愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

新刊『四国遍路関係史料集-古代・中世編-』

2024年05月31日 | 信仰・宗教
四国遍路世界遺産登録推進協議会(事務局は香川県庁)の「普遍的価値の証明」部会では、四国遍路の世界遺産登録に必要となる「顕著な普遍的価値」の検討を進めるため、四国4県の大学、博物館等の専門家で構成する四国遍路関係資料調査研究会を設置し、令和3年度から5年度にかけて調査研究等を行い、その成果として『四国遍路関係史料集-古代・中世編-』が刊行されました。

私もこの3年間、四国遍路に関係する古代史・古代文学分野を担当し、調査を進めてきました。事前の文献調査や執筆にかかる時間、編集に関わる作業など、時間的にも精神的にも私がこれまで経験したことのない、かなりの負担量となりましたが無事に刊行されて安堵しているところです(おかげさまでこの仕事で体重もかなり落とすことができました。執筆、編集時のことは過去のこと。思い出さず、忘却の彼方へ・・・)。

これまでの四国遍路研究では活字本や校訂本を引用する形で調査、研究、史料解釈等が行われる傾向にありましたが、今回の調査研究会ではできるだけ原史料を確認の上、再解釈するという立場で調査、執筆、編集を進めてきたところです。特に古代史・古代文学分野では「校訂」前の原文、そして現代語訳(意訳)を掲載することにより、今後の四国遍路研究への基礎データを提示できたのではないかと考えています。

この史料集の編集は、愛媛県庁のまなび推進課が事務局となって行われたものです。まなび推進課のみなさまお疲れ様でした。残念ながら、冊子の発行部数が僅かで、私をはじめ委員の執筆者にも1部のみの配布となっており、入手は困難です。一般販売もしていません(そこは心残り。文化財調査報告書などと同様、官公庁の刊行物なので、いつも悩むところです)。各都道府県立図書館や四国4県の県立図書館・博物館等、四国各県の市町立図書館等に配布したとのこと。ご覧になりたい場合は、お手数をおかけしますが、そちらで閲覧ください。冊子版で掲載している資料画像についてはこのPDF版では削除されています(史料の画像が見られるのがこの史料集の最大の特徴でもあります)。史料図版と対照しながら読む場合は、冊子版をご覧ください。

PDFデータは、こちらで公開していますので、ぜひご活用ください。

四国遍路世界遺産登録推進協議会HP(普遍的価値の証明部会)
https://88sekaiisan.org/subcommittees/pdf/shikokuhenro-ancient_medieval.pdf

なお、私が担当して執筆した項目は以下の19項目です。

「四国八十八ヶ所霊場一覧」、「聾瞽指帰 巻下 仮名乞児論(「玉藻所帰之嶋」)」、「聾瞽指帰 巻下 仮名乞児論(「金巌」・「石峯」)」、「三教指帰 巻上 序」、「三教指帰 巻下 仮名乞児論(「金巌」・「石峯」)」、「三教指帰 巻下 仮名乞児論(「玉藻所帰之嶋」)」、「日本霊異記 下巻 第三十九」、「新猿楽記 次郎条」、「為忠家後度百首 五三・七六」、「色葉字類抄」、「梁塵秘抄 巻第二 三〇〇」、「梁塵秘抄 巻第二 三〇一」、「梁塵秘抄 巻第二 二九七・二九八」、「梁塵秘抄 巻第二 三一〇」、「梁塵秘抄 巻第二 三四八」、「新古今和歌集 巻十 九一七」、「新勅撰和歌集 巻十 五七四」、「古今著聞集 巻二 五二」、「四国遍路関係史料集古代・中世編関係年表」



国立歴史民俗博物館シンポジウム「四国遍路 文化遺産へのみちゆき」

2024年01月15日 | 信仰・宗教


1月21日(日)に国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)にてシンポジウム「四国遍路 文化遺産へのみちゆき」が開催されます。私も「病と死から見た四国遍路」について口頭報告する予定です。国立歴史民俗博物館では現在第4展示室にて特集展示「四国遍路・文化遺産へのみちゆき」が開催されています。2月25日まで。そのギャラリートークも1月21日10:30~行われます。

日時
2024年1月21日(日) 13:00~16:30

場所
国立歴史民俗博物館 ガイダンスルーム(定員50名)※要事前申込

主催
人間文化研究機構広領域連携型基幹研究プロジェクト「横断的・融合的地域文化研究の領域展開―新たな社会の創発を目指して―」歴博ユニット「フィールドサイエンスの再統合と地域文化の創発」

趣旨
四国遍路は、四国4県を周回するルートの中に八十八ヶ所の霊場が設置された回遊型の巡礼路です。その起源は真言宗の宗祖、弘法大師空海に措定され、1200年に渡り人々に信仰され、継承されてきました。近代になると四国遍路は、「お接待」に代表される地域社会のホスピタリティーに加えて、交通手段の多様化や、霊場間の連携も促進されたことで、日本を代表する巡礼文化として、知られるようになりました。近年では四国4県では、地域に継承されてきた遍路文化を世界文化遺産に登録しようとする運動が活発化しています。本シンポジウムでは、この遺産登録に向けての実践の中で、遍路文化の学術的な意義を積極的に検証してきた四国での営みを中心に、文化資源化の課題と可能性について議論していきます。

プログラム
報告1:胡光(愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター)
  四国遍路の歴史と世界遺産化運動

報告2:大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)
  病と死から見た四国遍路の民俗

コメンテーター:門田岳久(立教大学観光学部) 川島秀一(日本民俗学会前会長)

参加ご希望の方は、こちらの申込フォームから。




弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑧

2023年12月25日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑧

八 空海入定
 さあ、最後になりますが、空海が亡くなるのが承和二(八三五)年です。七七四年に生まれた空海が六二歳、八三五年三月二一日に亡くなります。三月二一日に亡くなったということは『続日本後紀』という、先ほどからも言っている朝廷の歴史書の中にきちっと出てきます。金剛峯寺といいますか、高野山で亡くなったと記されている。高野山で亡くなって、京都にその情報が伝わるまでに数日かかったとあります。四日かかっているのです。そして天皇とか上皇の弔辞が述べられる、書かれることになりますけども、その弔辞が『続日本後紀』の中に詳しく記されていて、空海がどういう人物だったのか、その事績が紹介されています。

史料9『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月庚午条
法師者讃岐国多度郡人、俗姓佐伯直、年十五就舅従五位下阿刀宿祢大足、読習文書、十八遊学槐市、時有一沙門、呈示虚空蔵聞持法、其経説、若人依法、読此真言一百万遍、乃得一切教法文義諳記、於是信大聖之誠言、望飛焔於鑽燧、攀躋阿波国大瀧之嶽、勤念土左国室戸之崎、幽谷応聲、明星来影、自此恵解日新、下筆成文、世伝、三教論、是信宿間所撰也、在於書法、最得其妙、與張芝斎名、見称草聖、年卅一得度、延暦廿三年入唐留学、遇青龍寺恵果和尚、禀学真言、其宗旨義味莫不該通、遂懐法宝、帰来本朝、啓秘密之門、弘大日之化、天長元年任少僧都、七年轉大僧都、自有終焉之志、隠居紀伊国金剛峯寺。

 このような僧伝といいますか、人物伝が朝廷の正式な歴史書の中に記されるということはなかなかありません。記載されているということは、それだけ空海が八三五年までの間に朝廷に対してかなり貢献をしていたり、影響を与えたりしていたということとなります。空海は八三五年三月二一日、その約一週間前の一五日に、自分は三月二一日寅の刻(午前四時頃)に入定することを弟子たちに告げています。空海には主に一〇人の弟子がいて、よく「十大弟子」と称されます。実恵、真済、真雅などがいますけれど、その半分は讃岐国出身です。空海が亡くなった場所は高野山です。高野山で十大弟子に、このまま永遠の禅定に入ると。入定してそのまま岩窟(今の奥の院)に輿で運ばれるというシーンが絵巻物にも描かれています(写真8)。今でも三月二一日というとやはり弘法大師の命日、お遍路さん関連でも盛大な儀礼日ですし、ちょうどこの頃にお遍路さんの数も増えてきます。
 実は、空海には遺言書と言われるものがあります。『御遺告(ごゆいごう)』です。この『御遺告』に何が書いてあるかというと、真言宗の教団運営や遺訓の他に、自分が亡くなった後どこに行くか、きちっと書かれています。ただ『御遺告』自体は最近の研究では空海本人が記したものではなく、八三五年に空海が亡くなった後、約一〇〇年後に成立したものではないかと言われています。空海の遺言を聞いた弟子たちが遺言を約一〇〇年後(西暦九〇〇年代前半)にまとめたものが『御遺告』ということです。内容は二五箇条にわたっています。その第十七条に「吾れ閉眼の後」閉眼というのは眼を閉じると、要するに、眼を閉じって亡くなったら「必ず方に兜卒他天に往生して」兜卒天とは弥勒菩薩の浄土です。そこで弥勒慈尊(弥勒菩薩)の御前に侍すべしと。弥勒菩薩っていうのはまだ「菩薩」なのです。つまり修行の身です。その修行を成就させるという五六億七〇〇〇万年後にこの世に下生して人々を救うとあります。五六億七〇〇〇万年は長いですよね。それまでの間はどうするのか。これについても書かれています。「弥勒慈尊の御前に侍すべし」とあり「五六億余の後には必ず慈尊」弥勒とともに「御共に下生し」この世におりてきて、そして「吾が先跡を問ふべし」とある。「また且つは未だ下らずの間は」つまりまだ下生しない間(弥勒慈尊の兜卒天にいるとき)は、「微雲管」つまり雲の小さいすき間からこの世を見て「信否を察すべし」というのです。要するに人々がきちっと信仰しているか、していないかを見ると書いているのです。「是の時に、勤あらば祐を得ん」とあり、信心があれば助けますよと。しかし「不信の者は不幸ならん」と書いてある。そして最後に「努力努力後に疎かにすることなかれ」と書かれています。空海は没後、弥勒菩薩の浄土で雲の合間から我々の行動をずっと見ているというのが、この九〇〇年代前半に書かれた空海の「他界観」です。空海が今どこにいるのかという議論では様々な説があります。高野山奥の院で毎朝、今でも生身供といいますか、生きているとされて御飯を供えられていますが、高野山奥の院で永遠の禅定に入って生きているとも言われる。また弘法大師空海は四国霊場をお遍路さんとともに歩いているという様にもよく言われます。
 今、私は「弘法大師空海」と言いましたが、実は空海は亡くなった後に文徳天皇から「大僧正」の僧階をもらっています。空海の弟子の真済が僧正に就任する際の史料が『日本文徳天皇実録』に載っています。僧階といいますか僧侶にもいろんな位階があります。①律師、②僧都、その上に③僧正があるのですが、僧都にも「大僧都」と「少僧都」があります。空海は僧都の中の「大僧都」の時に亡くなりました。一番上の「僧正」になっていなかったのです。その「僧正」に就任しないまま亡くなっています。その約二〇年後、弟子真済が僧正への就任の機会が訪れた時、真済は文徳天皇に対して、我が師空海は「僧正」に就いていないから自分はそれを辞退しますと告げたのです。すると文徳天皇はその事に感動して、ならば真済は僧正に就きなさい。そして空海に「大僧正」を賜りますという事になったのです。これも六国史である『日本文徳天皇実録』天安元(八五七)年十月丙戌条に記されています。
 そして、我々がよく呼んでいる「弘法大師」という名前ですが、「大師」という号は基本的に天皇から賜るものです。空海が天皇から賜ったのは延喜二一(九二一)年のことです。その時の真言宗の実力者であった観賢が尽力します。彼も讃岐国出身ですが、観賢が当時の醍醐天皇に上申、申請をして、そして醍醐天皇から「弘法大師」の名前を賜ることになったのです。つまり九二一年よりも前には「弘法大師」という呼び方は存在しません。空海の没年が八三五年ですから、没後八六年目に大師号を賜ったのです。つまり幼年期は真魚、青年期から没するまでは空海、そして後に大僧正空海、そして九二一年から弘法大師と呼ばれるようになるわけです。なお、大師号は空海が「弘法大師」を賜る前、既に貞観八(八六六)年には最澄が伝教大師、円仁が慈覚大師の号をもらっています。二人とも天台宗の人物です。真言宗で空海が弘法大師の号をもらった数年後に、天台宗側としては、真言宗が大師号を賜ったのならこちらも大師号をもらうべき人物がいると主張します。延長五(九二七)年、空海が大師号を賜った六年後に、天台宗の円珍が智証大師の号を賜ります。この円珍も讃岐国出身で空海の親戚筋にあたり、天台宗の基礎を築いた人物です。このように、大師号獲得合戦のような状況が八〇〇年代後半から九〇〇年代前半に天台宗と真言宗の間で繰り広げられたのです。
 さて、延喜二一(九二一)年に真言宗として初めて大師号を賜りましたが、その際に醍醐天皇から衣装ももらっています。それを観賢が高野山奥の院に持参して、空海が禅定している岩窟を開けて見ると、空海の姿は髪がぼさぼさ、服はぼろぼろの状態で禅定しているのを見たと絵巻にも描かれています(写真9)。そして空海に対して天皇から下賜された衣を着せて、剃髪したのです。それからまた空海は奥の院で永遠の禅定に入って、今現在でも修行をしている、生きているという話が広く伝わっていくという形になっていきます。
 本日の講演では、弘法大師空海の生涯と言いながら、実際に真言密教の世界でどれだけ活躍して、神泉苑でどういう雨乞いをしたのかというような具体的な話は全くできませんでした。しかし出身地の四国と絡めて話はできたかと思いますが、「四国遍路」とかさらには「仏教」とか、それだけで空海の事績は語れない側面があることをご理解いただけたかと思います。要するに「遍路」から見た空海だけではなくて、平安時代、一二〇〇年前の空海の生きざまというものを、一つ一つ歴史資料を実証的に検証しながら見ていく必要がある。今の「真言密教」とか「遍路文化」というフィルターを通さないで平安時代の基礎史料をもとに空海を見つめるというのは重要な視点であり、基本的姿勢です。本年は一二〇〇年という記念の年でもありますので、まだ半年ありますが、本、雑誌とかテレビでも空海が取り上げられることが多いかと思います。そういった様々な機会に皆さんも空海の人物像について多角的に考えていただければと思います。
 ちょうど一二時になりました。約束の時間が来ましたのでこれで終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

おわり

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑦

2023年12月24日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑦

七 多方面で活躍した空海
 あと、大体二〇分ほどになりましたのでまとめに入っていきたいと思います。空海は宗教者ですが、多方面で才能を発揮しています。例えば香川県の満濃池がありますが、満濃池は弘仁九(八一八)年に決壊してしまいます。そして朝廷から修池使として路浜継という人物が復旧の担当となった。しかし修池ができない。そこで、讃岐国や朝廷は困ってどうしたかというと、空海を「修池別当」つまりその池を修す役職に就かせて、そして満濃池に派遣したのです。そうすると、それまでは修築工事にあたる人員がなかなか集まらなかったところ、それを解決させた。この点は『日本紀略』の記述が興味深いので紹介しておきます。『日本紀略』は六国史、先ほどもからよく出ている『続日本紀』とか『日本後紀』等をダイジェスト版でまとめた史料で、記述内容は史実に忠実で史料的価値が高いのです。そのうち、ちょうど空海の活躍した平安時代初期の『日本後紀』は散逸部分が多くて全容がよくわからない。弘仁年間の一部の記録が幸い『日本紀略』に載っていまして、満濃池について書かれています。そこには、空海は「百姓に」(ヒャクショウじゃなくてヒャクセイ、一般の人々)に「父母のごとく恋慕される」とあります。父母のように恋い慕われていると朝廷の編纂史書のダイジェスト版に書かれているのです。そしてその後三ヶ月を経て、満濃池が完成をしたとあります。空海はよく土木技術に長けていたとか、鉱物資源の知識が豊富だったと言われます。それに関する史料も、土木関係でいえばこの満濃池とか益田池などが出てきますが、この満濃池修築にあたって池に関する技術指導を行ったというよりは、修築の際の人員、労働力を集めることができたことが史料からわかります。これは地元讃岐国出身でもあり、空海の人徳に依るところが大きかったのでしょう。これが宗教者としてだけではない側面の空海の業績のうちの一つであります。
 もう一つは、教育者としての側面です。空海は天長五(八二八)年に綜芸種智院を開設します。日本で初めての私立学校です。現在も種智院大学が京都市伏見区にありますが、種智院大学も母体は「学校法人綜芸種智院」といいます。今でも名前として残っているのです。「種智」というのは仏智、仏の教え、悟り、知恵という意味ですけども、その前に「綜芸」糸偏に宗と書いて、宗教の宗ですね、そして学芸、芸術の芸です。これは何を意味するかというと、綜合芸術、綜合学術といった意味です。綜芸種智院を創立する際の序文といいますか、趣意書が『性霊集』巻第十に載っています。それを見ると、空海は綜芸種智院で僧侶を育て、真言密教を教えようとしていたわけではありません。何を教えるかというと「三教を教えろ」と書いています。三教とは儒教であり、道教であり、仏教です。だから、単に真言宗の僧侶という側面だけではなくて、その時代、平安時代初期における総合的な知識、学問を貧しい子ども達でも学ぶことができる。このように『性霊集』の「綜芸種智院式」という趣意書を空海が書いているのです。そして空海は、自分が唐に渡ったとき、唐の都長安にはいろんな私塾があった。日本では国の役人になるためには大学や国学があるけれども、長安にはそれ以外にも坊(都が碁盤の目のようになっていて、そのマスにあたる区画)ごとに学校があって、それに驚いたとも書いています。ところが平安京はというと大学一つしかないではないかと。大学が一つあるだけで私塾がないので、綜芸種智院をつくろう。そして、仏教だけではなくて儒教、道教も含めた、この「綜芸」を貧しい子ども達でも勉強ができるようにと建てたと『性霊集』にある。これが綜芸種智院なのです。ところが、綜芸種智院は長く続きませんでした。綜芸種智院は空海が亡くなった後に、丹波国の人に売り払われて、お金に換えられて、それが真言宗の教団経営に充てられてしまいました。そのかわり、その綜芸種智院に関する趣旨、主義、思いというものは現在の学校法人綜芸種智院、種智院大学にまで受け継がれています。この綜芸種智院についての『性霊集』の文章は、現代の教育にも通じる様々な言葉が登場しますので、漢文、古文に興味のある方にはおすすめします。
 もう一つ、文学評論家としての側面です。空海は漢詩文で『文鏡秘府論』を著しています。この『文鏡秘府論』の何が凄いのかといいますと、もう時間がないので簡略に説明しますが、空海が漢詩を作るときに、このようにすれば漢詩は上手に作れますよということを書いています。要するに漢詩の制作手引書、入門書です。そして唐の時代、隋の時代、六朝の時代などの様々な漢詩の文例を挙げています。中国の古い時代からの漢詩についていろいろ類例を紹介しながら、例えば陥りやすい「病」を二八種類も挙げたりしています。例えば一行目の一文字目の音がカンで始まるとしたら、二行目でもカンと読める漢字を頭に持ってくると、カンカンになって抑揚が無くなるので、それは一つの病であると書いてあります。具体名もあって「平病」つまり音韻の平らな病ですよと指摘する。そんなことが書かれています。音韻、音律を重視した内容ですが、実はこの『文鏡秘府論』の中に現地中国では既に散逸していて、確認できない文章が含まれています。要するに、空海が日本に持って帰った漢詩文集をもとに、空海が『文鏡秘府論』を書き残してくれた。しかし、当地中国で現代では既に失われてしまっている詩があるのです。このように漢字文化圏、漢詩をつくる文学、文化を有する東アジア全体で、空海は宗教者としてだけではなくて、文学者、文学評論家として広く評価されるべきではないかと思っています。
 もう一つ、空海といえば「三筆」と言われます。嵯峨天皇と空海と橘逸勢ですね。橘逸勢も空海と一緒に遣唐使に随行して、一緒に帰国しました。橘逸勢については、少し余談になりますが、空海が残している文章(『性霊集』所収)の中に橘逸勢の悩みが書かれています。橘逸勢は中国語(漢音)が堪能ではありませんでした。当時、桓武天皇が即位したあと、ちょうど空海が大学に入る頃ですが、漢音奨励が始まります。それまでは日本の仏教は呉音中心でした。呉音というのは例えば、死者供養とか言いますよね。供養、供物をキョウヨウ、キョウブツとは言わずクヨウ、クモツですよね。あと、精霊をセイレイではなくショウリョウと読みます。精霊棚はショウリョウダナです。仏教に関する用語の読み方が、普通に小学校、中学校で学ぶ音訓では読めないものがありますが、それはもともと中国南部から朝鮮半島を経由して日本に仏教が伝来した飛鳥時代から奈良時代初期の発音の名残なのです。ところが、その発音を学んで中国北部に位置する唐の長安に行くと、中国南部の呉音では都の発音が理解できなかったのです。それではいけないということで桓武天皇が、延暦年間に僧侶や学者になるにも官僚になるにも漢音を学ぶことを必須とするのです。その第一世代が空海の年代です。ところが、橘逸勢は名門橘氏の出身です。空海はかなり勉強して大学へ入りますが橘逸勢は天平期の左大臣橘諸兄のひ孫、奈良麻呂の孫です。逸勢は名門氏族で充分勉強しなくても遣唐使に随行することができたのでしょう。しかし遣唐使で渡ったら、今度、長安で漢音がわからない。学問ができないということで、それで何をしたかというと琴と書を学んだと『性霊集』に書かれています。琴と書を学んでばかりで中国での正式な学問が修められないので早く帰りたいとも書かれています。そして空海と一緒に帰国することになるのです。そのときに逸勢は漢音ができなかったから書を学んで、その後に「三筆」の一人になってしまうのです。人生はどう転ぶかわかりません。ちなみに『夜鶴庭訓抄』という平安時代の史料があって、そこに「能書の人々」つまり書道の上手な人達が二四名列挙されています。最初に挙げられているのは弘法大師、嵯峨天皇なのですが、最後に特に三人を「三聖」と呼ぶと書いています。それが「弘法、天神、道風」と出てきます。「三筆」「三蹟」ではなく「三聖」です。「弘法」は弘法大師空海のこと、「天神」は菅原道真ですね、「道風」は小野道風。今の時代で言われる「三筆」「三蹟」と異なっています。実は「三筆」「三蹟」という括りになったのは、実は江戸時代なのです。一六〇〇年代後半の貝原益軒『和漢名数』が史料上の初見とされています。
 もう一つ、「弘法にも筆の誤り」という言葉があります。弘法大師空海も筆を誤る、猿も木から落ちるというように使いますけれど、『今昔物語集』という平安時代末期成立の仏教説話集を読むと、空海が平安京の南面諸門の額を書くことになります。

史料8『今昔物語集』「弘法大師渡宋伝真言教帰来語第九」
皇城ノ南面ノ諸門ノ額ヲ可書シト。然レバ、外門額ヲ書畢ヌ。亦、応天門ノ額打付テ後、是ヲ見ルニ、初ノ字ノ点既ニ落失タリ。驚テ、筆ヲ抛テ点ヲ付ツ。諸ノ人、是ヲ見テ手ヲ押テ是ヲ感ズ。

 応天門という大きな門がありますが、その額を書き終えて門に掲げた後、それを見ると、初めの字の点が「既に落ち失せたり」と書かれています。要するに、応天門の「応」の字の最初の点が無かったのです。ただし、点が無かったのは、空海が間違ったのが原因という様に書かれてはいません。「既に落ち失せたり」です。何故か無かった、落ちて失せていたというのです。そして、それを見て空海は驚いて、門の額めがけて筆を投げて、見事に点を打ちました。多くの人がこれを見て「手を押してこれを感ず」とあります。手を押すっていうのは拍手するということです。現代では「弘法にも筆の誤り」といいますが、誤っていたと書かれていない。誤ったのが主の話ではなくて、何故か額を掲げたときに点が無くて、筆を投げて点を付けたという奇跡が主の話だったのです。「弘法にも筆の誤り」とは一体いつ誰が言い始めたのか私も調べたことはないのですが、平安時代にはちょっと違ったニュアンスの話だったということです。

⑧につづく



弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑥

2023年12月23日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑥

六 空海と四国、そして伊予
 その空海が二四歳、延暦十六(七九七)年に『三教指帰』を著します。『三教指帰』の中に空海は自分がどこにいるのか明確に書いています。「仮名乞児」として登場しますが、そのモデルは空海です。仏教を支持する人として出てきます。

史料6『三教指帰』「仮名乞児論」
頃日の間、刹那、幻の如くに南閻浮提の陽谷、輪王所化の下、玉藻帰る所の島、櫲樟日を隠す浦に住し(中略)忽ちに三八の春秋を経たり

 仮名乞児は「頃日の間(ちかごろ)刹那(しばらく)幻の如くに、南閻浮提の陽谷(日本のことです)輪王所化の下(要するに天皇が治めるところ)玉藻帰る所の島(玉藻公園が高松市にありますが、要するに玉藻帰る所というのは讃岐国の枕詞です。自分は讃岐国で)櫲樟(くすのき)日を隠す浦に住し」とあります。善通寺に行かれたことがある方も多いと思いますが、善通寺には大きなクスノキがありますよね。まさに太陽の光を隠すぐらい大きなクスノキのある所に住み、そして「忽ちに三八の春秋を経たり」とあります。三八というのは先ほど五八が出てきましたが、四〇歳のことでした。三八は二四歳です。つまり、空海が『三教指帰』を書いたのが二四歳の時だったと証明できる史料がこれなのです。
 そして『三教指帰』は空海の出家宣言の書ともいわれます。先ほども言ったように、「三教」は三つの教えであり儒教、道教、仏教です。儒教、道教、仏教でどれが一番優れているかということを書き著したものがこの『三教指帰』なのですが、その序文に、空海は、自分が仏道修行に入ろうと思うとあります。ところが、序文にもこう書いています。「一多の親識」要するに、多くの親戚や知人たちが儒教で守るべき道をもって自分を束縛すると書いています。「五常の索」とありますが、五常は五つの常識です。五つの常識が儒教にはあって、それをなぜ守らないのかと周囲が空海を責めて自分を束縛するという。それを断ることは忠孝に背くことだとも言われてしまう。忠孝というのは忠義の忠、孝行の孝ですね。要するに国に対する忠義、家族・親に対する孝行に背くものだと、家族とか知人から言われるわけです。官僚エリートコースで朝廷の役人になろうかという、一般的に見れば順調な人生のコースを進んでいるところを、それを辞して、仏道修行に入ろうとしている。それに対して周囲は「何をしているんだ。こんなにすばらしいエリートコースを歩んでいるのに、この儒教の守るべき道を捨ててどうするんだ」と。そこで空海はこう書いています。儒教だけではなく「物の情一つならず」と。要するに儒教だけではなくて、仏教でも道教でもそれぞれ孔子、老子、そして釈迦がありがたい説、正説をとなえている。その三つの正説のうちの一つでも守っていれば、それは忠孝に背くことにはならないのではないかと。そして、空海やはり怒りと言いますか、感情を爆発させます。序文の最後に「唯憤懣の逸気を写せり」と書いてあるのです。要するに、自分はなぜ出家宣言の書を著すかというと、周りが反対をするけれども、自分の気持ちは抑えられない。儒教だけではこの世の中を治められない、そして救えない。これからは仏道修行も必要であるということで「逸気」、「憤懣」の心をもって書き上げた。それが『三教指帰』なのです。
 よく、空海(弘法大師)に関するエピソードは、スーパーマンといいますか、全知全能といいますか、余り感情を表に出すとうことは無いですよね。ところが若き空海、二四歳の書を見ると「憤懣の逸気を写せり」とある。これを見た親は多分泣いたと思いますね。両親だけではなく、平城京で勉学を教えてくれたおじの阿刀大足は多分ショックだったでしょう。このように「若き空海の悩み」のような書なのです。『三教指帰』は文庫本でも出ています。あまり長い文章ではありません。『性霊集』に比べると読みやすいと思います。一度ぜひ読んでみてください。
 もう一つ、空海と伊予国についてちょっと紹介をしておきたいと思います。二四歳の時に書いた『三教指帰』の中に四国で修行をしていた場所が出てきます。一つは「土佐室戸」(現在の高知県室戸市)、もう一つは「阿国大瀧嶽」です。今の徳島県阿南市に比定されています。あと二ヶ所出てきます。「金巌に登り雪に遇って坎壈たり」とか、「石峯に跨って、粮を絶って」食料を絶って「■(外字車へんに感)軻たり」とあり、修行で苦労したと書かれています。この「金巌」、「石峯」は『三教指帰』には稿本といいますか、下書きになるような『聾瞽指帰』という空海の自筆の書が高野山に残っています。下書きといってもほぼ同じ文章なのですが、そこに字注といいますか、読み方を脇に書いてあるのです。そこに書かれているのは、「石峯」は「伊志都知能太気(イシツチノタケ)」と書いてあります。つまり石鎚山です。もう一つ、「金巌」は「加禰能太気(カネノタケ)」と書かれています。これは江戸時代からよく言われているのが八幡浜市と大洲市のちょうど境目にある金山出石寺。現在、別格霊場になっています。それ以外に奈良県の金峯山とか大峰山であるとかいろんな説があります。ただし一九六五年に刊行されている岩波古典文学大系本の『三教指帰』には、カネノタケの字注で、「加禰能太気は大和金峯山か伊予の出石寺か」とあります。それに加えて「後者と思われる」と書いてあります。この注釈は渡辺照宏氏、宮坂宥勝氏という真言宗をはじめ仏教学、仏教史を代表する学者が書いた文章です。つまり一九六五年段階では「金巌」は伊予国金山出石寺説が強かったのですが、最近の刊行物を見ると金山出石寺説が出てこなくなりました。大和金峯山とか大峰山が出てくるようになってきています。これは一九七〇年代以降の高野山大学の先生方が書いているものがそうなっていて、一九八〇年代以降、それが引用されていくことで金山出石寺説が見えなくなってきたのです。
 ところが、江戸時代に『三教指帰簡注』など空海著『三教指帰』の解釈書、注釈書が出版されているのですが、これらの中に「石峯」、「金巌」は出てきて解釈されています。『三教指帰』の原文では「或いは金巌に登り」と、「石峯に跨り」と、金山出石寺には登るのですが、石鎚には跨るのです。山に跨ることができるのかという様に愛媛県外の方は思われるかもしれませんが、確かに石鎚山の頂上付近に行くと、跨ごうと思えば跨ぐことができそうな程、険しいですよね。だからその表現からすると、確かに「石峯」は石鎚山であろうと思います。注釈書の『三教指帰刪補鈔』には「石槌嶽は伊予国に在り、金巌も伊予国にあり」と書かれています。江戸時代の『三教指帰』の注釈書、要するに真言宗の僧侶の中で使われた本の中にはそう書かれている。もう一つ『三教指帰簡註』という『三教指帰』注釈書のベストセラーで一七一三年に刊行された史料の中にも「金巌、石槌嶽は並に在り」と書いてあって、どこにあるかというと「予州に在り」と記されている(写真6)。「金巌」は伊予国にあると江戸時代には一般的に解釈されていたわけです。
 なお、『三教指帰』の中身は一種の漢詩文なのです。四六駢儷体という四文字と六文字が並列する駢儷体です。駢儷というのは馬が二頭並んで走るという意味なのですが、要するに二つのものを並べて小気味よく文章を書いていくというのが四六駢儷体です。『三教指帰』はそれで書かれています。要するに「石峯」と「金巌」が二つ出てきますけれども、これらは二つで一セットとして出てくるのです。先ほども言った室戸と大瀧嶽もセットで出てきます。「石峯」、「金巌」については四国の石鎚山と奈良の大峰山という離れた所をセットで持ってくるよりは、空海としても『三教指帰』を著した際には、地理的にも近い所をセットで書いて、読む時の小気味よさを表現しようとしていたと解釈するのが妥当だと思います。つまり「石峯」は石鎚山であり、「金巌」は四国にある金山出石寺(出石山)ということです。最近ではあまり主張されなくなった説ですが、それは単に四国の研究者がここ三~四〇年間、主張してこなかったことも一つの原因であり、金山出石寺説が何らかの史料的根拠があって否定されたわけではないのです。空海は石鎚で修行し、そして大洲、八幡浜で修行したということになりますと、当然ここ四国中央市も通っているはずです。また、石鎚というのも現在の石鎚山の象徴である弥山、天狗岳だけではなくて、中世以前には瓶ヶ森や新居浜市の笹ヶ峰付近までの石鎚山系全体を石鎚山というように括っていた形跡があります。空海は東予地方の石鎚山系全体を修行の地としていたことは間違いないのです。それが二四歳までの空海の修行地ということです。
 もう一つ、伊予国の関係で言いますと、空海と交流のあった人物を紹介しておきます。現在の松山市出身の光定という天台宗の僧侶です。生まれが宝亀一〇(七七九)年。空海が宝亀五(七七四)年生まれですので、空海より五歳年下です。そして大同三(八〇八)年、空海がちょうど中国(唐)から帰国した直後、比叡山に上って空海のライバルである最澄の弟子となりました。弟子は弟子でも一番弟子だったのです。光定の出身地は伊予国風早郡です。松山市北部から旧北条市のあたりなのですが、そこから比叡山に入り最澄に学ぶ。そして最澄とともに高雄山寺に赴き、空海から密教を教えてもらうことになります。最澄は空海と同時に遣唐使に随行して唐に渡りますが、最澄が先に日本に帰ります。空海は恵果から真言密教の後継者として指名され、日本に伝える事になります。最澄は密教に触れながらも充分に体得しないまま帰国しています。最澄は空海が帰国すると弟子達とともに高雄山寺にて空海から密教を学び、灌頂を受けるのです。光定もそのときの弟子の一人です。そして灌頂を受けると最澄は比叡山に戻ったのですが、最澄の命令で光定はそのまま高雄山寺に留まって空海と一時期一緒に過ごし、交流を持ったのです。このような人物が愛媛、伊予国出身でいたのです。
 仏教史において、光定がどのような点で貢献したとていうと比叡山での大乗戒壇の設立が挙げられます。これは最澄にとって最大の願いであったことです。戒壇というのは受戒する場所、要するに正式な僧侶になる道場のことです。奈良時代から平安時代初期までは奈良の東大寺と下野国(栃木県)の薬師寺、そして九州筑紫の観世音寺の三ヶ所しかなかったのです。要するに、中央で正式に僧侶になって僧位、僧階を得て行くには奈良で修行しなければいけなかったのです。そこで光定は奈良の僧侶や朝廷の多くの官僚とも交渉を重ねて、比叡山に戒壇院を設けることに貢献しました。これには伝統的な奈良仏教の長年の抵抗もありましたが、新仏教の比叡山においてようやく実現できたものです。戒壇設立はちょうど最澄が亡くなった数日後に実現することになります。このように、天台宗の基礎を確立した人物が実は伊予国にいたのです。その光定の伝記に『延暦寺故内供奉和上行状』があります。

史料7『延暦寺故内供奉和上行状』
  和上法名光定。俗姓贄氏。予州風早県人也。其祖先武内宿祢祖先葛木襲津彦之後焉。母風早氏。

 和上というのは光定のことです。法名は光定であると。俗性は贄氏。贄氏といえば、贄首石前という人物が天平八(七三六)年の『正倉院文書』に中で旧北条市付近の少領として出てきますので、その一族だと思われます。この『延暦寺故内供奉和上行状』という光定の一代記だけではなく、光定が著した『伝述一心戒文』という史料もあります。ここには最澄の事績や天台宗の成立過程など平安時代初期の仏教史の基礎史料でもあります。光定は実際に延暦寺でいろんな修行を重ねますが、天台宗といえば中国に天台山があります。真言密教はよく真言八祖というように恵果から正式に空海に伝わることで、正統な後継者としてはインドから中国、中国から日本に伝わってきたのですが、天台宗の場合、中国に天台山がありますので、天台宗の教義に関して疑問があれば、天台山に質問をして回答を得ています。『唐決』という史料にその問答が記されており、最澄だけではなく光定も問答をして天台山の宗頴から回答を得ています。このように天台宗の初期、教義を決める上でも活躍をしているのです。先に挙げた『伝述一心戒文』も初期天台宗の歴史をひもとく非常に貴重な史料で、この史料がもし無かったら初期天台宗の状況は充分にわからなかった程です。
 そして現在でも光定は比叡山に祀られています。比叡山の根本中堂がありますが、その奥に浄土院という最澄が祀られている廟があります。そこから少し山へ入ったところに「別当大師廟」として祀られています。光定は「別当大師」とも称されています。最澄の浄土院の裏手になります。そして、その光定を中興の祖といいますか、光定が再興したと伝えられる寺院が愛媛県松山市の北部山間地に多くあります。例えば松山市東大栗の医座寺であるとか、松山市菅沢の佛性寺も天台宗で光定ゆかりの寺院です。つまり道後から五明を通って堀江や北条へ通じる山間地に光定の関係する寺院があるのです(写真7)。この佛生寺には本堂の横に大師堂があります。四国で大師堂というと弘法大師(空海)を祀っているのが一般的ですよね。ところがここの堂は、きちっと扁額で「大師堂」と書かれてあるのですが、祀ってあるのは光定つまり「別当大師」と最澄つまり「伝教大師」なのです。その二人を祀る大師堂なのです。弘法大師は祀られていません。空海は真言宗の開祖であり密教を国内に広めた人物ですが、その時代にその真言宗のライバルである天台宗、それに関してもいろんな歴史があって、そこに光定という伊予国(愛媛県)出身者がいる。ところが、この光定は愛媛県民の間ではほとんど知られていません。出身地の松山市の方でもほとんど知らないと思います。私が担当した今回の愛媛県歴史文化博物館「弘法大師空海展」にて、空海と同時代の人物として光定を大きく取り上げたつもりだったのですが、光定に関する市民への周知、啓蒙は充分達成できなかった。これは担当者としての大きな反省点です。光定については、空海、最澄と絡めながらもっと顕彰しなければいけないと思っているところです。

⑦につづく

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑤

2023年12月22日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー⑤

五 若き空海が生きた時代
 少し話題を変えます。空海の生涯、特に幼少期についてちょっと考えてみたいと思います。空海が生まれたのは、先ほども言ったように七七四年です。そして空海が十一歳の時、延暦三(七八四)年に桓武天皇が都を平城京から長岡京に遷都します。いわゆる首都移転です。ところが、七八四年に平城京から長岡京への遷都を決めて工事が始まったけれども、なかなかうまくいかないということで、その十年後、延暦一三(七九四)年、空海二一歳のときに、長岡京から平安京へまた遷都します。首都移転ですから大変な事業です。都を造るというのはどれだけの作業になるか。当時の人たちの様子がわかる史料を紹介します。延暦一〇(七九一)年ですから、ちょうど空海が十八歳の時です。ちょうど大学に入った頃です。平城京にて大学で学び始めた頃に六国史の一つ『続日本紀』にこう書かれています。「越前や丹波や但馬や云々、阿波や伊予などの国に命じて平城宮、奈良の宮の諸門」いろんな門があります。それらの門を長岡宮に移させると。つまり伊予国、阿波国の人たちに命じて移させるのです。当時の首都移転、遷都というのは、現代のように例えば工事を発注して、そこで工事に携わった人たちに賃金、給料が支払われるという形ではないのです。労役とか造作と言いますけれども、当時の税というのは租庸調があって、庸がいわば労役という一種の税でした。そのうちのその遷都にかかわることも朝廷が阿波国や伊予国に命じて、そして門を奈良から京都の長岡京まで運ばせるのです。そういうことが行われていたのを間近で見ながら、大学でちょうど勉強をし始めていたのが空海なのです。だから、空海が二四歳までの約六年間、仏道修行に目覚めていくプロセスの中で、一つ経験としては、自分がちょうど大学で勉強して官僚エリートコースを歩んで朝廷の役人を目指している横で、自らの出身地である四国の人間が、苦役しながら門を解体して、そして給料をもらうわけでもないという状況であった。奈良時代は労役に関して往路は交通費が出ていましたが、復路(帰り)は交通費出ないのです。そのため野垂れ死んだりする人もいたという時代です。その状況を空海は見ていたということで、空海の幼少・青年期というのはいわば「労役の時代」であったといえるのです。
 もう一つは、空海の幼少期は東北地方の蝦夷との戦争の時代でした。いわゆる三八年戦争という言い方があります。これは宝亀五(七七四)年に始まって、それから弘仁年間まで三八年間、いわゆる坂上田村麻呂とか、あと蝦夷方の阿弖流為(アテルイ)などの人物の名前出てきますが、ちょうどその時代です。この宝亀五年というのは七七四年、空海が生まれた年です。つまり、空海が生まれて三八歳になるまでは、東北地方の蝦夷と朝廷側が戦争をしていた時代になるわけです。例えばこの史料。延暦七(七八八)年、空海が十五歳の頃のものです。

史料5『続日本紀』延暦七(七八八)年三月辛亥条
下勅、調発東海、東山、坂東諸国歩騎五万二千八百余人、限来年三月、会於陸奥国多賀城。

 十五歳というとちょうど空海が奈良の都に上っておじの阿刀大足から学問を学び始めた頃です。そのときに何が起こっていたかというと、これも六国史『続日本紀』の記載ですが、東海道や東山道(今の岐阜、長野など)、坂東の諸国に対して、五万二八〇余人を来年三月までに陸奥国多賀城(現在の宮城県多賀城市)まで送りなさいとあります。東日本といいますか要するに東海道、東山道、そして坂東諸国。その出征兵士の人数が一回で五万二〇〇〇人なのです。三八年戦争と言われますけども、延べ人数でいうと大体推計で二〇万人から二五万人が東北地方に派兵、派遣されたと言われます。この五万二〇〇〇人出征の記事の後に、坂東諸国から願い状が出ています。兵士を出し過ぎて国が疲弊して困るので、何とかしてほしいと朝廷に申し入れた記事が『続日本紀』に出てきます。これは坂東だけではなくて日本全国的な問題だったのです。当時の日本全国といいますか、日本列島の人口が約三〇〇万人と言われます。三〇〇万人のうち二五万人が派兵されたということです。全人口の約一〇分の一にあたります。そういった時代を空海は幼少期から過ごしていたわけですね。
 もう一つは、東北地方のいわゆる俘囚(捕虜)の問題があります。東北地方の捕虜が朝廷によって西日本各地に移されるのですが、その移配先として四国は多くの史料に出てきます。例えばこれは空海誕生以前の七二五年の記事ですが『続日本紀』神亀二年閏正月己丑条に、俘囚、要するに東北地方で捕虜になった人物一四四人を伊予国、五七八人を筑紫に配すとあります。空海の時代の史料でいいますと『日本後紀』延暦一八(七九九)年十二月乙酉条に、東北地方の陸奥国が言うには、俘囚、要するに捕虜の吉弥侯部(キミコベ)黒田と妻の田刈女などが「野心いまだ改まらず」とある。要するに朝廷に対しての反逆心、大和に服従する心がまだ改まらなくて「賊地」、東北地方を往還している、行き来しているとあります。これも大和側、朝廷側の論理ですね。そこで彼の身を禁じる、要するに禁錮、捕まえて、土佐国(高知県)に配したとあります。こういう記事がよく出てきます。伊予国にもちょうど吉弥侯部氏が移配されたようで、ちょうど『日本後紀』弘仁四(八一三)年二月甲辰条の中に吉弥侯部氏に姓を与えるという記述が出ていますので、この伊予国にも陸奥国から移配されていたのは確実です。讃岐国にも蝦夷は移配されています。要するに、空海の幼少期、青年期といいますと蝦夷との戦争は、兵士が大量に派兵されるだけではなくて、捕虜として捕まえられた人物が四国にも移配されている。当然、讃岐国にもそういうことがあった。つまり若き空海の時代は「戦争の時代」でもあったのです。
 さて、空海が生まれたのはいつかということで、先ほどから言っている七七四年ですけども、空海の誕生日はいつなのかというと六月十五日とされています。六月十五日の根拠は平安時代の史料には出てこないのですが、鎌倉時代、弘安元(一二七八)年成立の『真俗雑記問答鈔』の中に「弘法大師誕生日事、問何、答或伝云、六月十五日云々」と出てきます。それ以前には史料としては確認できません。鎌倉時代中期以降に定着したのが六月十五日の誕生日です。では、空海が生まれたとされる七七四年六月十五日頃はどんな様子だったのか。『続日本紀』宝亀五(七七四)年六月乙酉条を見ると、何と七七四年六月十八日、空海誕生の三日後の記事ですが、「伊予国飢賑之」とあります。伊予国が飢饉で困っていて、伊予国に対して賑給(シンキュウ、救援物資、食料を送ること)しています。要するに飢饉で困っていたということが国の歴史書に記載されている。本当に困らないと国史には出てきません。これは、伊予国だけではなくて記事を見ると志摩国(三重県)、飛騨国(岐阜県)も飢饉で、賑給されている。その直後の記事を見ると、土佐国でも同じような状況になっています。まだ讃岐では満濃池が修築されていない頃なので、恐らく讃岐国も飢饉で大変な状況だったと思います。要するに空海が誕生した、真魚が生まれたその瞬間というのは「飢饉の時代」であったということです。
 以上のように、空海の幼少期、青年期は、人々は苦しんでいた時代であった。要するに、①造作、労役の時代、②戦争の時代、そして③飢饉の時代で、それにプラスして地震が頻発していた時期でもありました。『類聚国史』という、先ほど言った朝廷が編纂した歴史書(六国史)をもとに、分野ごとにまとめた史料ですが、そこに古代に発生した地震の一覧表が列挙されています。延暦一三(七九四)年頃、空海二一歳の頃に地震が頻発しています。史料自体、朝廷が編さんしたものなので、畿内中心、西日本中心の地震記録と言えますが、地震が頻発をしていた時期が空海二一歳の時です。ちょうど空海が大学をドロップアウトして四国で修行したり仏道修行に励んだりしていた頃になりますが、要するに労役、戦争、飢饉、そして地震という、その四つの時代背景があった。それが若き日の空海の時代というわけなのです。空海が修行しながら衆生済度を願うきっかけとなる時代背景が顕著であったということです。

⑥につづく


弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー④

2023年12月21日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー④

四 四国霊場「開創一二〇〇年」という伝承
 ちょっと話が変わりまして、今年は四国霊場開創一二〇〇年とされる年です。四国霊場開創一二〇〇年というのは数え方が実は難しくて、弘法大師空海が弘仁六(八一五)年、四二歳のときに四国霊場を開創したと言われることから一二〇〇年なのです。今年は二〇一四年ですよね。正確に言うと四国霊場開創一二〇〇年「目」になるわけです。そして来年二〇一五年は一二〇〇「周年」になります。「何周年」と「何年目」というのは混乱しやすいですね。昔の数え方ではたいてい今回の四国霊場一二〇〇年のような数え方をすることが多いようです。平安時代初期、弘仁六(八一五)年、四二歳のときに四国霊場を開創したという言い伝えは四国各地の札所に残っていますが、本当にその年、四二歳だったのか。ここで空海の誕生年について、もう一度確認をしてみたいと思います。
 実は、空海といいますか、まだ名前は空海ではない、真魚ですね。空海と名乗るのは遣唐使に随行して唐に渡る直前になりますが、空海が生まれたのは七七三年だったという説が実はあるのです。一年違うじゃないかと。先ほど紹介した誕生年は七七四年なのですが、一般的にはやはり七七四年説が採用されています。ところが、古代には朝廷が編さんした正式な歴史書が六つあります。『日本書紀』、『続日本紀』とか、その後に『日本後紀』、『続日本後紀』が続くのですがこれらは六国史と称されます。これら朝廷が認めた正式な歴史を綴った史料の中に、空海が亡くなったときの記事が出ています。『続日本後紀』承和二(八三五)年のことです。

史料2『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月丙寅条
大僧都伝灯大法師位空海終于紀伊国禅居

史料3『続日本後紀』巻四 承和二(八三五)年三月庚午条
勅遣内舍人一人、弔法師喪并施喪料、後太上天皇有弔書曰、真言洪匠密教宗師、邦家憑其護持、動植荷其摂念、豈圖□□(外字)未逼、無常処侵、仁舟廃棹、弱喪失帰、嗟呼哀哉。禅関僻在、凶聞晩伝、不能使者奔赴相助茶毘、言之為恨、悵悼曷已、思忖旧窟、悲凉可料、今者遥寄単書弔之、著録弟子、入室桑門、悽愴奈何、兼以達旨(中略)化去之時年六十三。(中略部分は史料9に記載)

ここに大僧都空海が紀伊国の金剛峯寺において亡くなると。そして「化去」要するに亡くなるという意味ですが「年六十三」と書いてある。いわば朝廷の正式な歴史書『続日本後紀』承和二(八三五)年三月二五日条に六三歳で亡くなりましたよと書いているのです。これを逆算すると誕生年は七七三年になります。一般的な説の七七四年説と一年ずれてしまいます。ところが、空海が実際に書いた文章、先ほども紹介した『性霊集』巻第三に「中寿感興詩」がある。中寿というのは四〇歳のことです。そのときに空海が漢詩を書いていろんな人に渡しています。その漢詩を渡されたうちの一人が最澄です。最澄は、この中寿感興詩、つまり空海が中寿四〇歳になったときに詠んだ歌を受け取りましたが、それがいつだったのかきちっと書かれています。この詩には「不惑は促す、ああ、余、五八の歳」とあります。五八の歳っていうのは、五と八を掛け算してください。五×八で四十です。類例として平安時代初期の史料には例えば三八も出てきます。空海が『三教指帰』でも使っています。二四歳の事を三八と書きますし、五八は四十ですね。ああ、自分は四〇歳になってしまったということを書いて、そして最澄にも宛てたり、弟子の泰範にも宛てたりしているのです。この「五八詩」を最澄は弘仁四(八一三)年に受け取ったと『久隔帖』に記しています。だから空海は八一三年には四〇歳であったことは間違いないのです。そしてこの事から誕生年も七七三年ではなくて七七四年であったと言えるのです。そして西暦八一五年、今から一二〇〇年前には空海が四二歳であったということもわかります。つまり「八一五年の四二歳のときに四国霊場を開創しました」という伝承のうち、八一五年に空海が四二歳であったということは歴史学上実証、証明することができるのです。
 では、その弘仁六(八一五)年に空海はどんなことをしていたのでしょうか。先ほども紹介した朝廷の編さんした歴史書、当時は『日本後紀』の時代になりますが、『日本後紀』の中には空海の記述は出てきません。まだ若いですし、『日本後紀』のように、その国の「国史」であり、編さんされる内容、歴史は基本的には国家的事業が記録されるのです。国の事件もしくは朝廷の行事、役人の叙位、昇任などが記録される。まだ四〇歳頃と若く、十分な国家的実績を残していない空海がその頃に何をしていたかまでは書かれていないのです。残念ながら『日本後紀』の中には空海に関する記述は全く出てきません。そのかわり、空海自身が書いた文章を綴った『性霊集』であるとか『高野雑筆集』を見ると、この八一五年に何をしていたというのが少しだけですがわかる。日付までわかる史料もあるのです。
 まず弘仁六年一月一〇日に小野岑守が陸奥国守として赴任する。つまり東北地方の役人として遠くに赴任するので、その餞別の歌(漢詩)を与えています。その漢詩が『性霊集』に収められています。注目すべきは四月上旬に弟子を東国、東日本に派遣して、経典などを流布しようとしていたことです。これも『性霊集』に見えます。何度も繰り返しますが、空海が書いた文章を弟子の真済がまとめたものなのですが、『性霊集』巻第九に収められています。

史料4『性霊集』巻第九「諸の有縁の衆を勧めて秘密蔵の法を写し奉る応き文」
貧道帰朝して多年を歴と雖も、時機、未だ感ぜず。広く流布すること能はず。(中略)今、機縁の衆の為に、読講、宣揚して仏恩を報じ奉らんと欲す。是を以て弟子の僧康守、安行等を差はして彼の方に発赴せしむ。
 弘仁六年四月二日 沙門空海疏す

「諸の有縁の衆」要するに、いろいろと関係のある人々に「秘密蔵の法」要するに真言密教ですね。それを勧めて、「写し奉るべき文」要するに、いろんな人に密教に関する経典等を写したり教えたりしましょうということが『性霊集』の中に書かれています。それが八一五年なのです。そこに具体的に何と書いてあるかというと、「貧道帰朝して」貧道というのは貧しい道を歩んでいる自分ということで、へりくだって言っている、要するに空海自身のことです。自分は中国(唐)に渡って帰ってきて「多年を歴と雖も」多くの年月を経たけれども、「時機、未だ感ぜず」そして「広く流布することを能わず」とあります。密教をまだ広めることができていないということです。そして「今、機縁の衆」つまり関係のある多くの人々のために真言密教に関するものを読んだり講釈したり、あと宣揚したり「仏恩を報じ奉らんと欲す」と書いてある。要するに、ちょうど四国霊場開創とされる一二〇〇年前というのは、空海が真言密教を流布することを一種宣言した年でもあるのです。そして「是を以て弟子の僧康守、安行等を差はして彼の方に発赴せしむ」とある。この「彼の方」というのはまず常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)です。あと甲斐国(山梨県)も。これが『高野雑筆集』からわかります。要するに東国、今の関東地方あたりに派遣しているのと、もう一つ、徳一(とくいつ)という奈良時代から活躍していた法相宗のベテラン僧侶にも手紙を出しています。その徳一は会津(福島県)で活躍した人です。会津磐梯山の近くに慧日寺という大きな寺院跡が発掘されていますが、そこを拠点として活躍した人物です。このような東日本の僧徳一ともやりとりをしています。要するに、真言密教がまだ広まっていない東日本に対して流布、布教を意図、活動していたということです。もしその頃そのころ西日本や空海の生まれ故郷であるこの四国にいまだ密教が流布していない段階であるなら、このように東国、東日本に対して宣揚、流布しようとするかというと、恐らくしないであろうと思います。ある程度全国に流布する最後の段階で東日本が出てくると考えるのが妥当だと思います。恐らく八一五年の段階では空海は真言密教を四国にも流布をしていたであろうと私は推測しています。もしくはそれまでに流布していなかったら、この八一五年に流布する活動を起こしていた可能性が高いといえるのではないでしょうか。ちなみに一二〇〇年前に空海が四国霊場の八十八ヶ所を定めたと記している史料ですが、平安時代に記録された史料では実は確認できません。江戸時代の史料には様々出てきます。明治、大正、昭和、特に明治十六年以降になると頻繁に出てくるようになります。その明治十六年に何があったのか。いわゆる四国霊場の案内記や由来書にそれが記されるようになって、伝承が一般化していく時期になります。明治時代初期の廃仏毀釈による各札所の荒廃が一段落、もしくは再興に向けた動きが出てきた頃で、明治の新時代の四国遍路の出発点となるべき時期でして、案内記や縁起が多く出されます。明治十六年には中務亀吉(中務茂兵衛)が『四国霊場略縁起道中記大成』を著していますが、そこに四二歳に八十八ヶ所を定めたことが書かれています。しかし平安時代にはその直接根拠となる史料はありません。八一五年に空海が八十八ヶ所を定めたとことの史料的根拠を示さなければいけないと言われたら、恐らくこの先ほど見た『性霊集』の真言密教の宣揚流布の記述が一つ鍵、間接的根拠になるかと思います。
 もう一つは「厄年」の問題があります。空海が八一五年、四二歳の厄年の際に厄払いのために八十八ヶ所を開いたと書かれている文章もあるのですが、実は四二歳の厄年の習俗、慣習は時代的には新しいものなのです。江戸時代以降に定着したものです。一般的には、男性二五歳、四二歳とか、女性十九歳、三三歳と言われます。男四二歳、女三三歳が大厄とされますが、古代、中世、要するに江戸時代よりも古い時代、五〇〇年以上前や、空海の時代つまり平安時代の「厄年」は、よく史料を確認すると現代とは異なっています。例えば平安時代、九七〇年成立の『口遊』には十三歳、二五歳、三七歳、三九歳、六一歳と書かれています。また『拾芥抄』という鎌倉時代の有職故実書には十三、二五、三七、六一、八五とあります。要するに十三歳とか二五歳とか三七歳が出てくるのですね。これはいわゆる干支、十二支、子丑寅から亥までの十二が一巡した区切りといいますか、要するに12×X+1というのが古代、中世における厄年なのです。空海の時代には四二歳の厄年というのは出てきません。四二歳が定着するのは江戸時代です。ところが、江戸時代の学者である伊勢貞丈が書いた『安斎随筆』という史料があります。天明四(一七八四)年の成立です。これを見ると、厄年は十九歳、二五歳、三三歳、四二歳が挙げられている。現在と同じような厄年、厄払いが史料上で確認できます。そして三三歳は「三三と重なるゆえ散々」と、散々な年なので厄年とされる。四二歳は、四二と続くゆえ、「死にと取りなして忌むなり」とあります。ところが伊勢貞丈はこの『安斎随筆』の中で何と書いているかというと、厄年を皆さん信じなさいと書いているわけではありません。一七八四年段階で学者が記すには、厄年は「らちもなきことなり」とあります。信じるに足りないことだと書いているのです。要するに厄年が定着していくのは江戸時代の中期から後期。徳川将軍家でも、実際に厄年のときに厄払いで寺院に参詣することが始まるのが一七〇〇年代の半ば、今から二五〇年ぐらい前です。ちょうど十一代将軍の徳川家斉が二五歳や四二歳の厄年の厄除けのために関東の川崎大師平間寺に参詣するようになります。それに影響されて厄年の者の社寺参詣といいますか、四二の厄年、三三の厄年の時に厄を落とそうということで社寺参詣が庶民の間にも広まっていきました。つまり、空海が四二歳の厄年の時に厄払いのために四国霊場を開創したというのは、「厄年習俗」自体の歴史からすると、恐らく後の時代に成立した。もっと言えば江戸時代後期以降に成立する言い伝え、伝承なのではないかと思われます。
 さて、何度も言いますが今年は四国霊場開創一二〇〇年とされていますが、ちょうど五〇年前の昭和三九(一九六四)年に例えば第一番札所霊山寺の本堂が改築されていますが、様々な札所で石造物の年紀を見ますと、昭和三九年のものが多いのです。つまり開創一一五〇年祭を行っていたのです。そしてさらにその五〇年前が、大正三年、西暦でいうとちょうど一〇〇年前ですから一九一四年になりますが、その時に既に四国霊場開創一一〇〇年の記念として、納経帳に各札所で「開創一千百年」の記念印が押印されています。このことは大正三年の納経帳を愛媛県歴史文化博物館で所蔵していまして、そこに押されているのが確認できます(写真5)。また、一一〇〇年記念として石造物といいますか道標を建立したり、お遍路さんが遍路道を回りやすいようにガイドブックを出版しようとしたりしています。そのガイドブックで得た利益で道標を建立しよう、そしてこれは四国霊場開創一一〇〇年目の事業であるという様に三好廣太著『四国遍路同行二人』(大正2年発行)という案内記に書かれています。要するに、近年になって開創記念事業が唐突に行われはじめたわけではなくて、五〇年前も行われていますし、一〇〇年前の大正三年にも開創事業は行われていたのです。問題は今から二〇〇年前の開創一〇〇〇年です。西暦でいうと一八一四年、和暦でいうと文化十一年になります。文化十一年の段階で、四国霊場が開創されて一〇〇〇年になったので記念事業をやっているとか、その記念誌が出されたとか、その記念で何らか版本とか絵図とかが刷られている事例が、現在のところ確認されていないのです。もし皆さん、興味のある方で、文化十一年もしくはその数年前の四国遍路関係史料を見て、四国霊場開創一〇〇〇年を記念する一文がどこか確認されたとしたら、大きな発見になると思います。これはまだ見つかっていないのです。しかし、見つかる可能性は充分にあると思います。この点は四国遍路研究の課題の一つといえます。
 なお、多くの札所では弘仁六(八一五)年に開創された、創建されたという言い伝えや記録は寺ごとにはあります。ところが八十八カ所を一括で厄除けのために空海が開きましたという記述がないということです。江戸時代末期には、例えば八十八番札所の大窪寺さんの史料に八一五年に空海が開創したと書かれている史料がありまして、愛媛大学の胡光先生によって確認されています。寺院ごとでは八一五年開創の記録はいろいろ出てきますが、厄年、厄除けと関連づけて四国霊場をまとめて開創したという史料は明治時代以降ではないのかと推察しています。
 もう一つ、来年二〇一五年は八一六年の高野山開創から一二〇〇年目にあたります。弘仁六(八一五)年の翌年の弘仁七(八一六)年に空海は高野山を開創します。これは『性霊集』に詳細に記されていて歴史的事実として確実です。来年は高野山一二〇〇年、今年は四国一二〇〇年というように一二〇〇年が続きます。そのあとの一二〇〇年となると、二〇二二年に東寺給預、二〇三四年に御遠忌(空海入定から一二〇〇年)がやってきます。

⑤につづく


弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー③

2023年12月20日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー③

三 幼少期、青年期の空海
 さて、空海がいつ生まれたかということに触れたいと思います。よく教科書に紹介されるのは「空海は平安時代初期に活躍をした僧侶で、同時代に最澄がいます」というような説明ですが、空海が生まれたのは平安時代ではありません。奈良時代後期です。誕生したのは七七四(宝亀五)年です。奈良時代後期七七四年というと、ちょうど天平期の東大寺の大仏建立とか各国に国分寺、国分尼寺が建立されたのが西暦七四〇年代ごろになりますが、それよりも後。聖武天皇の後に女帝の孝謙(称徳)天皇が即位しますけれども、孝謙(称徳)天皇のときに僧侶の道鏡が権力を持ちます。その道鏡がちょうど排除、排斥され、称徳天皇から代わって、それまで天武系だった天皇が天智系に代わる。その天智系の血脈である光仁天皇が即位しますが、その頃に空海は生まれています。要するに天平期がちょうど終わって、さあ奈良時代後期の新しい時期に入って、長岡京遷都、平安京遷都へ向けて時代が動き始める少し前。それが空海誕生の七七四年です。
そして空海の幼名は真魚(まお)です。真実の「真」に「魚」と書きます。今でしたら、幼い時「まおちゃん」と呼ばれていたでしょう。今年の冬季ソチオリンピックでフィギュアスケートの浅田真央さんが活躍しましたが、同時に本年は四国霊場開創一二〇〇年の記念の年ですから、記念に、もしくは縁起がいいということで、どなたか赤ちゃんが誕生した際の命名で、この「真」に「魚」の「まおちゃん」の名付けをしないかなと思うのですが、インターネットで検索してみましたが誰も出てきませんね。
 さて、この写真は七七四年に空海が生まれた場面です(写真2)。これは和紙人形で、実はここ地元川之江の手漉き和紙も使って作られています。和紙芸術家の内海清美(うちうみきよはる)先生の作品で、空海(真魚)がちょうど生まれたシーンです。父田公(タギミ)と母阿刀氏(アトシ)ですね。この時代は奈良時代後期です。その空海は十五歳になって平城京に行きます。この時もまだ奈良時代です。平城京で何をしたかというと、仏教を学びに行ったわけではないのです。奈良時代の真魚は、要するに学問に勤しむ。母方の阿刀氏は阿刀大足(アトノオオタリ)という人物を輩出しています。阿刀大足は空海のおじに当たるのですが、そのおじは桓武天皇の息子の伊予親王の侍講(家庭教師)をしていたのです。その阿刀大足から学問を学ぶのが、ちょうど奈良、平城京に出ていった真魚十五歳の時なのです。このように、最初から仏道修行のために中央に行くというよりは、学問を修める。いろんな学問がありますが、儒教、仏教、そして道教がありますけれども、その中でも特に儒教が中心です。当時は儒教を学ぶことで官僚、エリートコースの道を進むことができる。朝廷で役職に就こうとするならば仏教ではなくて、学ばなければいけない、身に着けなければいけないのは儒教だったのです。つまり儒教のさまざまな書籍を学んでいくのが、十代後半、特に十五歳から十八歳の空海になるわけです。空海は十八歳のときに大学に入ります。大学に入るといいますと、愛媛大学とか香川大学など現在の大学とは意味合いが違っていまして、どちらかというと朝廷の役人を輩出するための官僚養成機関なのです。そこに十八歳で空海は入学することができました(写真3)。普通ですと貴族の子息とかが入ります。空海は佐伯氏出身です。現在でいえば香川県善通寺市の生まれですから、善通寺あたりの佐伯氏は、いわゆる郡司クラス、今でいえば市長とか県議会議員クラスになるかと思います。その出身です。空海は大学に入りましたが、当時、大学ともう一つ国学という役人養成機関がありました。郡司クラスの子息だと国学に入ることが多いのですが、空海は母方の阿刀氏、つまり桓武天皇の息子の伊予親王の侍講(家庭教師)もしていた名門の学問氏族に関わっているということで大学に入っていく。ところが、空海は十八歳で大学に入ってあと、このままでいいのだろうかとどんどん悩んでいって、結局、大学をドロップアウトして山林修行に入っていくことになります。この青年期に仏道修行に目覚めていくのです。
 そして、四国などでも修行をして、高知県室戸に御厨人窟(ミクロド)がありますが、そこで輝く金星が口の中に入ってくるという奇瑞(珍しい現象)を感得して、修行のステージを上げるという形になります。これも平安京遷都前の若い時期です。延暦十六(七九七)年、空海は『三教指帰』を著します。『三教指帰』というのは「三つの教え」と書きますが、つまり儒教、道教、仏教の三つの教えのうち、どれが一番優れているのか。そして仏教が優れていることを結論として書いた史料です。空海が二四歳の時です。二四歳までは空海が何をしていたのかその事蹟はわかります。十五歳で奈良・平城京に行き、十八歳で大学に入り、それからドロップアウトして仏道修行、山林修行に入り、二四歳で『三教指帰』を著すというように、何をやっていたかおぼろげながら事蹟はわかるのですが、その後、二四歳から三一歳までの約七年間はどのような行動をしていたのか、史料には全く現れません。恐らく全国もしくは四国、西日本各地を修行していたであろうと思われますが、突如、三一歳のときに史料上に現れます。それが遣唐使に随行して唐に渡るときです。延暦二三(八〇四)年のことです。もう既に桓武天皇が即位し、平安京に遷都された時代になりましたが、八〇四年に空海が遣唐使に随行して、中国(唐)に渡って、長安(今の西安市)に行きます。その遣唐使船は全四隻で編成されていましたが、四隻のうち二隻は座礁、難船して結局中国には渡れませんでした。あとの二隻のうち第一艘目に遣唐大使藤原葛野麻呂と空海が乗っていたのです。もう一方の船には誰が乗っていたかと、天台宗の開祖である最澄が乗っていたのですね。だから、四分の二(五〇パーセント)の確立で中国に渡ることができたのが空海であり最澄なのです。これがもし逆で、空海と最澄の乗っていた船が難破して、ほかの二隻が中国に着いたとしたら、日本の宗教史は大きく変わっていたかもしれません。本当に偶然なのです。
 そして、八〇四年に中国(唐)に渡って、長安で活動します。唐長安に青龍寺(「セイリュウジ」とも「ショウリュウジ」とも言います)にて、真言宗の正統な後継者であった恵果和尚に出会い、空海の師匠にあたる人物となります。延暦二五(八〇五)年のことです(写真4)。このときに空海と恵果和尚が対面をして、そして恵果から真言密教を学んで、日本に持ち帰ってきます。そして日本に真言密教を広めていく。高野山を開創したり、京都の東寺を給賜されたり、そして嵯峨天皇、淳和天皇と関わりが深く、宮中にも真言密教を広めていったのが空海だったわけです。

④につづく

弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー②

2023年12月19日 | 信仰・宗教
弘法大師空海の生涯 ー1200年前の空海と四国ー②

二 柑橘を称賛する空海
 まずこの写真は西予市宇和町にある愛媛県歴史文化博物館で先日六月八日まで開催していました特別展「弘法大師空海展」にて展示していた作品です(写真1)。非常に大きい寸法でして、縦四メートル幅六メートルの作品です。地元の愛媛県立三島高校書道部の皆さんに五月三日に書道パフォーマンスで書いていただいたものです。ここに表現されているのは、実際に空海が平安時代に書いた言葉なのです。それを三島高校書道部の皆さんに作品にしていただきました。

史料1 柑子を獻ずる表(『性霊集』巻第四)
沙門空海言さく 乙訓寺に数株の柑橘の樹有り 
例に依りて交へ摘うて取り来る
数を問へば千に足れり 色を看れば金の如し 
金は不変の物なり 千は是れ一聖の期なり
 詩七言
桃李珍なりと雖も 寒に耐へず
豈柑橘の霜に遇つて 美なるには如かむや
星の如く 玉の如し 黄金の質なり
香味は簠簋に実つるに 堪へたるべし
千年一聖の会を 表すべし
攀ぢ摘むで持て 我が天子に献ず

 何が書かれているかというと、実は愛媛県のシンボルであるみかん(柑橘)を称賛している漢詩なのです。『性霊集』という空海が書いた文章を弟子の真済がまとめた史料があるのですが、そこに載せられているものです。ここに「黄金の質」とか、「桃李珍なりと雖も寒に耐へず」云々と書かれていますが、要するに桃やスモモは珍しいけれども、寒さに耐えることはできない。ところが「豈柑橘の霜に遇って」つまり、柑橘類は寒さの中で霜にあうけれども「美なるには如かんや」。つまり美しいことに及ぶものはなく、寒さの中でも美しく育つ。そして、それは「星の如く玉の如し」とあります。しかも「黄金の質なり」とも書かれています。また「香味」要するに匂いや味は「簠簋」(入れ物)に満ちる。入れた物の中に充満するくらい素晴らしいとあります。「千年一聖の会を表すべし」これは要するに千年が一つの区切りであるほど永遠であるということです。つまり、みかん(柑橘)自体が、星のごとく玉のごとく、黄金であり千年でありと賛美しているのです。それを「攀じ摘むで」柑橘の実を摘んで我が「天子」(嵯峨天皇)に献じますよ、という言葉を三島高校の皆さんに書いていただきました。
空海の生誕地は讃岐(香川県)ですが、このようにみかん(柑橘)を絶賛している。それを地元の方、愛媛の方には広く理解してもらいたいと思いまして紹介しました。実は、この「柑子を献ずる表」は『性霊集』に所収されていますが、これには、前文があります。「沙門空海言さく」とありますが、「沙門」つまり空海自分が言うには、乙訓寺(今の京都府長岡京市にある寺院)の柑橘なのです。だから、愛媛の柑橘を献上したわけではありません。長岡京市にある乙訓寺に数種の柑橘の木があって、それを摘んで、そしてその「数を問へば千に足れり」と、「色を看れば金の如し、金は不変の物なり」と。「千は是れ一聖の期なり」永遠であるという絶賛です。これは実際に空海が言ったと「伝えられる」という類の「伝説」「伝承」レベルの言葉ではなくて、実際に空海が嵯峨天皇に柑橘を献上するときに添えた文章でして、『性霊集』に記された歴史的事実なのです。本物の「空海の言葉」といえるでしょう。それを最初に紹介させていただきました。

③につづく



弘法大師空海の生涯ー1200年前の空海と四国ー①

2023年12月18日 | 信仰・宗教
※本稿は『宇摩史談』103号(宇摩史談会、2015年2月)に掲載した原稿(2014年6/29(日)の宇摩史談会記念講演会「弘法大師空海の生涯~1200年前の空海と四国~」(会場 ホテルグランフォーレ)での講演録)である。今年2023年が弘法大師空海生誕1250年の記念の年ということもあり、弘法大師の伝説ではなく、人間空海の生涯を紹介しておきたい。ちょうど12月17日には徳島市立徳島城博物館で本稿の内容をもとに講演を行った。受講したかったが、遠方であったり、都合がつかず参加できなかったとの連絡を複数、いただいているので、参考までに本日から8回に分けて、掲載しておきたい。

弘法大師空海の生涯ー1200年前の空海と四国ー①

一 はじめに
○司会  
 講師の先生の御紹介を会長より行っていただきます。
○会長
 定刻の一〇時三〇分がまいりました。ただいまより、大本敬久先生をお迎えして御講演をお願いしたいと存じます。それでは、大本先生の御紹介を申し上げたいと存じます。まず、講師の先生は大本敬久先生でございます。西予市宇和町に所在する愛媛県歴史文化博物館の専門学芸員でございます。役職等につきましては、文化庁文化財調査員、西予市文化財審議会委員、日本民俗学会評議員、四国民俗学会理事等の要職を歴任されておられます。演題は御承知のように「弘法大師空海の生涯」、副題といたしまして「一二〇〇年前の空海と四国」、とりわけ身近なお話もございます。本日は、先生の特に御配慮によりまして、スクリーンに大きく映しましてわかりやすく御講演をいただくということになっております。所要時間は一時間三〇分でございます。どうぞ皆様、おしまいまで御清聴くださいますようお願い申し上げます。それでは、大本先生、どうぞよろしくお願いいたします。(拍手)
○大本  
 只今御紹介に預かりました、愛媛県歴史文化博物館学芸員の大本敬久と申します。よろしくお願いいたします。今ちょうど一〇時三二分です。約九〇分、一二時までおつき合いいただければと思います。タイトルは「弘法大師空海の生涯」です。一二〇〇年前の弘法大師空海の生涯とその時代背景を今から大体九〇分、お話させていただきます。
 四国中央市といいますと、四国霊場六十五番札所の三角寺さんが有名ですし、あと、別格二十番霊場では四国の全二十霊場のうち、十二番、十三番、十四番の三ヶ所が四国中央市内にあります。誓いの松で有名な延命寺さん、三角寺さんの奥の院の仙龍寺さん、あと、椿堂(常福寺さん)です。このように、四国中央市は他の自治体、市町村と比べても、弘法大師空海に関する伝説、伝承、歴史に関してかなり色濃い地域だというふうに言えるかと思います。お隣の新居浜市になりますと、霊場はありません。十二番の延命寺さんの前の別格霊場十一番となりますと生木地蔵で西条市丹原町になります。四国中央市の弘法大師信仰については霊場だけではなく村松大師とか、あと旧土居町の三度栗、つまり一年間に三度なる栗の伝説がありまして、弘法大師に関する伝承は実に数多い地域です。
 さて本日の内容は、一二〇〇年前の空海がどのような生涯を送ったかという話になります。要するに、弘法大師伝説が各地にどのように広まったか、そして現在どのようになっているのかというテーマを追求、整理する前に、実際に「人間空海」が平安時代初期にどのような生涯を送り、その時代背景がどうだったのかっていうことを紹介したいと思います。本日来場された参加者は、一五〇人以上と予想以上に人数が多いですね。レジュメが全く足りていないとうかがいました。今、レジュメを持たれてない方もおられると思いますので、一応スクリーンさえ見ればわかるように話をしたいと思います。何とか九〇分お付き合いいただければと思います。

②につづく


国立歴史民俗博物館特集展示「四国遍路・文化遺産へのみちゆき」

2023年12月02日 | 信仰・宗教

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館では現在、特集展示「四国遍路・文化遺産へのみちゆき」が開催されています。会期は2月25日まで。愛媛県歴史文化博物館も共催し、四国遍路関係の所蔵資料を出品しています。

四国遍路は、四国4県を周回するルートの中に88ヶ所の霊場が設置された回遊型の巡礼路のことです。その起源は真言宗の宗祖、弘法大師空海に措定され、1200年に渡り人々に信仰され、継承されてきました。もっとも四国遍路の長い歴史のなかでは、その位置づけや人々の関わり方も大きく変化してきました。現代では、世界的に知られるようになった四国遍路を、世界遺産に登録しようとする運動が活発化しています。この展示では、四国遍路の歴史的文化的背景を概観しつつ、近現代における文化資源化の内実に迫っていくものです。

【展示の構成】
この展示では、四国遍路の歴史と現在について、次の構成で紹介しています。

1 四国遍路と弘法大師空海
四国遍路は真言宗の宗祖、弘法大師空海が霊場を定めたと伝えられています。遍路の白衣にも「南無大師遍照金剛」と背中に記され、金剛杖は大師の化身であるとされています。そこで本展示では、まず弘法大師と四国とのつながりを示し、古代から続く大師信仰の系譜をみていきます。

2 遍路絵図と描かれた札所
江戸時代に確立し、庶民の旅の目的として普及していった88ヶ所霊場の特徴を概観します。四国遍路の長い歴史のなかでは、その位置づけや人々の関わり方も大きく変化しています。例えば、88ヶ所を巡るお遍路ですが、これらの札所が定まったのは近世、17世紀に入ってからでした。札所をめぐる巡礼路が絞られていくのも、それ以後のことになります。四国遍路の普及に大きな役割を果たした媒体に注目し、描かれた遍路の姿についても紹介していきます。

3 近代化とツーリズム
近代化のなかで四国遍路は、全国からの集客を見込めるツーリズムへと展開していきます。遍路の代名詞でもある「南無大師遍照金剛」と背中に記された白装束についても、戦後になって普及した姿であることがわかってきました。明治・大正時代に奉納された絵馬や戦前の絵葉書の遍路の一行には、白装束は数えるほどしかみられません。鉄道やバス、自家用車の利用なども盛んになることで、遍路の意味づけや参加者、規模や期間も変化していきました。

4 世界遺産登録に向けて
21世紀になると、四国遍路を世界遺産に登録しようとする運動が活発化します。四国4県は登録に向けて様々な活動を行うとともに、その文化的歴史的な特質を炙り出し、遍路文化を物語化していきました。また、今回の展示共催となる愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センターと愛媛県歴史文化博物館による最新の研究成果の紹介も行います。

【展示のみどころ】
四国88ヶ所霊場を開いたとされる弘法大師空海とはどんな人物だったのか、弘法大師と四国とのつながりから紐解く
四国遍路の札所はなぜ88ヶ所なのか?-遍路絵図に描かれた、札所や遍路道の姿について紹介する
四国遍路はなぜ白装束?いつから?-近代化による遍路の変化をみる
世界遺産とは?-四国遍路が持つ世界遺産に登録される価値を考える

開催期間 2023年9月26日(火)~ 2024年2月25日(日)
会場 国立歴史民俗博物館 第4展示室 特集展示室
料金 一般600円/大学生250円 高校生以下無料
開館時間 9:30~16:30(最終入館は16:00まで)
休館日 毎週月曜日(月曜日が休日の場合は開館し、翌日休館 )
年末年始(12月27日~1月4日)、2024年2月14日(水)
主催 大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館
共催 愛媛県歴史文化博物館、愛媛大学 四国遍路・世界の巡礼研究センター

空海の風景

2023年11月27日 | 信仰・宗教
NHKEテレの番組「こころの時代」で、2002年制作の「空海の風景」 前編”天才”の旅立ち〜大唐渡海の夢〜が再放送されます。

現在は愛媛県歴史文化博物館で展示している和紙彫塑に見る弘法大師空海の世界「密⚫︎空と海ー内海清美展」を基に空海の生涯を紹介する番組です。

ナレーションは、中村吉右衛門と若村真由美。解説は山折哲雄さん、白川密成さん。

初回放送日: 2023年12月3日(日)午前5時〜午前6時
こころの時代〜宗教・人生〜

こころの時代〜宗教・人生〜

人生の壁にぶつかったとき、絶望の淵に立たされたとき、どう生きる道を見いだすのか。経済的合理性や科学的思考が判断基準となりがちな現代。それだけでは解決できない生老...

こころの時代〜宗教・人生〜 - NHK

 




平安時代前期の空海と光定

2023年03月02日 | 信仰・宗教
一遍会の会誌『一遍会報』451号(2023年2月刊)に空海と光定について寄稿、掲載したので、ここに転載しておきます。

平安時代前期の空海と光定

平安時代前期の空海
愛媛県歴史文化博物館では、平成二四(二〇一二)年より弘法大師空海の生涯を和紙彫塑で紹介した新常設展「密●空と海-内海清美展」を開催しており、この約一〇年間、筆者もその展示担当者として弘法大師空海の生涯、特に伊予国をはじめ四国との関わりについての調査研究を進めてきた。しかし、空海が活躍した平安時代前期の伊予国や四国に関する文献を用いた実証的な研究は進んでいるとは言い難い状況で、この時代の六国史「日本後紀」には欠落が多く、残された基礎史料が少ないことが最大の要因といえる。近年、四国四県では四国遍路文化をユネスコ世界遺産に登録に向けての活動が活発化しているが、四国遍路の起源として、高野山開創の前年の弘仁六(八一五)年に、弘法大師空海によって四国霊場が開創されたとの伝承があるが、これが歴史的事実として実証が困難なことは、これまで拙稿「弘法大師空海と四国遍路開創伝承」(愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年)などで指摘してきたとおりである。弘仁六年には空海は東国への密教の普及を試みていた時期で、四国を訪れたことを実証できる史料は確認できない。翌年に空海は朝廷から高野山開創の勅許を得るが、この時点で四国と高野山の直接的なつながりも確認できない。ただし、空海の著作「聾瞽指帰」や「三教指帰」、そして空海の没伝が掲載されている「続日本後紀」からは、讃岐国での空海誕生の史実や、若き日の空海が土佐国室戸岬や伊予国石鎚山で修行したことなど、空海と四国との直接的関係を示す史料も見られる。この点については、拙稿「『三教指帰』に見る空海と四国」(『四国遍路と世界の巡礼』六号、愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター、二〇二一年)、拙稿「高野山と伊予国―『国宝高野山金剛峯寺展』を観覧して―」(『伊予史談』四〇八号、伊予史談会、二〇二三年)にて紹介している。
そして、平安時代前期における空海の事績は、空海本人やその周囲の真言宗の関係者といった内部の視点だけで考えるべきものではない。当時の仏教界は奈良における南都六宗と、最澄により整備が進められていた天台宗、比叡山延暦寺の存在は大きく、それらと交流や対抗しながら、空海は真言密教を確立し、その道場として高野山や東寺を経営していったといえる。後世には、空海の事績は真言宗や高野山、東寺という枠組みの中で「祖師」としてストーリー化されて語られることが多く、空海存命中における奈良(南都)や比叡山との関係については語られにくい傾向があることは否めない。そこで、空海の他宗との関係の一例として、天台宗の最澄の弟子で、伊予国出身の光定を取り上げてみたい。

伊予の光定
 宝亀五(七七四)年に讃岐国で生まれた空海と同時代に天台宗の僧侶として活躍したのが伊予国風早郡(現在の愛媛県松山市北部)出身の光定である。生年は宝亀一〇(七七九)年であり、空海より五歳若い。大同三(八〇八)年に比叡山に登って最澄の弟子となり、弘仁三(八一二)年には高雄山寺で空海から密教の灌頂を受けており、空海との直接の交流もあった。光定は最澄の念願であった大乗戒壇設立に貢献し、また天台座主に円澄が就任する際の人事で大きな発言権を持つなど、初期天台宗の基礎の確立に尽力している。承和元(八三四)年には自身の生涯や天台宗の出来事を記した「伝述一心戒文」を著し、承和二年には内供奉十禅師、同五年に僧位の首位である伝灯大法師位になっている。なお、当時、空海は先んじて伝灯大法師位となり、承和二年に高野山にて没している。仁寿四(八五四)年四月三日に円仁が第三世天台座主に就任したが、「天台座主記」によると同日に光定は延暦寺別当に補任されている。これによって光定は後世「別当大師」と尊称されることになった。
 「延暦寺故内供奉和上行状」によると斉衡二(八五五)年、文徳天皇が天台宗を抑え、真言宗を賞賛する発言をしたため、光定は怒って「我再び参らず」といって宮中から比叡山に帰ったという逸話もあるが、天安二(八五八)年の八〇歳の祝いとして文徳天皇から恩賞を賜っている。その直後の同年八月一〇日に延暦寺にて没している。「本朝高僧伝」、「弘法大師十大弟子伝」などでは光定は、最澄の弟子であったが後に空海に師事した泰範と同一人物であるという説があるも、これは史実ではない。光定と泰範は入山時期も近く、交流は深かったと考えられる。泰範はその後、空海の十大弟子の一人として活躍し、弘仁七(八一六)年に高野山開創の勅許を賜った直後、空海に先んじて、同じ十大弟子の実慧と高野山に登山して造営に尽力した。空海が勅許後に高野山に初めて入るのは二年後の弘仁九年であり、開創初期には泰範の存在は大きく、空海の弟子達と光定の関係を考究する視点も重要である。
 これまでの刊行物で光定の生涯については、越智通敏『法師光定』(一九七五年、後に四国天台仏教青年会、二〇〇五年)、『愛媛県史 古代Ⅱ・中世』(一九八四年)、熊澤芳裕、吉本栄作『別当大師光定さま』(天台宗四国教区松山部寺院、二〇〇八年)に詳しく、一遍会でも平成一七年七月の第四〇一会例会にて熊澤芳裕「別当大師光定」の例会発表が行われている。本稿では、光定に関する史料を列挙しながら、それぞれから明らかになる光定の事績を紹介してみたい。

光定の生涯
空海と同時代の伊予出身の僧光定の一代記として「延暦寺故内供奉和上行状」がある。光定没後一八年と比較的早い時期の貞観一六(八七四)年五月五日、延暦寺僧の円豊等が編纂したものである。筆者はこの史料を京都大学附属図書館で実見したことがある。この京都大学附属図書館本は安政二(一八五五)年に延暦寺僧により書写された写本であり、延暦寺の中で書写され続けたものであることがわかる。園城寺にも写本が所蔵され、『国書総目録』には「国宝」と記載されているが、その詳細について筆者は把握できていない。『国書総目録』などを見ると、広く流通した版本としてはその存在は確認できない。活字本としては『続群書類従』八輯下があり、内容を把握することができるが、天台宗内で引き継がれてきた史料であり、中世、近世に文化人や知識人が読んだり、収集したりするような広がりはなかったようである。
この史料の中で、光定の出自について、俗姓は贄氏、予州風早郡の人、武内宿祢の六男葛城襲津彦の子孫であり、母は風早氏と記される。出生について、母の腹中に蓮華が生える夢をみて、身重であることが判明した等の奇瑞譚がある。光定著「伝述一心戒文」とともに光定の生涯を知る上での基礎史料である。
次に、朝廷の正史(六国史)の一つである「日本文徳天皇実録」の天安二年八月戊戌(一〇日)条に光定の卒伝(生涯の履歴)が詳細に記載されている。「内供奉十禅師(宮中の内道場に奉仕する高僧)で伝灯大法師位(僧位の最高位)の光定が没した。光定は俗姓が贄氏で伊予国風早郡の人」と記されている。「延暦寺故内供奉和上行状」に見える母が風早氏であることの記載は無いが、やはりここでも出身氏族が贄氏と記される。伊予国内の贄氏については「正倉院文書」の天平八(七三六)年の正税帳に「少領従八位上贄首石前」とあり、少領(郡司の次官)であった贄石前の一族の可能性があるだろう。また、「日本文徳天皇実録」には、光定が天安二年八月一〇日に八〇歳で没したとあり、ここから生年が奈良時代後期の宝亀一〇(七七九)年であったと推定することができる。大同年間に比叡山に登り、最澄の弟子となった事や、同五(八一〇)年には宮中の金光明会にて得度し、弘仁三(八一二)年に東大寺戒壇院で具足戒を受けた事、そして、光定の人となりは「服飾を事とせず、天皇は彼の質素を悦ばれ、殊に憐遇を加う」と記されている。
そして、光定自身の著作に「伝述一心戒文」がある。上・中・下の全三巻からなり、承和元(八三四)年に完成している。応徳元(一〇八四)年に良祐が書写した延暦寺蔵本が最古の写本として残され、国重要文化財となっている。筆者が実見したことがあるのは京都大学附属図書館本であり、これは寛文四年(一六六四)版で、江戸時代に出版され流布したが、愛媛県内での図書館、博物館などでの所蔵について筆者は確認していない。版を重ねて広く流通したとまではいえないのかもしれない。活字本としては『大正新脩大蔵経』七四巻、『日本大蔵経』七八巻、『伝教大師全集』一巻があるが、現在のところ定本となるような注釈本や現代語訳本は出版されていない。今後の伊予国関係の古代史や仏教史研究の課題として注釈、現代語訳の作業は必要であろう。
この「伝述一心戒文」には光定を中心に天台宗確立期の様子が詳細に記されており、光定自身の生涯を記す基礎史料であるとともに、初期天台宗史の基礎史料でもある。空海と最澄の交流についても記されている。「長岡乙訓の寺に海阿闍梨(空海)あり、先師(最澄)相語りて、かの寺に一宿す。先の大師(最澄)と海大師(空海)と面を交えること稍久し。灌頂の事を発す」とある。これは光定が空海から弘仁三(八一二)年一一月一五日に最澄とともに金剛界、一二月一四日に最澄、円澄、泰範ら一四五人と胎蔵界灌頂を受けた事に関する記事である。このように光定は空海との交流もあり、最澄と空海との交流が深い時期であった弘仁三年に光定は高雄山寺に留まり、空海より真言を学んでいる。

光定の活躍
さて、比叡山は「古事記」の大山咋神が鎮座したことを伝える記事が初見とされ、最澄が延暦四(七八五)年に登山し、同七年に比叡山寺が開創された。平安京遷都に伴って鬼門(丑寅の方角)にあたることから王城鎮護の山として重視され、弘仁一四(八二三)年に延暦寺の寺号を賜り、延暦寺は東塔、西塔、横川の三塔にわたり発展している。その平安時代前期における比叡山での光定の活躍ぶりについては、最澄の著作で、天台宗の根本史料でもある「山家学生式」も関係している。「山家学生式」は弘仁九(八一八)年五月一三日の「六条式」(「天台法華宗年分学生式」)、同年八月二三日の「八条式」(「勧奨天台宗年分学生式」)、同一〇年三月一五日の「四条式」(「天台法華宗年分度者回小向大式」)の三編で構成され、比叡山で学生を養成する法式を定めている。この時期には比叡山で得度しても、正式な僧(官僧)となるには奈良(南都)に設けられた戒壇で受戒する必要があった。最澄は比叡山での戒壇設立を主張するため「山家学生式」を著し、光定が使者となってこれを宮中、朝廷や当時の大僧都護命のもとに持参したが、すぐに朝廷から戒壇設立の許可は降りなかった。天台宗の基礎的な文献であるが、光定が使者として宮中、朝廷との連絡調整役であったことには注目すべきであり、後の仁明天皇の時代にも宮中との深い関係が続いたことは「伝述一心戒文」からも読み取れる。ただし光定と宮中との関係を考証した論考は管見の限り確認できず、今後、このテーマでの研究深化が求められる。
なお、それまで戒壇は、東大寺、筑紫の観世音寺、下野国の薬師寺の三ヶ所に限られ、新しい戒壇を認めることは奈良(南都)からの強い反発があった。天台宗の戒壇が勅許されたのは弘仁一三(八二二)年六月であり、最澄が没した直後であった。翌弘仁一四年四月一四日、公認後初めて義真を戒師として光定をはじめ一四人が受戒している。このとき光定は、空海とともに「三筆」の一人である嵯峨天皇宸筆の戒牒を賜っている。それが「光定戒牒・嵯峨天皇筆」であり、現在も延暦寺に国宝として伝存している。戒牒は縦簾紙に揮毫され、太政官印が捺されている。太政官印は従来、度牒(朝廷から出家者に与える許可証)に捺すが戒牒には捺さないものであったが、光定は延暦寺別当大伴国道に対して、唐において義真が受戒した戒牒に倣うことを主張し、認められたという経緯がある。天台宗の戒壇設立だけではなく、その制度の確立にも光定は関わっていた。
鎌倉時代に編纂された仏教史書である「元亨釈書」巻第三には、後世の記録ではあるが、光定の活躍が紹介されている。出自についても「日本文徳天皇実録」同様に「予州風早郡人」と記されるが母方の風早氏の記述は見えない。幼いときに父母が亡くなり大同年間に最澄に師事したことなども記される。そして、弘仁五(八一四)年に興福寺僧義延と「抗論」したとも記され、この年、最澄が宮中で諸宗と対論して天台教義を述べており、奈良仏教(南都六宗)と盛んに宗論していた時期であった。興福寺を氏寺とする藤原冬嗣(当時、従三位で、後に左大臣まで登る)の同席のもと、光定は義延と論じ合って法相宗よりも天台教義が秀でているとし、高名を得たとされる。光定の活躍により、天台教義が確立されていったことを物語る史料である。
また、「唐決集」という史料がある。最澄、光定、源信など天台宗の僧が、中国天台宗の僧に対して行った教義に関する質問とその回答を集めたものである。目次に「光定疑問、宗頴決答」とあり六ヶ条(最澄の質問は一〇ヶ条)が載せられている。内容は法相、三論、華厳との教義的な内容を質問し、会昌五(八四五)年三月二八日に唐・長安の醴泉寺の宗頴が答えている。南都六宗との宗論だけではなく、光定は唐の天台宗との問答により、天台教義を確たるものにしていったといえる。
 ただし、光定は最澄の没後に天台宗を代表する座主に就いているわけではない。「続日本後紀」巻二の天長一〇(八三三)年一〇月壬寅(一〇日)条には、最澄の弟子で第二世天台座主に就任した円澄がこの日に没しており、その没伝記事が載っている。一説には没年は承和四(八三七)年とされるが、円澄は最澄の「澄」の一字を与えられている。円澄と光定との関係は深く、円澄の方が八歳年長であった。「伝述一心戒文」によると初代天台座主義真の没後、円修が座主を称したが、光定は最澄から付法印書で円澄を後継とすることを伝えられており、円澄を座主に推挙するため天皇に上表し、円澄が天台座主となったという経緯がある。光定は天台宗内で最澄の後継者を決定するにあたっての影響力を行使するほどであった。

光定没後の顕彰
さて、園城寺が所蔵する円珍「制誡文三条」という史料がある。円珍(智証大師)は弘仁五(八一四)年、讃岐国に生まれ、母が佐伯氏で、空海の姪の子にあたる。仁寿元(八五一)年に入唐して青龍寺などで学び、貞観一〇(八六八)年に天台座主に就任している。この史料は仁和三年(八八七)一〇月一七日に弟子達に対して示した三条の戒文で、第一に最澄の教えを守り、第二に光定の恩を忘れないこと、第三に円仁の遺戒を守るべきことが記されている。やはり、天台宗の草創期には光定の存在が大きかったことを物語る。
また、光定を造像したものとしては、現在、延暦寺の比叡山国宝館に保管されており国の重要文化財に指定されている木造光定大師立像がある。もとは比叡山麓で光定を祀る別当大師堂に安置されていたもので、像高は八三.三センチ。頭巾を被り、狩衣を着て、左手に持った袋を肩にかけ、沓を履いた像容である。一木造り、彫眼、素地仕上げの像であり、室町時代の作とされる。平安時代前期以降、比叡山では光定が祀られたり造像されたりしており、引き続き、天台宗の中でも重要な地位を占めていたことがわかる。
 この木造光定大師立像は明治四三年に滋賀県が発行した『滋賀県写真帖』にも写真が掲載されている。この写真帖は滋賀県内の名勝、旧跡、文化財などを掲載した写真集で、この中に光定像も紹介されており、滋賀県内に残る代表的な彫刻文化財といえる。写真を見ると、やはりこの像は肩に袋を背負っており、大黒天像にも類似する。これは『日本文徳天皇実録』の卒伝に光定が比叡山で「資用絶乏」の生活をしていることを聞いた嵯峨天皇が特別に乞食袋を賜った話が紹介されており、この話を由来として後に光定が大黒天信仰と習合していったと考えられる。
光定を祀る「別当大師廟」は、最澄の廟所である比叡山浄土院の奥に位置する。円珍著「行歴抄」には天安三(八五九)年正月に浄土院で最澄の霊を訪ね、次に光定の墳を訪ねたとあり、当時から浄土院の近くに光定に葬られ、祀られていた。「天台座主記」によると貞応三(一二二四)年には別当大師廟が整備されており、現在の廟前の灯籠は宝暦一二(一七六二)年の建立であり、光定が平安時代から連綿と最澄の廟近くに祀られている。「比叡山延暦寺案内全図」という明治四二年に刷られたこの比叡山の絵図を確認すると、最澄を祀る廟である浄土院の脇に「別当大師廟」の文字が見える。比叡山の中でも重要な廟として近代、そして現代にいたるまで継承されている。

光定と伊予国
光定は「日本文徳天皇実録」によると、一〇歳頃までに父母を失い、服喪を終えると山林修行、斎戒の生活に入ったとされる。この奈良時代後期から平安時代前期には「日本霊異記」の寂仙の説話として、石鎚山は修行の山として朝廷にも知られる存在であった。一説には西条市小松町の四国霊場第六〇番横峰寺は、光定を開山第二世と位置づけており、同時代史料が確認できるわけではないが、光定が修行したのは石鎚山や瓶ヶ森などであったと伝わる。
光定にゆかりのある寺院としては、医座寺と佛性寺がある。いずれも松山市北東部の旧風早郡に近い場所である。医座寺は松山市東大栗にある天台宗寺院である。開基は行基とされ、天長六(八二九)年に光定が中興開山となったと伝えられる。松山市北東地域にはこの医座寺、佛性寺、吉祥寺(現在、佛性寺に合併)と光定が開山、もしくは中興開山とする寺院があり、その周辺に天台宗の古寺が残っている。松山周辺では後に真言宗や鎌倉仏教に改宗した寺院が多いが、この地域に集中的に天台宗寺院が存在することは、光定の出身地もこの辺りであると推定できる。佛性寺は、松山市菅沢にある天台宗寺院で、光定が開山したとされる。佛性寺伝によると天長六(八二九)年、淳和天皇の詔勅により、光定が両親の菩提を追善するため、出身地の伊予国に佛性寺を開山したとされる。境内には本堂の隣に「大師堂」がある。四国では「大師堂」といえば一般に弘法大師(空海)を祀ることが多いが、この佛性寺の大師堂は当然、別当大師(光定)を祀っている。
なお、医座寺に祀られている木造の別当大師光定像が祀られている。制作年代は不明であるが、愛媛県内に残る数少ない作例である。長年の痛みで台座や手足、裳の部分が欠損していたが、平成に修復されている。これとは別に四国天台仏教青年会の尽力で別当大師光定像を製作し、平成一七年三月に延暦寺に奉納されている。
この地域の天台宗寺院としては定額寺の存在も無視できない。「続日本後紀」巻九の承和七(八四〇)年九月庚辰(八日)条には、温泉郡定額寺を天台別院としたという記事がある。定額寺が温泉郡のどの位置にあったかは詳らかではないが、天台宗の「別院」つまり本山に準ずる寺院としての格式を持った。光定の出身地やゆかりの寺院も温泉郡の北側に隣接しており、中央での光定の活躍の影響とも考えられる。一遍上人ゆかりの道後の宝巌寺も光定の時代に天台宗となり鎌倉時代、一遍によって時宗に改宗したと伝えられる。なお、「日本紀略」前篇一四の天長五(八二八)年一〇月乙卯条には美濃国菩提寺、伊予国弥勒寺などが定額寺の預かりとなっている記事がある。定額寺とは律令制下で国分寺と並んで選ばれる官寺の一種で、「定額」とは定員、定数の意味である。つまり全国で一定の数を限って選定された寺院のことである。もともと貴族や地方豪族が私に建てた寺院を朝廷が公認したもので、平安時代前期には地方豪族建立によるもの、平安時代中期には天皇、皇族の御願による定額寺が多い。伊予の定額寺は温泉郡にあったが、弥勒寺は光定ゆかりの天台宗寺院の多い松山市北部(現在の食場町付近)にあった寺院であり、それが定額寺預かりとなっており、やはりこの地域の天台宗の勢力の隆盛は、出身者の光定の中央での活躍に影響されたものと考えるのが妥当だろう。
 以上、空海と同時代の天台僧である光定の事績を、主に平安時代前期成立の史料からまとめてみた。「延暦寺故内供奉和上行状」、「伝述一心戒文」の内容は他にも多岐にわたり光定関連の記述が見られるが、紙幅の都合で、簡略な紹介にとどまってしまったが、ご容赦いただきたい。


『梁塵秘抄』に見る「四国辺地(辺道)」

2022年03月02日 | 信仰・宗教
※本稿は、『一遍会報』440号、2022年3月発行に掲載した原稿である。

『梁塵秘抄』に見る「四国辺地(辺道)」

大本敬久

一、『梁塵秘抄』の伝本の過程
『梁塵秘抄』は一二世紀末に後白河上皇が撰集した歌謡集である。当時の流行歌である「今様」が五六六首も集成され、全二〇巻で構成されている。しかし、現存するのは巻一の巻頭部分と、巻二の全体などごく一部しかない。
この『梁塵秘抄』の原本は失われているが、それだけではなく鎌倉から室町時代にかけての写本や刊本も確認することができない。平安時代成立の同じ歌集でも『古今和歌集』や『和漢朗詠集』などとは異なり、平安時代以降の歌人、文人(例えば藤原定家や三条西実隆など)によって書写されて、それが広まることで多くの者が目にするという機会に恵まれなかった作品である。このような伝本状況であったため、江戸時代の国学、歌学(例えば賀茂真淵や本居宣長など)の世界でも『梁塵秘抄』が取り上げられることはなかった。
『梁塵秘抄』が世間で注目されるようになるのは明治時代末期以降。文学史上で見れば、ごく最近のことである。皇典講究所で『古事類苑』の編集にたずさわり、東京帝国大学文学部史料編纂掛に奉職して『大日本史料』の編纂などを行った和田英松が、明治四四年(一九一一)に、『梁塵秘抄』巻二を発見したのである。これは、中世以降、世に知られる唯一の伝本とされ、大きな発見となった。この和田が発見した巻二は、江戸時代後期の書写であり、時代としては比較的新しい。『梁塵秘抄』の伝本は全く存在しなかったのではなく、多くの歌人、文人に注目される形ではなく、細々と書写され続けていたのだろう。和田発見の巻二の蔵書印によれば、越後国(現新潟県)高田の室直助、そして邨岡良弼が旧蔵していたものであったことがわかる。京都や奈良等の学者、公卿や神職たちが形成した古典籍のコレクションから見つけられたものではなかった。
邨岡良弼は、下総国(現千葉県)の出身で、安政5年(1858)から江戸で昌平坂学問所に学び、明治2年(1869)には大学校明法科で律令を学び、明治政府の法制官僚として活躍した人物である。明治25年には官職を退き、旧水戸藩主徳川篤敬に徳川光圀『大日本史』の纂訂を依頼されるなど、古代の史料に精通していた。巻二には「越後国頸城郡高田室直助平千寿所蔵」とあり、越後高田藩の旧家に伝わったものを邨岡良弼が入手したものであろう。高田の室直助について詳細は不明であり、越後高田藩は酒井家、久松松平家、稲葉家など、藩主が頻繁に交替していることから、伝本の過程を推定することも難しい。どのように書写され、伝わったのかを明らかにすることは困難である。
しかし、この和田による巻二の発見から間もなく、大正元年(1912)に佐佐木信綱がこれを「天下の孤本」として刊行し、広く知られるようになった。大正年間に巻二は、和田から佐佐木(竹柏園文庫)に譲られ、そして戦後まもなく天理図書館に移って保管されることになり、現在に到っている。
巻二は、袋綴の二冊で、仏教語などには漢字を多用するものの、大部分の表記は平仮名で表記されている。あて字や誤字もありで、意味のとりにくい箇所も多く、その後の翻刻、刊行でも執筆者、注釈者によって、解釈が異なっていることも各所に見られる。現在、主な活字本に『新編日本古典文学全集』(小学館)、『新日本古典文学大系』(岩波書店)があり、それらが用いられることが多いが、それぞれ、校訂本文が異なるという問題点があり、『梁塵秘抄』を用いて研究を行うのであれば、和田発見の巻二(現在、天理図書館蔵)を影印本などで原典確認する必要があるだろう。幸い、昭和23年(1948)に佐佐木信綱が『原本複製 梁塵秘抄』を好学社から刊行しており、影印を実際に見ることができる(ただし、愛媛県内の公共図書館では本書の蔵書は無い。筆者はかつて神田の古書店にて二、三千円で購入し、持参している)。
 
二、『梁塵秘抄』と「しこくのへち」
さて、『梁塵秘抄』が頻繁に取り上げられるテーマの一つに「四国遍路の成立」がある。四国遍路の明確な起源は不詳であるが、すでに平安時代末期にはその素地ができていたいわれ、『今昔物語集』巻三十一の「四国の辺地と云は、伊予讃岐阿波土佐の海辺の廻也」の記述や『梁塵秘抄』の今様が紹介されることが多い。『愛媛県史』民俗編下によると、『今昔物語集』には、仏道修行する僧たちが歩いた伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺の道を「四国の辺地」と称していたことが知られると紹介した上で「その様子をさらに具体的に示しているのが後白河上皇が集成した俗謡集『梁塵秘抄』である。我等が修行せしやうは、忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常にふむ、とある。忍辱袈裟を肩に掛け、又笈を負うて、四国の辺地を踏む修行僧たちがいたのである」と紹介される。
現代語訳してみると、私が修行をした有様を申そうならば、まずは忍辱(侮辱や迫害を受けても耐え忍ぶ意を袈裟に例える)の意思を示す袈裟を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく潮の香が染みつくという、そんな風体で四国の海辺をいつも踏み歩いている、という意味になろう。
それでは、先項で指摘したように、本文が刊行物によって異なり、原典(影印本)を確認する必要があることから、この今様についても、確認してみたい。
所蔵は天理図書館であり、この旧竹柏園文庫本が掲載されている『梁塵秘抄 原本複製』で書影から翻刻すると、次のようになる。
〇われらか修行せしやうは、にんにくけさをはかたにかけ、またおいをゝひ、ころもは
いつとなくしほたれて、しこくのへちをそつねにふん、
そして、ここに登場する「しこく」に「四国」と漢字ルビが付されている。『県史』で紹介されたような漢字交じりの文章ではなく、基本はかな表記である。『県史』では「忍辱袈裟」、「辺地」とあるが、「にんにくけさ」、「へち」としか記されていない。
そもそも小学館全集、岩波大系も本文は監修者によって校訂されて、漢字交じりに変換された上で、掲載されている。この校訂本文があたかも原本に記されたものとして引用し、研究、解釈に用いられることも多く見られるが、校訂の過程を確認しておくことは必須であろう。
 それでは、小学館全集(265頁)ではどのような本文となっているか、見てみたい。
われらが修行せし様は 忍辱袈裟をば肩に掛け また笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常に踏む
 このような表記となっており、「しこくのへち」を「四国の辺地」と表記しているが、次に岩波大系(86頁)では、
我等が修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、又笈を負ひ、衣は何時となく潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏ん、
となっており、小学館全集では「四国の辺地」であるところを、岩波大系では「四国の辺道」となっている。「しほたれて」も岩波全集では「潮垂れて」と漢字表記としている。このような本文を校訂した上で掲載する事は一般的ではあるのだが、「しこくのへち」について現代の注釈者によって「四国の辺地」とするのか「四国の辺道」とするのかは、四国遍路の歴史、起源にも関わってくる。「辺地」であれば、辺境の広いエリアを指し、四国の海辺を巡る修行僧がいた、という解釈になるが、「辺道」となるとエリアではなく「道」というラインになってくる。平安時代末期には四国の周縁に、修行僧が歩く特定の「道」、いわば後世の遍路道のようなものが形成されていたと捉えられかねない。
筆者は『梁塵秘抄』とほぼ同時代成立の『今昔物語集』に「四国の辺地」と表記されていることから、「辺地」が適当であり、修行僧が通る特定の道が成立していたとは考えにくく、「辺道」は採用しない立場をとりたい。
 なお、この「しこくのへち」について、川岡勉氏は「もともと四国は、早くから遍歴や巡礼を重ねる僧侶の仏道修行地であった。(中略)十二世紀に流行った今様という歌謡を集めた『梁塵秘抄』には(中略)という歌が収録されており、ここでも「四国の辺地」を踏む修行者たちの存在が読み取れる。衣が潮垂れるという表現からは、やはり海辺を巡り歩いていた様子がうかがえる」(『四国遍路の世界』筑摩書房、14~15頁)とあり、また、西耕生氏は「『今昔物語集』(平安後期の説話集)や『梁塵秘抄』(平安末期の歌謡集)と、先の中世資料(註:『醍醐寺文書』、『南无阿弥陀仏作善集』)の記述とを合わせれば「四国辺路/四国辺地/四国ノ辺」はいずれも、「しこくのへち」と呼ばれる霊地をさまざまに記した表現と考えてよい。「しこくのへち」は主として「四国の海岸」をさす語である(小西甚一『梁塵秘抄考』三省堂、一九四一)。ただし、大峰・葛城「両山」との並称によって固有の地名とまで考えることには、なお慎重でなければならない。なぜなら「へち」は、四国だけに限定して用いられる語ではないからである。」(『四国遍路の世界』筑摩書房、32~33頁)と述べており、漢字表記するなら「辺地」が適当であり、しかも「へち(辺地)」が四国のどこかの特定の場所を示すのではなく、一般語彙としてとらえるべきであろう。
 古代の歴史や文学に関する文献を引用、活用する上では、辞書や全集本などの現代で「権威」的に扱われる基本書も、実は校訂作業を経て、本文を掲載しているのが一般的であり、我々は、その校訂作業を無視して、そのまま活字本文のみを使い続けることになると、相互の研究の過程で齟齬や誤解が生まれかねない。テキストの扱いに関する基本的姿勢を今一度、再認識すべきであろう。

【参考】「しこくのへち」(四国辺地)に関する先行研究
西耕生「『四国辺地』覚書―和語『へち』. の周辺―」『愛媛国文研究』五二号、二〇〇二年
寺内浩「平安時代の四国遍路-辺路修行をめぐって‐」『愛媛大学法文学部愛媛大学法文学部論集』一七号、二〇〇四年
寺内浩「古代の四国遍路」四国遍路と世界の巡礼研究会編『四国遍路と世界の巡礼』法蔵館、二〇〇七年
武田和昭『四国辺路の形成過程』岩田書院、二〇一二年
川岡勉「中世の四国遍路と高野参詣」愛媛大学「四国遍路と世界の巡礼」研究会編『巡礼の歴史と現在-四国遍路と世界の巡礼-』岩田書院、二〇一三年
胡光「山岳信仰と四国遍路」四国地域史研究連絡協議会編『四国遍路と山岳信仰』岩田書院、二〇一四年
武田和昭『四国へんろの歴史』美巧社、二〇一六年
長谷川賢二「四国遍路の形成と修験道・山伏」愛媛大学法文学部附属四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路と世界の巡礼』三号、二〇一八年
「四国八十八箇所霊場と遍路道」 世界遺産登録推進協議会「【参考】四国遍路関連史料」、二〇一九年
川岡勉「四国八十八ヶ所の成立」愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年
西耕生「四国遍路と古典文学」愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年


『今昔物語集』と「四国辺地」

2021年03月05日 | 信仰・宗教
※本稿は、『一遍会報』429号、2021年3月に掲載した原稿である。

『今昔物語集』と「四国辺地」
大本敬久

古代説話の集大成『今昔物語集』
『今昔物語集』(以下『今昔』)は平安時代後期に成立した古代を代表する説話集である。説話文学とは、神話、伝説、昔話、世間話などの口頭伝承が文字で文学化されたもので、古代においては「和歌文学」、「物語文学」に対比されるものである。『今昔』の成立年は確定されていないが、白河上皇院政期の一一二〇年(保安元)以降まもなくには完成したと考えるのが一般的な見解となっているが、編者は不詳である。全三一巻で構成されており、巻八、一八、二一は欠けているものの、ほぼ全容を現在、確認することができる。収録された説話の数は全一〇五九話で、うち本文が欠けて題名だけのものが一九話あるものの、千を超える数、量、そして質には圧倒される。
古代の説話文学作品としては平安時代前期成立の『日本霊異記』、中期成立の『三宝絵詞』(永観二年)、『日本往生極楽記』(寛和年間頃)、『本朝法華験記』(長久年間)などがあるが、それらに採録された説話も、若干の変化を加えながら『今昔』にも収録されているものが多い。例えば、伊予国関連では『今昔』巻第一六の「伊予国越智直依観音助従震旦返来語」の原話が『日本霊異記』上巻第一七話であり、越智郡の大領・越智直が観音菩薩像を信仰したことで報恩を得た話として載せられている例がある。つまり、それぞれ説話自体の成立時期は、すべてが平安後期の『今昔』成立時に創出されたのではない。平安時代を通して語られ、後期まで継承、流布していた説話が『今昔』に集録されることになった。その意味で『今昔』は古代説話の集大成というべき作品である。
日本(本朝)の説話だけではない。構成としては巻第一から五が天竺(インド)、巻第六から一〇を震旦(中国)、巻第一一から三一を本朝(日本)という三部構成となっており、中国の説話集『三宝感応要略録』や『冥報記』、『弘賛法華伝』、『孝子伝』などに見られる話や、現在には伝存していない源隆国の『宇治大納言物語』も一部、収録されており、様々な視点で古代日本の様相を知ることができる。
『今昔』の作品評価としては、それまでの説話集に依拠しつつも、平安時代中期以前には見られなかった山林修行や民間布教の聖、武士、盗賊などの精神や行動も加えて描かれている。また、貴族世界のみならず庶民や動物、さらには妖怪に関する話も数多く語られ、古代的世界であると同時に、中世文学の萌芽も見えてくるという見方もある。ただし、中世説話集とは明らかに精神的土台が異なる。例えば、中世説話集の代表作として知られる鎌倉時代中期成立の『古今著聞集』を読んでみると、『今昔』に見られるような古代の幻想的な世界観は薄れて、世俗的、現実的な話が多くを占めるようになってくる。これは中世の現実主義に基づく精神世界と大いに関係していると見ることができるだろう。

『今昔物語集』の流布
しかし、『今昔』は古代を代表する文学作品であるにも関わらず、『日本書紀』や『古今和歌集』、『源氏物語』などと比べてみると、中世以前の古写本がほとんど残されていない。これは平安後期の成立以降、多くの貴族や僧侶らに広く、深くは受容されず、多くの者に読まれたり、書写されたりすることがなかったことを示している。当然、原本も確認できない。つまり、成立後、中世においては広く流布することなく、中世文学へ与えた影響も『日本書紀』や『古今和歌集』などに比べて少なかったと考えられている。古写本として知られているものに鈴鹿本がある。これは鎌倉時代中期の写で現在、京都大学附属図書館が所蔵しているが、全三一巻のうち九巻(本朝部は巻第一二、一七、二七、二九のみ)のみである。また、江戸時代の書写とされる実践女子大学蔵本(黒川家旧蔵、一九巻分)、江戸時代末期書写の東京大学国語研究室蔵本(紅葉山文庫旧蔵、二二巻分)の写本があり、『新編日本古典文学全集』(小学館)はこの三つの写本を底本として活字化されている。なお、『今昔』が後世の文献史料の中に登場するは、室町時代の僧・大乗院経覚の日記『経覚私要鈔』が初見とされ、年代としては宝徳元年(一四四九)年、次が『多聞院日記』の天正一一年(一五八三)年であり、やはり中世においてはほとんど触れられることがなかった。江戸時代に入り、本朝部については享保五年(一七二〇)に版本(井沢長秀校本)が刊行され、『今昔』の作品内容が広く知られるようになり、幕末に水野忠央が編纂した『丹鶴叢書』の中でも版行された。井沢本は明治二八年(一八九五)に辻本尚古堂から『今昔物語』として活字化され、これを機に近代文学や思想に大きな影響を与えていくようになる。芥川龍之介もこれに影響を受けた一人で、大正四年(一九一五)年に『羅生門』を著し、さらに一般に『今昔』が注目されることになった。

『今昔物語集』と伊予国
 さて、『今昔』に見られる伊予国(愛媛県)関連の説話としては、比叡山の僧長増が四国で乞食修行をして最後は往生を遂げる巻第一五「比叡山僧長増往生語第十五」や、越智益躬の往生譚である同「伊予国越智益躬往生語第四十四」、白村江の戦で越智直が捕虜となり唐にわたるも観音の霊験により帰朝する巻第一六「伊予国越智直依観音助従震旦返来語第二」、天慶の乱で橘遠保が藤原純友と息子の重太丸を討伐して首を京に持ち帰った巻第二五「藤原純友依海賊被誅語第二」が知られる。
近年、四国遍路の世界遺産登録への動きの中で、普遍的価値を証明するため遍路研究が進められているが、遍路(辺路)の起源を考える上で注目されている説話が巻第三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬語第十四」である。「今昔、仏ノ道ヲ行ケル僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ、伊予・讃岐・阿波・土佐ノ海辺ノ廻也、其ノ僧共、其ヲ廻ケルニ、思ヒ懸ケズ山ニ踏入ニケリ。深キ山ニ迷ヒニケレバ、海辺ニ出ム事ヲ願ヒケリ。終ニハ人跡絶タル深キ谷ニ踏入ニケレバ(中略)其ノ家ニ寄テ物申サムト云ヘバ、屋ノ内ニ、誰ゾト問フ。修行仕ル者共ノ、道ヲ踏違ヘテ参タル也。方ニ行クベキニカ教ヘ給ヘト云ヘバ、暫ト云テ、内ヨリ人出来ルヲ見レバ、年六十許ナル僧也。形チ糸怖気也。」とあり、「四国ノ辺地」で修行をする三人の僧侶の説話であり、「四国ノ辺地」とは伊予、讃岐、阿波、土佐の「海辺ノ廻」、つまり四国の海岸部を廻りながら修行をしていた僧侶が存在していたことが明記されている。この記述の解説や論証については、寺内浩「平安時代の四国遍路-辺路修行をめぐって-」(『愛媛大学法文学部論集人文学科編』一七号、二〇〇四年)、同「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』五号、二〇二〇年)や西耕生「四国遍路と古典文学」(『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年)などがあるが、この説話は『日本霊異記』や『本朝法華験記』などにも見えない説話であり、一一世紀中葉から一二世紀初頭にかけて語られた話ではないかと推測できる。『今昔』ではこの「四国ノ辺地」のように語彙の註文として「〇〇ト云ハ〇〇也」という文が挿入されることが多く見られる。「僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ」と文が途切れたようになっているのは、後世に書写する過程で註文が誤って本文に挿入されたのではなく、『今昔』成立時には、このような本文途中に註文にあたるものが入る文体となっており、後世の改変や挿入ではない可能性が高い。その意味でも「四国ノ辺地」の記述は、四国遍路の起源を考える際に、平安時代、中でも一一世紀中葉から一二世紀初頭における状況を知るうえで貴重といえるだろう。『今昔』から間もない時期に後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常に踏む」(私が修行をした有様を申すならば、まずは忍辱〔侮辱や迫害を受けても耐え忍ぶ意を袈裟に例えている〕の意思を示す袈裟を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく潮の香が染みつくという、そんな風体で四国の海辺をいつも踏み歩いている)という今様(当時の流行歌)が載せられており、この今様を合わせて考えると、当時の四国の海辺を修行した僧侶の様子が見えてくる。
ただし、『今昔』の「四国ノ辺地」の説話は、三人の僧侶が四国での修行を成し終えて往生したとか、報恩を得たというような話の展開にはなっていない。三人は迷った挙句、山中の屋敷で怖ろしげな法師と出会い、うち二人は馬に変化させられ、残る一人は何とか逃げて這々の体で里に戻ることができた。その話を里人に語り、若く勇ましい者達と山の現地に戻ろうとしたが、道の行方は知れず、そのままになってしまった。そして逃れることができた修行者は京に戻り、馬に変化させられた二人のために善根を修した。このような話の展開となっており、「四国ノ辺地」での修行の様子が主題とはなっていない。結文には「此レヲ思フニ、身ヲ棄テテ行フト云ヒ乍ラモ、無下ニ知ラザラム所ニハ行クベカラズト、修行者ノ正シク語ケルヲ聞キ伝ヘテ、此ク語リ伝ヘタルトヤ」とあり、不案内な所に修行に行くなという教訓として語られている。今後は、この主題に焦点を当てた上でも四国や辺地に関する考証が必要になってくるといえる。また、今後の研究の必要性としては、この話が載せられた『今昔』巻第三一は、写本の中でも善本とされる鈴鹿本では欠けており、『新編日本古典文学全集』では東京大学国語研究室蔵本が底本となっている。この説話を取り上げる際には、様々な写本、刊本といった現存諸本の確認作業を行い、この記事に関しての校合を今一度行った上で考察を進めることが課題となってくるだろう。筆者は数年中にその作業を進めていきたいと考えている。

〔参考文献〕
『新編日本古典文学全集三八 今昔物語集四』小学館、二〇〇二年
愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年