように、南国風の雰囲気が漂う町である。過去から台風や豪雨による災害が多い地域でもあり、平成三〇年七月豪雨(西日本豪雨)では市内で一三名が犠牲になったのは記憶に新しい。

宇和島沖には五つの有人離島がある。中でも日振島(ひぶりじま)は、平安時代中期の天慶年間(九四〇年頃)に海賊の藤原純友が本拠地とした場所であり、千艘の船を率いて官物・私財を奪い取り、朝廷に謀反を起した。純友の活動は九州から畿内に及び、現在の宇和島を起点に広範囲にわって船による交流範囲が形成されていた。しかし、陸地部では、『和名類聚抄』に郷名として立間(たちま)(現宇和島市吉田町立間付近)、三間(みま)(現同市三間町付近)の地名は見られるものの、宇和島中心部に関する古代地名は確認できず、ここが南予における政治、経済の中心地へと発展するのは江戸時代初期以降のこととなる。

 

2 宇和島藩伊達家と宇和津彦神社

 室町、戦国時代は南予の広範囲を西園寺氏が松葉城・黒瀬城(現西予市宇和町)を本拠に勢力を有していたが、豊臣秀吉の四国征伐の後には、戸田勝隆が大津城(現大洲市)を本拠とし、その後、藤堂高虎が宇和郡七万石を拝領し板嶋城(現在の宇和島城の前身)を本拠とするに至り、南予の中心が現在の宇和島中心部に移った。高虎が伊勢国(三重県)に転封となり、富田信高が宇和郡領主となった後、慶長一九一六一四)には大坂冬の陣の戦功により伊達秀宗が領主となって、宇和島藩が成立し、明治維新まで続いた

この伊達秀宗は、仙台城主伊達政宗の長男にあたる。秀宗の宇和島入部にあたっては、家臣とその家族、商人、職人など約一六〇〇人が東北地方から移住しといわれ、現在でも自らの先祖・ルーツは東北にあると認識している市民も多い。

宇和島の城下町が形成される過程で、総鎮守に位置づけられたのが市街の東南部の野川(のがわ)に鎮座する一宮大明神(いっくだいみょうじん)(現在の宇和津彦神社)であった。『宇和旧記』や『伊達家御歴代事記』によると、秀宗は元和四年(一六一八)に領内の古社寺を調査した上で、宇和島藩の一宮としたという。正保三年(一六四六)に社殿を焼失したが、慶安元年(一六四八)に再建されるも、翌月には慶安芸予地震が発生し宇和島城の石垣が崩壊するなど大きな被害が出た。月には神輿を出してさまざまな練り物が登場する祭礼が始まったが、これは火災、地震からの復興の意味合いもあったと推測できる。

その後、祭礼は毎年行われ、町人町(本町、裡町(うらまち)など)の氏子が各種の練り物を出した。宇和島藩領内の村浦ではこの祭礼にならって、氏神の祭りを賑やかにして、支藩の吉田藩の総鎮守立間八幡神社の祭礼にも影響を与え、吉田藩内にも浸透していく。現在、南予に広く見られる祭礼文化はここから始まり、伝播していったといえる。

 

 南予独特の牛鬼

現在、宇和津彦神社祭礼は毎年一〇二九日に行われる。その祭りの花形は牛鬼(うしおに)である。神輿が氏子の区域内を巡る際の先払い、露払いとして練り歩くもの。つまり神のお供役である。牛鬼は南予全域で見られるが、全国的には類例を見ない。宇和島藩主伊達家のルーツである東北にも牛鬼は皆無であり、南予独特の文化である。江戸時代の宇和島藩・吉田藩領を中心に周辺地域に広がっており、隣の大洲藩領内でも宇和島藩に近い地域に濃厚に見られるなど、宇和島藩側から伝播したのは確実といえる。やはり宇和津彦神社の祭礼を各地域が模倣したことで広まったのであり、現在、牛鬼の継承地は約一五〇ヶ所にものぼっている。

牛鬼の形は、青竹で牛の胴体のように編み、布やシュロで全身を覆い、長い首の先に張り子(和紙)製の頭をつける。その形相は牛とも鬼ともつかないもので、二本の角と額には月輪もしくは日輪の前立があり、口は大きく開き、舌をむき出しにして恐ろしい表情を強調する。この牛鬼を大人数が担ぎ上げ、神輿行列の先駆けとする。現在は丸穂(ルビまるお)から牛鬼が出されることになっている。

この牛鬼は慶安年間からあった練り物ではない。江戸時代中期以降に宇和島・吉田藩領内にて各地の祭りに登場しており、初見は天明四(一七八四)年、田苗真土村(西予市)の亀甲家文書であり、この時期にはすでに宇和島から周辺部の村浦に牛鬼が伝播していたと推定できる。明確な起源や始まりについては不明だが、江戸時代中期に宇和津彦神社の祭礼で牛鬼が考案、導入されたと推定されている。

 

 東北ルーツの八ツ鹿踊

鹿踊もこの祭礼の特徴の一つである。鹿踊は一人立ちで張り子製の鹿頭をかぶり、胸に鞨鼓(かっこ)を抱え、横縞模様の幌幕(ほろまく)で半身を覆って踊るも。一人立ちの鹿踊(シシ舞)は、全国的に見ると東北地方をはじめとする東日本に広く分布するが、西日本方面では福井県小浜地方と愛媛県南予地方周辺にのみ見られ、約九〇ヶ所で継承されている。南予の鹿踊は、江戸時代初期に宇和島藩主伊達秀宗が宇和島に入部したのを機に郷里を懐かしんで仙台から伝えられたもので慶安年の宇和津彦神社祭礼に登場したのが最初と言われている。仙台周辺の鹿踊と歌詞やリズム、踊り方など共通する点が多く見られ、「回れ回れ水車、遅く回りて、堰に止まるな、堰に止まるな」は南予のどの鹿踊でも見られる歌詞である。

現在、宇和津彦神社祭礼では裡町が主体となり保存会を結成し、保存継承に努めている。小学生名が踊る姿から「八ツ鹿踊(やつしかおどり)」と呼ばれ、可憐とも、繊細優美とも表現され、東北地方の勇壮な鹿踊とは雰囲気が異なる。同じ祭礼に登場する牛鬼が勇壮さを持っていることから、招福の優美さを追求して、今の形になったとも推測できる。

このように宇和津彦神社祭礼は、南国風の牛鬼と東北地方伝来の鹿踊によって構成され、その形態がモデルとなって広範囲に広がっており、愛媛県を代表する祭礼文化と言っても過言ではない。


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吉田秋祭り2019年(愛媛県宇和島市)

2019年11月03日 | 祭りと芸能


























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大洲領総鎮守八幡神社御神幸(お成り)

2019年11月02日 | 祭りと芸能
本日11月2日は大洲領総鎮守八幡神社(愛媛県大洲市阿蔵)の御神幸(通称「お成り」)。200名を越える大行列。御長柄(槍)や、御盾(寛保2年の銘文あり)、大鉾などのお道具を持ち、三基の鳳輦(いわゆる神輿)が市内を巡幸する。平成30年7月豪雨では、市内の広範囲が浸水し、神社も被災。その中で昨年、神社、地域各方面のご尽力でなんとかお成りを実施。そして今年天気も良く、お成りの参加者も例年と変わらぬ人数を確保した。祭りが例年どおり行われることの素晴らしさを実感しながら、自分も大洲の町を歩いてみた。

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八幡浜市五反田の唐獅子2019

2019年10月19日 | 祭りと芸能
八幡浜市の秋祭り。普段は静かな五反田の通り。今年も唐獅子で人が集まり、賑やか。




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11月17日 大洲八幡神社祭礼調査報告会(シンポジウム)

2019年10月16日 | 祭りと芸能




『広報おおず』より。

大洲八幡神社祭礼調査報告会(シンポジウム)と特別展「大洲八幡神社祭礼とお成り」を開催します。

大洲市では、平成28年度から「大洲八幡神社祭礼調査事業」を4年間実施してきました。今回の調査では、約1700点にも上る膨大な量の古文書調査や民俗調査から、八幡神社と大洲藩主との関係性、「お成り」の変遷を解明し、「お成り」が大洲藩と深い関わりを保ちながら、県内の祭礼とは異なる特徴的な祭礼行事であることを裏付けることができました。今回、こうした調査結果を踏まえて、その成果を公開する報告会を開催します。基調講演では、祭礼行列の研究者である国立歴史民俗博物館長の久留島浩(くるしまひろし)さんに講演していただきます。大洲地方の秋の風物詩として毎年身近に見ている「お成り」の歴史的価値に触れる機会ですので、ぜひ、ご参加ください。

日時:11月17日(日)午後1時30分〜
場所:国立大洲青少年交流の家2階大ホール
入場料:無料

■基調講演
近世城下町における祭礼行列の特色―「行列時代」である近世社会との関わりで―
講師:久留島浩さん(国立歴史民俗博物館長)

■パネルディスカッション
テーマ:「大洲八幡神社のお成りを探る」〜調査事業で見えてきた歴史的価値〜
司会:森正康さん(元松山東雲大学教授・大洲八幡神社祭礼調査委員長)
コメンテーター:久留島浩さん
パネリスト:
・胡光さん(愛媛大学教授・大洲八幡神社祭礼調査委員)
・大本敬久(愛媛県歴史文化博物館専門学芸員・大洲八幡神社祭礼調査委員)
・高嶋賢二さん(伊方町町見郷土館長・大洲八幡神社祭礼調査委員)
・常磐井守道さん(八幡神社禰宜)

また、この調査報告会に併せて、「お成り」や八幡神社祭礼について紹介する特別展を大洲市立博物館で開催します。ぜひ、大洲を代表する「お成り」の歴史について、触れてみてはいかがですか。

期間:10月12日(土)〜12月22日(日)
時間:午前9時〜午後5時
会場:大洲市立博物館4階展示室
入館料:無料
休館日:月曜日 ※月曜日が祝日の場合は、火曜日が休館日になります。

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講座「南予で読む柳田國男『遠野物語』」

2019年09月15日 | 祭りと芸能
講座「南予で読む柳田國男『遠野物語』」

ちょっと強引に愛媛・南予と東北・遠野を関連させて、愛媛県歴史文化博物館で、民俗講座「南予で読む柳田國男『遠野物語』」を9/21に開催します。

「天神の山には祭ありて獅子踊(ししおどり)あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被り童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。」

獅子踊(鹿踊)、姥捨て、河童そして津波災害など、南予と岩手県の事例を取り上げつつ、『遠野物語』の内容を紹介する予定。

日時 9月21日(土)13時半から
会場 愛媛県歴史文化博物館

http://www.i-rekihaku.jp/learn/rekikouza.html

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愛媛県鬼北町 「おに」の連続講座

2019年08月30日 | 祭りと芸能
愛媛県鬼北町。鬼の連続講座。

全国で唯一、自治体名に「鬼」の文字が入る町、鬼北町。鬼北の「おに」とは何なのか、地域の歴史や文化から学ぶ連続講座5回を開催。自分も10月14日(月・祝)10時半〜12時「牛鬼からみた日本文化」を担当します。

https://www.town.kihoku.ehime.jp/soshiki/syougai/14682.html

キーワードは #鬼北町 #鬼ヶ城 #等妙寺 #鬼王丸 #宇和旧記 #鬼王段三郎 #曽我兄弟 #秋祭り #牛鬼 #祭礼 #鬼の金剛 #村境の大草鞋 #鬼 #妖怪 #鳥山石燕 #太平記 #渡辺綱 #鬼の子孫 #比叡山 などなど。




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香川県立ミュージアム「祭礼百態」展

2019年08月10日 | 祭りと芸能
今日は休暇。ということで香川へ。文豪・菊池寛記念館で「文学の怖い絵」展をみて、香川大学博物館で「香川の自然」展みて、香川県立ミュージアムで四国民俗学会。愛媛の祭りの口頭報告「愛媛の祭り」&祭礼展(とても充実した内容に感動)を見学。

最近、目眩持ちで、車での運転がちょっと苦手なので、家族に運転してもらう。楽させてもらいました。




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愛媛の祭りの牛鬼の起源について

2019年07月24日 | 祭りと芸能
愛媛の祭りの牛鬼の起源。加藤清正朝鮮出兵説をいつまで唱えるのか。20数年前にこれは史実ではないと否定してから、何度も、書いたり喋ったりしてきたけど、なかなか。加藤清正説を是とするなら、宇和島と加藤清正の関係や、1700年代後半に初見の牛鬼。1600年代からそれまでのことについてどう説明できるのか。と嘆いてみる。拙稿「牛鬼論」で紹介した伝承と史実をちょっとまとめてみた。

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川名津柱松神事と神楽

2018年11月06日 | 祭りと芸能
八幡浜市川名津の柱松神事は四国では類例のない柱松行事である。この祭りは毎年、天満神社の例祭として四月第三土曜日から日曜日にかけて行われる。起源は寛政六年(一七九四)、川名津に大火がおこり、火難を恐れた住民が地区全体の厄火祓いのために始めたといわれており、行事には厄年の者が積極的に関与し、個人の厄年の厄も祓うとされている。
 川名津柱松神事では天満神社前に長さ一二間の柱を立てて、その柱に松明を背負った男性(ダイバン役つまり鬼役)が登って、鎮火を祈願する行事が有名であるが、二日間にわたる柱松の行事内容は実に多岐にわたっているので、ここで簡略に紹介しておきたい。
 まず、土曜日の早朝に神社で神事が行われた後、松を切り出すため、神主、四二歳の厄年の男達、青年団が山に入り、柱松に用いる松切り神事がある。その後、切った松を山から地区まで運び出す松出しが行われる。切った大木に綱をつけて厄年の男や青年連中が「ボーホンイエーイ」などの掛け声とともに曳いて山を降りる。昼前になり、松が地区に到着すると、川上小学校脇の柱松川原という場所に松は安置され、祭り関係者は公民館で昼食をとる。午後一時頃になると、柱松川原において川落としが行われる。これは厄年、青年連中、地区の役員らが松を引いてきた綱を用いてお互いを川に落としあうというものである。余興的要素が強く、地区中から観客も集まり、初日の昼間では最も賑やかな行事である。この川落としが終わり、海岸へ松を曳いていく。海に松を降ろして、松を海に浸ける。これは潮垢離やみそぎの意味があるのであろう。そして、松は陸上げされ、天満神社境内前に運ばれる。
 神社前に松が到着すると、松に稲藁を巻いて装飾する。松の頂上にはショウジョウサマと呼ばれる藁人形が取り付けられる。松の装飾が終わり、夕方五時頃になると、松おこしが行われる。四方から綱を引きながら二〇メートル以上ある松を立てる。そして、立てられた松の脇には神楽が舞われる「ハナヤ」という建物が建てられる。そこには三基の神輿と祭壇、中央に二畳程度の板が敷かれ、四本の柱には御幣が付けられる。天井にはキンカイ(天蓋のこと)を下げる。さらに脇には「サンポウコウジン」という笹竹が設けられる。これは一種のオハケ(神の依り代)である。
 夕方七時からは、ハナヤで地元の神楽団により、川名津神楽が奉納される。囃子は大太鼓・小太鼓・笛・手拍子である。同時に、ハナヤの前では鹿踊や唐獅子も奉納される。神楽は夜中の一二時頃まで行われるが、その神楽の最後の演目に鎮火の舞があり、松明に火を燃やし、その後、クライマックスである御柱松登りが行われるのである。この行事をもって、初日は終了する。
 神楽の演目は次のとおりである(×は現在実施していない演目)。
清祓(きよめばらい)、事始(ことはじめ)、神酒(みき)の舞、手草(たぐさ)舞、神請(かみしょうじ)、巴那(はな)の舞、魔祓(まばらい)、路志(ろじ)、神衹(じんぎ)、山の内(やまのうち)、将軍(しょうぐん)舞、鎮火(ちんか)の舞、×長刀(ちょうとう)の舞、岩戸開(いわとびらき)、古今(こきん)舞、飛出(とびで)舞、神躰(しんたい)の舞、幣帛(へいはく)、鈴神楽(すずかぐら)、大魔(だいま)、二人鈴(ににんすず)の舞、羅刹(らせつ)、八雲(やくも)舞、古老(ころう)の舞、四天(してん)の舞、大蛇退治(おろちたいじ)、大母天の舞、×東方青龍王の舞、×中央黄龍王の舞、×姫龍王の舞、御柱松登り(おはしらまつのぼり)、成就(じょうじゅ)の舞
 翌日の日曜日は、朝から神輿が出され、牛鬼、鹿踊、唐獅子とともに地区内の家々をまわり、午後五時頃、祭りの最後として柱の立った神社前で踊りが奉納される。そして、青年連中の担いだ牛鬼と、厄年の男の担いだ榊台という神輿の先導役が鉢合わせをし、その間に神輿が宮入りする。そして、松が倒されて二日間の祭りが終了する。
 さて、川名津柱松神事の類似行事について紹介しておきたい。同様の行事は、山口県に数箇所見られる。川名津と同じく松登りの神事を行っているのは、山口県岩国市行波、柳井市伊陸、熊毛郡田布施町大波野、同平生町曽根であり、いずれも神舞と呼ばれる神楽と一体の行事となっている。川名津も神楽と柱松が一体であり、これらは、荒神神楽に九州北部の松会の祭礼が合体したものと考えられている。川名津柱松神事と山口県の神舞の歴史的な交流は解明されていないが、山口県のものと同系統であることには違いはない。
 例えば、伊陸の神舞は別名八席神楽ともいい、南山神社の二五年目ごとに奉納される神事芸能である。登る松の高さは平年で一二間、閏年で一三間であり、これは川名津柱松と全く共通する。山に入って適当な松を選定し、そこで神事を行って伐採する。その松は神舞を舞う神殿から三〇メートル離れた場所に立てる。立てた松を関松と呼ぶ。神楽の奉納の最後に、短刀を持った九人の若者や鬼役が関松まで舞いながら行き、神主のお祓いの後に松登りがある。白鉢巻きをして松を登って行き、関松の先端に日、月、星のあんどんを三つ立て、その中のローソクに火をつけてから紙吹雪を撒き散らし、それが流れた方向の綱から逆さまに降りてくるが、途中、片手でぶら下がったり、曲芸的な見世物で観衆をはらはらさせる。この点も同じである。川名津のように松明を背負って登るわけではないが、柱上で火を灯すことは共通している。川名津柱松神事の歴史性を調べるには、山口県と九州の松会などとの比較が今後必要となるだろう。
 また、川名津柱松神事で立てられた松の土台に、関(せき)と呼ばれる高さ二メートル程の壇が設けられる。行波でも同様に「関」と呼び、伊陸の神舞でも松のことを関松と呼んでいるが、関とは一般に国境や要所にある検問所つまり関所のことであり、境界を示す言葉である。柱松行事では厄火祓いをするが、祓われた厄をダイバン(鬼)が松に登って昇華させる。関という壇は、神楽殿と松との中間にあり、模擬的にこの世とあの世または地上と天を分ける境界を示すために設置されていると考えることができる。この世の厄を、関を通過させ、ダイバンが松に登ることであの世(天)へ祓え捨てるとも解釈できる。伊陸の関松も同じ意味であろう。
また、川名津神楽の詞章を見ると、「大魔の舞」(ダイマもしくはダイバン)の歌詞に「鬼、当初にては岬(筆者註:ミサキ)となり、河にては大蛇(オロチ)、山にては荒神となって 此の鬼が災いをなす」とあり、大魔(鬼)は当初「ミサキ」つまり九州豊前神楽に見られる駈仙(ミサキ)に共通し、また河では「大蛇」になるとあるが、これは宇和島市の伊予神楽で鬼を「大蛇」と表現することにも共通する。また山では「荒神」となって災いをなすとあり、中国地方の神楽にも共通する可能性もある。また、この「大魔の舞」の歌詞に大魔の正体が「大六天の魔王(だいろくてんのまおう)」とあるが、これは「沙石集」や「中臣祓訓解」で天地開闢の中世神話に登場する「第六天魔王」に由来するものと思われる。このように川名津柱松、神楽の諸要素を見てみると、中世以来の神楽の流れや、中国地方、九州北部との関連性、共通性を無視することができない。この行事、芸能の伝播の背景やそれを担った者がどのような存在なのかは今後の研究課題となるが、近世文化史の視点で解明していく必要があると思われる。

*平成30年10月20日の愛媛大学での日本近世文学会シンポジウムで口頭報告した内容の一部である。

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大洲市河辺町の牛鬼

2018年10月25日 | 祭りと芸能
大洲市山間部の某所の牛鬼。祭りの参加者イコールほぼ担ぎ手。観客は地元のご婦人方数名と、よそから来たのは私一人だけ。

祭り参加者の年齢層と今後の10年程度の予測を、地元の方と確認する。

単なる「過疎」「少子化」「高齢化」というお決まりワードで語って「嘆く」、のではなく、数量、データで現況把握した上で今と未来を考える。地域を考える。

どうやって存続するかを考えると同時に、よりよい地域や祭りの「終活」の在り方、ということも視野に入れたり。主観、客観、綯交ぜです。

とはいうもののここの牛鬼、形相が宇和島などとは違いすぎて、牛鬼とはそもそも何なのか、そんなことも考えさせられる。

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