このシンポジウムは、愛媛CATVさんに撮影していただき、その様子は3時間弱に編集され、11月からたびたび放映、再放送されたところです。
2024年の年始にも別添のとおり、再放送が続きます。
もう20回近くになるのでは・・・。しかも元日朝9時から・・・。
内容はリアルなもので、お正月のめでたさが・・・と思いつつ、
1回限り、限られた参加者のシンポをこれだけ紹介していただけると、
より多くの市民への防災意識の喚起につながり、ありがたいことで、感謝しております。
愛媛CATVのサイトはこちら。
今回のシンポ概要は以下の通りでした。
文化遺産とは、地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を集約した象徴的な存在であり、そこに属する人々にとって何ものにも代え難い誇りです。同時に、情報を共有すれば他地域の人々をも感動させる価値を持っています。しかし、その将来は必ずしも明るいとは言えません。本シンポジウムでは、人口減少によって危機に瀕する文化遺産の現状や課題を議論するとともに、予測不能な現代社会にこそ必要な「文化とともに歩む未来」について考えます。
主催は、愛媛大学社会共創学部、社会連携推進機構地域共創研究センター、気軽にコミュニティカレッジin内子懇話会、内子町教育委員会。
趣旨説明 井口 梓(愛媛大学社会共創学部副学部長・社会連携推進機構地域共創研究センター副センター長)
研究発表
渡邉敬逸(愛媛大学社会共創学部・社会連携推進機構地域協働センター南予)「人口減少との関係から考える文化財管理のゆくえ:愛媛県を事例として」
大本敬久(愛媛県歴史文化博物館)「VUCA時代の無形文化遺産―文化が新たな地域に果たす役割―」
村上恭通(愛媛大学先端研究・学術推進機構アジア古代産業考古学研究センターセンター長)「文化遺産と人口減少社会の将来-なぜ今、議論するのか-」
総合討論・質疑応答 コーディネーター:井口 梓
貴重な機会を与えていただきました愛媛大学、内子町教委、そして内子懇話会のみなさま、ありがとうございました。
文生書院から、愛媛県南予地方の歴史、民俗に関する著作が刊行されました。『ふる郷もの語』(ふるさとものがたり)。ジャーナリストでもあり、伊予史談会設立当時の活動を下支えした鴫山(旧双岩村。双岩はいま八幡浜市。鴫山は西予市に位置しています)出身の曽我正堂さん。幕末から昭和初期の南予の生活世相が事細かに描写され、私自身も八幡浜市出身で祖父が双岩村の出でもあるので、非常に親近感のある内容です。南予をはじめ、全国の多くの歴史、民俗学関係者には四国山間部の生活を知る、学ぶ好著となっています。孫の曽我健さんの編集。詳しくはこの文生書院のホームページをご覧ください。
以下、文生書院のホームページより転載します。
本書の内容
曽我正堂が昭和11(1936)年から昭和16年まで『愛媛日曜新聞』に連載した随筆。長年の新聞記者生活で培った取材力、観察力、明晰な視点、平易な文体で、彼のうまれ故郷である愛媛県の小さな山村、双岩村鴫山(ふたいわむら しぎやま)(現、西予市三瓶町)の歴史、習俗、風俗、祭祀、農業、食物、経済、そこに生きた名もなき人々の生活を記した。著者が取材した父太郎市の江戸末期の追想も収録され、幕末から明治、大正、昭和戦前にいたるまでの四国山間部集落における生活世相が記録されている。
著者、曽我正堂について
正堂は愛媛県の小さな山村、双岩村鴫山(現、西予市三瓶町)で明治12年、代々つづく自営農民の家に生まれた。
明治34年、私立東京専門学校高等予科に入学、翌年卒業。次いで早稲田大学(東京専門学校の改名)英文科に入学、明治38年7月15日、卒業した。
卒業後、東京帝国大学内に設けられていた三上参次が主宰する史料編纂室の臨時雇いに採用された。ついで三井の編纂室に転職。しかし激務のため体をこわし、明治44年退職し、家族とともに鴫山に帰山、療養に専念した。
一年ほど療養し、伊予日日新聞社に主筆として招かれ松山に出た。その後、『大阪毎日』の通信員を兼ねるようになったが、昭和2年に『伊予日日新聞』は廃刊となり、昭和9年には大阪毎日新聞社を退職。
その後、国の統制のさまたげにあいながらも方々の新聞に随筆を連載しつづけるが、戦争が激しくなり、松山に空襲がせまったため昭和20年3月、鴫山に帰郷する。農業をして暮らすが、病を得て、昭和34年12月28日死去。享年81。(曽我健「解説」を要約)」
以上、ホームページより転載