岩城島は芸予諸島の中でも、弓削島、生名島などとともに上島諸島を構成する島である。北は生口島、南は伯方島に接している。現在は南方の赤穂根島と津波島を含み、岩城村を構成しているが、平成16年10月には弓削町、生名村、魚島村と合併し「上島(かみじま)町」として新たな出発を迎えることになっている。
瀬戸内海では、江戸時代に造船技術が発達し、本州の陸地沿いを航行する「地乗り航路」から島伝いに航行する「沖乗り航路」に移ると、島々にも海駅が整備され、対面の伯方島や赤穂根島に囲まれた岩城島南部に位置する岩城港も、潮待ちや風待ちの港として発展した。松山藩領であった岩城には藩の本陣や脇本陣、茶屋、定水主が置かれ、参勤交代の要衝としても栄えた。特に三浦家を宿駅の本陣とし、「島本陣」と呼ばれ、島民は参勤交代の御用のほか、西国の大名や琉球人や朝鮮通信使の往来などにも漕船と水主役を担っていた。
三浦家は16世紀中頃に備後三原から岩城に移住し、名家として瀬戸内海に広く知られていた。最も隆盛を極めたのは江戸時代後期から明治時代にかけてであり、多くの塩田を所有するとともに、大坂などとの商取引も盛んに行った。島本陣として利用された邸宅は間口12間、奥行15間の広大なものであり、昭和57年に郷土資料館として修築し、現在一般に公開している。館内には、島本陣であった当時、藩主の部屋として使用されていた客間や、郷土の歴史資料が展示されている。
さて、岩城島は当然、民間航路としても商船の潮待ち、風待ちの重要な港として機能していた。港近くには旅籠や茶屋が並び、文政13(1816)年には問屋が10軒あったとされており、特に大坂商人との商取引が盛んであった。明治13年頃にも、船舶108隻、漁船71隻があったが、次第に造船・海運ともに西洋型の造作場を持ち、茶屋や芝居小屋の発達した御手洗(大崎下島)などに繁栄を奪われていった。
しかし岩城八幡神社の嘉永6年に造られた玉垣等の石造物の寄進者銘を見てみると、近隣の島々はもとより、安芸、備後、播磨、大坂等の商人の名前が刻まれており、岩城島の商業圏域の広さがわかるとともに、島外からの船や人の来訪が島の文化の隆盛の背景ともなったことがうかがえる。
その一例として、岩城島内の神社祭礼が挙げられる。現在、10月第2土曜日に岩城八幡神社の秋祭りが行われるが、神輿渡御の行列にはダンジリ、奴行列、獅子舞、浦安の舞等が登場し、賑やかな祭礼である。神輿は浜の五か村の者が担ぎ、ダンジリは東地区、西地区2台が登場させる。奴行列は高原地区が担当し、獅子舞は海原地区の担当となっている。
このうち、ダンジリは「担ぎダンジリ」と呼ばれる越智郡島嶼部によく見られる形状のものだが、「三浦家永代記録」の中の明治14年の「祭礼道具人別控」によると、西地区からは「引壇尻」(曳きダンジリ)と東地区からは「太鼓壇尻」が出ると記されている。愛媛県においては、一般に、祭礼の中で山車などの祭礼風流を「曳いて見せる」文化は19世紀以前のものであり、近年はダンジリを担ぐことによって、「見せる」風に変化している。「曳いて」見せるダンジリは、岩城島の近隣では大三島町や上浦町のダンジリなどが残存しているのみで、伊予本土にもほとんど見られない。現在、岩城でも「曳きダンジリ」は姿を消しているが、明治時代にも瀬戸内海沿岸各地に見られる祭礼文化を受容していたのである。
なお、岩城村では安政6(1859)年に八幡神社の神輿を再興した際、大坂心斎橋の神輿師鎌田市左衛門に神輿を修理させている。この頃の祭礼道具が地元近くではなく、大坂にて新調、修理されていたことは興味深い。
また、岩城では祭礼の奴行列の由来として、明治初年に岩城から備前国(岡山県)に塩田の仕事で出稼ぎに出ていた者が奴行列を習い覚え、帰郷すると高原地区から奴を出そうという話になったという伝承もある。明治時代には塩田の浜子として岩城から各地へ出稼ぎに出るものが多く、彼らが郷里に伝えた文化といえるだろう。
島外から訪れる者によってもたらされた文化、島内の者が外に赴くことで、得て持ち帰った文化、それらの融合により現在の岩城の伝承文化は成り立っている。このように、岩城島は、政治や商業だけでなく、文化の面でも航路を基盤とした交流の島として発達したのである。
(参考文献)『岩城村誌』岩城村、昭和61年。『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』愛媛県教育委員会、平成14年。
瀬戸内海では、江戸時代に造船技術が発達し、本州の陸地沿いを航行する「地乗り航路」から島伝いに航行する「沖乗り航路」に移ると、島々にも海駅が整備され、対面の伯方島や赤穂根島に囲まれた岩城島南部に位置する岩城港も、潮待ちや風待ちの港として発展した。松山藩領であった岩城には藩の本陣や脇本陣、茶屋、定水主が置かれ、参勤交代の要衝としても栄えた。特に三浦家を宿駅の本陣とし、「島本陣」と呼ばれ、島民は参勤交代の御用のほか、西国の大名や琉球人や朝鮮通信使の往来などにも漕船と水主役を担っていた。
三浦家は16世紀中頃に備後三原から岩城に移住し、名家として瀬戸内海に広く知られていた。最も隆盛を極めたのは江戸時代後期から明治時代にかけてであり、多くの塩田を所有するとともに、大坂などとの商取引も盛んに行った。島本陣として利用された邸宅は間口12間、奥行15間の広大なものであり、昭和57年に郷土資料館として修築し、現在一般に公開している。館内には、島本陣であった当時、藩主の部屋として使用されていた客間や、郷土の歴史資料が展示されている。
さて、岩城島は当然、民間航路としても商船の潮待ち、風待ちの重要な港として機能していた。港近くには旅籠や茶屋が並び、文政13(1816)年には問屋が10軒あったとされており、特に大坂商人との商取引が盛んであった。明治13年頃にも、船舶108隻、漁船71隻があったが、次第に造船・海運ともに西洋型の造作場を持ち、茶屋や芝居小屋の発達した御手洗(大崎下島)などに繁栄を奪われていった。
しかし岩城八幡神社の嘉永6年に造られた玉垣等の石造物の寄進者銘を見てみると、近隣の島々はもとより、安芸、備後、播磨、大坂等の商人の名前が刻まれており、岩城島の商業圏域の広さがわかるとともに、島外からの船や人の来訪が島の文化の隆盛の背景ともなったことがうかがえる。
その一例として、岩城島内の神社祭礼が挙げられる。現在、10月第2土曜日に岩城八幡神社の秋祭りが行われるが、神輿渡御の行列にはダンジリ、奴行列、獅子舞、浦安の舞等が登場し、賑やかな祭礼である。神輿は浜の五か村の者が担ぎ、ダンジリは東地区、西地区2台が登場させる。奴行列は高原地区が担当し、獅子舞は海原地区の担当となっている。
このうち、ダンジリは「担ぎダンジリ」と呼ばれる越智郡島嶼部によく見られる形状のものだが、「三浦家永代記録」の中の明治14年の「祭礼道具人別控」によると、西地区からは「引壇尻」(曳きダンジリ)と東地区からは「太鼓壇尻」が出ると記されている。愛媛県においては、一般に、祭礼の中で山車などの祭礼風流を「曳いて見せる」文化は19世紀以前のものであり、近年はダンジリを担ぐことによって、「見せる」風に変化している。「曳いて」見せるダンジリは、岩城島の近隣では大三島町や上浦町のダンジリなどが残存しているのみで、伊予本土にもほとんど見られない。現在、岩城でも「曳きダンジリ」は姿を消しているが、明治時代にも瀬戸内海沿岸各地に見られる祭礼文化を受容していたのである。
なお、岩城村では安政6(1859)年に八幡神社の神輿を再興した際、大坂心斎橋の神輿師鎌田市左衛門に神輿を修理させている。この頃の祭礼道具が地元近くではなく、大坂にて新調、修理されていたことは興味深い。
また、岩城では祭礼の奴行列の由来として、明治初年に岩城から備前国(岡山県)に塩田の仕事で出稼ぎに出ていた者が奴行列を習い覚え、帰郷すると高原地区から奴を出そうという話になったという伝承もある。明治時代には塩田の浜子として岩城から各地へ出稼ぎに出るものが多く、彼らが郷里に伝えた文化といえるだろう。
島外から訪れる者によってもたらされた文化、島内の者が外に赴くことで、得て持ち帰った文化、それらの融合により現在の岩城の伝承文化は成り立っている。このように、岩城島は、政治や商業だけでなく、文化の面でも航路を基盤とした交流の島として発達したのである。
(参考文献)『岩城村誌』岩城村、昭和61年。『しまなみ水軍浪漫のみち文化財調査報告書』愛媛県教育委員会、平成14年。