※本稿は、『一遍会報』429号、2021年3月に掲載した原稿である。
『今昔物語集』と「四国辺地」
大本敬久
古代説話の集大成『今昔物語集』
『今昔物語集』(以下『今昔』)は平安時代後期に成立した古代を代表する説話集である。説話文学とは、神話、伝説、昔話、世間話などの口頭伝承が文字で文学化されたもので、古代においては「和歌文学」、「物語文学」に対比されるものである。『今昔』の成立年は確定されていないが、白河上皇院政期の一一二〇年(保安元)以降まもなくには完成したと考えるのが一般的な見解となっているが、編者は不詳である。全三一巻で構成されており、巻八、一八、二一は欠けているものの、ほぼ全容を現在、確認することができる。収録された説話の数は全一〇五九話で、うち本文が欠けて題名だけのものが一九話あるものの、千を超える数、量、そして質には圧倒される。
古代の説話文学作品としては平安時代前期成立の『日本霊異記』、中期成立の『三宝絵詞』(永観二年)、『日本往生極楽記』(寛和年間頃)、『本朝法華験記』(長久年間)などがあるが、それらに採録された説話も、若干の変化を加えながら『今昔』にも収録されているものが多い。例えば、伊予国関連では『今昔』巻第一六の「伊予国越智直依観音助従震旦返来語」の原話が『日本霊異記』上巻第一七話であり、越智郡の大領・越智直が観音菩薩像を信仰したことで報恩を得た話として載せられている例がある。つまり、それぞれ説話自体の成立時期は、すべてが平安後期の『今昔』成立時に創出されたのではない。平安時代を通して語られ、後期まで継承、流布していた説話が『今昔』に集録されることになった。その意味で『今昔』は古代説話の集大成というべき作品である。
日本(本朝)の説話だけではない。構成としては巻第一から五が天竺(インド)、巻第六から一〇を震旦(中国)、巻第一一から三一を本朝(日本)という三部構成となっており、中国の説話集『三宝感応要略録』や『冥報記』、『弘賛法華伝』、『孝子伝』などに見られる話や、現在には伝存していない源隆国の『宇治大納言物語』も一部、収録されており、様々な視点で古代日本の様相を知ることができる。
『今昔』の作品評価としては、それまでの説話集に依拠しつつも、平安時代中期以前には見られなかった山林修行や民間布教の聖、武士、盗賊などの精神や行動も加えて描かれている。また、貴族世界のみならず庶民や動物、さらには妖怪に関する話も数多く語られ、古代的世界であると同時に、中世文学の萌芽も見えてくるという見方もある。ただし、中世説話集とは明らかに精神的土台が異なる。例えば、中世説話集の代表作として知られる鎌倉時代中期成立の『古今著聞集』を読んでみると、『今昔』に見られるような古代の幻想的な世界観は薄れて、世俗的、現実的な話が多くを占めるようになってくる。これは中世の現実主義に基づく精神世界と大いに関係していると見ることができるだろう。
『今昔物語集』の流布
しかし、『今昔』は古代を代表する文学作品であるにも関わらず、『日本書紀』や『古今和歌集』、『源氏物語』などと比べてみると、中世以前の古写本がほとんど残されていない。これは平安後期の成立以降、多くの貴族や僧侶らに広く、深くは受容されず、多くの者に読まれたり、書写されたりすることがなかったことを示している。当然、原本も確認できない。つまり、成立後、中世においては広く流布することなく、中世文学へ与えた影響も『日本書紀』や『古今和歌集』などに比べて少なかったと考えられている。古写本として知られているものに鈴鹿本がある。これは鎌倉時代中期の写で現在、京都大学附属図書館が所蔵しているが、全三一巻のうち九巻(本朝部は巻第一二、一七、二七、二九のみ)のみである。また、江戸時代の書写とされる実践女子大学蔵本(黒川家旧蔵、一九巻分)、江戸時代末期書写の東京大学国語研究室蔵本(紅葉山文庫旧蔵、二二巻分)の写本があり、『新編日本古典文学全集』(小学館)はこの三つの写本を底本として活字化されている。なお、『今昔』が後世の文献史料の中に登場するは、室町時代の僧・大乗院経覚の日記『経覚私要鈔』が初見とされ、年代としては宝徳元年(一四四九)年、次が『多聞院日記』の天正一一年(一五八三)年であり、やはり中世においてはほとんど触れられることがなかった。江戸時代に入り、本朝部については享保五年(一七二〇)に版本(井沢長秀校本)が刊行され、『今昔』の作品内容が広く知られるようになり、幕末に水野忠央が編纂した『丹鶴叢書』の中でも版行された。井沢本は明治二八年(一八九五)に辻本尚古堂から『今昔物語』として活字化され、これを機に近代文学や思想に大きな影響を与えていくようになる。芥川龍之介もこれに影響を受けた一人で、大正四年(一九一五)年に『羅生門』を著し、さらに一般に『今昔』が注目されることになった。
『今昔物語集』と伊予国
さて、『今昔』に見られる伊予国(愛媛県)関連の説話としては、比叡山の僧長増が四国で乞食修行をして最後は往生を遂げる巻第一五「比叡山僧長増往生語第十五」や、越智益躬の往生譚である同「伊予国越智益躬往生語第四十四」、白村江の戦で越智直が捕虜となり唐にわたるも観音の霊験により帰朝する巻第一六「伊予国越智直依観音助従震旦返来語第二」、天慶の乱で橘遠保が藤原純友と息子の重太丸を討伐して首を京に持ち帰った巻第二五「藤原純友依海賊被誅語第二」が知られる。
近年、四国遍路の世界遺産登録への動きの中で、普遍的価値を証明するため遍路研究が進められているが、遍路(辺路)の起源を考える上で注目されている説話が巻第三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬語第十四」である。「今昔、仏ノ道ヲ行ケル僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ、伊予・讃岐・阿波・土佐ノ海辺ノ廻也、其ノ僧共、其ヲ廻ケルニ、思ヒ懸ケズ山ニ踏入ニケリ。深キ山ニ迷ヒニケレバ、海辺ニ出ム事ヲ願ヒケリ。終ニハ人跡絶タル深キ谷ニ踏入ニケレバ(中略)其ノ家ニ寄テ物申サムト云ヘバ、屋ノ内ニ、誰ゾト問フ。修行仕ル者共ノ、道ヲ踏違ヘテ参タル也。方ニ行クベキニカ教ヘ給ヘト云ヘバ、暫ト云テ、内ヨリ人出来ルヲ見レバ、年六十許ナル僧也。形チ糸怖気也。」とあり、「四国ノ辺地」で修行をする三人の僧侶の説話であり、「四国ノ辺地」とは伊予、讃岐、阿波、土佐の「海辺ノ廻」、つまり四国の海岸部を廻りながら修行をしていた僧侶が存在していたことが明記されている。この記述の解説や論証については、寺内浩「平安時代の四国遍路-辺路修行をめぐって-」(『愛媛大学法文学部論集人文学科編』一七号、二〇〇四年)、同「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』五号、二〇二〇年)や西耕生「四国遍路と古典文学」(『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年)などがあるが、この説話は『日本霊異記』や『本朝法華験記』などにも見えない説話であり、一一世紀中葉から一二世紀初頭にかけて語られた話ではないかと推測できる。『今昔』ではこの「四国ノ辺地」のように語彙の註文として「〇〇ト云ハ〇〇也」という文が挿入されることが多く見られる。「僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ」と文が途切れたようになっているのは、後世に書写する過程で註文が誤って本文に挿入されたのではなく、『今昔』成立時には、このような本文途中に註文にあたるものが入る文体となっており、後世の改変や挿入ではない可能性が高い。その意味でも「四国ノ辺地」の記述は、四国遍路の起源を考える際に、平安時代、中でも一一世紀中葉から一二世紀初頭における状況を知るうえで貴重といえるだろう。『今昔』から間もない時期に後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常に踏む」(私が修行をした有様を申すならば、まずは忍辱〔侮辱や迫害を受けても耐え忍ぶ意を袈裟に例えている〕の意思を示す袈裟を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく潮の香が染みつくという、そんな風体で四国の海辺をいつも踏み歩いている)という今様(当時の流行歌)が載せられており、この今様を合わせて考えると、当時の四国の海辺を修行した僧侶の様子が見えてくる。
ただし、『今昔』の「四国ノ辺地」の説話は、三人の僧侶が四国での修行を成し終えて往生したとか、報恩を得たというような話の展開にはなっていない。三人は迷った挙句、山中の屋敷で怖ろしげな法師と出会い、うち二人は馬に変化させられ、残る一人は何とか逃げて這々の体で里に戻ることができた。その話を里人に語り、若く勇ましい者達と山の現地に戻ろうとしたが、道の行方は知れず、そのままになってしまった。そして逃れることができた修行者は京に戻り、馬に変化させられた二人のために善根を修した。このような話の展開となっており、「四国ノ辺地」での修行の様子が主題とはなっていない。結文には「此レヲ思フニ、身ヲ棄テテ行フト云ヒ乍ラモ、無下ニ知ラザラム所ニハ行クベカラズト、修行者ノ正シク語ケルヲ聞キ伝ヘテ、此ク語リ伝ヘタルトヤ」とあり、不案内な所に修行に行くなという教訓として語られている。今後は、この主題に焦点を当てた上でも四国や辺地に関する考証が必要になってくるといえる。また、今後の研究の必要性としては、この話が載せられた『今昔』巻第三一は、写本の中でも善本とされる鈴鹿本では欠けており、『新編日本古典文学全集』では東京大学国語研究室蔵本が底本となっている。この説話を取り上げる際には、様々な写本、刊本といった現存諸本の確認作業を行い、この記事に関しての校合を今一度行った上で考察を進めることが課題となってくるだろう。筆者は数年中にその作業を進めていきたいと考えている。
〔参考文献〕
『新編日本古典文学全集三八 今昔物語集四』小学館、二〇〇二年
愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年
『今昔物語集』と「四国辺地」
大本敬久
古代説話の集大成『今昔物語集』
『今昔物語集』(以下『今昔』)は平安時代後期に成立した古代を代表する説話集である。説話文学とは、神話、伝説、昔話、世間話などの口頭伝承が文字で文学化されたもので、古代においては「和歌文学」、「物語文学」に対比されるものである。『今昔』の成立年は確定されていないが、白河上皇院政期の一一二〇年(保安元)以降まもなくには完成したと考えるのが一般的な見解となっているが、編者は不詳である。全三一巻で構成されており、巻八、一八、二一は欠けているものの、ほぼ全容を現在、確認することができる。収録された説話の数は全一〇五九話で、うち本文が欠けて題名だけのものが一九話あるものの、千を超える数、量、そして質には圧倒される。
古代の説話文学作品としては平安時代前期成立の『日本霊異記』、中期成立の『三宝絵詞』(永観二年)、『日本往生極楽記』(寛和年間頃)、『本朝法華験記』(長久年間)などがあるが、それらに採録された説話も、若干の変化を加えながら『今昔』にも収録されているものが多い。例えば、伊予国関連では『今昔』巻第一六の「伊予国越智直依観音助従震旦返来語」の原話が『日本霊異記』上巻第一七話であり、越智郡の大領・越智直が観音菩薩像を信仰したことで報恩を得た話として載せられている例がある。つまり、それぞれ説話自体の成立時期は、すべてが平安後期の『今昔』成立時に創出されたのではない。平安時代を通して語られ、後期まで継承、流布していた説話が『今昔』に集録されることになった。その意味で『今昔』は古代説話の集大成というべき作品である。
日本(本朝)の説話だけではない。構成としては巻第一から五が天竺(インド)、巻第六から一〇を震旦(中国)、巻第一一から三一を本朝(日本)という三部構成となっており、中国の説話集『三宝感応要略録』や『冥報記』、『弘賛法華伝』、『孝子伝』などに見られる話や、現在には伝存していない源隆国の『宇治大納言物語』も一部、収録されており、様々な視点で古代日本の様相を知ることができる。
『今昔』の作品評価としては、それまでの説話集に依拠しつつも、平安時代中期以前には見られなかった山林修行や民間布教の聖、武士、盗賊などの精神や行動も加えて描かれている。また、貴族世界のみならず庶民や動物、さらには妖怪に関する話も数多く語られ、古代的世界であると同時に、中世文学の萌芽も見えてくるという見方もある。ただし、中世説話集とは明らかに精神的土台が異なる。例えば、中世説話集の代表作として知られる鎌倉時代中期成立の『古今著聞集』を読んでみると、『今昔』に見られるような古代の幻想的な世界観は薄れて、世俗的、現実的な話が多くを占めるようになってくる。これは中世の現実主義に基づく精神世界と大いに関係していると見ることができるだろう。
『今昔物語集』の流布
しかし、『今昔』は古代を代表する文学作品であるにも関わらず、『日本書紀』や『古今和歌集』、『源氏物語』などと比べてみると、中世以前の古写本がほとんど残されていない。これは平安後期の成立以降、多くの貴族や僧侶らに広く、深くは受容されず、多くの者に読まれたり、書写されたりすることがなかったことを示している。当然、原本も確認できない。つまり、成立後、中世においては広く流布することなく、中世文学へ与えた影響も『日本書紀』や『古今和歌集』などに比べて少なかったと考えられている。古写本として知られているものに鈴鹿本がある。これは鎌倉時代中期の写で現在、京都大学附属図書館が所蔵しているが、全三一巻のうち九巻(本朝部は巻第一二、一七、二七、二九のみ)のみである。また、江戸時代の書写とされる実践女子大学蔵本(黒川家旧蔵、一九巻分)、江戸時代末期書写の東京大学国語研究室蔵本(紅葉山文庫旧蔵、二二巻分)の写本があり、『新編日本古典文学全集』(小学館)はこの三つの写本を底本として活字化されている。なお、『今昔』が後世の文献史料の中に登場するは、室町時代の僧・大乗院経覚の日記『経覚私要鈔』が初見とされ、年代としては宝徳元年(一四四九)年、次が『多聞院日記』の天正一一年(一五八三)年であり、やはり中世においてはほとんど触れられることがなかった。江戸時代に入り、本朝部については享保五年(一七二〇)に版本(井沢長秀校本)が刊行され、『今昔』の作品内容が広く知られるようになり、幕末に水野忠央が編纂した『丹鶴叢書』の中でも版行された。井沢本は明治二八年(一八九五)に辻本尚古堂から『今昔物語』として活字化され、これを機に近代文学や思想に大きな影響を与えていくようになる。芥川龍之介もこれに影響を受けた一人で、大正四年(一九一五)年に『羅生門』を著し、さらに一般に『今昔』が注目されることになった。
『今昔物語集』と伊予国
さて、『今昔』に見られる伊予国(愛媛県)関連の説話としては、比叡山の僧長増が四国で乞食修行をして最後は往生を遂げる巻第一五「比叡山僧長増往生語第十五」や、越智益躬の往生譚である同「伊予国越智益躬往生語第四十四」、白村江の戦で越智直が捕虜となり唐にわたるも観音の霊験により帰朝する巻第一六「伊予国越智直依観音助従震旦返来語第二」、天慶の乱で橘遠保が藤原純友と息子の重太丸を討伐して首を京に持ち帰った巻第二五「藤原純友依海賊被誅語第二」が知られる。
近年、四国遍路の世界遺産登録への動きの中で、普遍的価値を証明するため遍路研究が進められているが、遍路(辺路)の起源を考える上で注目されている説話が巻第三十一「通四国辺地僧行不知所被打成馬語第十四」である。「今昔、仏ノ道ヲ行ケル僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ、伊予・讃岐・阿波・土佐ノ海辺ノ廻也、其ノ僧共、其ヲ廻ケルニ、思ヒ懸ケズ山ニ踏入ニケリ。深キ山ニ迷ヒニケレバ、海辺ニ出ム事ヲ願ヒケリ。終ニハ人跡絶タル深キ谷ニ踏入ニケレバ(中略)其ノ家ニ寄テ物申サムト云ヘバ、屋ノ内ニ、誰ゾト問フ。修行仕ル者共ノ、道ヲ踏違ヘテ参タル也。方ニ行クベキニカ教ヘ給ヘト云ヘバ、暫ト云テ、内ヨリ人出来ルヲ見レバ、年六十許ナル僧也。形チ糸怖気也。」とあり、「四国ノ辺地」で修行をする三人の僧侶の説話であり、「四国ノ辺地」とは伊予、讃岐、阿波、土佐の「海辺ノ廻」、つまり四国の海岸部を廻りながら修行をしていた僧侶が存在していたことが明記されている。この記述の解説や論証については、寺内浩「平安時代の四国遍路-辺路修行をめぐって-」(『愛媛大学法文学部論集人文学科編』一七号、二〇〇四年)、同「古代中世における辺地修行のルートについて」(『四国遍路と世界の巡礼』五号、二〇二〇年)や西耕生「四国遍路と古典文学」(『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年)などがあるが、この説話は『日本霊異記』や『本朝法華験記』などにも見えない説話であり、一一世紀中葉から一二世紀初頭にかけて語られた話ではないかと推測できる。『今昔』ではこの「四国ノ辺地」のように語彙の註文として「〇〇ト云ハ〇〇也」という文が挿入されることが多く見られる。「僧、三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ」と文が途切れたようになっているのは、後世に書写する過程で註文が誤って本文に挿入されたのではなく、『今昔』成立時には、このような本文途中に註文にあたるものが入る文体となっており、後世の改変や挿入ではない可能性が高い。その意味でも「四国ノ辺地」の記述は、四国遍路の起源を考える際に、平安時代、中でも一一世紀中葉から一二世紀初頭における状況を知るうえで貴重といえるだろう。『今昔』から間もない時期に後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺地をぞ常に踏む」(私が修行をした有様を申すならば、まずは忍辱〔侮辱や迫害を受けても耐え忍ぶ意を袈裟に例えている〕の意思を示す袈裟を肩に掛け、笈を背負い、衣はいつとなく潮の香が染みつくという、そんな風体で四国の海辺をいつも踏み歩いている)という今様(当時の流行歌)が載せられており、この今様を合わせて考えると、当時の四国の海辺を修行した僧侶の様子が見えてくる。
ただし、『今昔』の「四国ノ辺地」の説話は、三人の僧侶が四国での修行を成し終えて往生したとか、報恩を得たというような話の展開にはなっていない。三人は迷った挙句、山中の屋敷で怖ろしげな法師と出会い、うち二人は馬に変化させられ、残る一人は何とか逃げて這々の体で里に戻ることができた。その話を里人に語り、若く勇ましい者達と山の現地に戻ろうとしたが、道の行方は知れず、そのままになってしまった。そして逃れることができた修行者は京に戻り、馬に変化させられた二人のために善根を修した。このような話の展開となっており、「四国ノ辺地」での修行の様子が主題とはなっていない。結文には「此レヲ思フニ、身ヲ棄テテ行フト云ヒ乍ラモ、無下ニ知ラザラム所ニハ行クベカラズト、修行者ノ正シク語ケルヲ聞キ伝ヘテ、此ク語リ伝ヘタルトヤ」とあり、不案内な所に修行に行くなという教訓として語られている。今後は、この主題に焦点を当てた上でも四国や辺地に関する考証が必要になってくるといえる。また、今後の研究の必要性としては、この話が載せられた『今昔』巻第三一は、写本の中でも善本とされる鈴鹿本では欠けており、『新編日本古典文学全集』では東京大学国語研究室蔵本が底本となっている。この説話を取り上げる際には、様々な写本、刊本といった現存諸本の確認作業を行い、この記事に関しての校合を今一度行った上で考察を進めることが課題となってくるだろう。筆者は数年中にその作業を進めていきたいと考えている。
〔参考文献〕
『新編日本古典文学全集三八 今昔物語集四』小学館、二〇〇二年
愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター編『四国遍路の世界』筑摩書房、二〇二〇年