中津川の百矢祭1
八幡浜市中津川では、毎年四月十九日に大元神社の春祭として、百矢祭が行われている。地元の四十二歳と六十一歳の厄年の者が、約十メートル離れた場所に設置されている直径一メートル程の的の中央に掛けられたカワラケを目がけて、矢を射る行事である。
地元ではこの行事を「百矢祭(ひゃくやさい)」とか「お百矢」と呼んでいるが、全国的に見ると、これは歩射(ぶしゃ)と呼ばれる儀礼に分類することができる。馬に乗らずに弓を射ることから、歩射の名が付けられたものだが、馬に乗って射るものを流鏑馬(やぶさめ)と呼んでいる。
実は、南予地方において、歩射の行事が現存している例は、中津川の百矢祭が唯一である。流鏑馬もかつては南予地方に存在したが、すべて断絶しており、南予において最後に残った弓祭りとして貴重な行事といえる。ただし、その中津川でもかつての祭りの賑やかさは見られず、少ない観客の中で細々と継続している状態である。
明治時代後期に著された『双岩村誌』によると、「お百矢は最も荘厳なる行事にして、多く鎮守の境内に矢来を結び、的を立て、それに対して座席を設け、両端に左大臣、右大臣の役目を勤むる者裃を着けて着座し、その間に弓手すらりと列座し、順次おほまいと呼びつつ的を射り、矢取りの少年二人代はる代はる矢を拾ふ」とある。しかし、時代とともに儀礼の内容は簡素化され、現状はこの村誌の記述とは大きくかけ離れてしまっている。
まず、祭日についてであるが、かつては四月九日であったが、昭和三十年代はじめに双岩村が八幡浜市に合併した際に、市内の祭日である四月十九日に変更し、今に至っている。
また、百矢祭は、現在では厄年の厄落とし行事に変容しているが、もとは中津川の中の馬地、上日ノ地、下日ノ地、矢野畑の四集落から若者を二人ずつ弓手をとして参加させるという形であったという。そして、かつては的までの長さは二十メートル以上あったといい、もとは十五間(三十メートル弱)であったが、次第に短縮され、現在は十メートル程度になっている。百矢祭が行われる場所も、平成三年頃以前は、大元神社境内もしくは参道であったが、現在は神社に隣接する広場に移っている。
村誌の記述のように、放った矢を拾うのは、地元の子供の役割であり、「矢取り」と呼ばれ、これに参加するとお菓子などが配られた。しかし、現在では祭日の四月十九日が平日の場合、学校が休みにならないので、子供が参加できず、矢取りの役目を果たす者がいなくなり、今では大人が行っている。
以上のように、百矢祭の儀礼は簡素化され、かつての荘厳さが薄れてきつつあるが、この祭りは南予地方に現存する唯一の弓祭りであり、将来への伝承・継続のためにも、地元で再評価がなされ、記録・保存が講じられるべき時期に来ているのではないだろうか。
2001/04/27 南海日日新聞掲載
八幡浜市中津川では、毎年四月十九日に大元神社の春祭として、百矢祭が行われている。地元の四十二歳と六十一歳の厄年の者が、約十メートル離れた場所に設置されている直径一メートル程の的の中央に掛けられたカワラケを目がけて、矢を射る行事である。
地元ではこの行事を「百矢祭(ひゃくやさい)」とか「お百矢」と呼んでいるが、全国的に見ると、これは歩射(ぶしゃ)と呼ばれる儀礼に分類することができる。馬に乗らずに弓を射ることから、歩射の名が付けられたものだが、馬に乗って射るものを流鏑馬(やぶさめ)と呼んでいる。
実は、南予地方において、歩射の行事が現存している例は、中津川の百矢祭が唯一である。流鏑馬もかつては南予地方に存在したが、すべて断絶しており、南予において最後に残った弓祭りとして貴重な行事といえる。ただし、その中津川でもかつての祭りの賑やかさは見られず、少ない観客の中で細々と継続している状態である。
明治時代後期に著された『双岩村誌』によると、「お百矢は最も荘厳なる行事にして、多く鎮守の境内に矢来を結び、的を立て、それに対して座席を設け、両端に左大臣、右大臣の役目を勤むる者裃を着けて着座し、その間に弓手すらりと列座し、順次おほまいと呼びつつ的を射り、矢取りの少年二人代はる代はる矢を拾ふ」とある。しかし、時代とともに儀礼の内容は簡素化され、現状はこの村誌の記述とは大きくかけ離れてしまっている。
まず、祭日についてであるが、かつては四月九日であったが、昭和三十年代はじめに双岩村が八幡浜市に合併した際に、市内の祭日である四月十九日に変更し、今に至っている。
また、百矢祭は、現在では厄年の厄落とし行事に変容しているが、もとは中津川の中の馬地、上日ノ地、下日ノ地、矢野畑の四集落から若者を二人ずつ弓手をとして参加させるという形であったという。そして、かつては的までの長さは二十メートル以上あったといい、もとは十五間(三十メートル弱)であったが、次第に短縮され、現在は十メートル程度になっている。百矢祭が行われる場所も、平成三年頃以前は、大元神社境内もしくは参道であったが、現在は神社に隣接する広場に移っている。
村誌の記述のように、放った矢を拾うのは、地元の子供の役割であり、「矢取り」と呼ばれ、これに参加するとお菓子などが配られた。しかし、現在では祭日の四月十九日が平日の場合、学校が休みにならないので、子供が参加できず、矢取りの役目を果たす者がいなくなり、今では大人が行っている。
以上のように、百矢祭の儀礼は簡素化され、かつての荘厳さが薄れてきつつあるが、この祭りは南予地方に現存する唯一の弓祭りであり、将来への伝承・継続のためにも、地元で再評価がなされ、記録・保存が講じられるべき時期に来ているのではないだろうか。
2001/04/27 南海日日新聞掲載