愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

宇和島・吉田の津波被害~明治時代『風俗画報』より~

2012年08月31日 | 災害の歴史・伝承
岩手県の遠野市。柳田國男『遠野物語』の舞台だ。

いま、そこで、遠野文化研究センター、遠野文化友の会が設立されて、

私も友の会会員になっている。



その遠野文化研究センターが先般発行した冊子がある。

『復刻版 明治29年「風俗画報」臨時増刊 大海嘯被害録』である。

海嘯とは津波のこと。

明治29(1896)年6月15日に発生した三陸大津波による各地の被害の様子を

挿絵を交えながら雑誌『風俗画報』が臨時増刊ものの復刻である。



臨時増刊されたのは7月から8月にかけて三冊。

その三冊目に坪川辰雄という人物が「大海嘯年代記」という文章を掲載している。

ここには古代の白鳳年間から江戸時代にいたるまでの全国の歴史上の津波被害が

簡略ではあるが紹介されている。

そこに「伊予」の記載もあったので、ここで引用しておく。



「宝永四年十月四日(中略)伊予 宇和島大潮打込み家財悉く流出、吉田浦の民家五十戸許流出此辺潮の高さ八九尺程なりしと」



このように1707年の宝永南海地震による宇和島市と旧吉田町の津波被害が簡略であるが紹介されている。

宇和島では、家財がことごとく流され、吉田では50戸の民家が流され、8~9尺ということは2.4~2.7メートル程度の津波の高さであったというのである。

このような記載が、明治29年の東北地方の三陸大津波に関して紹介した出版物に見られたので、地元愛媛では目にする機会がないと思い、紹介した次第である。





絶滅種 愛媛・カワウソの歴史メモ

2012年08月31日 | 自然と文化
平成24年8月28日、環境省がニホンカワウソを絶滅種に指定した。平成8年から12年頃に自分もカワウソについては人文系の立場でいろいろ調べたことがあった。個人的にカワウソが好きだったのである(今でも)。そのときのノートの中から昭和30年代、40年代の愛媛におけるカワウソメモを抜粋して、ここに情報を掲載しておく。出典が曖昧なのはご容赦ください。主に新聞記事からの抜粋です。これらは愛媛カワウソ史のごく一部。カワウソの動物民俗誌については9月に宮本春樹先生の講演(宇和島文学歴史講座 愛媛新聞社事業部主催)があり、宮本先生が最新号の『西南四国』でも文章にまとめている。興味のある方はそちらが詳しく、参照していただきたい。


昭和38年10月6日、カワウソを国の天然記念物に指定するために調査団が八幡浜市大島、地大島を訪れた。調査団は文部省文化財保護委員会専門委員の鏑木外岐雄東京大学名誉教授、文部省記念物課の品田穣調査官、八木繁一県文化財専門委員、清水栄盛道後動物園長らで構成されていた。調査団は地大島の竜王池一帯を調べ、竜王神社の床下から小石に付着した多量のカワウソの糞を発見。ここに生息していることを確認した。また、神社の近くのヨシの茂みにカワウソの遊び場と見られる空き地もみつかった。清水園長は、ここに3年前は6匹いたと思われると言い、糞の状況から2、3匹に減っているということだった。この調査団は、7日、8日には西海町、9日には城辺町にて海岸一帯の調査を行った。(朝日新聞)

昭和38年10月15日、カワウソ生息の現地調査が行われた八幡浜市地大島では、住民の間でカワウソの天然記念物指定に反対する意見が多かった。ちょうど護岸工事を行う計画、またカワウソの生息地とされる竜王池も埋め立てて果樹園にする計画などがあり、地大島がカワウソの保護地域とされると生活に影響する恐れがあるからという理由。(愛媛新聞より)

昭和38年12月1日、県教育委員会は地大島のカワウソ特別保護区指定をあきらめる。地大島では果樹園の開発計画が具体化し、護岸工事、竜王池の埋め立ても予定されている。これが国指定の天然記念物になって特別保護区となると、工事が進めにくくなる、ということで反対の意見が多かった。八幡浜市、八幡浜市教委、県教委で島民と話し合い、「カワウソも大事だがそれによって人の生活が犠牲になるのでは意味がない」との県教委の判断。そのかわりに三崎町大佐田地区など数カ所を特別保護区とするよう、検討を始めた。(愛媛新聞)

ちなみに、カワウソの特別保護区は、昭和37年12月15日に、(1)八幡浜市地大島と三瓶町巴里島周辺域と周木、須崎地区、(2)西海町の鹿島の一部と対岸の汐碆、白浜を含む地域、鼻面岬周辺、樽見鼻周辺、(3)城辺町の大浜、黒崎の周辺が候補に県教委が決定した。これは県文化財専門委員の八木繁一氏の調査結果を参考にして決めたものである。(愛媛新聞)

昭和39年3月、国の天然記念物に指定された。

昭和39年5月16日、愛媛県の県獣にニホンカワウソが公募で決まった。明治時代に毛皮で乱獲。昭和3年に捕獲が禁止されたが、その頃には絶滅の危機に。本来は河川に棲んでいたが、河川開発が進み、海岸に棲むようになった。ちなみに、公募ではハクビシンも対象になっていた。応募数は199。カワウソが94票、コマドリが56、ヤマドリ22、ホシガラス22、ハクビシン5であった。(朝日新聞および愛媛新聞昭和39年5月17日付)

昭和40年9月1日に、八幡浜市大島の三王島(大島と地大島を結ぶ中間地点にある小さな島)の海水浴場でカワウソが生け捕りにされた。地元の農業佐々木幸雄さんが発見。地元消防団員らが一帯に網を張って捕獲。生け簀に入れて八幡浜市漁協大島支部で保護した。

昭和45年2月7日、八幡浜市川上町上泊でカワウソが浜に干してある網の中にもぐって生け捕りにされた。昭和45年頃には捕獲は珍しくなっており、自分のメモでは八幡浜での最後の生け捕り事例である。このカワウソは南宇和郡御荘町にできたカワウソ村(このカワウソ村の存在に関しては私は多くを書かない。)に運ばれ、保護された。(朝日新聞より)

昭和47年8月9日、吉田町(現宇和島市)の惣代の通称楯の海岸でカワウソの糞と足跡らしきものが見つかり、清水栄盛東雲短大教授(元道後動物園長)ら八人が現地調査をした。近くの岩に縄張りの目印がみつかり、生息の可能性があることがわかった。(毎日新聞)

昭和48年5月10日、城辺町深浦でニホンカワウソが見つかり捕獲したが、5時間後に死亡した。もうこの時期には新聞記事に「生きていた幻の動物」という見出しが出るようになっている。(朝日新聞)

【再掲】カワウソと人の交流誌

2012年08月30日 | 口頭伝承
「カワウソと人の交流誌」というコラムを1999年10月21日付の南海日日新聞で書いたことがある。その後、この文章は拙著『民俗の知恵』にも入れ込んだ思い入れのあるエッセイだ。昨日のニュースでカワウソは絶滅種だということになったが、心情的にはまだ宇和海のどこかにいることを願っている。完全に絶滅したと自身で受け入れるにも心の準備ができていない。

そのエッセイをここに再掲しておく。


 県獣であるカワウソは、動物では県内唯一の天然記念物である。このカワウソについては、戦前は宇和海を中心に各地で生息が確認されていたが、昭和四十年代以降、目撃例がごくわずかとなってしまった。カワウソの絶滅の危機は必ずしも自然現象とは言い切れず、戦前は毛皮にするため乱獲されたり、戦後、急激に環境が破壊されるなど人為的な要因も無視できない。そもそも、弥生時代後期の神奈川県猿島洞穴出土動物遺体の中にカワウソの骨が発見されるなど、人間とのつきあいは原始・古代に遡ることがわかっている。また、平安時代中期成立の『延喜式』巻三十七典薬寮によると、カワウソが薬として朝廷に献上され、また、室町時代には塩辛にされるカワウソの史料も残っている。近代になっても、毛皮のために乱獲されるだけでなく、結核や眼病の薬としても捕られていたようである。戦後、絶滅の危機に直面すると、天然記念物に指定され、目撃例があると一躍新聞紙面を賑わすなど、一転、稀少で、しかも愛敬のある動物、人間に親しみにある動物として祀りあげられた。原始以来の人間とカワウソとの交流の歴史を見ていくと、実に、人間に翻弄されるカワウソの姿が浮び上がるのである。
 人に翻弄されてきたカワウソであるが、八幡浜地方に伝わる数多くのカワウソに関する伝承を確認してみると、逆に人間の側が彼らに悪戯され、翻弄されている例が多いので面白い。この種の話は海岸部に住む戦前生まれの人であれば誰でも聞いた経験があるというくらい、枚挙にいとまがないが、数例挙げてみると次のような話がある。
 「漁師が沖で漁をしていると、カワウソがこっちこい、こっちこいと手招きするので、行って見ると、船が陸に上がってしまい、難儀した。」
 「島の人がカワウソを捕獲して家に連れてかえると、捕獲されたカワウソの親が、毎晩、子供をかえせ、子供かえせと言いに来た。」
 「夜二時ごろ、海岸をあるいていると、防波堤の上にはちまきをして、子守をしている女性がいた。不気味に思ったがこれはカワウソが化けたものに違いないと思い、『お前はカワウソじゃろうが』と叫ぶと、消えてしまった。」(以上、大島)
 「カワウソに化かされて、一晩中、山中を歩かされた。」
 「カワウソが手招きして、風呂を沸かしたから入れというから入ってみると、実はお湯ではなく、枯れ葉だった。」(以上、真穴)
 天然記念物に指定され、絶滅が危惧されているカワウソ。生物としての絶滅危惧とともに、身近に伝承されてきたカワウソとの交流話も消えうせる可能性がある。八幡浜地方は愛媛県内でも遅くまでカワウソが生息していた地域として、この種の話も継承していく必要があるのではないだろうか。


災害後50年目に建立された地震津波碑

2012年08月30日 | 災害の歴史・伝承
徳島県にある地震津波碑。

海に近い海陽町浅川出張所の前に建っている。

過去、幾度となく地震、津波被害をうけてきた地区である。

「震災後50年南海道地震津波史碑」と書かれてある。

石碑は比較的新しいもの。

碑文を見ると、平成8年に当時の海南町が建てた石碑であることがわかる。

昭和21年の昭和南海地震から50年目の建立である。



裏面には、歴代の徳島県を襲った津波と、地元浅川での犠牲者の人数が刻まれている。



地震津波碑は、被害直後に建立されるとも限らない。

50年といった節目の年、もしくは地域での記憶が薄れかかってきた際に、

建立される場合があり、この石碑はその一例である。


安政南海地震での被害-長浜町、保内町、伊予市、宿毛市ー

2012年08月30日 | 災害の歴史・伝承
先に、愛南町について紹介したが、今回は主に大洲市長浜町、伊予市、八幡浜市保内町、高知県宿毛市についての地震津波史料である。東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二(昭和62年発行)の2035頁から2036頁に愛媛県の『長浜町誌』に記載された安政南海地震関連の史料が紹介されている。

以下、引用である。【 】内は、大本が加筆した註である。

〔長浜町誌〕○愛媛県 S50.12.20 長浜町誌編纂委員会編・発行
  安政大地震
 一八五四年(安政元)十一月には、三日、四日の地震を前触れとして、五日午後五時頃から空前の大地震が襲来した。
 『兵藤家文書』は次のように記している。
嘉永七(安政元)甲寅十一月五日、八ツ頃に至り大地震発、大に騒動、家々数々痛み、村方中通別して大ゆり、伝左衛門土蔵大痛み、平兵衛屋敷廻り大痛み、平がき西北残らず石垣よりくずれ申候、酒蔵並に裏穂蔵大痛み、裏部屋大痛み、双方屋敷大痛み、其中昼中の事故人痛みは御座なく仕合の至に候。
【つまり、大洲市長浜町においては、建物被害はあったものの人的被害はなかった。】

御領中にて大痛みは郡中町、怪我人四十人、人死二十人と申すことに候、浜通り郡中より下にては、当初大痛みと申す事に候
【御領中とは大洲藩内ということ。郡中町とは現在の伊予市中心部。ここで死者20人、負傷者が40人であったとの記録である。】

宇和島御領内数々痛み、人死も数々之あり、其内、宇和島御領にては多分の人死者御座なく、宮内村、西井浦、楠浜村【宮内も楠浜も八幡浜市保内町。西井はおそらく雨井の誤りと思われる。雨井も現八幡浜市保内町である。】大津波にて大痛み、昼中の事故人死は御座なく、宮内村三島様の沖、喜木辺へ往来の道のきわまでほふりあげ、三百石程の石船一艘、網船一隻、都合三艘田の中へ打ちあげ申候、大変の事に候
【つまり、八幡浜市保内町では、津波によって船が打ち上げられたり、宮内の三島神社や喜木あたりの道近くまで津波が来たりしたことがわかる。現在の国道197号付近であり、八幡浜市保内庁舎近くまでは来た、もしくはそれより内陸まで潮があがったことになる。】

七日、八日の間、昼夜度々の地震にて、何れもきもを消し、おそろしき事に候、其後三十日も日々ゆり候、兎角近年大地震より後は、度々の地震にて何れも込入り候
【つまり、11月5日の本震のあとに一ヶ月間はたびたび余震があった。】

土州御領は別して大痛み、土佐宿毛町残らず津波にて流出、人死数限りなき事に候、其内、土州御領中何れも大痛みの由に御座候 宿毛町家一軒も残らず流れ候由、おそろしき事に候
【ここでは、土佐、高知県の宿毛市の甚大な被害が記載されている。】

西井町津波引候後に至り、町中に塩すねぎりたち申候、津波さしこみ候時より、引ぎわが殊の外おそろしきことに御座候
【この西井町がどこなのか確定できないが、おそらく先と同じ八幡浜市保内町の海岸沿いの集落である雨井のことと思われる。津波は、波が差し込んで来るときよりも、引き際が恐ろしいというのである。】
   嘉永七年十一月印之
                        兵頭【藤?】喜平太正方代

長浜の古老の話によれば、日和山近辺の漁師町(乳児保育所の周辺)は、安政大地震の時、お台場のところへ小屋をこしらえて、女・子供を避難させたということである。
 安政元年ヨリ同二年二渉リ、昼夜ノ別ナク数回地震アリ、■【外字】壁等ノ倒壊二止マリ、敢テ大惨害ハ蒙ラザリシモ人心恟恟、皆其業二安ゼズ、仮小屋ヲ設ケテ之二避難セルモノ多カリシト云フ(『長浜町郷土誌稿』)
 当地方の被害はたいしたことなくすんだようだ。


以上が『新収日本地震史料』からの引用である。



これは、長浜町誌という公にされた自治体刊行物の記載でもあり、東大地震研究所編の『日本地震史料』にも所収されている記事。引用であり、新規に発表、報告するような内容ではない。既に過去に一般向けに情報発信されたものである。ただ、南海地震の防災意識の向上のため、過去の地震津波被害について、一般向けにここに紹介しておく。





亀の狛犬

2012年08月29日 | 信仰・宗教
亀の狛犬というのもおかしいが、狛亀というの変。

これ、伊予市双海町高岸の三島神社にある狛犬。といっても形は亀。

神亀年間(奈良時代)に輝く金幣を乗せた亀が浮遊しながら渚にあがり、そして社のある森に入ったので、住民がここを社地として祀ったという話が社伝として伝わる。これに由来した狛犬(亀)なのである。

建立は安政4年8月。

珍しい狛犬、いや狛亀である。

安政南海地震と津波被害-愛媛県愛南町の場合-

2012年08月28日 | 災害の歴史・伝承
(平成24年11月25日追記)
11月23日に行われた四国民俗学会「四国災害史シンポジウム」。愛南町の藤田儲三先生から以下の文章のうち、一本松町史に掲載されている「舟中百壱人相果」とあるのは、原典を確認すると「舟中に而壱人相果」であり、「而」を「百」と誤読したまま、東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』に再掲載されたとのこと。つまり安政南海地震で深浦において101人の犠牲者というのは誤りではないかとのご指摘をいただきました。確かに現地に行っていろんな方にお話をうかがっても、101人の犠牲者の伝承や供養の実態がないことに不思議に思っていましたが、これで少し納得できました。ただし、深浦は家屋流出の被害が激しく、津波に注意すべきことにはかわりはありません。(以上、追記)





東京大学地震研究所編『新収日本地震史料』第五巻別巻五ノ二(昭和62年発行)の1959頁に愛媛県南宇和郡(現愛南町)の安政南海地震の被害に関する記述がある。このときの被害記事は四国災害アーカイブスに
http://www.shikoku-saigai.com/archives/2540

安政元年(1854)11月、大地震あり、外海浦に津波あり。鳴動は数日に及ぶ。人々は天地にその鎮撫を祈った。 一本松町正木の「蕨岡家文書」によると、11月5日申の下刻(午後4時頃)に大地震が発生し、夜中まで14、5度も揺れたという。また、海辺では津波の被害がひどく、深浦では舟中の101人が遭難し、宿毛では家が数軒流されたなどと記されている。

このように紹介されているが、抄録であるため、『新収日本地震史料』の記事をそのまま引用しておきたい。


以下、引用。


〔一本松町史〕○愛媛県 S54.1.1 一本松町史編集委員会・一本松町発行
2 地震・津波
 幕末のころも各種の災害は相次いだ。なかでも嘉永七年(一八五四安政元年)一一月、この地方を襲った地震は激しく言語に絶するものがあった。
 その記録が、本町正木蕨岡家に残っている。
 
  嘉永七申寅大地震記録
 一一月五日、朝少し西風天気吉、申の下刻大地震となり動きがきて半時酉の上刻より夜中まで十四五度もゆるぐ。広庭に於て夜を明かし、明る六日には昼夜折々震動、七日朝雨模様となり少々降り巳刻頃また大ゆれが始まる。ゆりが少し細くなりたる頃、銘々小屋掛いたし、小屋住居にいる。川水濁り井の水切れ大石落つ
 海辺は津波来り外海浦の内、深浦、岩水、平城村貝塚、満倉などに流家これあり、新田分も残らず海に相成り大破、和口村の出合迄汐流る。
 人の損毛深浦の者舟中百壱人相果つ、土州宿毛町家数軒動き流れ人の損も多し。廿四日を頂上に日々震動、日々雨模様に相成り強雨雷鳴廿五日出入それより震動少く遠く相成候得共、年明けても折々震動仕事相止め難く卯正月七日夜雨降り大雷荒れ相絶候
   安政二乙卯四月
                      蕨岡重賢
                     (蕨岡文書)
 この記録によると地震は一ヶ月余りにわたり、大小こもごも起ったようである。特に津波の被害はひどく、深浦では一〇一人も遭難者が出、宿毛でも家が数軒流れ、人も死んだということがわかる。
 古老の話によると、本町でもこのとき広見の田中家では新築の家が傾き、中川の大又では地のゆれがひどいとき大勢が竹薮に逃げ込み、中には七日間もそこから出なかったものもあるという。(岩村トク談)


以上が引用である。


地名で出てくる「深浦」は旧城辺町深浦。リアス式海岸の湾頭に立地する。山が海に迫っていて海岸近くからすぐに水深10メートルを越える深さとなり、湾内は水深50~60メートルにもなっており漁港、漁業基地として有名である。ここの集落から101人の船上遭難の被害があった。

「岩水」も旧城辺町。「平城村貝塚」は旧御荘町平城の中にある貝塚地区。「満倉」は旧一本松町満倉。ここは深浦湾に流れる川の下流に位置する。これらの集落では、家が流されたということである。

そして汐が流れてきたという「和口村」であるが、四国霊場の観自在寺や旧御荘町役場よりも内陸側であり、そこまで津波の際の潮の遡上があったという。

以上が『新収日本地震史料』に記載されている愛媛県内、愛南町における江戸時代の安政南海地震、津波被害の状況である。

ぞうきんの歴史~雑巾と浄巾~

2012年08月28日 | 衣食住
日本国語大辞典見ていて偶然発見。

雑巾(ぞうきん)って、1400年代の辞典「節用集」には「浄巾」って出てる。

浄らか、もしくは浄める布。

たしかに、ぞうきんのこと「じょーきん」と呼ぶ年配の方がいるなぁ。

いつから「浄」が「雑」になってしまったんだろう?


だいたい木綿布は室町時代には一般に普及していない。

とんちんかんちん一休さんのアニメでは、

よく雑巾がけやっていたが、

あれはその時代、高級品。アニメの設定上、将軍足利義満の時代。

貧乏寺である安国寺ではちょっと無理がある。

といっても、浄巾は禅宗から普及していったとの話もあるので、

一休さんの雑巾がけも可笑しなわけではないのかもしれない。


木綿以前の雑巾。

麻、藤、芭蕉などなど、いろんな繊維があるが、

どれも適してはいないような気がする。


「雑巾がけ」(走るかのような雑巾がけ)という行為自体も、

近代学校建築での廊下や教室といった広い板張り空間の出現とともに

一般化したのかもしれない。ちょっと極端ではあるが。

あとは寺院建築でも、雑巾がけは可能だ。

やはり一休さんは間違っていない?


さらには「雑巾でふく」という行為。

これは木綿以前の繊維の雑巾だと、

繊維が柔らなければ、ふくのは難しい。

というわけで、「雑巾でふく」という行為も

普遍的ではないのかもしれない。


ぞうきん文化、奥深し。














神社合祀前 神々のランキング 城川町の場合

2012年08月27日 | 信仰・宗教
城川町教育委員会・ふるさとの祭りと神々編集委員会が編纂した『ふるさとの祭と神々』という本がある。昭和57年、城川町文化財保護委員会の発行である。この書籍は東宇和郡城川町(現西予市)内の神社調査報告書であり、明治時代以降の神社合祀以前の小社、小祠についても取り上げており、かつての地域社会の中にどんな神々が祀られていたのかがよくわかる。この書籍によると、城川町内(旧遊子川村、旧土居村、旧高川村、旧魚成村の四ヵ村)の神社総数は合祀前には255社あり、そのうち最も多いのは天満神社の23社、次いで恵美須神社21社、その次が愛宕神社20社となっている。上位10社をまとめると次のようになる。

1位 天満神社  23社   
2位 恵美須神社 21社   
3位 愛宕神社  20社   
4位 金比羅神社 12社   
5位 若宮神社  11社   
6位 伊勢大神社  9社
6位 海津見神社  9社
8位 八幡神社   7社
8位 八坂神社   7社
8位 白王神社   7社

この順位を見ると、現在と比べると、神社合祀以前の地域社会において、愛宕社の占める割合が高いことがわかる。天満、恵美須、若宮、海津見、八幡社は戦前の村社として、現在でも地域の氏神として比較的多く見られるが、村社レベルでの愛宕社は希有である。しかも、愛宕社20社の内訳を見ると、遊子川村5社、土居村5社、高川村2社、魚成村8社とすべての村に見られ、分布に大きな偏りがあるわけではない。このことから、愛宕信仰が地域社会に溶け込んでいたと言える。

ところが、この愛宕信仰。愛宕権現。本地は勝軍地蔵であり、神仏混淆の要素が強かった。明治時代初期の神仏分離等で大きなダメージを受ける。境内社としての位置づけとなり、そして明治時代後期には合祀されやすい対象となっていく。金毘羅大権現も神仏混淆であったが、明治時代初期に金刀比羅神社として再編され、仏教色を早い時期に払拭し、近代神道の中に位置づけられた。これに比べて愛宕社は小社、小祠として存続し、近代において境内社として人々に信仰されたのである。消えた訳ではない。数は3位と多いのである。これは人々の愛宕信仰の根強さを示しているともいえる。

この数字を見た際に、愛宕信仰の激動の歴史が垣間見えて興味深いと思ったので記しておく。


宝永南海地震~愛媛県宇和海沿岸部の対岸大分県の津波被害~

2012年08月27日 | 災害の歴史・伝承
平成6年に大分県米水津村に民俗調査に行った。まだ自分が大学院生のときで民俗学に足を突っ込んで間もない頃だったので、ひたすら歩いたし、聞いた事をいろいろメモしていた。最近は聞いた話を聞き流してメモを取らなかったり、調査対象や興味のあるもの以外は素通りしたりして、あの頃に比べると随分横着になったと反省するばかり。

その米水津村に行ったときのファイルが自分の本棚の奥にあったので、久しぶりに開いてみたら、平成2年発行の米水津村誌のコピーがあった。そこに宝永4(1707)年の津波の被害の記載があった。

先に宇和海沿岸の八幡浜市における宝永南海地震による津波記録について紹介したが、こちら大分県米水津村は現在、合併して佐伯市。愛媛県八幡浜市の対岸である。(平成6年頃には八幡浜と佐伯を結ぶ航路もあったので移動も便利だった。)

愛媛県宇和海沿岸部にとって、対岸の津波は、対岸の火事ではない。同様の規模の津波が襲来する恐れがある。この地震、津波史料については、四国や愛媛県といった行政区画で限ってまとめるのではなく、愛媛県南予地方だったら大分県と、瀬戸内海沿岸であれば山口県、広島県などと史料の情報共有をしておく必要がある。

いまのところ、愛媛と大分の地震、津波史料の情報共有や比較検討をした成果があるとは残念ながら聞いたことがない。

対岸の火事では済まされない。対岸の津波は自身の津波である。

というわけで、米水津村誌(米水津村発行、平成2年)の211頁から212頁に記載されている内容をここで紹介しておく。なお、原典は『浦代代々役人控』であり、その意訳である。

「宝永四年十月四日昼の八ツ時(二時)に南の方で轟音がして、ただちに大地震が来た。家の人が外に逃げたそのあとから、高潮が襲来して、浦代(うらしろ 米水津の中の一集落名)は一面湖のようになった。色利浦(いろりうら これも米水津の中の集落名)は田の尻より泥立ち、海はにごり、沖から帰る網船は、波先にわずかに見えただけであった。浦々の家財、屋敷または畑までも流された。浦代浦は養福寺まで潮が差し込んだけれども、仏神の御加護であろうか、石壇が二ツばかり残った。色利浦は尾花の山、峰押しの山は八合までも潮が差し込んだ。西谷は広岡の下墓原までも潮が差し込んだ。色利浦で二人死に、浦代浦では十八人死んだ。小浦、竹野浦には死人はなかった。(中略)宮野浦(これも米水津の集落名)は、家財道具の浮いていたところを、網をおきまわしたために家財は流されなかった。その日から翌年まで漁がなく、皆んな難儀をしたが、宮野浦は、他集落に比べれば困らなかった。よくよく用心しなければならないし、宮野浦のしわざは皆ほめた。この時の高潮で土佐、阿波、熊野地、大坂まで大破損した。佐伯地方は、蒲江、丸市尾は大破損であったが、大嶋より蒲戸の方は破損はなかった。代護浦より■(つる)谷、堅田、木立村までの新地はつぶれたので皆難儀した。大地震の場合は、よくよく用心すべし。そして火難の節も常々用心第一にすべきである。そのために、ここに書き記すものである。(『浦代代々役人控』より意訳)」

この記述を補足しておくと旧米水津村の「浦代浦」では死者が18人。養福寺は海岸から約300メートル離れた山際に建っている寺院。ここまで潮があがっている。そして旧米水津村の「色利浦」では死者2人。やはり山際まで潮が差し込んだ。

そしてこの史料は米水津周辺のことも記述されていることが興味深い。「蒲江」は、佐伯市南部の旧蒲江町。大分県最南部地域。「丸市尾」も佐伯市南部の旧蒲江町。大分県最南部地域である。この「蒲江」「丸市尾」も「大破損」とあり、宮崎県境の沿岸部でも被害が大きかったことがわかる。

かたや佐伯湾では比較的被害は小さかったようで、「大嶋」鶴見半島の先端にある島。ここ以北が佐伯湾であり、「蒲戸」四浦半島の先端付近の集落。ここ以南が佐伯湾であるが、この「大嶋」「蒲戸」間の佐伯湾は破損はなかったとある。東西に伸びる鶴見半島が半島北側の津波被害を軽減させたのだろう。その分、鶴見半島の南側は被害が激しい。

また、「代護浦」は、いまの佐伯市霞ヶ浦代後地区のことと思われる。「つる谷」は、いまの佐伯市鶴谷地区のことと思われる。「堅田」、「木立」は、佐伯市内の海岸部ではなく内陸である。ここは「つぶれて難儀した」とのことなので、津波ではなく地震による揺れの被害が大きかったと推定できる。

このように、鶴見半島の以北、以南では被害の様相が違う。これは愛媛でも同じ事が言えるかもしれない。まずは佐田岬半島、三浦半島、由良半島、船越半島。その南側は南海地震の際の津波で被害が大きい可能性がある。ただし、地震、津波の発生は一様ではないので、半島北側も安心はできない。現に宝永地震、安政地震の際に、三浦半島北側の宇和島湾沿岸でも津波が押し寄せているからである。

宇和海沿岸部。伊方町、八幡浜市、西予市、宇和島市、愛南町。「よくよく用心すべし」である。

※この宝永4(1707)年の地震は、紀伊半島沖で発生しマグニチュード8.4もしくは8.7とされる。

岩の上に小さな田んぼがある光景

2012年08月26日 | 生産生業
西予市城川町の窪野にあるちょっと珍しい田。

その名も、岩上田。

大きな岩の上に一枚の田んぼがある。

うちの子ども曰く、西予市で一番小さい田んぼなんちゃう?

ところが、ところが、岩の頂部に田があるので、

一見して、水源がないのがすぐわかる。

これ、どうしているのだろう?

管理されてる方が、常々、水を人力で補給しているのか?

それとも雨水だけ?

もしかして、岩の下から水が涌いている?

気になって、近づいてみた。

さすれば・・・




ホースで、水をひいていました。

なあんだ。ホースか。単純、単純。解決。解決。



と思った瞬間、周りを見渡しても動力は使っていない。

4メートル道路の向かい側が少し高くなっていて、

そこに水路がある。

そこからホースを引いているのだが、

これって・・・サイフォンの原理!!!



冷静に考えれば、なんてことはないのだけれど、

農業用水の確保において、

こんな具合にサイフォンの原理を使っている事例は多いのだろう。



そういえば、中国雲南省アールー族の地域の山全体が棚田って写真を以前、

国立歴史民俗博物館(といっても今は琵琶湖博物館長さん)の

篠原徹先生の講演で、スライド上映で見せてもらったけど、山の頂部も棚田だった。

篠原先生からは、さあこれはどうやって水を確保しているのだろう?と

問いかけだけで、答えは自身で考えてみて、と質問を投げかけられたが、

これも大掛かりなサイフォンの原理での水確保なのだろうと思う。



う~ん、奥が深いというか、何じゃ単純やんと思うか、

その双方の感情が交錯しているのだが、

まあ、岩上田。珍しいことに変わりはない。

だからここで紹介しておこう。






宝永南海地震の津波~愛媛県宇和海沿岸八幡浜市の津波記録~

2012年08月24日 | 災害の歴史・伝承
いまから約300年前の宝永南海地震。

宝永4年(1707)年に発生した大地震である。


愛媛県宇和海の沿岸部である八幡浜市にも津波が来ていたことを示す史料がある。

八幡浜市穴井地区では、人家の上までの高さまで潮が来て、

八幡浜市中心部では、八幡神社まで潮が来たというのである。



幕末の安政南海地震や、昭和南海地震については、

愛媛県内においても記録が数多く残されているが、

宝永南海地震となると、その被害の記録は稀少である。


これまで、地元愛媛でもあまり知られていないため、この記録を紹介しておく。

ただし、私自身もこの記録の原史料は実見していない。

昭和51年に発行された本の中に記載されたものである。


  宝永四 一七〇七

  十月五日昼四ツ時より大地震あり。

  真網代は潮の満干なきしも
  
  八幡浜は八幡神主宅迄潮上り、

  其の後五十日間、小地震あり。

  前代未聞のことなり。

  穴井は人家の上まで潮上ると。


このように記載されている。

これは出典は、『開校百周年記念誌 まあな』(昭和51年3月発行)

発行者は、真穴小学校百周年記念事業推進委員会である。

ちなみに、この宝永南海地震の津波の記録の原典は、

「二宮庄屋記」と「穴井社家記録」であると『まあな』には紹介されている。


この宇和海沿岸部八幡浜市での宝永南海地震津波の歴史的事実は、

昭和51年に活字化、発行された地元向けの書籍にすでに紹介済みである。

特に新出史料というわけではない。

しかし、地元愛媛、宇和海沿岸、八幡浜においても、

十分に住民にも認知されていないため、

地震、津波防災の意識向上のため、ここに紹介した次第である。



【参考】四国災害アーカイブスより

http://www.shikoku-saigai.com/archives/2556

宝永4年(1707)10月4日午後1時過ぎ、大地震が発生した。
五畿七道にわたり地大いに震い、
続いて九州の南東部より伊豆に至るまでの沿海の地は津波に襲われた。
震災全部を通じて死者4,900人、家倒壊29,000戸。(「大日本地震資料」による)

宇和島藩(いまの南予地方)「増補御年譜微考」によると、
午後2時頃、高潮が宇和島城下の馬場前まで浸入した。
「宇和島御記録抜書」、「伊達家御歴代事記」には
浜御屋敷、新浜・元結掛・持筒町・佐伯町付近は床上1m50cmにも達したとある。
宇和島藩の被害は田503町2反余、
家屋破損・流失、死者12人、半死24人と記録されている。










2012年08月24日 | 日々雑記
10月に東京学芸大学で行われる日本民俗学会の総会に出席するため、飛行機の予約をしたが、すでに乗りたい便が埋まっていた。総会の朝から現地に到着する必要があるので、前日の最終便を予約したかったのだが、だめだった。仕方なく前日の早め便をおさえた。となるとその日は昼には職場で休暇をいただくことになるので、本業に支障がでてしまう。

しかも、その日は松山秋祭り。現地で調査したり、撮影したいことが山ほどあるが、今回は日本民俗学会を優先。お盆調査もそうだが、秋祭りも未見箇所をしらみつぶしに押さえていきたいのに、行事の日時が同じなので、毎年、どこか少しずつ調査しておかないといけない。

先日、論考「盆の火投げ行事の分布」を発表したが、全国の盆の柱松、投げ松明行事をすべて見たいと思うわけだが、なかなか思うようにいかない。いまごろは山口県でもあるし、福井県にもある。そこに飛び立ちたかったが、本業を無視できない状態で今年は断念した。

盆調査、全国の柱祭り調査、全国の祭礼調査も、自分の一生を考えると、さほど現地を実見する機会はなくなってきたと、若い頃に動けるだけ動いたつもりでも、後悔ばかり。

「惜しいことをした。○○や○○などに熱を上げるんじゃなかった。もう時間が足りない。」

晩年の柳田國男のことばが一瞬、頭をよぎったが、自分はまだ晩年ではない。

時間はまだまだある。


ブログ

2012年08月22日 | 日々雑記
最近、ブログを更新していない。日々のこと、気づいたことはfacebookとtwitterに投稿するようになって、次第とブログの更新が滞るようになっている。

ではブログが不必要かといえばそうでもない。自分の場合、以前からエッセイ的文章を書き溜める意味でこのブログを利用してきた。文章の貯金、ネタ帳みたいなものである。

facebook、twitterは短文での投稿になるので、どうしても意味合いが違ってくる。

二ヶ月も更新していないと、書き溜めていない自分に少し不安を覚える。

いま、新聞などに連載がない状態であり、日々の蓄積ができていないことに猛省。

でも、締め切り過ぎた原稿1本(編集者さんすいません)。あと1ヶ月で締め切りの大部の論考1本と、小論考1本。

3本を抱えて、焦っている状態ではある。

あと、某機関などから依頼、委嘱されている現地調査も夏のうちに終わらせないといけない。

ひとつは目途がついた。ひとつは9月中旬以降に精力的に動くことにした。あともうひとつ。9月中旬までに終わらせておきたい調査があるが、なかなか本業務との絡みもあって時間がとれない。

夏はいろんなとこで現地調査して、いろいろ原稿を書くぞ!と決心して、その夏の終わりを迎えると、達成できていない現実に焦りを感じはじめてきたのである。

さあ、ふんばって、いろいろ片付けていこうか。

と、こんなことをブログに書くべきものではないのだけど、こんなことでも、まあいいかな。