歴博友の会現地学習会。野村の町歩き。三嶋神社で宮司さんから豪雨での被災、そして今の復旧の状況をお話しいただきました。そのあと桂川渓谷へ。四国西予ジオパークのジオガイド河野さんによるガイド。内容の深さ、分かりやすさに加えて、トークの技術もすごい。参加者みんな引き込まれてました。桂川渓谷は土砂流入や橋が流されていて、奥は立ち入り禁止。ごく一部の見学ではありましたが、今回の豪雨に伴う自然のはたらきに注目して、そもそも渓谷かどのように形成されたのかなど考える機会ともなりました。
四国霊場第21番札所の太龍寺。西の高野とも呼ばれる霊場。
この太龍寺に昇るロープウェイから見える「山犬ヶ嶽」。ここに狼の銅像があったのには驚いた。
振り返れば「丹生谷」が見える。丹生と山犬というセットはまさに高野山。丹生明神と狩場明神。
若き空海修行の地とされるこの場所に相応しい伝承。(あまり短絡的に、山犬イコール狩場明神、丹生イコール空海・水銀と結びつけるわけにもいかないが。あと、狼と山犬を同じものととらえるのか、どう分けて考えるのか、なかなか複雑。)
この伝承がいつ成立したものなのか。平安時代?江戸時代?それもとも近代?
狼は明治30年代後半には絶滅したとされているが、ここの山犬伝承はどのくらい過去に遡ることができるのだろう?
四国における狼伝承は松山市の木野山神社など各地にあるが、さてそれらをまとめた成果はあるのだろうか?と、この狼のブロンズを見ながら興味がわいてきた。
本稿は、大本敬久「日本におけるシシ観の変遷―獣・猪・鹿・宍・肉―」(『第8回シシ垣サミットin愛媛(予稿集)』編集・発行:愛媛大学シシ垣サミット実行委員会発行日:2015年12月19日)掲載原稿である。
1.はじめに
本報告では、日本古代における肉食禁忌とケガレ観念の変遷を明確にすることにより、シシ(猪・鹿)をはじめとするケモノ・ケダモノ(獣・畜)と人間の関係の時代的変化を提示してみたい。日本における肉食文化についてまとめたのは、原田信男氏『歴史のなかの米と肉‐食事・天皇・差別‐』である[註1]。この著作において、弥生時代末期の『魏書東夷伝倭人条』に服喪中には肉食をしない旨が記され、肉食を穢れとみなしていたことがうかがえ、その後の古代律令国家においては天武天皇4(675)年に肉食禁止令が出され、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食が禁じられるが、これは仏教の殺生禁断の思想が基礎となっている。平安時代に入ると肉食に対するケガレ観念が発達し、仏教的な殺生の罪が強調され、やがて肉食への賤視も始まり、中世を通じて肉食の否定が社会通念として定着したものの、現実には肉食は広汎に行われていた。以上が原田氏の提示した説であり、現在では通説化している。しかし近年、拙著『触穢の成立―日本古代における「穢」観念の変遷―』などにより[註2]、古代のケガレ観念の研究が進展したこともあり、それらの成果に照らし合わせた肉食禁忌の文化論の構築が求められる。
2.二種類ある民俗芸能「シシ舞」
日本の「シシ」文化を考える上の参考として、神社祭礼等で披露される「シシ舞」があるので、ここで簡略に紹介しておきたい。日本の獅子舞(シシ頭を被って行う芸能)には、①二人立ちと②一人立ちの二系統がある。①の二人立ちのシシ舞は一般に「獅子舞」と表記され、二人またはそれ以上の人が獅子頭についている幕の中に入って舞うもので全国各地に見られる。一方、②の一人立ちのシシ舞は「獅子踊」・「鹿踊」ともいわれ、一人がシシ頭に幕を下げて被り、腹に付けた太鼓を打ちながら舞うが、その分布は東日本以北であり、西日本には仙台伊達家からの入部により愛媛県南予地方周辺にのみ見られる。①のシシ舞(「獅子舞」)の起源は仏教文化とともに日本に移入された楽舞「伎楽」である。天平19(747)年『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』などに伎楽の仮面類が記され、東大寺正倉院には天平勝宝4(752)年の銘のある最古の仮面が保管されている。この時代は「獅子」ではなく「師子」の字が使われた。「師子」は伎楽の序曲として演じられていたが、中世以降、大神楽の獅子や山伏神楽の権現様のように、旅の宗教者などが行道しながら獅子頭を用いて家々を祓う「獅子」が多く見られるようになる。また祭礼文化の広がりによって江戸時代には獅子舞が全国に伝播した[註3]。これらの「獅子」のモデルは想像上の動物であるが、ルーツはライオンである。このライオンルーツの「獅子」の類例としては神社等の狛犬、沖縄のシーサー、シンガポールのマーライオンなどがある。「獅子」、「師子」も中国からの漢字として日本に定着したもので、「イノシシ」、「カノシシ」の「シシ(宍・肉)」とは発音は同じであるが語源が全く異なっている。「獅子」は想像上の動物であり、猪、鹿とは直接結びつくことはない。猪、鹿と結びつくのは②の一人立ちシシ舞である。主には「鹿踊」と表記されるが、山形県東根市長瀞のようにシシ頭のモデルは猪だという事例もある。この一人立ちシシ舞の起源は、狩猟で殺された鹿を供養したという説や、山麓で遊んでいた鹿の子の姿をまねたという説などがある。時代的に見ると①のライオンルーツの「獅子舞」は奈良時代にまで遡ることができるが、②の一人立ちのシシ舞(鹿踊)は時代的には慶長年間(16世紀後半)の東北地方で史料上、確認できるものの、室町時代以前に遡ることはできない[註4]。②は江戸時代初期以降に関東、東北地方にて広く伝播、定着したものと推測されている。また、頭の形相を見ても実際の鹿や猪を模している事例は少なく、岩手県田野畑村菅窪と愛媛県南予地方は実際の鹿を模しているが、鹿の狩猟伝承とシシ舞(鹿踊)は直接結びつかない。中世後期から近世における祭礼、芸能の風流の一種として「流行」して伝播したものであり、日本のシシ観念(鹿、猪)の基層に通ずると断言することは難しい。狩猟文化の結実として鹿踊が成立したのではなく、神に供奉する動物観、聖獣観を基礎として成立したと考えるのが適当であろう。
3.獣・猪・鹿・宍・肉
享保2(1717)年に新井白石が著した『東雅』によると「我国いにしへ、凡獣をばシシと云ひけり、日本紀に獣の字読みてシシといふ、即是也、其肉の食ふべきをや云ひぬらん、牛をウシといひ、鹿をシカと云ひ、羚羊をカマシシといひ、羊をヒツシといふが如き、皆これ其肉の食ふべくして、また角生ふる者共なり」とあり[註5]、『日本書紀』に獣をシシと呼ぶ事例があることが紹介されている。「獣」・「猪」・「鹿」・「宍」・「肉」はいずれも「シシ」と読むことができるが、『日本国語大辞典』によると「シシ」とは「人体の肉や、食用とする猪や鹿などの肉をいう。」、「けもの。特に、猪や鹿をいう。けだもの。」とされている[註6]。「宍」は食される動物の肉のことであり、「肉」は食される肉そのものを意味する。「猪」、「鹿」は「イノシシ」、「カノシシ」であり、原初的には「イ」、「カ」であったものに「シシ」が付随して成立した呼び方である。問題は「獣」である。「シシ」よりは「ケモノ」、「ケダモノ」の訓が一般的である。そして「獣」は「畜」と対比されながら用いられる。承平年間(930年代)に成立した『和名類聚抄』には「獣 文選注云、毛群曰獣也、爾雅注云、四足而毛謂之獣《音狩、和名介毛乃》、畜 野王按、六畜《音宙、一音救、俗云畜生如軸生二音、和名介太毛乃》、牛馬羊犬鶏豕也」(《 》は二行割註)とあり[註7]、「獣」と「畜」が明確に区分されており、和名も「獣」が「介毛乃(ケモノ)」、「畜」は「介太毛乃(ケダモノ)」と区別されている。ところが江戸時代中期成立の谷川士清著『和訓栞』では「けだもの 和名抄に畜をよめり、毛田物の義、牛馬の類をいふ也、けものと別称にや(中略)けもの 和名抄に獣をよめり、毛物の義也、畜をけだものと訓ぜり、今俗野獣をけだものといひ、畜産をけものと覚えたるは、反せるに似て、神代紀の訓也、両訓実は一語なるべし」とあり[註8]、『日本書紀』の訓を紹介し、江戸時代中期には「今俗」つまり一般には獣は「ケダモノ」、畜が「ケモノ」とされている。なお『日本書紀』の訓は成立時の奈良時代の訓ではなく、巻一であれば鎌倉時代成立の卜部兼方本が底本とされ、鎌倉時代以降の訓と考えるべきである[註9]。このように獣・畜の「ケダモノ」・「ケモノ」の訓は史料や時代によって混交しており、検討を要する。
4.肉食禁忌と神社からの狩猟の排除
肉食禁忌については、『日本書紀』天武天皇4(675)年4月17日条「諸国に詔して曰はく、今より以後、諸の漁猟者を制めて、檻穽(おり・ししあな)を造り、機槍(ふみはなち)の等き類を施すことを莫。且牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食らふこと莫。以外は禁の例に在らず。若し犯すこと有らば罪せむ」とあり[註10]、具体的な狩猟の方法(檻・落とし穴・仕掛け槍)が明記され、宍の種類は牛・馬・犬・猿・鶏であって、ここには、鹿、猪は入っていない。これが聖武天皇の『続日本紀』天平2(730)年9月29日条では「詔曰(中略)造阹(おり)多捕禽獣者、先朝禁断、(中略)而諸国(中略)殺害猪鹿、計無頭数(中略)宜頒諸道、並須禁断」とあり[註11]、天武天皇4年条では鹿、猪は含まれていなかったが、ここでは鹿、猪が含まれている。同じく『続日本紀』天平13(741)年2月7日条では「詔曰、馬牛代人、勤労養人、因茲、先有明制、不許、今聞、国郡未能禁止。百姓猶有(後略)」とあり[註12]、殺牛馬を禁止したにも関わらず、国郡ではそれが守られていないとし、殺牛馬の禁止の理由については牛馬は人に変わって勤労(農耕)を助けるためであると明記されている。猪、鹿はその限りではないと思われ、この条文では明記されていない。このように牛馬等の肉食禁止、殺牛馬の禁止は出てくるものの、猪、鹿つまり「畜」ではなく「獣(シシ)」はその規程が曖昧である。これを物語るように孝謙天皇の『続日本紀』天平宝字2年7月4日条では、光明皇太后の体調が思わしくなく、7月から12月30日までは「殺生禁断、又以猪鹿之類、永不得進御」とあり[註13]、牛馬などは殺生禁断とされつつも、猪、鹿は献納してはいけないとされている。これは①献納はしないが、猪、鹿の殺生は禁止していない。殺生の対象に猪、鹿は含まないと解釈するか、②猪、鹿の殺生も含めて禁断であり、その上、猪、鹿の宍(肉)を献納することは今後してはいけないと解釈するか、わかれるところである。このように古代の肉食禁止については、牛馬などと猪、鹿は区別して史料を読み込む必要があるといえる。なお、猪、鹿の奉献については『延喜式』内膳司や大膳職つまり900年代に成立した内裏周辺での日常や儀式での食事・食材を記した史料の中に猪、鹿に関する食材が多く出てくる[註14]。これは天皇をはじめ貴族が900年代前半にいたるまで猪、鹿肉を食していたことを物語り、孝謙天皇の天平宝字2年で完全に禁止されたわけではなかった。これは皇太后の病という臨時的な理由であって、恒常的ではなかったといえる。さて、律令の条文にも肉食に関するものがある。奈良時代中期に施行された『養老令』のうち神祇令散斎条、つまり神祇祭祀に関わっている期間には「不得弔喪、問病、食宍、亦不判刑殺、不決罰罪人、不作音楽、不預穢悪事」とあり、宍を食べたり、穢悪(義解では「不浄之物」とある)に預かってはいけないとする[註15]。これを読む限り、宍を食べること自体は穢悪ではないことがわかる。なお僧尼令飲酒条では「凡僧尼、飲酒、食宍、服五辛者、卅日苦役」とあり[註16]、僧侶の肉食は禁じられている。しかし神祇令、僧尼令で食宍は禁止されるもこれは祭祀に関わる期間であったり、出家の身であったりと、ごく限られた場合である。仏教の浸透とともに庶民にも肉食禁忌の思想が浸透するという傾向が必ずしもあてはまらないことがわかる。肉食禁忌の規定が神祇祭祀、僧侶に関連して出てくることに関連して、奈良時代から平安時代初期の神社の社地において獣・畜を排除しようとする史料が多く見られる。それは太政官符などとして出ており、『類聚三代格』に収められている。まず神亀2(725)年7月20日の聖武天皇の詔として、神祇社内は清浄を先とするものの、諸国では穢臰があり、雑畜を放っている状態であり、慎んで常に清掃をすることが述べられている[註17]。また仁明天皇の承和8(841)年3月1日太政官符では、春日大社の山において狩猟や伐木を禁止している。その理由が「狩猟之輩、触穢斎場、採樵之人伐損樹木、神明収咎、恐及国家」とある[註18]。つまり春日大社の山で狩猟をすることは祭祀の場を穢し、それが国家にまで及んでしまうというのである。この観念は奈良時代には見られず、後項で触れる穢観念の変遷に基づくものであるといえる。類例は承和11(844)年11月4日太政官符で賀茂社の近くの鴨川を清浄としなければならないので、狩猟やは禁止とされている[註19]。これら狩猟は当然、猪、鹿を対象としており、は牛馬を対象としている。800年代半ばに至って、神社周辺の清浄性が求められ、それが国家の清浄性にまで関わっているという観念の登場であり、その祭祀の中心は天皇、そして貴族であったことは当然である。なお、文政13(1830)年に喜多村信節が著した『嬉遊笑覧』に「江談ニ、喫鹿宍、当日不可参内之由、見年中行事障子(中略)今昔物語に、住丹波国者の妻、読和歌語に、後の山の方に鹿の鳴ければ(中略)今の妻煎物にても甘し、焼物にても美き奴ぞかし」とある[註20]。「江談」とは平安時代末期に大江匡房が著した『江談抄』のことで、ここでは鹿の宍を食べた場合、当日に限ってであるが内裏に入ることができないことが記されている。つまり神社での祭祀だけではなく、平安時代末期になると鹿肉を食べるだけで参内できないという時代になってくる。927年成立の『延喜式』には内裏での食材に鹿、猪肉の記述があったものの、平安時代末期に至るまでに肉食禁忌が厳しくなっていったことがわかる。また『今昔物語集』の鹿の鳴き声を聞いた妻が、煎っても焼いても美味いと夫を興ざめさせるが、それこそが貴族と庶民との感覚の差であったといえる。つまり貴族社会での禁忌は神社祭祀や内裏といった限定された空間で求められたものであり、それが社会通念として一般化していたかといえばそうではなかった。仏教の殺生禁断の思想が、肉食禁忌を定着させた要因だという側面は否定はできないが、より肉食禁忌や狩猟の忌避を求めたのは、神社祭祀の場であり、天皇の居住、執務の場であった。その肉食忌避の意識の高揚を時代ごとに明確化させることが日本におけるシシ観の変遷を明らかにする手がかりだといえるだろう。
5.穢を主張する主体(「律令祭祀制」から「平安祭祀制」へ)
古代のケガレに関する規程については、927年成立の『延喜式』臨時祭「凡触穢悪事応忌者、人死限卅日≪自葬日始計≫、産七日、六畜死五日、産三日≪鶏非忌限≫、其喫宍≪此官尋常忌之、但當祭事餘司皆忌≫」がよく知られている[註21]。これを以て、日本古代のケガレ観念というわけにはいかない。この『延喜式』の成立までには奈良時代からの約200年の間に様々な変化、変容があったことを忘れてはならない。私は「穢」という漢字を古代の史料から抽出していくと、奈良時代には「穢シ(キタナシ)」や「穢ス(ケガス)」といった形容詞、動詞としてのみ使われており、「穢」が「ケガレ」という訓で一文字名詞として用いられることはないことを『触穢の成立』では指摘し、古代において「穢」そのものにも歴史的変遷が見られることを紹介した。そして「穢」の一文字名詞の初見が『続日本後紀』承和3(836)年9月11日条であり、承和年間以降、名詞としての穢(ケガレ)は各種史料に頻出することになることを明らかにした。このような名詞化は一種の「ケガレ」の「概念化」であり、この時期に穢観念(穢に触れることを忌避する感覚)が強調されるようになったことを物語っている。具体的には、「穢」が一文字名詞として登場する初見は『続日本後紀』承和3(836)年9月11日条「丁丑、遣左兵庫頭従五位上岡野王等於伊勢大神宮、申今月九日宮中有穢、神嘗幣帛、不得奉献之状」という記事であり、これ以降、一文字名詞の穢は文献上頻出するようになる。この「穢」の一文字名詞の登場は、穢が共通認識として概念化されたことを示す。さらに、貞観年間になると、「人死穢」(『日本三代実録』貞観3(861)年4月17日条初見)、「馬死穢」(『同』貞観4(862)年6月10日条初見)、「犬死穢」(『同』貞観5(863)年4月13日条初見)、「犬産穢」(『同』貞観7(865)年9月3日条初見)、「失火穢」(『同』貞観15(873)年3月3日条初見)のように、「○○穢」という記事が頻出するようになる。これらのことから、穢の内容が具体化、細分化していることがわかる。また、『同』貞観16(874)年9月10条などのように「此穢」、「其穢」と、明確に穢の内容を指し示す記事も現れるようになる[註22]。このケガレ観念の変遷の背景には、「律令祭祀制」から「平安祭祀制」への変化があったと考えている。①「律令祭祀制」とは、大宝律令やその後の養老律令の中の神祇令を基礎とする神祇祭祀制度であり、律令に定められた神祇官による祭祀(祈年祭、月次祭、新嘗祭等中心)の運営が行われた奈良時代の祭祀形態である。全国官社への幣帛班給(班幣)制度を主としており、「班」とは「班田収受の法」の「班」ように「わかつ、わける」の意味である。この「わける」主体は朝廷であり、朝廷が神社に幣帛を与えるというように、朝廷が上、神社が下と認識される制度である。これが平安時代初期に②「平安祭祀制」へと変容する。幣帛班給制度から京畿内を中心とする有力大社への奉幣制度へと変化していくのが大きな特徴である。「班給」から「奉幣」、つまり朝廷側から幣帛を神社に「たてまつる」意識が強くなる。また、旧来の律令祭祀に規定された以外の「臨時祭」が重視されるようになり、天皇の神社行幸も盛んとなる。その結果、天皇が「神聖なる祭祀王」として純化していき、同時に政治の執行を担う摂関貴族が誕生し、9世紀に「天皇祭祀」と「摂関政治」の相互補完という平安祭祀制が形成されていった[註23]。それに伴って天皇や神社、そして朝廷そのものが「清浄性」と必要不可欠とする時代となり、「清浄性」が強調されると同時に、排除される対象として「穢」が意識され、それに触れることが忌避されるようになったのである。以上のように見てみると、飛鳥時代から奈良時代にかけて肉食禁止令が出されるものの、天皇、貴族は盛んに肉食を行っていた。現実には肉食禁止令は、仏教の殺生禁断思想が先鋭化したものであり、または皇族の病気平癒のためであって、臨時的なものとして出されたものであった。恒常的な禁止令ではなかったのである。ところが平安時代初期以降には、貴族の間で肉食禁忌が恒常的となってくる。それは日常生活ではなく、神社祭祀に関係する場合や内裏での行事の参加の際に求められる斎戒である。それは平安祭祀制度のもと、祭祀王として天皇の純化が見られ、ケガレを排除する意識が高揚し、貴族もそれに準じていた。さらにいえば平安時代後期以降の武家の誕生も、肉食禁忌やケガレを忌避する貴族社会の反動として、ケガレを厭わない者として武家が成立したという議論も可能だろう。以上、ケガレ観念の変遷を紹介してみたが、この変遷は牛馬、猪鹿の狩猟、、食宍等の文化の変容に大きく関わっているといえる。
[註記]
1 原田信男『歴史のなかの米と肉‐食事・天皇・差別‐』(平凡社、1993年)
2 大本敬久『触穢の成立―日本古代における「穢」観念の変遷―』(創風社出版、2013年)
3 古野清人『獅子の民俗』(岩崎美術社、1968年)、神田より子「獅子舞」(『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年、761頁)、大本敬久「東北から伝播した四国の鹿踊」(『東北民俗』48号、東北民俗の会、2014年)
4 菊地和博『シシ踊り―鎮魂供養の民俗―』(岩田書院、2012年)
5 『古事類苑』動物部(吉川弘文館、1985年、5頁) 6 『日本国語大辞典』第5巻(小学館、1974年、494頁)
7 註5に同じ。3頁 8 註5に同じ。4~5頁
9 『日本古典文学大系67日本書紀上』(岩波書店、1967年、48~52頁)
10 『日本古典文学大系68日本書紀下』(岩波書店、1965年、418~419頁)
11 『新訂増補国史大系 続日本紀前篇』(吉川弘文館、1968年、123頁)
12 註11に同じ。163頁 13 註11に同じ。248頁
14 『新訂増補国史大系 延喜式後篇』(吉川弘文館、1972年、765頁、867~868頁)
15 『新訂増補国史大系 令義解』(吉川弘文館、1968年、79頁)
16 註15に同じ。83頁 17 『新訂増補国史大系 類聚三代格前編』(吉川弘文館、1972年、6頁)
18 註17に同じ。9頁 19 註17に同じ。9~10頁
20 『古事類苑』飲食部(吉川弘文館、1984年、35頁)
21 『新訂増補国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前篇』(吉川弘文館、1974年、68頁) 22 註2に同じ。
23 岡田荘司『平安時代の国家と祭祀』(続群書類従完成会、1994年)、新谷尚紀「ケガレの構造」(『岩波講座日本の思想』第6巻、2013年)
1.はじめに
本報告では、日本古代における肉食禁忌とケガレ観念の変遷を明確にすることにより、シシ(猪・鹿)をはじめとするケモノ・ケダモノ(獣・畜)と人間の関係の時代的変化を提示してみたい。日本における肉食文化についてまとめたのは、原田信男氏『歴史のなかの米と肉‐食事・天皇・差別‐』である[註1]。この著作において、弥生時代末期の『魏書東夷伝倭人条』に服喪中には肉食をしない旨が記され、肉食を穢れとみなしていたことがうかがえ、その後の古代律令国家においては天武天皇4(675)年に肉食禁止令が出され、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食が禁じられるが、これは仏教の殺生禁断の思想が基礎となっている。平安時代に入ると肉食に対するケガレ観念が発達し、仏教的な殺生の罪が強調され、やがて肉食への賤視も始まり、中世を通じて肉食の否定が社会通念として定着したものの、現実には肉食は広汎に行われていた。以上が原田氏の提示した説であり、現在では通説化している。しかし近年、拙著『触穢の成立―日本古代における「穢」観念の変遷―』などにより[註2]、古代のケガレ観念の研究が進展したこともあり、それらの成果に照らし合わせた肉食禁忌の文化論の構築が求められる。
2.二種類ある民俗芸能「シシ舞」
日本の「シシ」文化を考える上の参考として、神社祭礼等で披露される「シシ舞」があるので、ここで簡略に紹介しておきたい。日本の獅子舞(シシ頭を被って行う芸能)には、①二人立ちと②一人立ちの二系統がある。①の二人立ちのシシ舞は一般に「獅子舞」と表記され、二人またはそれ以上の人が獅子頭についている幕の中に入って舞うもので全国各地に見られる。一方、②の一人立ちのシシ舞は「獅子踊」・「鹿踊」ともいわれ、一人がシシ頭に幕を下げて被り、腹に付けた太鼓を打ちながら舞うが、その分布は東日本以北であり、西日本には仙台伊達家からの入部により愛媛県南予地方周辺にのみ見られる。①のシシ舞(「獅子舞」)の起源は仏教文化とともに日本に移入された楽舞「伎楽」である。天平19(747)年『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』などに伎楽の仮面類が記され、東大寺正倉院には天平勝宝4(752)年の銘のある最古の仮面が保管されている。この時代は「獅子」ではなく「師子」の字が使われた。「師子」は伎楽の序曲として演じられていたが、中世以降、大神楽の獅子や山伏神楽の権現様のように、旅の宗教者などが行道しながら獅子頭を用いて家々を祓う「獅子」が多く見られるようになる。また祭礼文化の広がりによって江戸時代には獅子舞が全国に伝播した[註3]。これらの「獅子」のモデルは想像上の動物であるが、ルーツはライオンである。このライオンルーツの「獅子」の類例としては神社等の狛犬、沖縄のシーサー、シンガポールのマーライオンなどがある。「獅子」、「師子」も中国からの漢字として日本に定着したもので、「イノシシ」、「カノシシ」の「シシ(宍・肉)」とは発音は同じであるが語源が全く異なっている。「獅子」は想像上の動物であり、猪、鹿とは直接結びつくことはない。猪、鹿と結びつくのは②の一人立ちシシ舞である。主には「鹿踊」と表記されるが、山形県東根市長瀞のようにシシ頭のモデルは猪だという事例もある。この一人立ちシシ舞の起源は、狩猟で殺された鹿を供養したという説や、山麓で遊んでいた鹿の子の姿をまねたという説などがある。時代的に見ると①のライオンルーツの「獅子舞」は奈良時代にまで遡ることができるが、②の一人立ちのシシ舞(鹿踊)は時代的には慶長年間(16世紀後半)の東北地方で史料上、確認できるものの、室町時代以前に遡ることはできない[註4]。②は江戸時代初期以降に関東、東北地方にて広く伝播、定着したものと推測されている。また、頭の形相を見ても実際の鹿や猪を模している事例は少なく、岩手県田野畑村菅窪と愛媛県南予地方は実際の鹿を模しているが、鹿の狩猟伝承とシシ舞(鹿踊)は直接結びつかない。中世後期から近世における祭礼、芸能の風流の一種として「流行」して伝播したものであり、日本のシシ観念(鹿、猪)の基層に通ずると断言することは難しい。狩猟文化の結実として鹿踊が成立したのではなく、神に供奉する動物観、聖獣観を基礎として成立したと考えるのが適当であろう。
3.獣・猪・鹿・宍・肉
享保2(1717)年に新井白石が著した『東雅』によると「我国いにしへ、凡獣をばシシと云ひけり、日本紀に獣の字読みてシシといふ、即是也、其肉の食ふべきをや云ひぬらん、牛をウシといひ、鹿をシカと云ひ、羚羊をカマシシといひ、羊をヒツシといふが如き、皆これ其肉の食ふべくして、また角生ふる者共なり」とあり[註5]、『日本書紀』に獣をシシと呼ぶ事例があることが紹介されている。「獣」・「猪」・「鹿」・「宍」・「肉」はいずれも「シシ」と読むことができるが、『日本国語大辞典』によると「シシ」とは「人体の肉や、食用とする猪や鹿などの肉をいう。」、「けもの。特に、猪や鹿をいう。けだもの。」とされている[註6]。「宍」は食される動物の肉のことであり、「肉」は食される肉そのものを意味する。「猪」、「鹿」は「イノシシ」、「カノシシ」であり、原初的には「イ」、「カ」であったものに「シシ」が付随して成立した呼び方である。問題は「獣」である。「シシ」よりは「ケモノ」、「ケダモノ」の訓が一般的である。そして「獣」は「畜」と対比されながら用いられる。承平年間(930年代)に成立した『和名類聚抄』には「獣 文選注云、毛群曰獣也、爾雅注云、四足而毛謂之獣《音狩、和名介毛乃》、畜 野王按、六畜《音宙、一音救、俗云畜生如軸生二音、和名介太毛乃》、牛馬羊犬鶏豕也」(《 》は二行割註)とあり[註7]、「獣」と「畜」が明確に区分されており、和名も「獣」が「介毛乃(ケモノ)」、「畜」は「介太毛乃(ケダモノ)」と区別されている。ところが江戸時代中期成立の谷川士清著『和訓栞』では「けだもの 和名抄に畜をよめり、毛田物の義、牛馬の類をいふ也、けものと別称にや(中略)けもの 和名抄に獣をよめり、毛物の義也、畜をけだものと訓ぜり、今俗野獣をけだものといひ、畜産をけものと覚えたるは、反せるに似て、神代紀の訓也、両訓実は一語なるべし」とあり[註8]、『日本書紀』の訓を紹介し、江戸時代中期には「今俗」つまり一般には獣は「ケダモノ」、畜が「ケモノ」とされている。なお『日本書紀』の訓は成立時の奈良時代の訓ではなく、巻一であれば鎌倉時代成立の卜部兼方本が底本とされ、鎌倉時代以降の訓と考えるべきである[註9]。このように獣・畜の「ケダモノ」・「ケモノ」の訓は史料や時代によって混交しており、検討を要する。
4.肉食禁忌と神社からの狩猟の排除
肉食禁忌については、『日本書紀』天武天皇4(675)年4月17日条「諸国に詔して曰はく、今より以後、諸の漁猟者を制めて、檻穽(おり・ししあな)を造り、機槍(ふみはなち)の等き類を施すことを莫。且牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食らふこと莫。以外は禁の例に在らず。若し犯すこと有らば罪せむ」とあり[註10]、具体的な狩猟の方法(檻・落とし穴・仕掛け槍)が明記され、宍の種類は牛・馬・犬・猿・鶏であって、ここには、鹿、猪は入っていない。これが聖武天皇の『続日本紀』天平2(730)年9月29日条では「詔曰(中略)造阹(おり)多捕禽獣者、先朝禁断、(中略)而諸国(中略)殺害猪鹿、計無頭数(中略)宜頒諸道、並須禁断」とあり[註11]、天武天皇4年条では鹿、猪は含まれていなかったが、ここでは鹿、猪が含まれている。同じく『続日本紀』天平13(741)年2月7日条では「詔曰、馬牛代人、勤労養人、因茲、先有明制、不許、今聞、国郡未能禁止。百姓猶有(後略)」とあり[註12]、殺牛馬を禁止したにも関わらず、国郡ではそれが守られていないとし、殺牛馬の禁止の理由については牛馬は人に変わって勤労(農耕)を助けるためであると明記されている。猪、鹿はその限りではないと思われ、この条文では明記されていない。このように牛馬等の肉食禁止、殺牛馬の禁止は出てくるものの、猪、鹿つまり「畜」ではなく「獣(シシ)」はその規程が曖昧である。これを物語るように孝謙天皇の『続日本紀』天平宝字2年7月4日条では、光明皇太后の体調が思わしくなく、7月から12月30日までは「殺生禁断、又以猪鹿之類、永不得進御」とあり[註13]、牛馬などは殺生禁断とされつつも、猪、鹿は献納してはいけないとされている。これは①献納はしないが、猪、鹿の殺生は禁止していない。殺生の対象に猪、鹿は含まないと解釈するか、②猪、鹿の殺生も含めて禁断であり、その上、猪、鹿の宍(肉)を献納することは今後してはいけないと解釈するか、わかれるところである。このように古代の肉食禁止については、牛馬などと猪、鹿は区別して史料を読み込む必要があるといえる。なお、猪、鹿の奉献については『延喜式』内膳司や大膳職つまり900年代に成立した内裏周辺での日常や儀式での食事・食材を記した史料の中に猪、鹿に関する食材が多く出てくる[註14]。これは天皇をはじめ貴族が900年代前半にいたるまで猪、鹿肉を食していたことを物語り、孝謙天皇の天平宝字2年で完全に禁止されたわけではなかった。これは皇太后の病という臨時的な理由であって、恒常的ではなかったといえる。さて、律令の条文にも肉食に関するものがある。奈良時代中期に施行された『養老令』のうち神祇令散斎条、つまり神祇祭祀に関わっている期間には「不得弔喪、問病、食宍、亦不判刑殺、不決罰罪人、不作音楽、不預穢悪事」とあり、宍を食べたり、穢悪(義解では「不浄之物」とある)に預かってはいけないとする[註15]。これを読む限り、宍を食べること自体は穢悪ではないことがわかる。なお僧尼令飲酒条では「凡僧尼、飲酒、食宍、服五辛者、卅日苦役」とあり[註16]、僧侶の肉食は禁じられている。しかし神祇令、僧尼令で食宍は禁止されるもこれは祭祀に関わる期間であったり、出家の身であったりと、ごく限られた場合である。仏教の浸透とともに庶民にも肉食禁忌の思想が浸透するという傾向が必ずしもあてはまらないことがわかる。肉食禁忌の規定が神祇祭祀、僧侶に関連して出てくることに関連して、奈良時代から平安時代初期の神社の社地において獣・畜を排除しようとする史料が多く見られる。それは太政官符などとして出ており、『類聚三代格』に収められている。まず神亀2(725)年7月20日の聖武天皇の詔として、神祇社内は清浄を先とするものの、諸国では穢臰があり、雑畜を放っている状態であり、慎んで常に清掃をすることが述べられている[註17]。また仁明天皇の承和8(841)年3月1日太政官符では、春日大社の山において狩猟や伐木を禁止している。その理由が「狩猟之輩、触穢斎場、採樵之人伐損樹木、神明収咎、恐及国家」とある[註18]。つまり春日大社の山で狩猟をすることは祭祀の場を穢し、それが国家にまで及んでしまうというのである。この観念は奈良時代には見られず、後項で触れる穢観念の変遷に基づくものであるといえる。類例は承和11(844)年11月4日太政官符で賀茂社の近くの鴨川を清浄としなければならないので、狩猟やは禁止とされている[註19]。これら狩猟は当然、猪、鹿を対象としており、は牛馬を対象としている。800年代半ばに至って、神社周辺の清浄性が求められ、それが国家の清浄性にまで関わっているという観念の登場であり、その祭祀の中心は天皇、そして貴族であったことは当然である。なお、文政13(1830)年に喜多村信節が著した『嬉遊笑覧』に「江談ニ、喫鹿宍、当日不可参内之由、見年中行事障子(中略)今昔物語に、住丹波国者の妻、読和歌語に、後の山の方に鹿の鳴ければ(中略)今の妻煎物にても甘し、焼物にても美き奴ぞかし」とある[註20]。「江談」とは平安時代末期に大江匡房が著した『江談抄』のことで、ここでは鹿の宍を食べた場合、当日に限ってであるが内裏に入ることができないことが記されている。つまり神社での祭祀だけではなく、平安時代末期になると鹿肉を食べるだけで参内できないという時代になってくる。927年成立の『延喜式』には内裏での食材に鹿、猪肉の記述があったものの、平安時代末期に至るまでに肉食禁忌が厳しくなっていったことがわかる。また『今昔物語集』の鹿の鳴き声を聞いた妻が、煎っても焼いても美味いと夫を興ざめさせるが、それこそが貴族と庶民との感覚の差であったといえる。つまり貴族社会での禁忌は神社祭祀や内裏といった限定された空間で求められたものであり、それが社会通念として一般化していたかといえばそうではなかった。仏教の殺生禁断の思想が、肉食禁忌を定着させた要因だという側面は否定はできないが、より肉食禁忌や狩猟の忌避を求めたのは、神社祭祀の場であり、天皇の居住、執務の場であった。その肉食忌避の意識の高揚を時代ごとに明確化させることが日本におけるシシ観の変遷を明らかにする手がかりだといえるだろう。
5.穢を主張する主体(「律令祭祀制」から「平安祭祀制」へ)
古代のケガレに関する規程については、927年成立の『延喜式』臨時祭「凡触穢悪事応忌者、人死限卅日≪自葬日始計≫、産七日、六畜死五日、産三日≪鶏非忌限≫、其喫宍≪此官尋常忌之、但當祭事餘司皆忌≫」がよく知られている[註21]。これを以て、日本古代のケガレ観念というわけにはいかない。この『延喜式』の成立までには奈良時代からの約200年の間に様々な変化、変容があったことを忘れてはならない。私は「穢」という漢字を古代の史料から抽出していくと、奈良時代には「穢シ(キタナシ)」や「穢ス(ケガス)」といった形容詞、動詞としてのみ使われており、「穢」が「ケガレ」という訓で一文字名詞として用いられることはないことを『触穢の成立』では指摘し、古代において「穢」そのものにも歴史的変遷が見られることを紹介した。そして「穢」の一文字名詞の初見が『続日本後紀』承和3(836)年9月11日条であり、承和年間以降、名詞としての穢(ケガレ)は各種史料に頻出することになることを明らかにした。このような名詞化は一種の「ケガレ」の「概念化」であり、この時期に穢観念(穢に触れることを忌避する感覚)が強調されるようになったことを物語っている。具体的には、「穢」が一文字名詞として登場する初見は『続日本後紀』承和3(836)年9月11日条「丁丑、遣左兵庫頭従五位上岡野王等於伊勢大神宮、申今月九日宮中有穢、神嘗幣帛、不得奉献之状」という記事であり、これ以降、一文字名詞の穢は文献上頻出するようになる。この「穢」の一文字名詞の登場は、穢が共通認識として概念化されたことを示す。さらに、貞観年間になると、「人死穢」(『日本三代実録』貞観3(861)年4月17日条初見)、「馬死穢」(『同』貞観4(862)年6月10日条初見)、「犬死穢」(『同』貞観5(863)年4月13日条初見)、「犬産穢」(『同』貞観7(865)年9月3日条初見)、「失火穢」(『同』貞観15(873)年3月3日条初見)のように、「○○穢」という記事が頻出するようになる。これらのことから、穢の内容が具体化、細分化していることがわかる。また、『同』貞観16(874)年9月10条などのように「此穢」、「其穢」と、明確に穢の内容を指し示す記事も現れるようになる[註22]。このケガレ観念の変遷の背景には、「律令祭祀制」から「平安祭祀制」への変化があったと考えている。①「律令祭祀制」とは、大宝律令やその後の養老律令の中の神祇令を基礎とする神祇祭祀制度であり、律令に定められた神祇官による祭祀(祈年祭、月次祭、新嘗祭等中心)の運営が行われた奈良時代の祭祀形態である。全国官社への幣帛班給(班幣)制度を主としており、「班」とは「班田収受の法」の「班」ように「わかつ、わける」の意味である。この「わける」主体は朝廷であり、朝廷が神社に幣帛を与えるというように、朝廷が上、神社が下と認識される制度である。これが平安時代初期に②「平安祭祀制」へと変容する。幣帛班給制度から京畿内を中心とする有力大社への奉幣制度へと変化していくのが大きな特徴である。「班給」から「奉幣」、つまり朝廷側から幣帛を神社に「たてまつる」意識が強くなる。また、旧来の律令祭祀に規定された以外の「臨時祭」が重視されるようになり、天皇の神社行幸も盛んとなる。その結果、天皇が「神聖なる祭祀王」として純化していき、同時に政治の執行を担う摂関貴族が誕生し、9世紀に「天皇祭祀」と「摂関政治」の相互補完という平安祭祀制が形成されていった[註23]。それに伴って天皇や神社、そして朝廷そのものが「清浄性」と必要不可欠とする時代となり、「清浄性」が強調されると同時に、排除される対象として「穢」が意識され、それに触れることが忌避されるようになったのである。以上のように見てみると、飛鳥時代から奈良時代にかけて肉食禁止令が出されるものの、天皇、貴族は盛んに肉食を行っていた。現実には肉食禁止令は、仏教の殺生禁断思想が先鋭化したものであり、または皇族の病気平癒のためであって、臨時的なものとして出されたものであった。恒常的な禁止令ではなかったのである。ところが平安時代初期以降には、貴族の間で肉食禁忌が恒常的となってくる。それは日常生活ではなく、神社祭祀に関係する場合や内裏での行事の参加の際に求められる斎戒である。それは平安祭祀制度のもと、祭祀王として天皇の純化が見られ、ケガレを排除する意識が高揚し、貴族もそれに準じていた。さらにいえば平安時代後期以降の武家の誕生も、肉食禁忌やケガレを忌避する貴族社会の反動として、ケガレを厭わない者として武家が成立したという議論も可能だろう。以上、ケガレ観念の変遷を紹介してみたが、この変遷は牛馬、猪鹿の狩猟、、食宍等の文化の変容に大きく関わっているといえる。
[註記]
1 原田信男『歴史のなかの米と肉‐食事・天皇・差別‐』(平凡社、1993年)
2 大本敬久『触穢の成立―日本古代における「穢」観念の変遷―』(創風社出版、2013年)
3 古野清人『獅子の民俗』(岩崎美術社、1968年)、神田より子「獅子舞」(『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年、761頁)、大本敬久「東北から伝播した四国の鹿踊」(『東北民俗』48号、東北民俗の会、2014年)
4 菊地和博『シシ踊り―鎮魂供養の民俗―』(岩田書院、2012年)
5 『古事類苑』動物部(吉川弘文館、1985年、5頁) 6 『日本国語大辞典』第5巻(小学館、1974年、494頁)
7 註5に同じ。3頁 8 註5に同じ。4~5頁
9 『日本古典文学大系67日本書紀上』(岩波書店、1967年、48~52頁)
10 『日本古典文学大系68日本書紀下』(岩波書店、1965年、418~419頁)
11 『新訂増補国史大系 続日本紀前篇』(吉川弘文館、1968年、123頁)
12 註11に同じ。163頁 13 註11に同じ。248頁
14 『新訂増補国史大系 延喜式後篇』(吉川弘文館、1972年、765頁、867~868頁)
15 『新訂増補国史大系 令義解』(吉川弘文館、1968年、79頁)
16 註15に同じ。83頁 17 『新訂増補国史大系 類聚三代格前編』(吉川弘文館、1972年、6頁)
18 註17に同じ。9頁 19 註17に同じ。9~10頁
20 『古事類苑』飲食部(吉川弘文館、1984年、35頁)
21 『新訂増補国史大系 交替式・弘仁式・延喜式前篇』(吉川弘文館、1974年、68頁) 22 註2に同じ。
23 岡田荘司『平安時代の国家と祭祀』(続群書類従完成会、1994年)、新谷尚紀「ケガレの構造」(『岩波講座日本の思想』第6巻、2013年)
平成24年8月28日、環境省がニホンカワウソを絶滅種に指定した。平成8年から12年頃に自分もカワウソについては人文系の立場でいろいろ調べたことがあった。個人的にカワウソが好きだったのである(今でも)。そのときのノートの中から昭和30年代、40年代の愛媛におけるカワウソメモを抜粋して、ここに情報を掲載しておく。出典が曖昧なのはご容赦ください。主に新聞記事からの抜粋です。これらは愛媛カワウソ史のごく一部。カワウソの動物民俗誌については9月に宮本春樹先生の講演(宇和島文学歴史講座 愛媛新聞社事業部主催)があり、宮本先生が最新号の『西南四国』でも文章にまとめている。興味のある方はそちらが詳しく、参照していただきたい。
昭和38年10月6日、カワウソを国の天然記念物に指定するために調査団が八幡浜市大島、地大島を訪れた。調査団は文部省文化財保護委員会専門委員の鏑木外岐雄東京大学名誉教授、文部省記念物課の品田穣調査官、八木繁一県文化財専門委員、清水栄盛道後動物園長らで構成されていた。調査団は地大島の竜王池一帯を調べ、竜王神社の床下から小石に付着した多量のカワウソの糞を発見。ここに生息していることを確認した。また、神社の近くのヨシの茂みにカワウソの遊び場と見られる空き地もみつかった。清水園長は、ここに3年前は6匹いたと思われると言い、糞の状況から2、3匹に減っているということだった。この調査団は、7日、8日には西海町、9日には城辺町にて海岸一帯の調査を行った。(朝日新聞)
昭和38年10月15日、カワウソ生息の現地調査が行われた八幡浜市地大島では、住民の間でカワウソの天然記念物指定に反対する意見が多かった。ちょうど護岸工事を行う計画、またカワウソの生息地とされる竜王池も埋め立てて果樹園にする計画などがあり、地大島がカワウソの保護地域とされると生活に影響する恐れがあるからという理由。(愛媛新聞より)
昭和38年12月1日、県教育委員会は地大島のカワウソ特別保護区指定をあきらめる。地大島では果樹園の開発計画が具体化し、護岸工事、竜王池の埋め立ても予定されている。これが国指定の天然記念物になって特別保護区となると、工事が進めにくくなる、ということで反対の意見が多かった。八幡浜市、八幡浜市教委、県教委で島民と話し合い、「カワウソも大事だがそれによって人の生活が犠牲になるのでは意味がない」との県教委の判断。そのかわりに三崎町大佐田地区など数カ所を特別保護区とするよう、検討を始めた。(愛媛新聞)
ちなみに、カワウソの特別保護区は、昭和37年12月15日に、(1)八幡浜市地大島と三瓶町巴里島周辺域と周木、須崎地区、(2)西海町の鹿島の一部と対岸の汐碆、白浜を含む地域、鼻面岬周辺、樽見鼻周辺、(3)城辺町の大浜、黒崎の周辺が候補に県教委が決定した。これは県文化財専門委員の八木繁一氏の調査結果を参考にして決めたものである。(愛媛新聞)
昭和39年3月、国の天然記念物に指定された。
昭和39年5月16日、愛媛県の県獣にニホンカワウソが公募で決まった。明治時代に毛皮で乱獲。昭和3年に捕獲が禁止されたが、その頃には絶滅の危機に。本来は河川に棲んでいたが、河川開発が進み、海岸に棲むようになった。ちなみに、公募ではハクビシンも対象になっていた。応募数は199。カワウソが94票、コマドリが56、ヤマドリ22、ホシガラス22、ハクビシン5であった。(朝日新聞および愛媛新聞昭和39年5月17日付)
昭和40年9月1日に、八幡浜市大島の三王島(大島と地大島を結ぶ中間地点にある小さな島)の海水浴場でカワウソが生け捕りにされた。地元の農業佐々木幸雄さんが発見。地元消防団員らが一帯に網を張って捕獲。生け簀に入れて八幡浜市漁協大島支部で保護した。
昭和45年2月7日、八幡浜市川上町上泊でカワウソが浜に干してある網の中にもぐって生け捕りにされた。昭和45年頃には捕獲は珍しくなっており、自分のメモでは八幡浜での最後の生け捕り事例である。このカワウソは南宇和郡御荘町にできたカワウソ村(このカワウソ村の存在に関しては私は多くを書かない。)に運ばれ、保護された。(朝日新聞より)
昭和47年8月9日、吉田町(現宇和島市)の惣代の通称楯の海岸でカワウソの糞と足跡らしきものが見つかり、清水栄盛東雲短大教授(元道後動物園長)ら八人が現地調査をした。近くの岩に縄張りの目印がみつかり、生息の可能性があることがわかった。(毎日新聞)
昭和48年5月10日、城辺町深浦でニホンカワウソが見つかり捕獲したが、5時間後に死亡した。もうこの時期には新聞記事に「生きていた幻の動物」という見出しが出るようになっている。(朝日新聞)
昭和38年10月6日、カワウソを国の天然記念物に指定するために調査団が八幡浜市大島、地大島を訪れた。調査団は文部省文化財保護委員会専門委員の鏑木外岐雄東京大学名誉教授、文部省記念物課の品田穣調査官、八木繁一県文化財専門委員、清水栄盛道後動物園長らで構成されていた。調査団は地大島の竜王池一帯を調べ、竜王神社の床下から小石に付着した多量のカワウソの糞を発見。ここに生息していることを確認した。また、神社の近くのヨシの茂みにカワウソの遊び場と見られる空き地もみつかった。清水園長は、ここに3年前は6匹いたと思われると言い、糞の状況から2、3匹に減っているということだった。この調査団は、7日、8日には西海町、9日には城辺町にて海岸一帯の調査を行った。(朝日新聞)
昭和38年10月15日、カワウソ生息の現地調査が行われた八幡浜市地大島では、住民の間でカワウソの天然記念物指定に反対する意見が多かった。ちょうど護岸工事を行う計画、またカワウソの生息地とされる竜王池も埋め立てて果樹園にする計画などがあり、地大島がカワウソの保護地域とされると生活に影響する恐れがあるからという理由。(愛媛新聞より)
昭和38年12月1日、県教育委員会は地大島のカワウソ特別保護区指定をあきらめる。地大島では果樹園の開発計画が具体化し、護岸工事、竜王池の埋め立ても予定されている。これが国指定の天然記念物になって特別保護区となると、工事が進めにくくなる、ということで反対の意見が多かった。八幡浜市、八幡浜市教委、県教委で島民と話し合い、「カワウソも大事だがそれによって人の生活が犠牲になるのでは意味がない」との県教委の判断。そのかわりに三崎町大佐田地区など数カ所を特別保護区とするよう、検討を始めた。(愛媛新聞)
ちなみに、カワウソの特別保護区は、昭和37年12月15日に、(1)八幡浜市地大島と三瓶町巴里島周辺域と周木、須崎地区、(2)西海町の鹿島の一部と対岸の汐碆、白浜を含む地域、鼻面岬周辺、樽見鼻周辺、(3)城辺町の大浜、黒崎の周辺が候補に県教委が決定した。これは県文化財専門委員の八木繁一氏の調査結果を参考にして決めたものである。(愛媛新聞)
昭和39年3月、国の天然記念物に指定された。
昭和39年5月16日、愛媛県の県獣にニホンカワウソが公募で決まった。明治時代に毛皮で乱獲。昭和3年に捕獲が禁止されたが、その頃には絶滅の危機に。本来は河川に棲んでいたが、河川開発が進み、海岸に棲むようになった。ちなみに、公募ではハクビシンも対象になっていた。応募数は199。カワウソが94票、コマドリが56、ヤマドリ22、ホシガラス22、ハクビシン5であった。(朝日新聞および愛媛新聞昭和39年5月17日付)
昭和40年9月1日に、八幡浜市大島の三王島(大島と地大島を結ぶ中間地点にある小さな島)の海水浴場でカワウソが生け捕りにされた。地元の農業佐々木幸雄さんが発見。地元消防団員らが一帯に網を張って捕獲。生け簀に入れて八幡浜市漁協大島支部で保護した。
昭和45年2月7日、八幡浜市川上町上泊でカワウソが浜に干してある網の中にもぐって生け捕りにされた。昭和45年頃には捕獲は珍しくなっており、自分のメモでは八幡浜での最後の生け捕り事例である。このカワウソは南宇和郡御荘町にできたカワウソ村(このカワウソ村の存在に関しては私は多くを書かない。)に運ばれ、保護された。(朝日新聞より)
昭和47年8月9日、吉田町(現宇和島市)の惣代の通称楯の海岸でカワウソの糞と足跡らしきものが見つかり、清水栄盛東雲短大教授(元道後動物園長)ら八人が現地調査をした。近くの岩に縄張りの目印がみつかり、生息の可能性があることがわかった。(毎日新聞)
昭和48年5月10日、城辺町深浦でニホンカワウソが見つかり捕獲したが、5時間後に死亡した。もうこの時期には新聞記事に「生きていた幻の動物」という見出しが出るようになっている。(朝日新聞)
今年の夏に和歌山県田辺市に盆行事の調査に行く機会があった。せっかく和歌山に来たのでいろいろと町歩きしてみたいと思ったが、スケジュールの都合で昼間は時間が割けない。というわけで早朝に市内の寺社を歩きまわってみた。
そのお散歩で行ってみたのが闘けい(鶏のつくりが隹)神社。熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)が勧請されていて、熊野権現の三山参詣に代替できるという三山の別宮的存在でもある神社。その境内に梛(なぎ)の木があって、案内標識もあった。
「梛は凪(風が止み波が穏やかになること)に通じる事や、なぎ払うと言う意から罪穢、災厄、病魔を祓い、平和と幸運を招来する熊野の御神木として尊ばれてきた。又、葉は容易に切れ難い為、縁結びの信仰や、実は二つ並んで実るので夫婦円満の目出度い樹とされ、他に海上安全など海の信仰もあった。古くは梛の葉を鏡の裏や御守に入れ災難除けにしたが、特に熊野詣の人々は梛の葉を懐に入れ道中安全を祈った。」
以上のように書かれていて、熊野信仰と梛の関連がわかる。
実は、愛媛県西予市宇和町にある四国霊場43番札所明石寺(めいせきじ)に梛の巨木があり、寺の言い伝えでは熊野修験が持ってきて植えたものという話がある。
この明石寺には熊野曼荼羅図が寺宝の中にあったり、寺の隣接地には熊野十二社が祀られた神社があるように、熊野信仰とゆかりの深いところであり、この境内の地蔵堂の前に、樹齢250年とも300年ともいわれる梛の巨木がある。近隣ではこれほどの梛の巨木は珍しいということで、お先達さんに以前、この木について説明したもらったことがあった。
和歌山県田辺市の熊野信仰の拠点である闘けい(鶏のつくりが隹)神社で梛の木があるのを見て、すぐに明石寺の梛を思い浮かべた。熊野からの修験が伝えたという伝承は本当かもしれない。そんなリアリティを感じた夏の朝のお散歩でした。
写真は闘けい(鶏のつくりが隹)神社の梛の木。
そのお散歩で行ってみたのが闘けい(鶏のつくりが隹)神社。熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)が勧請されていて、熊野権現の三山参詣に代替できるという三山の別宮的存在でもある神社。その境内に梛(なぎ)の木があって、案内標識もあった。
「梛は凪(風が止み波が穏やかになること)に通じる事や、なぎ払うと言う意から罪穢、災厄、病魔を祓い、平和と幸運を招来する熊野の御神木として尊ばれてきた。又、葉は容易に切れ難い為、縁結びの信仰や、実は二つ並んで実るので夫婦円満の目出度い樹とされ、他に海上安全など海の信仰もあった。古くは梛の葉を鏡の裏や御守に入れ災難除けにしたが、特に熊野詣の人々は梛の葉を懐に入れ道中安全を祈った。」
以上のように書かれていて、熊野信仰と梛の関連がわかる。
実は、愛媛県西予市宇和町にある四国霊場43番札所明石寺(めいせきじ)に梛の巨木があり、寺の言い伝えでは熊野修験が持ってきて植えたものという話がある。
この明石寺には熊野曼荼羅図が寺宝の中にあったり、寺の隣接地には熊野十二社が祀られた神社があるように、熊野信仰とゆかりの深いところであり、この境内の地蔵堂の前に、樹齢250年とも300年ともいわれる梛の巨木がある。近隣ではこれほどの梛の巨木は珍しいということで、お先達さんに以前、この木について説明したもらったことがあった。
和歌山県田辺市の熊野信仰の拠点である闘けい(鶏のつくりが隹)神社で梛の木があるのを見て、すぐに明石寺の梛を思い浮かべた。熊野からの修験が伝えたという伝承は本当かもしれない。そんなリアリティを感じた夏の朝のお散歩でした。
写真は闘けい(鶏のつくりが隹)神社の梛の木。
先月開催された卯之町ライトアップ行事「卯のほたる」。その打ち上げが8月26日に行われ、その際に「ほたる」の歴史について少し講話したので、内容を紹介しておきます。
1.古代からホタルと呼ばれていた
『日本書紀』二、神代に「螢火光神(ホタルヒノカヽヤクカミ)」とあり、古代史料に「螢」は出てくる。現在は「蛍」と表記するが、もとは「螢」である。火(実際は光)にまつわる虫であることから成り立った漢字である。この漢字を「ホタル」と呼んでいたことを示すのは平安時代の『和名類聚抄』十九である。「螢 (二行割註)胡丁反 一名熠燿 (二行割註)上一入反、和名保太流」とあり、同じ平安時代の『新撰字鏡』にも「●(虫へんに粦)(二行割註)力人反、螢、保太留」とあり、和名として「ホタル」は定着していた。
2.ほたるの語源
「ほたる」の語源には諸説ある。江戸時代中期の語源辞典である『日本釈名』には「螢 ほは火也、たるは垂也、垂は下へさがりたるヽ也」とあり、「火垂」が語源だとする説があり、『和句解』、『滑稽雑談所引和訓義解』、『重訂本草綱目啓蒙』、『大言海』がこれと同様の解釈である。しかし新井白石『東雅』には「ホは火也、タルは炤(テル)也」とあり、こちらは「火炤」説を採用している。『和訓栞』もこの解釈をとっている。また、『俚諺集覧』では「火照」説であり、『日本国語大辞典』では他にも諸説掲載されているが、これらが主説といえるだろう。上に紹介したようにほたるは古語であるため、これが正しい説と断定するのは難しい。
3.ゲンジボタル
ほたるには比較的大きいゲンジボタルと小さいヘイケボタルの2種類の名前が有名である。一般には源平合戦で源氏が勝ったので大きいのはゲンジボタル、負けた側の平家が小さいヘイケボタルとなったと思われているようである。しかし、柳田國男は、ゲンジボタルは「験師螢」の義であり、験師とは山伏、修験者であり、大形のほたるに一種の力を感じたものではないかと主張する。実際、ほたるの方言で「ヤマブシ」という地域が日本各地にある(出典要確認)。
ゲンジボタルの名前の初出は江戸時代末期の『虫譜図説』であるとされ、ここに「源氏螢(オオホタル)」、「平家螢(ヒメホタル)」と記されている。案外、ゲンジボタルの呼称は新しいもののようである。新しいがゆえに、源氏、平家の源平合戦や、類例で平家に敗れた源頼政の霊がほたるとなったという説もある。また、源氏物語の光源氏に由来するという話もあるが、言葉自体が新しいので、後(比較的新しい時代)に語られるようになった説明ではないだろうか。
4.唱歌「蛍の光」
蛍に関する歌といえば「蛍の光」を思い浮かべてしまう。「蛍の光、窓の雪・・・・」まさに蛍雪の功である。蛍雪の功は中国の晋の時代(3~4世紀)の故事で、夏の夜にほたるを何十匹も絹の袋に入れて、冬は窓辺に積もった雪、その明かりで勉学に励み高級官吏となったという故事である。これが明治14年に尋常小学校の唱歌の歌詞として採用されている。曲はもとはスコットランドの民謡であった。ロバート=バーンズが1794年に発表した「オールドラングサイン」の歌詞のものが英米で送別歌として普及し、明治初期に日本に入ってきた。当初は題名は「蛍の光」ではなく「蛍」であった。この作詞者は稲垣千頴(ちかい)、作曲者は不詳である。
「蛍の光、窓の雪、書読む月日、重ねつつ、何時しか年も、すぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く」
1.古代からホタルと呼ばれていた
『日本書紀』二、神代に「螢火光神(ホタルヒノカヽヤクカミ)」とあり、古代史料に「螢」は出てくる。現在は「蛍」と表記するが、もとは「螢」である。火(実際は光)にまつわる虫であることから成り立った漢字である。この漢字を「ホタル」と呼んでいたことを示すのは平安時代の『和名類聚抄』十九である。「螢 (二行割註)胡丁反 一名熠燿 (二行割註)上一入反、和名保太流」とあり、同じ平安時代の『新撰字鏡』にも「●(虫へんに粦)(二行割註)力人反、螢、保太留」とあり、和名として「ホタル」は定着していた。
2.ほたるの語源
「ほたる」の語源には諸説ある。江戸時代中期の語源辞典である『日本釈名』には「螢 ほは火也、たるは垂也、垂は下へさがりたるヽ也」とあり、「火垂」が語源だとする説があり、『和句解』、『滑稽雑談所引和訓義解』、『重訂本草綱目啓蒙』、『大言海』がこれと同様の解釈である。しかし新井白石『東雅』には「ホは火也、タルは炤(テル)也」とあり、こちらは「火炤」説を採用している。『和訓栞』もこの解釈をとっている。また、『俚諺集覧』では「火照」説であり、『日本国語大辞典』では他にも諸説掲載されているが、これらが主説といえるだろう。上に紹介したようにほたるは古語であるため、これが正しい説と断定するのは難しい。
3.ゲンジボタル
ほたるには比較的大きいゲンジボタルと小さいヘイケボタルの2種類の名前が有名である。一般には源平合戦で源氏が勝ったので大きいのはゲンジボタル、負けた側の平家が小さいヘイケボタルとなったと思われているようである。しかし、柳田國男は、ゲンジボタルは「験師螢」の義であり、験師とは山伏、修験者であり、大形のほたるに一種の力を感じたものではないかと主張する。実際、ほたるの方言で「ヤマブシ」という地域が日本各地にある(出典要確認)。
ゲンジボタルの名前の初出は江戸時代末期の『虫譜図説』であるとされ、ここに「源氏螢(オオホタル)」、「平家螢(ヒメホタル)」と記されている。案外、ゲンジボタルの呼称は新しいもののようである。新しいがゆえに、源氏、平家の源平合戦や、類例で平家に敗れた源頼政の霊がほたるとなったという説もある。また、源氏物語の光源氏に由来するという話もあるが、言葉自体が新しいので、後(比較的新しい時代)に語られるようになった説明ではないだろうか。
4.唱歌「蛍の光」
蛍に関する歌といえば「蛍の光」を思い浮かべてしまう。「蛍の光、窓の雪・・・・」まさに蛍雪の功である。蛍雪の功は中国の晋の時代(3~4世紀)の故事で、夏の夜にほたるを何十匹も絹の袋に入れて、冬は窓辺に積もった雪、その明かりで勉学に励み高級官吏となったという故事である。これが明治14年に尋常小学校の唱歌の歌詞として採用されている。曲はもとはスコットランドの民謡であった。ロバート=バーンズが1794年に発表した「オールドラングサイン」の歌詞のものが英米で送別歌として普及し、明治初期に日本に入ってきた。当初は題名は「蛍の光」ではなく「蛍」であった。この作詞者は稲垣千頴(ちかい)、作曲者は不詳である。
「蛍の光、窓の雪、書読む月日、重ねつつ、何時しか年も、すぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く」
私が住んできる地域で、
今、一番数多く咲いているのは、
このシロバナタンポポ。
愛媛、いや西日本に多いタンポポ。
でも、国道沿いや線路沿いには少ない。
昔からの景観・生活スタイルが
あまり変化していない集落周辺に、
数多く見ることができます。
今、一番数多く咲いているのは、
このシロバナタンポポ。
愛媛、いや西日本に多いタンポポ。
でも、国道沿いや線路沿いには少ない。
昔からの景観・生活スタイルが
あまり変化していない集落周辺に、
数多く見ることができます。
家の近くに咲いていたセイヨウタンポポ。
春が近づいてきました、
この黄色いタンポポ。
在来種ではなく、総苞片が反り返っており、
外来種(帰化種)。
宇和では、国道に近い場所、線路に近い場所、
開発の進んでいる場所に多く見られる、
歩いていると、こんな傾向があるようです。
春が近づいてきました、
この黄色いタンポポ。
在来種ではなく、総苞片が反り返っており、
外来種(帰化種)。
宇和では、国道に近い場所、線路に近い場所、
開発の進んでいる場所に多く見られる、
歩いていると、こんな傾向があるようです。
先日、西予市野村町の予子林で撮ったヤマガラの写真。これは野鳥ではあるが、比較的、人になつきやすく、古来、飼い鳥ともされている。鎌倉時代の経尊著の語源辞書でもある『名語記』には「鳥のやまがら、如何。山に住めば山歟、からは、かるらやの反。小鳥はおおかれども、しとやかなるもあるに、これは軽々にはたらけば、山かるを山からといへる歟」とある。つまり、山に住んで軽々と動くことが語源という。一般的にはヤマガラは山雀と表記する。四十雀も「シジュウガラ」。「雀」を「カラ」もしくは「ガラ」と読むのは当て字であるが、軽々動くのは「雀」の特徴といえば、納得もいかなくはない。ただし、日本国語大辞典を見ても、カラ・ガラで鳥・雀を意味する言葉は紹介されていない。この語源説、少しだけ疑問は残る。
本日、家で里芋を1株だけ収穫。全部で8株植えているが、1株掘っただけでも、充分な収穫量だったので、満足。それを早速、汁物に入れて食べてみたが、粘り気が多くて、餅を食べているような感覚。
日本各地にいわゆる「餅なし正月」で里芋が儀礼食になっているが、この食感から、餅の代替として里芋が選択されたのは、よくわかる。単に、儀礼食の餅以前の時代に里芋があって、「餅なし正月」が即、「稲作以前の文化」と解釈するのはやはり難しい。実際、愛媛の「餅なし正月」でも、正月には餅は食べないが、正月終わりには食べるという事例も多く、餅を全く受け付けないわけではない。
10月中には収穫を終えるつもりだが、しばらくは、里芋三昧。
ちなみに、里芋のことを、私はずっと「コイモ」と呼んでいた。
日本各地にいわゆる「餅なし正月」で里芋が儀礼食になっているが、この食感から、餅の代替として里芋が選択されたのは、よくわかる。単に、儀礼食の餅以前の時代に里芋があって、「餅なし正月」が即、「稲作以前の文化」と解釈するのはやはり難しい。実際、愛媛の「餅なし正月」でも、正月には餅は食べないが、正月終わりには食べるという事例も多く、餅を全く受け付けないわけではない。
10月中には収穫を終えるつもりだが、しばらくは、里芋三昧。
ちなみに、里芋のことを、私はずっと「コイモ」と呼んでいた。
昔とったメモを整理していたら、昭和41年の八幡浜市大島でのかわうそ事件の走り書きがでてきた。昭和41年春ごろからかわうそが生け簀を荒らして仕方なく、タイなどの魚の被害がひどくなったという。食い荒らし方から、犯人はかわうそと判断できたわけだが、当時、既に天然記念物に指定されているかわうそ。大島はかわうそ保護区とされていたので、捕獲することもできない。そこで、市や県の教育委員会まで、捕獲しても良いかという相談に行ったという。そもそも昭和30年代後半には、天然記念物指定には反対との声も多かったらしい。そこで、文化庁にも見解を求めたらしいが、そこで出た判断。それは、捕獲しても良いが、保護を前提とし、生け捕って、動物園に送ること。このような話があったとのこと。保護か、生活優先か。天然記念物指定にあたっての、かわうそに関するこの種の話は御荘でもあったようで、聞き取りではこの頃の話は、いろんな方が鮮明に覚えていて、話を聞きやすい。それだけシリアスな事件だったのだろう。