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愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

中津川の百矢祭1

2001年04月27日 | 八幡浜民俗誌
中津川の百矢祭1

 八幡浜市中津川では、毎年四月十九日に大元神社の春祭として、百矢祭が行われている。地元の四十二歳と六十一歳の厄年の者が、約十メートル離れた場所に設置されている直径一メートル程の的の中央に掛けられたカワラケを目がけて、矢を射る行事である。
 地元ではこの行事を「百矢祭(ひゃくやさい)」とか「お百矢」と呼んでいるが、全国的に見ると、これは歩射(ぶしゃ)と呼ばれる儀礼に分類することができる。馬に乗らずに弓を射ることから、歩射の名が付けられたものだが、馬に乗って射るものを流鏑馬(やぶさめ)と呼んでいる。
 実は、南予地方において、歩射の行事が現存している例は、中津川の百矢祭が唯一である。流鏑馬もかつては南予地方に存在したが、すべて断絶しており、南予において最後に残った弓祭りとして貴重な行事といえる。ただし、その中津川でもかつての祭りの賑やかさは見られず、少ない観客の中で細々と継続している状態である。
 明治時代後期に著された『双岩村誌』によると、「お百矢は最も荘厳なる行事にして、多く鎮守の境内に矢来を結び、的を立て、それに対して座席を設け、両端に左大臣、右大臣の役目を勤むる者裃を着けて着座し、その間に弓手すらりと列座し、順次おほまいと呼びつつ的を射り、矢取りの少年二人代はる代はる矢を拾ふ」とある。しかし、時代とともに儀礼の内容は簡素化され、現状はこの村誌の記述とは大きくかけ離れてしまっている。
 まず、祭日についてであるが、かつては四月九日であったが、昭和三十年代はじめに双岩村が八幡浜市に合併した際に、市内の祭日である四月十九日に変更し、今に至っている。
 また、百矢祭は、現在では厄年の厄落とし行事に変容しているが、もとは中津川の中の馬地、上日ノ地、下日ノ地、矢野畑の四集落から若者を二人ずつ弓手をとして参加させるという形であったという。そして、かつては的までの長さは二十メートル以上あったといい、もとは十五間(三十メートル弱)であったが、次第に短縮され、現在は十メートル程度になっている。百矢祭が行われる場所も、平成三年頃以前は、大元神社境内もしくは参道であったが、現在は神社に隣接する広場に移っている。
 村誌の記述のように、放った矢を拾うのは、地元の子供の役割であり、「矢取り」と呼ばれ、これに参加するとお菓子などが配られた。しかし、現在では祭日の四月十九日が平日の場合、学校が休みにならないので、子供が参加できず、矢取りの役目を果たす者がいなくなり、今では大人が行っている。
 以上のように、百矢祭の儀礼は簡素化され、かつての荘厳さが薄れてきつつあるが、この祭りは南予地方に現存する唯一の弓祭りであり、将来への伝承・継続のためにも、地元で再評価がなされ、記録・保存が講じられるべき時期に来ているのではないだろうか。

2001/04/27 南海日日新聞掲載

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川名津柱松6-山口県岩国市行波の神舞との比較-

2001年04月20日 | 八幡浜民俗誌
川名津柱松6-山口県岩国市行波の神舞との比較-

 神楽と柱松行事が一体となっている川名津柱松と類似した祭りに、山口県岩国市行波の神舞(ゆかばのかんまい)がある。これは毎年行われるものではなく、七年に一度行われる行事で、現在、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。先日の四月七、八日に実施されたので、川名津柱松との比較検討を試みるため、私も見学に出かけてみた。
 この行波の神舞の特色を挙げてみると、川畔に松の木で作った四間四方の神殿が設けられ、ここで神楽が奉納される。神殿の中央には天井から天蓋が吊り下げられ、この天蓋を上下左右に揺らしながら神楽を舞う。神殿から二十間離れた位置には柱松が立てられ、松の高さは十三間半(約二十五メートル)と決められている。柱松の頂上には日月星をあらわす赤白銀の三色の鏡をかたどった輪形が飾られる。
 川名津柱松でも、神楽を舞うハナヤと呼ばれる神楽屋が設けられ、ハナヤの中央には天蓋が吊り下げられている。この天蓋を神楽の「巴那の舞」の時に紐でゆすって色紙や紙吹雪をまき散らす。また、ハナヤの西側には十二間の高さの柱松が立てられる。なお、この高さは閏年には十三間という決まりになっている。このように神楽・柱松が行われる設えに両者の共通性は多い。設えで大きく異なるのは、行波では神殿から柱松までの間が二十間あり、その間に八関と呼ばれる八つの小屋を立て、柱松登りの前に鬼神と奉吏(ほうり)が八人づつ小屋の前に立ち、問答をすることである。松登りをする者はこの八関を越えてから、松に登るのである。しかし、設えの面では川名津とは異なっているが、川名津でも柱松の下に木組みで「関」というものを作り、松登りするダイバンはそこで祈祷をしてから松明を背負って松に登る。神殿と柱松の間を「関」と呼ぶことについては共通しているのである。
 松登りに関しては、川名津ではダイバンが松明を背負って登り、柱松頂上にて鎮火の祈願をして松明を下に投げ落とし、そして頂上に据え付けられたショウジョウサマと呼ばれる藁人形や白木綿も下に投げる。その後に東方の綱をわたって曲芸的な所作をしながら地上に降りてくる。行波では、松登りをする者は松明を背負うわけではないが、柱松の頂上で、日月星の輪形に点火することになっている。点火しない場合には、頂上部の松の小枝をちぎって、下に投げ落とす。観客は、縁起物になるからといってこれを我先にと拾おうとする。投げ終わった後、川名津と全く同じように曲芸的な所作をしながら地上に降りるのである。
 実際に行波の神舞を見学すると、あまりにも川名津柱松との共通していることが多いのに目を奪われてしまう。川名津柱松の起源については不明な点が多く、これら県外の事例と比較検討することで、明らかになることが多いと思われる。この点については、別稿で紹介することにしたい。

2001/04/20 南海日日新聞掲載


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牛鬼の由来伝承

2001年04月15日 | 祭りと芸能

大正14年に高知県幡多郡役所が編纂した『高知縣幡多郡誌』に、江川崎村(現西土佐村)の牛鬼に関する由来伝承が紹介されていることを知った。「牛鬼の由来、文禄年間豊臣秀吉朝鮮征伐の際士卒屡々虎害を蒙る、陣中に伊豫の住人にして大洲五郎なる者あり頗機智に富み牛鬼を乗出す、士卒之を擔ぎて虎に向へば虎は驚愕して逃走す以後被害なし我軍戦勝凱旋するや郷人之を神事に用ひ神輿の先駆者たらしむ竹を用ひて作り長さ二間余赤き布を用ひて之を包むに形体●大怪偉にして威風四隣を●し法螺貝を吹きて縦横に奔馳する様鬼神も恐るるの概あり」
牛鬼の由来については、愛媛県宇和島地方で、朝鮮出兵の際に加藤清正が敵を威圧するために用いたのがはじまりといわれ、昭和初期にはこの伝承が定着していたことがわかっている。また別の由来として、大洲太郎が赤布を用いて牛鬼を作ったのがはじまりという伝承もある。しかし、いずれも昭和初期以降に著された文献に紹介された説であり、この伝承の詳細はよくわかっていなかった。
しかし、この『高知縣幡多郡誌』の記述は、具体的であり、これまで愛媛で確認していた複数の由来伝承を結びつける内容となっており、各地に伝わった由来伝承の原型を示しているといえるのではないだろうか。
①文禄年間の朝鮮出兵の際に、兵士が虎害を被っていた。
②伊予の大洲五郎が牛鬼を作って虎害を防ぐ。
③以後、神輿の先駆として取り入れる。
以上の3つの文脈にわかれるが、宇和島地方では①の話が変容して「朝鮮出兵の際に加藤清正が敵を威圧するために用いた」という話になり、また②が独立して朝鮮出兵の話とは切り離され、単に「大洲太郎(幡多郡誌では五郎)が赤布を用いてつくったのがはじまり」という伝承となったのだろう。
なお、虎退治のために牛鬼を用いたことに関連する伝承が南宇和郡御荘町にある。ここの牛鬼は、山に出る狼を退治するために、藩主伊達家の許しを得て、出したのが始まりだという。動物退治で共通するが、この話ももしかすると、虎退治が変容して狼退治になったのかもしれない。
牛鬼の由来には謎が多いのは、それを裏付ける文献が新しいことが原因といえる。大正14年の『高知縣幡多郡誌』より以前の史料に、由来伝承の記事がないかと探している最中である。

2001年04月15日

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新刊紹介『内と外から見た愛媛の方言』

2001年04月12日 | 口頭伝承

先般、清水史編著『内と外から見た愛媛の方言-方言意識の本音を探る-』(青葉図書)が出版された。清水史氏は愛媛大学教授で、現在、愛媛の方言研究の第一人者である。
この本では第1章にて、東予・中予・南予にわけてそれぞれの地域の各年代層が愛媛の方言をどう思っているのかといった方言意識の調査成果を紹介し、次に、愛媛の方言を、アクセントから(第2章)、語彙・意味から(第3章)、文法から(第4章)それぞれ紹介している。そして第5章では外国人から見た愛媛の方言を紹介している。
いずれも平易な文体で、内容も概説的なものであり、愛媛の方言の特徴を知る上で非常に参考になる本である。これまで、愛媛で出版されていた方言に関する本は、単に各地の方言の紹介にとどまっていたため、今回の本は、今後、愛媛の方言研究を始める者にとって有益であり、指針になるといえるだろう。
この本の趣旨とは異なるが、タイトルに「内と外から見た」とあるので、方言の「内と外」について考えてみた。本のタイトルに「内と外」を入れたのは、第5章にて「外国人から見た愛媛の方言」という項目があるからだと推察したが、私は「内と外」と聞くと、愛媛の方言を何気に使用する者と、愛媛県外から来た者、もしくは地域共同体を離れ、標準語を駆使する(もしくは第一と考える)者(学校の先生等)が出会ったことを契機に発生する方言認識を頭に思い浮かべてしまった。
昭和20年代以前の学校では、先生が、方言はよくない言葉だとして、子供の使う方言を矯正をし、標準語を押しつけた事例をよく聞くことがある。例えば、伊方町では父母のことを「トット」、「カッカ」と日常的に呼んでいたが、これを昭和20年代当時の学校の先生が汚い言葉と言って、「お父さん」、「お母さん」に代えさせられたというのである。学校現場での方言矯正は明治時代に始まるが、「国家」性を帯びた標準語が、地方に舞い降りた際、どのような変化、葛藤があったのか。この点に私は興味を持っている。学校現場だけではなく、昭和30年代以降のテレビの普及も大いに関係するところである。
つまり、私が「内と外」の標題を見て意識するのは、「地方(地域)と国家」、「方言と標準語」の交錯がどのように展開したのかという点である。本書を読んで、以上の点を改めて問題意識として抱いてしまった。今後のフィールドワークで、気に留めながら聞き取りをしてみたいと思っている。

2001年04月12日

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縄文文化と「縄文的文化」

2001年04月03日 | 衣食住
縄文文化が今ブームであることは、以前にも述べたが、カシやシイ等のドングリ類や根茎類の植物食に関する民俗が、考古学の世界でも縄文時代から連綿と続く文化であると見なされ、多くの報告がある。渡辺誠の『縄文時代の植物食』(雄山閣、昭和50年)をはじめとする一連の成果や橋口尚武「調理」(『縄文文化の研究2 生業』雄山閣、平成6年)などである。
私も、四国山地を調査していて、トチやシイ、彼岸花などに関する食文化や焼畑の聞き取りをしているとき、「これは縄文文化の名残りなのだな。現代にも縄文文化が息づいているんだ!」と感銘にひたりながら話をうかがってしまう。
ところが、冷静に考えてみると、これらの民俗が、縄文時代に遡るというようにどのように証明できるのか、疑問にも思ってしまう。稲作文化のように、研究が進んで、弥生時代から連綿と続くことが実証されているのとは対照的に、縄文時代にまで歴史を実際にたどっていくことは困難である。よって、これらの民俗をもって「縄文文化の残存」と断定することは、民俗学の立場からはできないような気がするのである。
そこで、私は逃げの一手ではあるが、これらの民俗を勝手ながら「縄文的文化」と名付けてしまった。
近年、発展史観にもとづく縄文研究の覆しを試み、縄文文化が実は豊かであったと叫ばれているが、こういった主張も一つの史観に過ぎないとも思ってしまう。つまり、高度経済成長期を背景とした時代には、時代とともに歴史は発展するという見方が前提にあり、縄文時代は弥生時代よりも遅れた時代であったとの認識が当然のようにあった。これが近年、社会情勢が変わり、経済成長を前提とせず、むしろ、無意識のうちに環境問題との絡みで縄文時代を再評価する流れが出てきているのではないか。縄文文化における野生植物利用などの研究が進むのも、これが現代に連綿と続くと主張するのも、環境問題などの今の時代背景に基づいた史観の一つであるといえるのではないだろうか。
民俗学の立場からは、篠原徹が『海と山の民俗自然誌』(吉川弘文館、平成7年)の中で次のように述べている。
「野生植物利用の採集技術・調理技術の民俗だけが一気に時代を遡ることができるとどのように証明できるのであろうか。少なくとも中世以降の野生生物利用(堅果類のアク抜き技術など)に東日本・西日本の差異があることを認めたとしてもそれがどうして縄文時代以来連綿として続いたものの差異と検証できようか。しかも焼畑をする山村として照葉樹林文化論からいえばまさに縄文時代の残存した地域といういうのは標高のかなり高い地点(椎葉・祖谷・椿山・白峰・北上山地など)みある。そこは照葉樹林帯というより落葉広葉樹帯に近く、わずかな縄文遺跡の存在はあっても密度は低地や低山帯に比べて少ない。そして人々の伝承や文書によればせいぜい中世に人が住みついたにすぎないところが多い。焼畑文化が稲作文化に先行する農耕文化とすれば、そしてそれが列島外からの文化の伝播であるとするならば当然低地の縄文時代の遺跡は密度ばかりでなく、遺跡の性格の上でもそれが焼畑を示すものでなければならないが、それは考古学的には必ずしも妥当であるとは言えない。」
私は今後も、ドングリ類や根茎類の食文化についての聞き取りを行っていくつもりだが、「縄文文化の残存」という一種の夢を抱きつつも、やはりこれは「縄文的文化」の域を出ず、これを「縄文文化」と断定するには研究の発展を待たなければいけないと考えながら調査をしていこうと思っている。

2001年04月03日

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「シャク」という方言

2001年04月02日 | 衣食住
愛媛県南予地方では、うるち米のことを「シャク」と呼ぶ。この方言の分布について調べてみたが、不思議な分布をしており、少々驚かされた。徳川宗賢編『日本の方言地図』(中公新書)にその分布図が載せられているのだが、「シャク」は愛媛県および九州南半から沖縄にかけての地域の方言なのだ。私は沖縄・南九州・愛媛とつながる方言の分布域については、これまで類例を知らなかった。「シャク」の方言を私が実際に確認している事例としては、愛媛県では八幡浜市、南宇和郡一本松町、大分県では北海部郡佐賀関町があり、実際には愛媛県南予地方から大分県、南九州、沖縄にわたる分布と限定できそうである。
『日本の方言地図』に「シャクの類は南方系のことばであるようだがその由来は不明である」と述べられているように、由来・語源についてはよくわからない。ただ、「南方系」ということが気にかかる。私は愛媛県の中でも宇和海に面した南予地方は南方的要素の強い民俗が存在するのではないかという仮説を抱いている。例えば闘牛(牛のツキアイ)などがそうであるが、瀬戸内海沿岸地域とは異なる文化領域が南予にはあると考えているのである。そのため、「シャク」の方言の分布には強い興味を惹かれてしまう。うるち米という生産・生業に関する方言であるため、これは沖縄・南九州との稲作文化の関連も視野に入れて解明すべき問題ではないだろうか。
ただし、由来・語源を追求していきたいと思うものの、未だ手がかりはつかめていない。

2001年04月02日

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ヘンドの宗教性

2001年04月01日 | 信仰・宗教
石川藤晴氏著『旧聞百話-新宮村で聞いた話-』の中に、次のような話が紹介されている。
「遍途祈祷:難病にかかり治療費の工面がつかぬ家に、極く稀にではあるが、へんど祈祷をした。の人が一日遍途になり、二人一組で手分けして近在を廻り、事情を話して喜捨を頼み、喜捨を受けた家には数本の線香を納めた。」
興味深い事例なので、私は先日、宇摩郡新宮村に行ったときに、この習俗について何人かの古老に話を聞いてみた。しかし、残念ながら結局確認できなかった。かなり昔の習俗だったのだろうか。
この事例は、近所の者が遍路となって、近在を廻ることに注目しておきたい。通常、遍路であれば、札所に参詣・巡拝するものである。新宮村の近くには三角寺などの札所があり、そこに祈願に行くことも可能である。そうするのではなく、近在の家々を門付けするように廻ることで祈願を成就しようとすることに、遍路のもう一つの本質が見えるような気がする。札所を廻ることによる修行ではなく、家々を廻ることによる修行である。
四国では、かつて、遍路の格好をしていても、札所を巡拝することを目的とせず、家々を廻り、一種物乞い的な行為を主とする者がいた。これを四国の人は「ヘンド」と呼んでおり、物乞いの別称でもあった。「ヘンド」は「お遍路さん」と比べて願かけをして巡拝しているとは見なされず、宗教性は薄いと認識されがちである。
ところが、新宮村の事例では、近所の者が「お遍路さん」ではなく「ヘンド」と称して祈願するのである。「ヘンド」が単なる物乞いではなく、宗教性を付帯していることを示唆してくれるのである。私は、この事例は、乞食(こつじき)の原初性をも垣間見ることができるのではないかと期待している。何とか追跡調査をしてみたいと考えている。

2001年04月01日

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迷信が崩れる時

2001年04月01日 | 口頭伝承
明治44年7月24日付けの伊豫日日新聞に、愛媛県下最大級の洞穴である羅漢穴(現東宇和郡野村町小屋大久保)に関する記事が掲載されている。この羅漢穴は慶応2(1866)年刊行の半井悟庵著『愛媛面影』にも紹介されており、江戸時代から著名な洞穴であった。居並ぶ鍾乳石が五百羅漢のように見えるため、この名がついたといわれるが、新聞記事によると、かつては、小屋の里人はこの洞穴には近づかなかったようである。記事の内容は次の通りである。「羅漢穴の奇談:里人は、古来此洞孔に入れば神の祟りありと言つて入孔を喜ばず、若し入れば忽ち暴風起り農作物に被害を与へるものと迷信して、毎年四月より十月までの期間に、此洞孔に案内したものは五円の罰金に処するとの規約を結び、質朴なる里人は堅く守つてきた」
ところが、大野ヶ原にて行われた軍事演習の際に、兵士が面白がって羅漢穴に入ってしまったらしく、里人は、主作物である玉蜀黍は暴風でできなくなると怖れて困ってしまった。しかし、結局、作物は無事収穫できて、被害(祟り)はなかったという。そして、それ以降は、何時行っても、里人は羅漢穴を案内してくれるようになったということである。
この事例は、明治時代に流入した近代合理主義的な思想が四国の山奥にも入り込み、一つの迷信を崩した例と言えるだろう。その迷信を崩したのが兵士という「国家」を前提とした存在であったことが面白い。合理主義的思想を持ち込んだのが「国家」であり、その「国家」性を背負う者が「ムラ」に入り込んだ時に、その土地独特の迷信なり、習俗なりを崩壊させた、もしくは崩壊させる契機となったのである。

2001年04月01日


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