https://www.nhk.or.jp/matsuyama/lreport/article/003/75/
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文生書院から、愛媛県南予地方の歴史、民俗に関する著作が刊行されました。『ふる郷もの語』(ふるさとものがたり)。ジャーナリストでもあり、伊予史談会設立当時の活動を下支えした鴫山(旧双岩村。双岩はいま八幡浜市。鴫山は西予市に位置しています)出身の曽我正堂さん。幕末から昭和初期の南予の生活世相が事細かに描写され、私自身も八幡浜市出身で祖父が双岩村の出でもあるので、非常に親近感のある内容です。南予をはじめ、全国の多くの歴史、民俗学関係者には四国山間部の生活を知る、学ぶ好著となっています。孫の曽我健さんの編集。詳しくはこの文生書院のホームページをご覧ください。
以下、文生書院のホームページより転載します。
本書の内容
曽我正堂が昭和11(1936)年から昭和16年まで『愛媛日曜新聞』に連載した随筆。長年の新聞記者生活で培った取材力、観察力、明晰な視点、平易な文体で、彼のうまれ故郷である愛媛県の小さな山村、双岩村鴫山(ふたいわむら しぎやま)(現、西予市三瓶町)の歴史、習俗、風俗、祭祀、農業、食物、経済、そこに生きた名もなき人々の生活を記した。著者が取材した父太郎市の江戸末期の追想も収録され、幕末から明治、大正、昭和戦前にいたるまでの四国山間部集落における生活世相が記録されている。
著者、曽我正堂について
正堂は愛媛県の小さな山村、双岩村鴫山(現、西予市三瓶町)で明治12年、代々つづく自営農民の家に生まれた。
明治34年、私立東京専門学校高等予科に入学、翌年卒業。次いで早稲田大学(東京専門学校の改名)英文科に入学、明治38年7月15日、卒業した。
卒業後、東京帝国大学内に設けられていた三上参次が主宰する史料編纂室の臨時雇いに採用された。ついで三井の編纂室に転職。しかし激務のため体をこわし、明治44年退職し、家族とともに鴫山に帰山、療養に専念した。
一年ほど療養し、伊予日日新聞社に主筆として招かれ松山に出た。その後、『大阪毎日』の通信員を兼ねるようになったが、昭和2年に『伊予日日新聞』は廃刊となり、昭和9年には大阪毎日新聞社を退職。
その後、国の統制のさまたげにあいながらも方々の新聞に随筆を連載しつづけるが、戦争が激しくなり、松山に空襲がせまったため昭和20年3月、鴫山に帰郷する。農業をして暮らすが、病を得て、昭和34年12月28日死去。享年81。(曽我健「解説」を要約)」
以上、ホームページより転載
紀貫之による古代文学の革新―正岡子規による評価の再考― 大本敬久
一、子規による紀貫之への評価
正岡子規による平安時代の勅撰和歌集『古今和歌集』やその撰者の一人である紀貫之への評価については、明治三一年(一八九八)二月一二日から三月四日にかけて新聞『日本』誌上に一〇回にわたり連載された歌論「歌よみに与ふる書」が広く知られている。
冒頭に「仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候」とあり、和歌、特に『古今和歌集』に対して厳しい評価を下している。一方、『万葉集』と源実朝に関しては肯定的であり、『万葉集』を研究した江戸時代中期の国学者・賀茂真淵を取り上げ、
真淵は歌につきては近世の達見家にて、万葉崇拝のところ抔当時にありて実にえらいものに有之候へども、生らの眼より見ればなほ万葉をも褒め足らぬ心地致候。(中略)真淵は存外に万葉の分らぬ人と呆れ申候。かく申し候とて全く真淵をけなす訳にては無之候
とあり、子規からすれば褒め方が足りないとし、真淵が『万葉集』を崇拝していることを評価しているものの十分ではないと説く。
子規は、真淵を貶しているようにも見えるが、様々な著作に見られるように、実は他の対象への評価(見方によっては攻撃)の目的があって、意図的に文学史上の中心人物や作品を貶す論法を用いるが、ここでは『万葉集』を絶対評価し、真淵に対しても相対的にはプラス評価と読み取ることもできる。
続く「再び歌よみに与ふる書」では、紀貫之や『古今和歌集』について「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。その貫之や『古今集』を崇拝するは誠に気の知れぬこと」と厳しく評価し、これは広く知られる文章ともなっている。この一文で①紀貫之自身、②『古今和歌集』の作品自体、③『古今和歌集』への崇拝行為もしくは崇拝者という三点に対して否定的な評価となっているが、続きの文章では、『古今和歌集』が「万葉以外に一風を成し」たことを肯定評価し、『古今和歌集』を「真似るをのみ芸とする後世の奴こそ気の知れぬ」とし「その糟粕を嘗めてをる不見識には驚き入候」と最も厳しい評価を下す。つまり、子規の評価(攻撃)対象は『古今和歌集』そのものではなく、それを崇拝、継承している者たちであった。
同じく、紀貫之に対しても
貫之とても同じ事に候。歌らしき歌は一首も相見え不申候。(中略)但貫之は始めて箇様な事を申候者にて古人の糟粕にては無之候
とあり、和歌創作に対しての評価は低いが、『古今和歌集』の編纂者としての評価は低くはなく、「糟粕」ではないとする。これは真淵への評価と同様で、一見、強い言葉で貶しながらも、絶対否定されているわけではないのである。
子規以降の古代和歌研究では、子規が紀貫之や『古今和歌集』を絶対否定したとの認識が定着するが、子規独特の論法から生まれた解釈であり、一種の語弊でもあったことには注目しておく必要がある。
このように紀貫之や賀茂真淵を一見、貶しながらも相対的には肯定評価しているが、その上で子規が取り上げたのが香川景樹である。賀茂真淵の『新学』に対して『新学異見』を著した江戸時代後期の歌人・香川景樹に対して、
景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌も有之候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。(中略)景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り可申、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申候
と記しており、こちらも一見、手厳しい。ただし、景樹に対して「貫之崇拝にて見識の低きこと」と否定する一方、「善き歌も有之」、「貫之よりも善き歌多く」と肯定評価も見える。子規は景樹を厳しく攻撃した印象が一般的であるが、景樹に対しては子規も一定の評価をした上で、景樹に連なる景樹派(桂園派)を「景樹よりも下手」と断じ、景樹派に対して肯定評価は微塵も見られない。
「歌よみに与ふる書」の冒頭から真淵に始まる様々な評価の落としどころとして、景樹派(桂園派)に対する絶対否定こそが子規の言わんとするところであった。そして具体的に名前が挙がるのが江戸時代後期から明治初期の国学者、歌人であり、宮内庁に出仕して歌道御用掛を務めた八田知紀である。「四たび歌よみに与ふる書」にて「八田知紀の名歌とか申候。知紀の家集はいまだ読まねど、これが名歌ならば大概底も見え透き候」と否定的な評価を下し、それに連なる御歌所派に対しても厳しく批判する。「十たび歌よみに与ふる書」では「御歌所とてえらい人が集まるはずもなく、御歌所長とて必ずしも第一流の人が坐るにもあらざるべく候」とあり、御歌所に加え、御歌所長(当時、高崎正風)に対して、全く肯定が見られない否定評価で一貫している。
二、「絶対否定」という誤解
「歌よみに与ふる書」での『万葉集』や『古今和歌集』への評価が、子規の死後、現代に至るまでどのように受け止められてきたのだろうか。一例として、明治・大正時代のアララギ派歌人・島木赤彦の文章を取り上げてみたい。赤彦は大正一四年(一九二四)に『万葉集の系統』を著し、
子規は、絶対に万葉集を尊信すると共に、古今集以下を絶対に否認してゐます。これが子規の短歌革新の精神であります(中略)子規が万葉に帰れといつたのは、古今集以後の沈滞した空気を払ひ尽して、万葉集の生き生きした感情と、率直さに帰れといつたのであります
と述べている。子規は『古今和歌集』以降の和歌を「絶対に否認」し、それが子規の短歌革新の精神だとするが、先にも「歌よみに与ふる書」の中で様々な肯定・否定評価を列挙したとおり、子規は『古今和歌集』を「絶対に否認」はしたわけではない。子規が下した評価を後世の者が拡大解釈、もしくは誤認した上で、『古今和歌集』などの作品評価がなされてきたという面も忘れてはいけない。
子規の言葉は厳しく、攻撃的ではあったが、『古今和歌集』を絶対否認したのではなく、『万葉集』を絶対尊信したのではない。例えば「人々に答ふ(七)」(明治三一年四月四日)には
世の歌よみに『万葉集』を崇拝する人あり、『古今集』を崇拝する人あり。いづれも一得一失はあるべけれど、大体の上よりはわれらは『万葉集』崇拝の方に賛成するなり。しかし『万葉集』崇拝家なる者は、多く万葉の区域(否、むしろ万葉中の或部分)を固守して一歩もその外に越えざるを以て、歌に入るべき事物材料極めて少く、ために吾人が感得する諸種の美を現すこと能はず。これわれらが万葉崇拝家に不満を抱く所なり
とあり、『万葉集』自体には肯定的な評価であるものの、『万葉集』を固守、固執する『万葉集』崇拝家に対して不満を抱くと記す。
以上のように、子規の意図とは違った形で後世に解釈、定着していく面があったわけだが、これが現代にまで影響が続いている点が根深い問題でもある。子規が「歌よみに与ふる書」にて下した『古今和歌集』や紀貫之に対する評価は、現在までの国文学(日本文学)、特に古代文学の研究者に重くのしかかってきたのも事実である。
例えば戦後の『古今和歌集』研究の大家・片桐洋一は平成一〇年刊行の『古今和歌集全評釈上』の序文で
『古今集』は一般人におもしろく理解してもらうだけの力が自分にはないのではないか、というような思いが胸の中に横たわっている(中略)正岡子規が(中略)喝破したのは有名だが、何の予備知識もなしに『古今集』を読むと、誰しも、何かチグハグなものを感じ、素直に打ちとけられないものを感ずるのではなかろうか。現代人には『万葉集』の素朴さでなければ、『新古今集』の耽美性のほうが親しみやすいのではないか
とあるように、『古今和歌集』を主体的に評価して子規の指摘を克服するのではなく、子規から一〇〇年以上経った現代でもネガティブに受け止められている。
片桐だけではない。戦後の古代文学研究を牽引した目崎徳衛も同様である。目崎は昭和三六年に著した『人物叢書 紀貫之』の冒頭文で
(子規の評価は)紀貫之が死後一千年目に蒙った致命傷であった。(中略)彼の衣鉢を嗣ぐ「アララギ」が歌壇を制覇して、万葉を学べ、短歌はそれでよいといった調子になってしまったから、憐れむべし貫之の文学史的地位も地に墜ちっ放しで今日に至っているのである
と述べている。
このように現代にいたるまで、子規が古典文学研究者に与えた影響は続いているが、子規が「歌よみに与ふる書」で否定評価を加えたのは香川景樹に連なる桂園派、そして御歌所派であり、『古今和歌集』や紀貫之に対する評価は絶対否定でなく、桂園派、御歌所派を攻撃する手段であり、方便であった。このことを現代にいたるまで古代文学研究者が絶対否定であると誤認することで生じた「呪縛」を解くためには、子規を出発点として『万葉集』、『古今和歌集』をはじめとする一連の文学史を再確認、再構築の作業が必要であろう。
三、紀貫之と『古今和歌集』
さて、『古今和歌集』は平安時代、醍醐天皇の命を受け、紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑が撰したわが国初の勅撰和歌集である。成立は序文に延喜五年(九〇五)と記されるが、撰命を受けた年なのか、編纂が終了して奏覧した年なのか定説がなく、延喜一三年の和歌も撰集されており、その頃までに奏上されたか、増補されて完成したとされる。
序文には仮名で記された「仮名序」と漢字交じりの「真名序」があり、「真名序」は貫之の遠縁・紀淑望が記し、「仮名序」は紀貫之が執筆している。
『古今和歌集』に集録された和歌は約一一〇〇首で、構成となる「部立」は、春上・春下・夏・秋上・秋下・冬・賀・離別・羇旅・物名・恋一~五・哀傷・雑上・雑下・雑体・大歌所御歌の順となっており、この部立も貫之の発案によるものであることが「古歌奉りし時の目録の序の長歌」から推測されており、これが中世に至るまでの八代集や二十一代集に引き継がれる編集モデルとなっており、貫之は編集者として新時代を築いたともいえる。
また、集録された和歌を時代区分すると、第一期は九世紀前半で、万葉集からの過渡期でもあり読み人知らずが多く、第二期は「六歌仙」を中心とする九世紀半ばから後半、第三期は九世紀後半から一〇世紀前半で、撰者たちの和歌が多く集録されているのが特徴といえるが、そのうち貫之の歌は最多の一〇二首を数える。しかも最終巻以外の一九巻すべてに掲載されており、貫之は『古今和歌集』の編集者としてだけではなく、表現者として代表的な歌人であることは言うまでもない。
そして、貫之は批評家でもあった。貫之が書いた「仮名序」はわが国最初の歌論ともいわれ、和歌の起源や表現法、編纂の経緯などが記されるが、冒頭の「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」は実に画期的な一文である。「やまと歌」の語彙は漢詩(唐歌)に対して和歌を指す言葉として文献上の初見であり、貫之によって定着した語である。そして後世では当たり前と思ってしまいがちな点ではあるが、「こころ」と「ことば」を関連づけて論じ、「こころ」・「ことば」によって文学を論じていくという自覚的な言語芸術のレベルに押し上げたのも貫之の功績であったといえる。
四、紀貫之の「六歌仙」評
貫之の批評家としての側面が顕著に見えるのが「仮名序」に記された「六歌仙」に対する批評である。
「仮名序」には、平安期の歌人について「官位高き人をばたやすきやうなれば入れず。そのほかに、近き世にその名聞えたる人は」として以下、いわゆる「六歌仙」と呼ばれるようになる六名の歌人が紹介される。「仮名序」で取り上げる歌人は官位の高い者(従三位で参議の小野篁・正三位で中納言の在原行平など)は入れない方針で、「六歌仙」が必ずしも当時の代表者というわけではない。そして「仮名序」には「六歌仙」の表記は見られず、この用例は鎌倉時代初期(『古今和歌集聞書』)以降に定着したものである。後世に「六歌仙」が歌人の代表のごとく持ち上げられるようになるが、「仮名序」を著した貫之は「六歌仙」に対して、次のように厳しい評価を加えている。
近き世にその名聞こえたる人は、すなわち、僧正遍照(昭)は、歌のさまは得たれども、誠すくなし。例えば、絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすがごとし。在原業平は、その心余りて言葉足らず。萎める花の、色無くて臭い残れるがごとし。文屋康秀は、言葉は巧みにて、そのさま身におわず。言わば、商人のよき衣きたらんがごとし。宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。言わば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。小野小町は、古の衣通姫の流なり。哀れなるようにて、強からず。言わば、良き女の悩める所あるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。大伴黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。
つまり、僧正遍昭に対しては、歌の体裁は整っているけれども真実味が少ない。在原業平は、情熱があり余って言葉が足りない。文屋康秀は、言葉は巧みだが歌の体裁が内容と合っていない。喜撰法師は、言葉が不明瞭である。小野小町は、昔の衣通姫の系統で、しみじみと感じる様子の歌で強くはなく、美しい女が病気で悩んでいるところがあるのに似ている。そして大友黒主に至っては、歌の姿が下品だと手厳しく評している。
この「仮名序」も醍醐天皇に奏上されており、同時代でも後世においても貴族の間で広く読まれた文章である。勅撰、奏上といういわば公式文書に、公卿は含まなかったものの六人の著名な歌人を批評した点は、貫之の和歌革新に向けての宣言文でもあった。
貫之は続いて「このほかの人々、その名聞ゆる(中略)多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし」と述べ、「六歌仙」以外では、名の知られている歌人は多いが、詠みさえすれば何でも歌だとばかり思って、真の歌のあり方を知らないと指摘する。「六歌仙」に厳しい評価を加えるものの、他の歌人をそれ以上に酷評することで、相対的に「六歌仙」が肯定評価されたかのように見せている。これは、子規が「歌よみに与ふる書」で用いた論法に共通しているが、推論の域を出ないものの、子規が「歌よみに与ふる書」を執筆するにあたって、『古今和歌集』の「仮名序」、そしてその執筆者である紀貫之を意識し、その論法を参考にした可能性もあるだろう。
五、文学の裾野を広げた紀貫之
「六歌仙」の僧正遍昭は桓武天皇の孫であり、在原業平は平城天皇の孫であるなど臣籍降下はしたものの「貴種」である。では、彼らを厳しく批評した貫之は当時、朝廷の中で高い地位、権威のある立場にあったのかといえば、全くそうではなかった。
貫之は貞観八年(八六六)生まれ(諸説あり)だが、三十歳代の延喜五年(九〇五)頃に蔵人所の所管で内裏の書物を管理する「御書所預」となり『古今和歌集』を編纂することになる。その後の延喜一〇年に正七位上相当で宮中の書物を保管する役所の次官である「少内記」となり、延喜一三年に正六位上相当で中務省で詔勅・宣命など起草する「大内記」になるが、朝廷内での地位は低く、五位以上の貴族に程遠い立場であった。
延喜一七年にようやく従五位下となって貴族に列せられたが、四十代後半から五十歳頃のことであり、非常に遅い昇進であった。そして延長八年(九三〇)、六十歳頃に「土佐守」に任じられ、その任期を終えて『土佐日記』を著した。『土佐日記』は晩年の作品であるが、新たな文芸表現、つまり仮名表現による日記文学を確立したことが文学史上、大きな功績でもあることは周知のところであり、貫之は歌人の側面だけではない表現者であった。
そして天慶六年には従五位上となり、天慶八年に没している。初の勅撰和歌集の編纂者であり、「六歌仙」を厳しく批評したが、何とか晩年に貴族に列したものの、三位以上の公卿に届くことのない官位での一生涯であった。
見方を変えれば、皇族、皇親、公卿、貴族といった当時の朝廷内エリートの創作芸術としての文学は漢詩が主流であり、これは一部の限られた者による閉ざされた世界で、特に男性貴族が担うものとされていた。それに対して仮名を用いた「やまと歌」で「こころ」と「ことば」を相関させることにより、幅広く、男性、女性を問わず、創作する機会を定着させたということもできる。たとえ官位が低くても創作し、批評もできる。創作と批評という文学の裾野を広げた功績は大きいといえるだろう。
このように、紀貫之を表現者、編集者、批評家としての側面を挙げてみたが、これは近代の俳句・短歌革新を担った正岡子規に共通していると見ることもできる。貫之が古代文学の革新者であり、その功績を子規は理解した上で「歌よみに与ふる書」の中では、貫之を中心に据えて、あえて厳しい表現で取り上げようとしたのではないだろうか。
「下手な歌よみ」との厳しい表現とは表裏一体で、実は子規は貫之を大いなる革新者として認め、貫之を克服することを、近代における自らの宿命と感じていたのかもしれない。
(参考文献)
島木赤彦『歌道小見』岩波書店、一九二四年(『赤彦全集』三、岩波書店、一九六九年所収)
目崎徳衛『人物叢書 紀貫之』吉川弘文館、一九六一年
『日本思想大系 近世神道論・前期国学』岩波書店、一九七二年
正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫 一九八三年改版
『新編日本古典文学全集一一 古今和歌集』小学館、一九九四年
片桐洋一『古今和歌集全評釈 上』講談社、一九九八年
鈴木宏子『「古今和歌集」の創造力』NHK出版、二〇一八年
拙稿「正岡子規と紀貫之―『古今和歌集』評価の新視点―」『子規会誌』一七二号、二〇二一年
文献史料から見た古代の八幡浜ー新元号「令和」と「矢野神山」ー
この半年、令和・万葉集ブームで講座依頼や取材が多かったのですが、万葉集絡みの依頼は本日で完了。ブームはあっという間に過ぎ去ったのでした。
今から101年前、大正3年(1914)1月12日に桜島が大噴火。
翌朝には愛媛県でも降灰あり。「霧が立ち込めて市内は暗たんとして暗し」
しかも、宇和島沖の日振島に「海嘯」(津波のこと。桜島噴火直後の地震によるものか、溶岩流の海面到達によるものか。)があったと当時の新聞に書かれている。
なお、八幡浜市保内町内に降り積もった火山灰が、現在、八幡浜市教委にて保管されている。
参考文献 『保内町誌』58頁
軍神、試錬の道場 意外や本県◯◯湾 海国伊予に光栄の由縁
(◯◯にて横田支局長発)太平洋に威容を誇るアメリカ艦隊を昭和十六年十二月八日真珠湾で撃滅した我が帝国海軍特別攻撃の輝く武勲は世界戦史上に永劫、不滅の栄光としてきざみ込まれたが、その精神は御親征の昔に始まり作戦は既に二十数年前からねられてゐた、真珠湾の檜舞台へひそかに突入せし直前の稽古部隊は如何なる行をしてゐたか?・・・記者は本県◯◯湾にありし日のたゆまざる訓練の足跡をたどつた―
余裕ある訓練ぶり 暇々には子供と遊ぶ
◯◯半島の半農半漁の◯◯村の湾へ真珠湾攻撃の二ヶ月前まで◯◯の船が入り同年十月十八日頃まで猛訓練を繰返してをり、その中には佐々木特務少尉(当時一等兵曹)上田兵曹長(同二等兵曹)片山兵曹長(同上)稲垣兵曹長(同上)と四人までがゐた事がこの程判明したすなはちその当時、戦時日本の国民として防諜に万全を期してゐた村民達だが・・・◯◯町◯◯旅館を休憩所として上陸の休み休みに附近の子供達と無邪気に戯れてゐた勇士達のお世話をしてゐた、◯◯旅館女将井上マツヱさん(四二)と油だらけになった訓練服の洗濯からアイロンカケまでのお世話をしてゐた女中木村キミエさん(二〇)を始め川内善子さん(二一)岩見邦子さん(一九)河野スズヱさん(一九)等は交々左の如く語る
思ひ出す あの顔あの声 面影しのぶ土地の人々
四人の兵曹の方は、どなたも好男子で、おとなしい裡にも朗らか・・・実に立派な人達ばかりでした、私達も一生懸命お手伝ひを致してをりました関係上、よく知り合つて居りましたものでしたから、ラジオや新聞であの方達が戦死した事を知つた時は、全く云ひ知れぬ驚愕に打たれてこの日ワツト泣いた位です◯人の士官さんと共に◯◯名の兵曹さんの中に皆さん(四勇士)が交つて昨年五月頃、こちらに見えましたが訓練の模様は申されませんが、時おり遥か沖合から帰つてくる◯◯をみました今考へて見ると・・・あの船に乗つて敵の大きな軍艦をヤツツケたのだと思へば、実に感慨深いものがあります、何時も沖合に碇泊中の◯◯まで帰り、すぐにカバーをしてその船影を見えなくしてをられました、兵曹さん達は大抵午後の七時頃に上陸して約二時間ほど私達とピンポンをしたり庭球をしてすぐ帰つてをられましたが「昨夜は徹夜をしたので休ませて下さい」とゴロリ横になられてゐた事もあり実に無邪気な面白い人達でした、また時折り魚釣りや汐干狩に鋭気を養なつてゐられた事もありましたが・・・片山兵曹長は少しお酒を好まれ、そんな時にオシヤベリを発揮してをりましたが水泳も達者でした、佐々木兵曹や上田兵曹は本当に静かな落着きのある方でした、ハワイの特別攻撃隊勇士にとつてこの◯◯村は縁深い所と思へば感激に堪へません、その後手紙も貰つてゐますが、想ひ起せば・・・ソボ降る雨の十月十八日「三月頃、暖くなつたらまた来るよ!」との言葉を残して引き上けて行く勇士さん達を遠く見送つたのでありますが、あれが永久のお別で大東亜の軍神となられたのだと思ふと・・・感慨無量です・・・
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佐田岬みつけ隊のみなさま、刊行オメデトウ!そしてご苦労さまでした!
八幡浜出身の二宮忠八。明治時代に飛行機原理を発見した人物としてよく知られているが、現在、八幡浜市民ギャラリー・郷土資料室では、二宮忠八の飛行機に関する業績だけではなく、彼の書いた掛軸や書簡が数多く紹介されている。
忠八の号は「幡山」。八幡浜の八幡神社の近くに生家があり、京都八幡に住んでいたことからこう称したのだが、「幡山」の詠む句を「幡詞」。それを掛軸に墨で書き、絵を描いたものが「幡画」とされる。
二宮忠八が「幡詞」、「幡画」の定義をまとめている。これは大阪製薬株式会社社長時代で、昭和4年に発行された『幡詞歌』の中で紹介されたものである。
<幡詞の文義>
1 幡詞の文縁
著者の故郷は、伊予八幡浜、京都八幡に廬をむすび、
飛機の思い出、文にもらして、ここに創むる、新体幡詞。
2 幡詞文味
男山なる、岩根に湧きて、新にいづる、幡詞を汲めば、
胸もすがすが、気もさわやかに、口すさびよき、味わひ知れず。
3 幡詞文意
幡詞の文が、時代に副へる、雅俗の葉、綾おる栞。
作り難かる、平仄詩なり。読み書き判り、易く楽しむ。
4 幡詞文例
幡詞はすべて、七音口調、四句を単句に、八句を連句。
詩は自然でふ、思ひの侭に、起承転尾に、綴る文芸。
5 幡詞文格
幡詞の文は、音訓自由、国語漢詩の調子を揃へ、
作り楽しみ、奏でて共に、意気揚々と、歌ふ格なり。
6 幡画筆意
幡画の式は、景色世相を、想像実写、思ひの侭に、
毛筆のみに、彩り作り、幡詞を題し、描く法則。
7 幡詞筆致
粗密撰ばず、巧拙問はず、筆致墨色、気韻を持たせ、
趣味を豊かに、筆を揮ひて、雅号落款、そらふ芸術。
8 著者の希望
和歌や今様、俳句に続き、歩み出せる、幡詞の文が、
世に愛でられつ、親しむならば、如何に行手の楽しかるらん。
以上は、八幡浜市民ギャラリー・郷土資料室で開催中の企画展「風をとらえた人々」の解説文および『二宮忠八展』(泰申会出版、平成23年発行)から引用し、新字体に改めたものである。
この幡詞。七言四句で思いのままに綴ってみるという決まりで、あとは特に縛りのないものである。二宮忠八はこの幡詞を数多く綴り、二宮幡山著『幡詞』などに著している。ただし、忠八亡き後、現在に到るまで七言四句の幡詞が詠まれているかどうか。地元八幡浜出身でもよく知らない。上記の定義からすれば、幡詞は忠八が定型化したものであり、後世の人、今の人、これからの世代が継承してもおかしくないものだと、今日、八幡浜市民ギャラリー・郷土資料室の展示を観覧してあらためて思った。
西井久八が働いたベインブリッジ島はシアトルの対岸に位置する。この島は非常に林業が盛んで、日本移民者だけではなく、世界各国から労働者が集まっていた。林業の地で海に近いこともあり、当時世界一の生産量を誇った製材所もあった。ここで久八は24~27歳という時期を過ごすのである。そして28歳のとき(1883年)にシアトルにてレストランを開業する。これは日本人では初といわれる。このように職を転々としながら徐々に事業を定着させ、後に多くの八幡浜出身者が渡米しやすい環境を作ったといえる。実際、久八は1887年に一時帰国し、八幡浜周辺の若者に渡米を勧めたのである。1889年にはタコマの近くに農場を開いたが、結局その頃、ベイリングハムにレストラン2軒、タコマにレストラン3軒、クリーニング店1軒、ホテル1軒、シアトルにレストラン3軒などを経営するまでになり、渡米してきた若者もそこで働くことも多かったようである。
これは日本でいえば明治22年、23年頃の話である。その頃には西井久八のような成功体験が日本にも伝わり、明治20年代にはアメリカ渡航の案内書も出版・刊行されるまでになった。その渡航案内書などの資料が八幡浜市民ギャラリーにて数点展示されている。これらは渡米・移民を考えている若者には貴重な情報源であった。ただ、当初は日本人を歓迎し、渡航をうながす内容が多かったが、次第にアメリカ側の渡航制限が厳しくなるにつれ、内容は如何にスムーズに渡航、入国し、生活をはじめるのかという実情に即したものになっていった。いわば明治時代の移民史第一期(明治20年代まで)から、第二期へと移行する過程がこの渡航案内書などの史料から見て取れるのである。
そして、その後に山下宅治の渡航(1893年)や、1900年代になって「密航」という時代がやってくる。
ちなみに二宮忠八が丸亀練兵場で烏型模型飛行器の飛行実験に成功するのが、ほぼ同時期の1891年(明治24年)のこと。その時代、八幡浜出身の様々な人物が世界と対峙し、進取の気性を持ちながら生きていたのである。
※本文は、『アメリカに渡った日本人と戦争の時代』(国立歴史民俗博物館編)および八幡浜市民ギャラリーでの企画展「風をとらえた人々」パネル・キャプションを参考文献としている。
私は以前にも紹介ことがあるが、八幡浜はある意味、国際都市であると主張している。というのも明治時代以降、渡米した人が非常に多く、今でもアメリカに親類が住んでいるという住民は非常に多く、現在、在米の八幡浜出身者は約1万人いるという八幡浜市誌の記述もある。現在の八幡浜の人口4万人に対しての1万人である。海岸部の向灘や川上、真穴などでは、その割合はさらに増す。八幡浜の近代の歴史を語る上では、アメリカ移民史は欠くことのできないテーマなのである。
今回の展示は、歴史的事実としての明治・大正・昭和の夢と希望と挫折と克服の物語である。史実としての重みは非常に大きい。ドラマではない。小説でもない。地元の事実としての歴史を感じることができるものだ。会期は5月29日までと短いが、八幡浜の人にはぜひ一度は足を運んでほしい。
先にも紹介した曽我鍛(そがきとう・号は正堂)さんは、明治12年に布喜川村(鴫山)で生まれ。松山中学校を経て、早稲田大学に進み、歴史学を学んでいます。
大学卒業後は帝国大学史料編纂掛(今の東京大学史料編纂所)や三井家史料編纂嘱託を経て、帰郷。大正~昭和初期に伊予日々新聞・大阪毎日新聞の記者として活躍します。
同時に、伊予史談会の設立・雑誌『伊予史談』の編集にたずさわるなど、戦前の愛媛県内の文化界の中心人物として活躍しました。
現在、愛媛の歴史の基礎史料となっている『宇和旧記』・『松山叢談』・『大洲旧記』などを活字化・刊行したり、大阪毎日新聞時代には、正岡子規の没後、子規にゆかりのある人を集めて対談記事を掲載したり(『子規全集』に再録)するなど、郷土史(歴史)・俳句(文学)に関するさまざまな礎を築いた人物です。
また、八幡浜関係では、戦前の村誌では質の高さで県内でも有名な『双岩村誌』の編纂・執筆に携わり、また、戦前の八幡浜地方の正月や亥の子など民俗行事を克明に随筆で紹介しています。また、坪内逍遥や安部能成など各界の著名人とも交流があり、その書簡や書などの遺品もご遺族により保管されています。
これまで郷里の三瓶町・八幡浜市では、曽我鍛(正堂)については充分にその業績が認知されていない状況でした。しかし、この曽我鍛(正堂)が使用していた書籍等の資料は、現在、三瓶文化会館にて保管されており、この最近、一部が館内にある「ふるさと資料展示室」にて常設で展示されました。
また、近年、ご子孫により、曽我鍛(正堂)の執筆した文章が八幡浜新聞にて公表されるなど、地元で曽我鍛(正堂)の業績を再認識しようという流れができつつあります。
さて、曽我鍛の読み方は、『愛媛県史人物編』や『愛媛県大百科事典』には「そが・きたえ」となっています。一般には「きたえ」と呼ばれています。しかし、曽我さん本人が著した『郷土伊豫と伊豫人』の奥付には「きたふ」と表記されており、また、「Kito」という蔵書印があることもご子孫に教えていただきました。号も「鬼塔(きとう)」・「黄塔(きとう)」ですので、曽我鍛は「きとう」と読むのが正しいのでしょう。これまで、愛媛の郷土史研究の大先達として多くの人に知られていても、ほとんどの人は「きたえ」と呼んでいます。今後は、「そが・きとう」と呼ぶのがいいと思います。