愛媛県内の八朔習俗事例集
事例1 別子山村史847頁
「八月一日は八朔を祝うたのも節句であるが格別の行事は行われていない。」
事例2 別子山村瓜生野 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・タノモノ節句」
事例3 新居浜市誌885頁
「民間では米粉を練り団子とし人形・動植物の塑像を造り一家楽しみ合う。」
事例4 新居浜市大島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「タノモノ節句 タノモノダンゴで、オタノモ人形・おどりこ人形・作物・家族のうまれ年にちなんだ十二支などを作り、翌日これを食べて成長を祝い、新穀成熟を祈念する。」
事例5 西條市誌1020頁
「八朔(たのも、たのみ) 稲のみのりを祈り祝ったことにはじまるという。昔は田実の節句といって農家の大切な行事の一つであった。旧暦八月朔日頃は稲の開花期である。この頃はシケの多い頃なので、これを免れる祈願でもあろう。米の粉の団子で一〇センチばかりの人形を沢山作る。これを「つまみだのもはん」という。その他に、なす、かぼちゃ、十二支の形などを作ってならべて祭りをする。この団子細工を食うことを「かたぐ」という。」
事例6 小松町誌1559頁
「たのもさん 旧暦八月一日の行事で、たのも節句ともいい、この日たのもさんを祭る。稲の豊作を祈願する行事ともいわれる。たのもさんは、米の粉で作るしん粉細工で、宵節句(七月三一日夜)に踊り子を象ったつまみだのもさんや果物、野菜、鶴亀、海老などを作って盆に並べ、床の間に飾る。子供たちは近所のでき具合を見て回る。翌日これを焼いて食べると暑気あたりの薬になるといわれ、糸に通して天井につるしておく家もあった。」
事例7 丹原町誌1192頁
「たのも節句 旧暦八月一日に豊作を祈る行事である。今は幼稚園・愛護班で計画されたりするくらいで、一般家庭ではほとんど行われなくなった。節句の前日の夕方、米の粉をねってゆで、赤や黄や青の色の染め、膳や盆の周りに家族中が集まって、人形や動植物や器物などいろいろなものを作りながら団らんの一刻を過ごす。つまみだのもさんを膳の周りに並べ、その輪の中に鶴亀やうさぎの餅つき等を並べて床の間に飾る。翌日は近所の家を回って出来ばえを見せてもらったものである。」
事例8 丹原町明河保井野 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・タノモ節句 だんごでいろいろな動物や野菜・器物・人形などを作って盆にならべる。」
事例9 東予市誌1381頁
「たのもさん 旧暦八月一日を八朔といい、この日に米の粉(糝粉)で作った「たのもさん」を祭る風習がある。たのもさんは八朔の前日に作る。材料は米の粉を練り、これを蒸して着色した何種類かの色団子である。一番たくさん作るのは、つまみたのもさんと呼ばれ、お膳のまわりに並べられる素朴な踊り子人形である。つまみたのもさんの輪の中には、長寿を祈る鶴亀や身近な動植物を象った人形を、家族の者が思い思いに作って並べる。翌日子供たちは、隣り近所のたのもさんを見てまわったものである。この行事は、昔のように家々で行うことはなくなったが、最近は子供会や愛護班、あるいは公民館が中心となって地域ぐるみのたのもさん作りが盛んになり、お年寄りと子供たちの楽しい交流の場となっている。」
事例10 玉川町誌1024頁
「九月一日 田の面の節供、餅粉でたのもさんを造る。」
事例11 大西町誌565頁
「たのも節句 八朔ともいい旧八月朔日のことである。今では一月おくれの新暦でするようになった。旧暦八朔は二百十日、二百二十日頃の台風襲来の時期にあたるので、天候の平穏と稲の穂の出を祈る祭りから始まったものである。白米の粉をねって色を着けて蒸し餅状にしたもので、小さいさまざまな踊り人形や動物、花などを作り、盆にならべ、床の間や神棚に飾って祭る。これをたのも(田の面)人形、あるいはたのみ(田の実・頼み)人形という。この慣習も次第にすたれつつある。」
事例12 菊間町誌1034頁
「八月一日 たのも節句 米粉で作った「たのもでこ」を祭り、五穀豊穣、風雨の平穏を祈る。」
事例13 吉海町誌723頁
「八朔の節句 旧暦八月一日は「たのも節句」である。米の粉を蒸して練り、色粉で色づけして人形をつくり、床前や神棚に飾った。五穀豊穣を祈る祭日である。また、この日は一年で一番潮の流れが荒い時期といい、これを「たのも潮」といっている。」
事例14 吉海町椋名(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』90頁)
「八月一日は八朔。タノモサンを作る。米を粉にしてゆがいて犬・鶏などを作る。不作年には小さいものを、豊年には大きなものをつくった。」
事例15 宮窪町浜(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』107頁)
「八月一日、八朔の日、昔は仕事を休んでエベス神社で角力を取っていた。八朔までに角力の稽古をしていた。握飯をつくり角力取りに力飯といって与え、酒も飲んだ。総代二人が勧進元となって総ての世話をした。」
事例16 宮窪町余所国(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』109頁)
「八月一日、八朔。畑仕事を休み家でお団子をつくって神棚に供える。この日を忘れて仕事に出ると『たのもを知らにゃつかもうか』といってひやかされたという。たのも細工もする。」
事例17 伯方町北浦(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』102頁)
「八月一日 はっさく、たのも節供。米の粉で人形を作り祭る。たのもさんは子供が主に祭る。」
事例18 上浦町瀬戸(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』122頁)
「タノモ節供で、当屋が共同井戸の水で甘酒を作り村中にふるまう。」
事例19 愛媛県上浦町誌462頁
「八月一日 八朔、田の面節句、注連下し、芋地蔵下見吉十郎の命日。前夜一部の人は芋地蔵家の庭に行って踊り、後の踊り場に戻って一般に交じってこの年最後の盆踊りに夜を明かす。」
「この日の午前中に八幡社鳥居前の注連柱の大注連の新しいのと取り替えの神事が行われる。それで注連上げとでもいった方がよかりそうに思われるが、古来注連下しといいならわしている。この日当屋で甘酒の大振舞。原則としては客は一戸亭主一人ということらしいが、幼い子供を伴って行くことは大目に見られ、他村から芋地蔵へ詣って来る人達も相伴にあづかれるので、宮浦台方面からの客が横尾山の道を列をなして下っていたという。」
「この日生口島瀬戸田の漁師が瀬戸八幡社へ参拝、大鯛三枚小鯛四八枚を献上かたがた当屋で甘酒を相伴、土産にも甘酒を貰って帰る習慣があった。(中略由来伝承あり)」
事例20 上浦町盛(『越智郡島嶼部民俗資料調査報告書』92頁)
「八月一日 よこじめ。氏神の大しめを新たに取りかえる。」
事例21 続岩城島の歴史530頁・岩城村誌1536頁
「たのもさん 旧暦八月一日の行事で八朔ともいわれた。(中略)昭和の初め頃までは前日に米の粉で簡単な踊り子をかたどった人形や動物の形のだんごを買って帰り、願い事をきいてくれるというので、夜は枕辺において寝ていた。一日にはこのだんごを海に流した。」
事例22 岩城村海原 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「タノモサン だんごで人形を作り、それを奉り、皆仕事を休んで休養した。」
事例23 魚島民俗誌89頁
「八朔 旧暦八月一日はハッサクであった。米粉を蒸してニワトリ、ナスビ、カボチャなどの形のハッサクダンゴ(八朔団子)をつくっていた。」
事例24 魚島村魚島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 小さなヒナダンゴを作った。」
事例25 中島町誌915頁
「八朔(八月一日) 八朔節供で団子をつくる。八朔でこ(たのもでこ)をつくる風習もある。小浜ではオタノミ節供といい、嫁の親を招待する。親が娘を嫁家へ頼みに行くのだという。」
事例26 中島町二神 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「タノモサン 米の粉でタノモデコ(お人形のだんご)をつくり、赤、青の短冊を粟・きびのしんにくくり、のぼりをつけてさし、これを野菜・果物・だんごとともにタノモサンに供える。餅をつく。」
事例27 忽那諸島の民俗40頁
「八朔節供(八月一日)団子をつくる。八朔でこ(たのもでこ)をつくる風もある。小浜ではオタノミゼックといい、嫁の親を招待する。親が娘を婚家に頼みに行くのだという。別名ヤブイリともいう。」
事例28 北条市誌932頁
「八朔 旧暦八月一日を八朔という。昔は国津比古命神社の秋祭りが旧暦八月十七・十八日だったので、八朔あけの三日から八反地のお供獅子が稽古をはじめたという。才之原では「五社参り」をし、中村は氏神様のお通夜といって青年団の田舎芝居がはずんだ。台風襲来の二百十日にあたる。」
事例29 松山市誌515頁
「たのもさん(九月一日) 旧八月一日をタノモサンといい、人形をつくって初穂を供えて祭る。翌日人形は海や川に流す。」
事例30 松山市土居町『わがふるさと土居町のあゆみ』209頁
「頼母まつり 八朔陰暦八月一日、現在は九月一日に「たのも節句」と称し、色紙で家族の数の人形や旗とボンデンを板の上に立てたものを神床に祭ったり、所によっては米の粉で「シンコ細工のタノモデコ」を作って祭った。」
「二百十日 (中略)藁葺きの屋根には、台風の被害を恐れて、呪いとして竹の先に草刈り鎌を結びつけ、刃が台風をよく吹く辰巳(南東)の方角に向けておくと、魔風を除けるといわれていた。」
事例31 久米郷土誌432頁
「たのもさん 「八朔」といい八月ついたちの行事。旧暦で行ったものであった。普通「たのもさん」「たのも節句」と呼んだ。「たのも」は「田の面」「頼母」などの字を当てた。太陽暦では九月の二百十日、二百二十日頃である。この日は父親は田圃へ出ることをせず、家で休んだ。この日が昼寝の終わりの日で、次の日から夜なべが始まる節目の休みと聞いたこともある。母親は幅一〇センチ、長さ二〇~三〇センチほどの板へ釘を並べて立てたものへ、色がみで頼母人形をこしらえて立てる。頼母人形は高さ一〇センチ弱で、高黍の殻や小笹を芯にしており、順々に並べて釘へ立てた。これをお床へ飾った。二百十日、二百二十日の台風シーズンなので、頼母人形は厄除けの意味があり、豊作を願う意味があったのであろう。子供達は母親が頼母さんをこしらえる手元をのぞき込んで見たりした。しかし一番の楽しみはお供えの団子や牡丹餅であった。」
事例32 小野村史306頁
「たのもの節句 意味はわからないが、紙で人形を作り、板の上に立て並べぼたもちなどを作って祭る。この人形をたのも人形といい、形代と異なり美しい人形で形は裃を着たように作られていたがいつのまにか男は筒袖、女は長袖の形となり、黍がらの芯にかぶせて頭に紙を四角に切った笠を貼り帯を結ぶ。この人形の間にぼんでんや幟(たのも祭り等とかく)や日の丸も立てる。」
事例33 久谷村史558頁
「たのもさん 旧八月一日 一年中の大潮であり、また台風襲来の時季で高潮の被害をこうむることがしばしばあり(中略)田の実の日として農家でも「たのも人形」を祀ることが行われていたが、今は忘れられたようである。」
事例34 重信町誌1192頁
「たのもさん 旧八月一日(新九月一日)でハッサク(八朔)という。きびがらに色紙で作った人形を着せこれを板の上に並べ立て、旗指し物や梵天を立てたものを床の間や神棚に飾った。人形の数は家族数とも寄数ともいわれる。お米を供えてまつり、翌年まで置いて川に流す。」
事例35 砥部町誌954頁
「五本松地区の彦七宮(大森彦七)にて、旧八月一日に「スズカグラ、花相撲。雨乞いをしていた。」
事例36 松前町誌1083頁
「たのも節句 九月一日に色紙で人形の型を切り抜き、その真中へとうきびの茎を切って差し込み人形を作る。それを庭へまつり家族の無病息災を祈り、夕方その人形を川へ流した。戦後はその行事もほとんど行われなくなった。」
事例37 広田村誌1005頁
「たのも節句 秋の豊穣を祝っての祭りが転じたもので、小じきわ日として残った。お寿司などをつけて食べた。」
「風祭り 風鎮めとも言い、講宿に寄り百万遍の念仏を唱えて風鎮めを行い、おこもりをした。風鎮めには、庭先に竹の先に古鎌をくくりつけて立て、この鎌で風を切るとの呪いから出たしきたりがあった。」
事例38 広田村高市 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八月一日 風祭り 組寄りをして祈念、おこもりをする。」
事例39 久万町誌163頁
「八朔祝い日 八月一日を八朔といい、神詣でをして稲作の豊穣を祈ることが行事として行われた。また、神社によっては奉納相撲が行われるところもあったが、大正にはいって自然にやめるところが多く、現在ではこの行事も行われていない。」
(参考:社日の焼米)「お社日は春秋二回ある。春(新暦三月二五日)のお社日には、恵比須さまに弁当をつくって野山に行っていただく。秋のお社日にそのお礼として「こんなによくできました」と恵比須さまに感謝する。これがお社日である。この日はまだ硬くならない穂を刈り、籾を煎って「ヤグラ」でつき焼き米をつくって供え食料にする。今でもぼつぼつ行われているところもある。」
事例40 柳谷村誌684頁
「八朔祝い 八月一日を八朔といい、この時期は稲作をはじめ農作業も一段落し、二百十日、二百二十日など、風の害が心配されるところである。このような大切な時期にあたって、豊作を祈るため、米を持ち寄ってお堂に集まり、かゆをたいてお地蔵さんに供え、念仏を上げてみんなで食べ八朔を祝うところもあった。」
事例41 五十崎町誌326頁
「宮相撲 宇都宮神社(九月七日)、岡森神社(九月八日)、八坂神社(九月九日)、妙見神社(九月十一日)で奉納相撲が催されていた。各地から力自慢の素人相撲が集まり、内子方と五十崎、天神方と対立して相競った。(中略)現在では各社とも子供相撲程度になった。」
事例42 八幡浜市誌995頁
「八朔相撲 旧暦八月一日、八朔の日に神社で相撲が奉納される。萩森神社などでは境内に特設土俵を築いて、若衆が世話をし、市内全域から力自慢の出場をたのみ、裸の勝負を競い合う。「三番げし」「五番げし」などがあり、照射には「ぼんでん(梵天)」や祝儀がおくられた。藩政のころから盛んに行われた娯楽の一つであったが、太平洋戦争を境に少なくなってしまった。」
事例43 八幡浜市中津川 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「田ノ実ノ節句・八朔 天災・地変が起こらないように餅をついて天神・地神を祭る。だんごをつくる。」
事例44 瀬戸町大久(『三崎半島地域民俗調査報告書』44頁)
「八朔 八月一日 この日は、昼は大がかりにしゃんしゃん踊りがある。夜は相撲が行われる。」
事例45 三崎町誌649頁
「八月一日 八朔 新芋を掘って食べる。」
事例46 三崎町正野 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・八朔ノ入リ だんごをつくりよろこびをわかつ。」
事例47 三瓶町誌下巻482頁
「八朔 旧八月一日 餅をつき天神地祇を祭った。」
(参考:新芋堀り)「社日様 新芋を掘って蒸し、神に供えた。垣生地区では現在も続いている。」
事例48 三瓶町和泉 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 餅などで天神地祇をまつる。赤飯をたいて里へもってゆく。下女は出がわりする。」
事例49 明浜町誌950頁
「八朔 旧暦八月一日、天神地祇に感謝してお祭りが行われ、八朔相撲が奉納されていたが、現在はこの行事も消滅した。卯之町の王子神社に八朔子ども相撲が行われている。」
事例50 宇和町誌1094頁
「九月一日(旧八月一日)のハッサクは「田の実」の節供との呼称もあって、だんごなどを作って祝った。一方では二百十日、二百二十日の季節風を警戒する時分でもある。ハッサクは農家にとって大切な行事の一つでもあったが、今は気にとめる人もほとんどいなくなった。」
事例51 宇和町誌1094頁
「風除け 八月の終り、一同は神社に集まり、風除けの行事を行う。御百度参りといって、拝殿を往復して拝み、一回毎に木の葉(かたぎの葉など)を御供えし、一人百度に達すると終る。葉は割竹にはさんで来年の行事まで御供えして置き、後で直会を行って解散する。一般に風除けごもりと称して二百十日一週間前ころに行っていた。」
事例52 多田郷土誌300頁
「ハッサク 九月一日、旧暦の八月一日に当たる。田の実の節供との呼称もあって、農家ではだんごなどを作って祝う。丁度二百十日、二百二十日直前の時期で台風が襲来するころとなり、稲作にとって最も大切な時期である。」
事例53 野村郷土誌695頁
「たのも節句 ハッサクとも、たのもとも言う。南予地方にはこれと云った行事はないが、昔は八月一日には、やき米やだんご、おすし等を作って祝う位であった。今はよく見られない行事である。八月には草相撲が多く、山の神、八朔相撲等が昔から続けられている。」
事例54 渓筋郷土誌395頁
「八朔の節句 この日蔵村(松渓)の五輪様には八朔の大相撲が行われて、近郊の力自慢が集まり、盛大な催しであったけれども、大正に入ってから中止されている。」
事例55 貝吹村誌234頁
「八月一日 八朔で一般に休み、角力などを行う。」
事例56 惣川誌373頁
「九月一日 節句、節句札」
事例57 野村町小屋(惣川の民俗27頁)
「八月一日 嫁の里帰り。親元へ土産に米を持参する。現在は盆に帰るのでやらなくなった。」
事例58 野村町天神(惣川の民俗30頁)
「八月一日 節供。奉公人の出替り日。」
事例59 土居郷土誌497頁
「はっさく 旧暦八月一日の行事。餅をつき神に供え厄落しとした。」
事例60 高川郷土誌449頁
「旧暦八月一日を「ハッサク」節句といって、この日で夏の柴餅などもつくらなくなってまた搗きもちがはじまる風習となっている。」
事例61 宇和島市九島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「ハツセク・八朔 出かわりで年季奉公の男女は帰島し、五日はこれら女性のみのオナゴオコモリを氏神でする。女は十四歳の八朔からムスメグミにはいる。だんごをつくる。」
事例62 宇和島市日振島 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 二月入りと同じく、厄年の家庭では紅白の餅を近隣知人・近親者に配り、厄落としの酒宴をはる。」
事例63 喜佐方村史327頁
「八月朔日は八朔なり、一般に業を休みて祝ふ。」
事例64 三間町誌396頁
「八月朔日 八朔といって一般にお祝いをし二月入りと同じ行事をするが餅はつかない。村では氏神様へ参り伊勢踊を踊って風、虫除けの祈祷を行う。またこの日は下女の出代り日でもあった。」
事例65 日吉村犬飼 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔・八朔節句・ハツ節句 女中の入れかわりあり。」
事例66 広見町誌1311頁
「八月下旬 風除祭(中略)一般的には風の神でよく御祈祷は伊勢踊りの祈願を行った。」
事例67 松野町誌610頁
「はっさく 八月一日、餅をつき神に供えて厄落しとした。上家地では朝戸を開け「鳥追い歌」を歌った。」
事例68 津島町誌755頁
「八朔 旧暦八月一日をハッサクといい、農休み日でおなごしの出替わり日とされている。」
(参考)「二月入り 二月朔日は「年のはじまり」といって各家では餅をついて祝い、農休日での集会が行われたりした。またこの日はオナゴシの出かわりの日で、オトコシが荷物を持って送りむかえをした。」
事例69津島町上槇 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔 だんごをつくる。」
事例70 津島町(『県境の民俗―東宇和郡城川町北宇和郡津島町民俗調査報告書―』104頁)
「八月一日 八朔。餅を搗かねばならぬとされて、八朔餅という。奉公人の出替りである。一日休んで御馳走をつくって食べる。」
事例71 内海村(『南予漁村地域民俗資料調査報告書』31頁)
「八月一日 八朔。たのも節句である。此の日は団子(たのもだんご)を作って神仏に供え、嫁は酒一升を持って親里へ礼に行く。此の日はさつまいもの初物をいただく風習がある。」
事例72 御荘町誌548頁
「八朔 旧暦八月一日を「ハッサク」といい、農休日で、おなごし(下女)の出替り日とされた。」
事例73 ふるさと菊川349頁
「八朔(八月一日)(中略)この日はお赤飯を蒸し、新嫁はお赤飯を持って里帰りをしていた。女の奉公人が入れ替わる日だったが、男の奉公人の入れ替えもあった。雨の少ない年には雨乞いもしていた。雨乞いをする時は、集落中の人が蓑と笠を持って竜王様に集まり、鐘と太鼓で祈祷をした。その日は洗濯物は外に干されなかった。」
事例74 一本松町誌1146頁
「ハッサク(八朔)旧八月一日 この日は古くは女の奉公人の出がわり日とされたが、やはり男の奉公人の出がわりもあった。性格は大体「ニンガツ入り」と似ている。広見の弓張ではこの日を「コタノミ」(子頼みの意か?)の節句と言って親の方から子の方へ祝儀を持って行くこともあった。また畑から新芋を掘ってきて蒸して神に供え、家中で食べる日でもあった。(中略)この日、本町内、郡内で八朔相撲、八朔ツキヤイ(闘牛)などの娯楽的行事がさかんに行われた。」
(参考)「二月入り 旧二月一日 この日は奉公人の出がわりの日とされ、餅を作ったり白飯をたいたりして仕事を休む。昔は男しはこの日だけ年一回、女ごしは八朔と合せて年二回出がわるものとされた。」
事例75 一本松町正木 日本民俗地図Ⅰ(年中行事Ⅰ)425頁
「八朔入り シバ餅をつくる。夏季の代表的な餅である。」
事例76 一本松町(『南宇和地域民俗資料調査報告書』61頁)
「八朔 八月一日 八朔の休み。女の奉公人の出かわりの日。」