5 律令期祭祀遺物の私見
①律令期祭祀遺物について(人形・土馬・舟形・斎串・墨書人面土器・模型カマドなど)
・金子裕之説1985
天武・持統天皇期に従来の伝統をもとに新たに中国系祭祀具を付加させ再編成された。
律令制祭祀のうち、とくに大祓と関連付けられる。
平城京内でも大祓が広汎に実施され、国家主導で国・郡にも広まっていった。
・泉武説1989
律令期祭祀遺物は、8世紀中頃まで内容的に豊富といえず、8世紀後半に拡大する。
遺物の出土地は都城に限定されず、国家主導での広まりでは説明できない。
→奈良時代後期以降に豊富となることは、ケガレ観念の変化と時期的に一致する。
→殺牛馬の供犠儀礼もこの時期に消滅するなど、奈良後期~平安初期が「日本的祭祀」の確立期?
②祓具か?祭祀具か?
<人形>
・木製・金属製・石製などの材質。扁平な板を加工した木製人形が一般的。
・人形=祓具説「罪穢や悪気を一撫一吻によって人形に移し、流れに投ずる」(金子1985)
・人形=神祭りの道具説(岡田精司1992・三宅和朗2004)
『肥前国風土記』佐嘉郡条「此川上有荒神、(中略)作人形・馬形、祭祀此神、必有応和」など
←祓具ではなく、神祭りの道具として人形・馬形が使用されている。
・『延喜式』に規定されている「御贖物」(天皇のハラエ)として「鉄人像」等が記載されている。
←ケガレを移す道具として用いたかどうか明確な史料はない。(三宅2004)
・『源氏物語』の撫物としての人形と、律令期出土の人形は使用方法が異なると考えるべき。
<土馬・馬形>
・土馬=土製の馬形、馬形=偏平な板材で馬を表現したもの。
・上記『肥前国風土記』のように人形とともに神祭りの道具として使用。
・祓具説:馬は行疫神の乗り物で、その猛威を防ぐために献じるか、流す。(水野正好1983・金子1985)
・神祭り説:水霊祭祀・峠神祭祀・墓前(古墳)祭祀で使用。馬形に切り込みがあるのは、
馬のを表す。(大場磐雄1970・荒木敏夫1981)
・絵馬の起源との関連:生馬の奉納から絵馬へ・殺馬供犠の可能性。
<墨書人面土器>
・祓具説:胡人(ペルシャ人)の恐ろしい顔を描き、土器に吹き込まれた気息が胡人に守られ川に流される(水野1978)
・身代わり説:「召代」・「身代」等の文字記載から、自分(人間)の身代わりとして使用。
中国の冥道信仰により、国玉神の顔を描き、ご馳走を盛って延命祈願する。(平川南2000)
・神霊の依代説:「罪司」に神霊の依り代として供献するために使用。(高島英之2000)
←墨書人面土器に込められるものは、人間の災い(ケガレ)か、それとも神霊か?
→ケガレVS神という対立ではなく、「ケガレを吸引する機能」→「有難い物」→「神の存在の認識」
①「マイナス(災)」→「ゼロ(日常)」=「祓」
②「ゼロ(日常)」→「プラス(福)」 =「祭」
①・②も同根で、ベクトル(儀礼)は同じ。
*祓具と祭祀具は別物ではなく、共通性のあるものとして考えるべき。
6 二種類の「祓」
①「ハラエ」=財産の供出(財産を神々への支払いうことにより、罪を贖う行為。)
・「今俗に、物を買たる直(アタヒ)を出すを、払ふとも払をするとも云は、祓除の意にあたれり、又これを済(スマ)すと云も、令レ清(スマス)の意にて、祓の義に通へり」(本居宣長『古事記伝』六)
・大祓の起源神話:スサノヲ神話「然して後に、諸の神、罪を素戔鳴尊に帰(ヨ)せて、科(オホ)するに千座置戸(チクラオキト)を以てして、遂に促(セ)め徴(ハタ)る。髪を抜きて、其の罪を贖はしむるに至る。亦曰はく、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。已(スデ)にして竟(ツヒ)に逐降(カムヤラヒヤラ)ひき。」(『日本書紀』神代第七段本文、日本古典文学大系本より)
←「千座置戸」は祓具を置く台のことで、罪科の代償として財産を差し出させる意。
②「ハラエ」=追放・放逐(現在ではこれが一般的。)
・上記のスサノヲ神話でも、財産を供出させた上で追放していて、これも「ハラエ」とされる。
・大祓詞の内容:「人間が犯した罪は、瀬織津(セオリツ)ヒメによって川から海へ、次に速開都(ハヤアキツ)ヒメによって、海へ運ばれてきた罪が呑み込まれる。次に伊吹戸主(イブキドヌシ)によって、罪が息吹き散らされ、根の国へ吹き込まれる。そこで根の国底の国の速佐須良(ハヤサスラ)ヒメが罪を背負い、流離しながら失われる。」(『延喜式』巻八の意訳)
→財産としての「形代」から身のケガレを託す「形代」へ(人形は贖物から撫物へ)
→「祓」の根源は「贖う行為」→「貨幣」の問題とリンク。後に撫物としての貨幣(賽銭)の誕生へ。
Ⅳ 貨幣の呪術性
1貨幣の歴史(一般説)
・最古の貨幣:和同開珎(和銅元年708)←王権の象徴・中国貨幣の模倣・蓄銭叙位(和銅4年)という矛盾
・日本古代末~中世に流通したのは宋銭・明銭(中国貨幣)
・日本独自の貨幣:大判・小判
①大判・小判の鋳造-米との互換性-
・大判製作の起源は天正16(1588)年、豊臣秀吉の命により京都の後藤徳乗が鋳造。全国の大名に下賜。
・米俵の形、藁のような筋目、稲を連想させる黄金色。 小判の金一両=米一石 大判=米十石
2「貨幣」の歴史(私見)
①「貨幣」:商品の交換・流通を円滑にする一般的な媒介物(『日本国語大辞典』)
中国:〔後漢書・光武紀下〕「初王莽乱後、貨幣雑用布帛金粟、是歳始行五銖銭」(『大漢和辞典』)
←光武帝の時、貨幣として布帛金粟を用いていたが、五銖銭を使い始めた。
→それまで銭貨はあったものの、文字として「貨幣」の初出?
②「貨」:値打ちのある品物。財宝。また、荷物。品物。(『日本国語』)
たから(金銭珠玉布帛の総称)、しな(商品)(『大漢和』)
③「幣」:中国:きぬ、おくりもの、みつぎもの、喪におくって弔意を表すもの(『大漢和』)
「弊」・「敝」に通じる(やぶれる、すてる)(『大漢和』)
日本:神前に供える幣帛。みてぐら、ぬさ、ごへい(『日本国語』)
④「幣帛」:中国:神に捧げるぬさ、天子に奉る礼物のきぬ、賓客に贈るきぬ、おくりもの(『大漢和』)
←主には、人間に対する贈り物を意味する。
日本:神に捧げるものの総称(『大漢和』)
「ミテグラと言う。神祇に奉献する物の総称。具体的には布帛、紙、玉、兵器、貨幣、器物、獣類。布帛を献じる際には串に挿む(忌串・幣串→玉串)。後世、紙を幣串に挟んで御幣とするのはその遺制である。」(『古事類苑神祇部』より意訳)
⑤「みてぐら」:「御手座」の意味。=手に持つ神の宿るもの。
クラ(座)は、「神座(かみくら)」「天磐座(あまのいわくら)」「高御座(たかみくら)」など、神のすわる場所。(参考文献:柳田国男「日本の祭」)
⑥銭貨を幣と為す例(『古事類苑神祇部』より)
〔日本後紀五桓武〕「延暦十五(796)年十一月辛丑、始用新銭、奉伊勢神宮賀茂上下二社松尾社」
←初めて大社に銭が奉納される。銭貨が「幣」となる初出記事。=名実ともに「貨幣」の誕生?
〔日本三代実録十八清和〕貞観12(870)年11月17日条に、諸社に葛野鋳銭所に新鋳銭を奉納。
←その際の天皇の告文に「鋳作するところの早穂(ハツホ)二十文」とある。
←「貨幣」を初穂になぞらえて、神に奉納。(米と銭の関連)
3 散米・餅撒きと賽銭(放り投げる行為)
①散米・・・神楽の「巴那の舞」の散供=魔祓い
②餅撒き・・建て前(上棟式)の後に行う。
③賽銭・・・神社や噴水、泉、清水などに銭を放り投げる。
④厄払い・・神社で銭を撒く。四辻に豆・米・銭を紙に包んで捨てる。
→ケガレの吸引装置としての米・貨幣=人々の心理的媒体となる物質(貨幣の本質)
事例1 宮窪町浜
節分(中略)厄落し。三十三才、四十一才、六十一才、八十八才の厄年の人は厄落しといって豆といっしょにお金を入れてエビス様の社でまいた。浜の人は皆オイベッサンに集まってそのお金を拾った。但しその家の者は拾ってはいけない掟である。(越智郡島嶼部民俗資
料調査報告書 昭和42年)
事例2 瀬戸町
節分 (中略)厄年の方は自分の歳の数ほどの大豆と針とか小硬貨を白紙に包み、道の四つ辻へ人目にかからぬよう投げすててうしろへは絶対ふり向かないようにして帰宅する風習が現在もなお継承されている。(瀬戸町誌 昭和61年)
Ⅴ まとめ―形代呪術を通して―
①模倣呪術の時代(縄文時代~弥生時代?)
神の未概念化・人間による呪術行為(人間の自然化=自然と文化の未分化の時代?)
②贖罪信仰を基礎とする模倣呪術の時代(弥生・古墳時代~奈良時代)
経済的契約での神々と人間の関係=外部に位置する神々 (外の神々/人間=内=共同体の成立)
③模倣呪術に加え、感染呪術が重要視される時代(平安時代~現代)
ケガレを託せる神の登場:神々と人間の身体的一体化・神の共同体内在化(氏神)=日本神道の成立
<主要参考文献>
J・G・フレーザー『金枝篇』永橋卓介訳、「岩波文庫」、1966
柳田国男『定本柳田国男集』第21巻、筑摩書房、1970
大場磐雄「上代馬形遺物再考」(『祭祀遺蹟』角川書店)1970
レヴィ・ストロース『構造人類学』荒川幾男他訳、みすず書房、1972
日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典』小学館、1973
小口偉一・堀一郎監修『宗教学辞典』東京大学出版会、1973
井之口章次『日本の俗信』弘文堂、1975
水野正好「まじないの考古学事始」(『季刊どるめん』18)1978
荒木敏夫「伊場の祭祀と木簡・木製品」(『伊場木簡の研究』東京堂出版)1981
水野正好「馬・馬・馬」(『奈良大学文化財学報』2)1983
米田耕之助『土偶』ニュー・サイエンス社、1984
金子裕之「平城京と祭場」(『国立歴史民俗博物館研究報告』7)1985
新谷尚紀『生と死の民俗史』木耳社、1986
泉武「律令祭祀論の一視点」(『道教と東アジア』人文書院)1989
岡田精司『古代祭祀の史的研究』塙書房、1992
巽淳一郎『まじないの世界Ⅱ(歴史時代)』(日本の美術361号)至文堂、1996
大本敬久「古代の穢について」(『第49回日本民俗学会年会発表要旨集』)1997
福田アジオ・新谷尚紀他編『日本民俗大辞典』吉川弘文館、2000
新谷尚紀『神々の原像-祭祀の小宇宙』吉川弘文館、2000
平川南『墨書土器の研究』吉川弘文館、2000
高島英之『古代出土文字資料の研究』2000
金子昭彦「土偶はどれだけ壊れているか-岩手県における晩期土偶の基礎的考察」(『日本考古学』15号)2003
三宅和朗「律令期祭祀遺物の再検討」(『政治と宗教の古代史』慶応義塾大学出版会)2004
松山市考古館編『平成17年度特別展 祈り―卑弥呼といのりの小道具―』パンフレット、2005
山之内志郎「祈り―分銅形土製品―」(松山市考古館講座レジュメ)2005
①律令期祭祀遺物について(人形・土馬・舟形・斎串・墨書人面土器・模型カマドなど)
・金子裕之説1985
天武・持統天皇期に従来の伝統をもとに新たに中国系祭祀具を付加させ再編成された。
律令制祭祀のうち、とくに大祓と関連付けられる。
平城京内でも大祓が広汎に実施され、国家主導で国・郡にも広まっていった。
・泉武説1989
律令期祭祀遺物は、8世紀中頃まで内容的に豊富といえず、8世紀後半に拡大する。
遺物の出土地は都城に限定されず、国家主導での広まりでは説明できない。
→奈良時代後期以降に豊富となることは、ケガレ観念の変化と時期的に一致する。
→殺牛馬の供犠儀礼もこの時期に消滅するなど、奈良後期~平安初期が「日本的祭祀」の確立期?
②祓具か?祭祀具か?
<人形>
・木製・金属製・石製などの材質。扁平な板を加工した木製人形が一般的。
・人形=祓具説「罪穢や悪気を一撫一吻によって人形に移し、流れに投ずる」(金子1985)
・人形=神祭りの道具説(岡田精司1992・三宅和朗2004)
『肥前国風土記』佐嘉郡条「此川上有荒神、(中略)作人形・馬形、祭祀此神、必有応和」など
←祓具ではなく、神祭りの道具として人形・馬形が使用されている。
・『延喜式』に規定されている「御贖物」(天皇のハラエ)として「鉄人像」等が記載されている。
←ケガレを移す道具として用いたかどうか明確な史料はない。(三宅2004)
・『源氏物語』の撫物としての人形と、律令期出土の人形は使用方法が異なると考えるべき。
<土馬・馬形>
・土馬=土製の馬形、馬形=偏平な板材で馬を表現したもの。
・上記『肥前国風土記』のように人形とともに神祭りの道具として使用。
・祓具説:馬は行疫神の乗り物で、その猛威を防ぐために献じるか、流す。(水野正好1983・金子1985)
・神祭り説:水霊祭祀・峠神祭祀・墓前(古墳)祭祀で使用。馬形に切り込みがあるのは、
馬のを表す。(大場磐雄1970・荒木敏夫1981)
・絵馬の起源との関連:生馬の奉納から絵馬へ・殺馬供犠の可能性。
<墨書人面土器>
・祓具説:胡人(ペルシャ人)の恐ろしい顔を描き、土器に吹き込まれた気息が胡人に守られ川に流される(水野1978)
・身代わり説:「召代」・「身代」等の文字記載から、自分(人間)の身代わりとして使用。
中国の冥道信仰により、国玉神の顔を描き、ご馳走を盛って延命祈願する。(平川南2000)
・神霊の依代説:「罪司」に神霊の依り代として供献するために使用。(高島英之2000)
←墨書人面土器に込められるものは、人間の災い(ケガレ)か、それとも神霊か?
→ケガレVS神という対立ではなく、「ケガレを吸引する機能」→「有難い物」→「神の存在の認識」
①「マイナス(災)」→「ゼロ(日常)」=「祓」
②「ゼロ(日常)」→「プラス(福)」 =「祭」
①・②も同根で、ベクトル(儀礼)は同じ。
*祓具と祭祀具は別物ではなく、共通性のあるものとして考えるべき。
6 二種類の「祓」
①「ハラエ」=財産の供出(財産を神々への支払いうことにより、罪を贖う行為。)
・「今俗に、物を買たる直(アタヒ)を出すを、払ふとも払をするとも云は、祓除の意にあたれり、又これを済(スマ)すと云も、令レ清(スマス)の意にて、祓の義に通へり」(本居宣長『古事記伝』六)
・大祓の起源神話:スサノヲ神話「然して後に、諸の神、罪を素戔鳴尊に帰(ヨ)せて、科(オホ)するに千座置戸(チクラオキト)を以てして、遂に促(セ)め徴(ハタ)る。髪を抜きて、其の罪を贖はしむるに至る。亦曰はく、其の手足の爪を抜きて贖ふといふ。已(スデ)にして竟(ツヒ)に逐降(カムヤラヒヤラ)ひき。」(『日本書紀』神代第七段本文、日本古典文学大系本より)
←「千座置戸」は祓具を置く台のことで、罪科の代償として財産を差し出させる意。
②「ハラエ」=追放・放逐(現在ではこれが一般的。)
・上記のスサノヲ神話でも、財産を供出させた上で追放していて、これも「ハラエ」とされる。
・大祓詞の内容:「人間が犯した罪は、瀬織津(セオリツ)ヒメによって川から海へ、次に速開都(ハヤアキツ)ヒメによって、海へ運ばれてきた罪が呑み込まれる。次に伊吹戸主(イブキドヌシ)によって、罪が息吹き散らされ、根の国へ吹き込まれる。そこで根の国底の国の速佐須良(ハヤサスラ)ヒメが罪を背負い、流離しながら失われる。」(『延喜式』巻八の意訳)
→財産としての「形代」から身のケガレを託す「形代」へ(人形は贖物から撫物へ)
→「祓」の根源は「贖う行為」→「貨幣」の問題とリンク。後に撫物としての貨幣(賽銭)の誕生へ。
Ⅳ 貨幣の呪術性
1貨幣の歴史(一般説)
・最古の貨幣:和同開珎(和銅元年708)←王権の象徴・中国貨幣の模倣・蓄銭叙位(和銅4年)という矛盾
・日本古代末~中世に流通したのは宋銭・明銭(中国貨幣)
・日本独自の貨幣:大判・小判
①大判・小判の鋳造-米との互換性-
・大判製作の起源は天正16(1588)年、豊臣秀吉の命により京都の後藤徳乗が鋳造。全国の大名に下賜。
・米俵の形、藁のような筋目、稲を連想させる黄金色。 小判の金一両=米一石 大判=米十石
2「貨幣」の歴史(私見)
①「貨幣」:商品の交換・流通を円滑にする一般的な媒介物(『日本国語大辞典』)
中国:〔後漢書・光武紀下〕「初王莽乱後、貨幣雑用布帛金粟、是歳始行五銖銭」(『大漢和辞典』)
←光武帝の時、貨幣として布帛金粟を用いていたが、五銖銭を使い始めた。
→それまで銭貨はあったものの、文字として「貨幣」の初出?
②「貨」:値打ちのある品物。財宝。また、荷物。品物。(『日本国語』)
たから(金銭珠玉布帛の総称)、しな(商品)(『大漢和』)
③「幣」:中国:きぬ、おくりもの、みつぎもの、喪におくって弔意を表すもの(『大漢和』)
「弊」・「敝」に通じる(やぶれる、すてる)(『大漢和』)
日本:神前に供える幣帛。みてぐら、ぬさ、ごへい(『日本国語』)
④「幣帛」:中国:神に捧げるぬさ、天子に奉る礼物のきぬ、賓客に贈るきぬ、おくりもの(『大漢和』)
←主には、人間に対する贈り物を意味する。
日本:神に捧げるものの総称(『大漢和』)
「ミテグラと言う。神祇に奉献する物の総称。具体的には布帛、紙、玉、兵器、貨幣、器物、獣類。布帛を献じる際には串に挿む(忌串・幣串→玉串)。後世、紙を幣串に挟んで御幣とするのはその遺制である。」(『古事類苑神祇部』より意訳)
⑤「みてぐら」:「御手座」の意味。=手に持つ神の宿るもの。
クラ(座)は、「神座(かみくら)」「天磐座(あまのいわくら)」「高御座(たかみくら)」など、神のすわる場所。(参考文献:柳田国男「日本の祭」)
⑥銭貨を幣と為す例(『古事類苑神祇部』より)
〔日本後紀五桓武〕「延暦十五(796)年十一月辛丑、始用新銭、奉伊勢神宮賀茂上下二社松尾社」
←初めて大社に銭が奉納される。銭貨が「幣」となる初出記事。=名実ともに「貨幣」の誕生?
〔日本三代実録十八清和〕貞観12(870)年11月17日条に、諸社に葛野鋳銭所に新鋳銭を奉納。
←その際の天皇の告文に「鋳作するところの早穂(ハツホ)二十文」とある。
←「貨幣」を初穂になぞらえて、神に奉納。(米と銭の関連)
3 散米・餅撒きと賽銭(放り投げる行為)
①散米・・・神楽の「巴那の舞」の散供=魔祓い
②餅撒き・・建て前(上棟式)の後に行う。
③賽銭・・・神社や噴水、泉、清水などに銭を放り投げる。
④厄払い・・神社で銭を撒く。四辻に豆・米・銭を紙に包んで捨てる。
→ケガレの吸引装置としての米・貨幣=人々の心理的媒体となる物質(貨幣の本質)
事例1 宮窪町浜
節分(中略)厄落し。三十三才、四十一才、六十一才、八十八才の厄年の人は厄落しといって豆といっしょにお金を入れてエビス様の社でまいた。浜の人は皆オイベッサンに集まってそのお金を拾った。但しその家の者は拾ってはいけない掟である。(越智郡島嶼部民俗資
料調査報告書 昭和42年)
事例2 瀬戸町
節分 (中略)厄年の方は自分の歳の数ほどの大豆と針とか小硬貨を白紙に包み、道の四つ辻へ人目にかからぬよう投げすててうしろへは絶対ふり向かないようにして帰宅する風習が現在もなお継承されている。(瀬戸町誌 昭和61年)
Ⅴ まとめ―形代呪術を通して―
①模倣呪術の時代(縄文時代~弥生時代?)
神の未概念化・人間による呪術行為(人間の自然化=自然と文化の未分化の時代?)
②贖罪信仰を基礎とする模倣呪術の時代(弥生・古墳時代~奈良時代)
経済的契約での神々と人間の関係=外部に位置する神々 (外の神々/人間=内=共同体の成立)
③模倣呪術に加え、感染呪術が重要視される時代(平安時代~現代)
ケガレを託せる神の登場:神々と人間の身体的一体化・神の共同体内在化(氏神)=日本神道の成立
<主要参考文献>
J・G・フレーザー『金枝篇』永橋卓介訳、「岩波文庫」、1966
柳田国男『定本柳田国男集』第21巻、筑摩書房、1970
大場磐雄「上代馬形遺物再考」(『祭祀遺蹟』角川書店)1970
レヴィ・ストロース『構造人類学』荒川幾男他訳、みすず書房、1972
日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典』小学館、1973
小口偉一・堀一郎監修『宗教学辞典』東京大学出版会、1973
井之口章次『日本の俗信』弘文堂、1975
水野正好「まじないの考古学事始」(『季刊どるめん』18)1978
荒木敏夫「伊場の祭祀と木簡・木製品」(『伊場木簡の研究』東京堂出版)1981
水野正好「馬・馬・馬」(『奈良大学文化財学報』2)1983
米田耕之助『土偶』ニュー・サイエンス社、1984
金子裕之「平城京と祭場」(『国立歴史民俗博物館研究報告』7)1985
新谷尚紀『生と死の民俗史』木耳社、1986
泉武「律令祭祀論の一視点」(『道教と東アジア』人文書院)1989
岡田精司『古代祭祀の史的研究』塙書房、1992
巽淳一郎『まじないの世界Ⅱ(歴史時代)』(日本の美術361号)至文堂、1996
大本敬久「古代の穢について」(『第49回日本民俗学会年会発表要旨集』)1997
福田アジオ・新谷尚紀他編『日本民俗大辞典』吉川弘文館、2000
新谷尚紀『神々の原像-祭祀の小宇宙』吉川弘文館、2000
平川南『墨書土器の研究』吉川弘文館、2000
高島英之『古代出土文字資料の研究』2000
金子昭彦「土偶はどれだけ壊れているか-岩手県における晩期土偶の基礎的考察」(『日本考古学』15号)2003
三宅和朗「律令期祭祀遺物の再検討」(『政治と宗教の古代史』慶応義塾大学出版会)2004
松山市考古館編『平成17年度特別展 祈り―卑弥呼といのりの小道具―』パンフレット、2005
山之内志郎「祈り―分銅形土製品―」(松山市考古館講座レジュメ)2005