愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

麻疹(はしか)に関する俗信

2001年06月15日 | 信仰・宗教

「イセエビの殻を煎じて飲むとはしかが早く治る。」(愛媛県内全域)
「はしかが流行しはじめたら、杓子に『こどもいない、いない』と書いて玄関につるす。」(今治市立花・宮窪町)
「はしかが流行した時は門口に『子供は留守』と書いて貼る。」(弓削町弓削)
「家の門に、杓子に『はしか済みました』と書いて吊す。」(美川村弘形)
「はしかになると着物にキンカンをつるしておく。」(新居浜市泉川・東予市吉岡)
「キンカンの実を赤砂糖で煮つめて食べるとはしかによい。」(新居浜市神郷・松山市御幸・御荘町御荘)
「はしかにはサイの角を削り煎じて飲む。」(伊予三島市三島・宇和島市丸穂)
「はしかにはギョリュウ柳の葉を煎じて飲むとよい。」(北条市粟井)
「はしかには、大根のおろし汁に、ショウガのおろし汁、砂糖を加えて飲む。」(今治市富田)
「はしかには、タケノコスープを飲ませると発疹した後、順調に快方に向かう。」(今治市富田)
「はしかには、もち米のおもゆを飲ませると早く出る。」(伊予三島市三島・美川村弘形)
「はしかが出そうになったら、糯米粥を食べる。」(松山市旧市内)
「アズキははしかに悪い。」(波方町波方)
「はしかが出そうになったら、ゴボウは食べられん。」(松山市旧市内)
以上『えひめの言い伝え-愛媛の医と食の伝承-』(「えひめの言い伝えを発行する会」、昭和63年発行)より。

全国的には、麻疹を疫病神として家や村から追い出そうとする事例が多く、日本民俗大辞典にも「俵蓋に赤飯を盛り、赤紙の御幣を立て、村はずれに、あるいは川の向岸へ送り棄てて帰る。そのとき振り返ると疫神が再びついてくる」という事例が紹介されている。愛媛県内に見られる、家の門口に「子供は留守」とか「はしか済みました」と杓子や紙に書いて貼るのも、麻疹を一種の寄り来る神(疫病神)としてとらえ、家の中に入って来ないように祈願したものと見ることができる。また、杓子を使用することについては、例えば、宮詣りのみやげに杓子を持ち帰り、小児の夜泣きをとめるため、門口にうちつけておくなど呪物の一種として扱われることがある。なぜ杓子が呪物になりうるのかはっきりとはわからないが、杓子が御飯(米)を分配する道具であり、米は供物や散米など魔祓いの儀礼において、ある種の霊力を持つと認め、その力によって魔を祓うことができるとされる。米の霊力が道具にも付帯していると認識されているからであろうか。

2001年06月15日

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地震の時の唱え言

2001年06月14日 | 八幡浜民俗誌
地震の時の唱え言

 ここ数年、阪神・淡路大震災、鳥取県西部地震、そして先日の芸予地震と、西日本で大規模な地震が発生している。西日本は地震の活動期に入ったといわれ、今後も大地震が起こる可能性もある。そこで、防災意識の喚起のためにも、民俗の立場から、今一度、地震に関する伝承文化をまとめておきたいと思う。
 地震の予兆に関して、ナマズが暴れると地震が起こると言われている。これは茨城県の鹿島神宮にある要石が、普段はナマズを押さえているが、手をゆるめると地震が起こるという伝説が江戸に広まり、鯰絵として絵画の主題になったり、文芸にも取り上げられて広まったものである。また、夜中にキジが鳴くと地震が来るというのも全国的に聞くことのできる予兆の言い伝えである。
 さて、実際に地震が発生した時に、かつては地震が止むようにと唱え言をしていたという。全国的に見ると、地震の時の唱え言としては「マンザイラク(万歳楽)」があり、江戸時代から、危険な時や驚いた時に唱える厄除けの言葉として有名である。八幡浜市では、地震の時に「コウ、コウ」と叫んだといい、また大洲市でも同じく「コウ、コウ」と言うと地震が早く止むとされる。感覚としては、落雷の時に「クワバラ、クワバラ」と唱えるようなものであろう。このクワバラは桑原のことで、菅原道真の所領の地名であり、道真が藤原氏により大宰府に左遷され、亡くなった後、都では度々落雷があったが、この桑原には一度も雷が落ちなかったという言い伝えから、雷の鳴る時には「クワバラ、クワバラ」と言うようになったと『夏山雑談』に記されている。この唱え言は謡曲「道成寺」など、歌舞伎や狂言の台詞にも登場し、一般に広まったものである。大洲市のことわざで「麻畑と桑畑に雷は落ちぬ」というが、桑の木はは比較的低いため、桑畑(桑原)には実際に雷が落ちる可能性が低いといえるのかもしれない。
 話は戻って、地震の時に「コウ、コウ」と叫ぶ事例は高知県にもある。これについては、坂本正夫氏が『とさのかぜ』十九号にて紹介している。高知県中部では「カア、カア」、土佐清水市や宿毛市、大月町などの高知県西部では「コウ、コウ」と言うらしい。また仁淀川上流の吾北村や池川町などの山村では、地震は犬を怖がるのでコーコー(来い来い)と犬を呼ぶ真似をすれば地震がやまると言われている。『諺語大辞典』には「地震ノ時ハカアカア、土佐の諺、地震の時は川を見よの意なりと云う」とある。坂本氏によると、地震が発生したら、落ち着いて川の水の状態や海水面の変化などをよく観察し、山崩れや津波の来襲に気を付けるようにという科学性に富んだことわざだというのである。
 八幡浜の「コウ、コウ」も「川、川」が訛ったものと思われるが、実際に地震が起こった場合は、冷静に周囲の状況を見て、行動することが大切だということを示唆しているのであろう。

2001/06/14 南海日日新聞掲載

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籌木(クソベラ)について

2001年06月10日 | 衣食住
上浮穴郡面河村に行った際に、籌木(ちゅうぎ)の話を聞いてみた。これは『面河村誌』にも少し紹介されており、気になっていた話題の一つだったからである。
そもそも面河ではトイレットペーパーを使用するようになったのは、終戦後の物資の不足が一段落したころだったという。紙でお尻を拭く行為は戦後からであるという話にも驚かされたが、それ以前に使っていた籌木の使い方がいまいち私はイメージがつかめず、この話をすることを少々嫌がる地元の老人に強引に聞いてみた。
当然、籌木とは用便(大便)の際に、尻をぬぐう木片で、またの名前を「落とし木」とか「掻木」と言っていたそうだ。幅は約3㎝、長さは約15㎝の薄い木片で、材はスギもしくはモミの木を使っていた。いずれも木の肌触りが良く、柾目の良い木材を、自分の手で割って作っていた。便所には、備え付けの木箱が置かれ、その中に籌木を何本も入れておき、用便が終わると、まずは木片の片面でおおまかな残り便を取り除き、そして、裏面で細かい残便を処理していた。木の肌触りは柔らかいので、痛いというわけではなかったらしい。用済みになった籌木は、別の木籠に入れておくことになっていた。直接便壺に入れてしまうと、後に便を肥料として使用する場合に、困るからだということである。用済みの籌木がたまったら、川に流しにいって処理をした。
籌木といえば、『餓鬼草紙』に描かれる排便風景の中で紹介されているが、このような用便処理方法が、約50年前まで日常的に行われていたのである。

2001年06月10日

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大洲の巨石文化

2001年06月10日 | 地域史

大洲市高山にメンヒルがあり、大洲の一種の観光名所になっている。かの鳥居龍蔵が「東洋一のメンヒルだ」と言ったという高さ4.75メートルの立石である。メンヒルの脇に大洲市教育委員会が設置した説明看板には、次のように書かれている。「大洲市指定史跡、高山ニシノミヤ巨石遺跡、昭和31年9月30日指定、先史時代の人々の手でこの地に遺したとされる巨石の中で代表的な立石である。 古来前面を仏とし背面を神として崇拝され特に目ぼのある者が祈願すれば霊験を得るとして、参詣する風習があり、その前面には積石の祭壇を設け今なお香華が供えられている。昔藩令により久米喜幸橋の石材に用いようと運び出し翌日橋をかけようとしたところ、この巨石が夜のうちに元の位置に坐っていたという民話もある。 昭和3年11月故鳥居龍蔵博士の来洲によってメンヒルとしては東洋一のものだろうと推称されて以来にわかに有名になった立石である。 平成3年1月吉日建立、大洲市教育委員会」
『大洲市誌』によると、「高山寺山(通称高山)の中腹標高280メートルのニシノミヤ高橋邸内に一個の巨石が立っている。地面から高さ4.75メートル、幅2.3メートル、厚さ66センチで、先端が丸くなった緑色片岩である。石の正面にあたるはるか遠方には、どちらも二等辺三角形の格好の良い神南山が左に、如法寺山(冨士山)が右に並んで見え、その真中が真東にあたり、天気の良い日にはこの山の向こうから赤い日の出が見られる。(中略)この石の地面下は様子はわかっていないが、おそらく二千数百年以前もの昔、祖先の人達が太陽や巨石を尊んだ素朴な信仰が、この巨石を立てさせたものと思われる。」とあり、位置的には、真東を向いて朝日を一面に受けるような形で立っているのである。
私が興味を抱いているのは、この立石がいつ、どのような目的で立てられたのかということではない。二千数百年前といえば、弥生時代にあたると思われるが、弥生時代の建立かどうかは考古学上でも立証されていないようで、今後の研究課題になっているようである。それよりも私は高山に訪れた際に、石鎚信仰の盛んなことを聞かされ、この立石にまつわる伝承も石鎚信仰の影響があるのではないかと勝手に推測したのである。というのも、立石のことを地元では「石仏」と呼んでいたようで、これは西園寺源透の著した『大洲地方巨石文化写真帳』(昭和初期成立、愛媛県立図書館蔵)にも、この「石仏」の名称で紹介されている。石の前面には五輪塔が一基あり、仏としての崇拝の厚いことがわかる。石鎚信仰については、高山に「お山踊り」という石鎚の御詠歌を唄いながらシデを持って地元の人が踊るという芸能がある。この歌詞の中に「前は神様、後ろは仏、参る心で常々見よれ」という文句があり、現在は立石は、前面が仏で、後面が神としているが、これは実は逆で、前面が神様、後面が仏ととらえられていたのではないかと勝手に推測してみた。それは、立石の前方には、神の山とされる神南山(かんなんざん:神奈備山が訛ったものと言われている)が位置し、後方には高山寺山、そして名刹金山出石寺がひかえているからである。この立石は石鎚の御詠歌にある文句を体現したものではないのか、というのが私の勝手な推測である。(では、この立石は、石鎚信仰がこの周辺に広まった江戸時代後期以降にたてられたのもの?という、混乱が生じてくるが・・・。)
そもそも、鳥居龍蔵が「東洋一のメンヒル」と発言したかどうかは、確認がとれない。鳥居は昭和3年11月に大洲に来て、大洲各地にある巨石遺物を調査している。この時にどういった調査をしたのか、よくわからないが、この鳥居の調査に触発されて、地元の郷土史研究者横田伝松、長山源雄はそれぞれ鳥居の調査直後の昭和4年と5年に『伊予史談』に大洲の巨石文化の考察を掲載している。ところが、この横田、長山の原稿を読むと、鳥居が調査した中で最も興味を持った対象は神南山の巨石群であったようで、高山の立石についてはほとんど触れられていない。高山のメンヒルについては、長山が「久米村高山の石仏と呼ぶ立石は、橋材にする為堀倒されたが、一夜のうちに原の通りになって居た」という一文があるのみである。横田、長山のいずれの原稿にも、鳥居が「東洋一のメンヒル」と評価したという内容は、一切出てこないのである。昭和47年発行の『大洲市誌』には、鳥居は東洋一と言ったと書かれているが、この発言の原典をつかむことができない。もしかすると、発言が一人歩きした可能性もある。高山のメンヒルは謎が多くて、厄介な資料だ。
ところで、大洲地方の各地にある巨石遺跡は、今ではメンヒル・立石やドルメンなどと呼ばれているが、『大洲地方巨石文化写真帳』によると、当時の巨石の呼称が何例か出ていたので、ここで紹介しておく。高山のメンヒルは「石仏」、五郎の立石は「山ノ神」もしくは「伊佐高権現」、神南山の「弥勒様」、「ドンビ岩」、冨士山の「座禅石」。これらはいずれも宗教的な色彩の強い名称である。謎の多いとされる大洲の巨石文化については、今後、当然、考古学的なアプローチがなされるべきであろうが、上記のように一種信仰の対象となっている場合が多く、宗教民俗学からのアプローチも必要なのかもしれない。

2001年06月10日

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実盛送りの諸相

2001年06月07日 | 年中行事

以前、西宇和郡三瓶町蔵貫地区の実盛送りを調査したことがある。平成7年7月2日(日)のことであった。この行事の次第は、7月1日午前に善福寺にて「実盛」の施餓鬼法要が行われ、午後に蔵貫村区長が「実盛」に見立てられた施餓鬼幡を受け取る。翌日2日10:00になると蔵貫村の辻に竹をたて、施餓鬼幡を吊るす。15:00には御旅所で蔵貫浦に引継ぎ、17:00頃に幡を海に流すというものであった。
 愛媛では実盛送りというと、東宇和郡城川町魚成のものが有名で、実盛人形を村送りにして、稲虫を祓うというものである。それと蔵貫の簡単な比較をしてみると次のようになる。

供養を行う寺:蔵貫は善福寺、魚成は宝泉寺
実盛と見なされるもの:蔵貫は幡、魚成は人形
実盛に対する供養:蔵貫は施餓鬼、魚成は念仏
実盛への供物:蔵貫は麦飯、魚成は銭、米、菓子を紙に包んだもの
実盛を送る場所:蔵貫は海、魚成は川の下流
実盛に対する信仰:蔵貫はなし、魚成はあり

大きな特徴としては、城川町の実盛送りで用いるような人形はなく、施餓鬼幡が「サネモリ」とされる点であり、また、「サネモリ」を念仏供養ではなく、施餓鬼供養によって送っている点である。
城川町では、「サネモリ」は「斎藤別当実盛入道居士」として仏格を得て信仰の対象となっているが、蔵貫地区においては、信仰対象ではなく、「餓鬼」(無縁の亡者)として認識されているという違いがある。ここからは、各地の実盛送りの中の仏教儀礼における「サネモリ」の扱いに関する調査を進めることによって、「サネモリ」が、「稲虫の祟り」や「餓鬼」等から、仏格を得て信仰の対象へと転化を見出すことのできるヒントになるのではいかと思えるのである。つまり、祓われるべき「稲虫」=[サネモリ」が信仰対象へ転換する契機である。それは死者が葬送儀礼を経て祖霊、祖先神へ昇華していく過程と同様に、稲虫も虫送り儀礼を経て「虫除けの神」等の信仰の対象になるということである。
祓われるべきものが、単に祓いの対象として排除されるもの、もしくは下等なものとして扱われる場合と、祓われるものが一種神格化して、逆に、それ自身が祓いを行う存在に昇格するという、日本の神の成り立ちを示唆してくれそうな事例であると思った次第。

2001年06月07日

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愛媛のカイツリ事例

2001年06月06日 | 年中行事
文化庁編『日本民俗地図』Ⅱ<年中行事2>昭和46年の「おとずれもの」(小正月の訪問者)によると、愛媛県内には全く報告例がみられない。他の四国3県、広島、大分の隣県には報告例が多いのであるが、愛媛県が分布図ではエアポケットになっている。これは、県内におとずれもの習俗が盛んではない、もしくは存在しないことを意味しているかというとそういうわけではない。南予地方を中心にカイツリという習俗があり、これは先年の四国民俗学会でも話題に上ったことである。私のメモの中に、愛媛のカイツリの事例が若干あるので、それを紹介しておきたい。

・名称、地名、行事日

・オカイツリ、中山町、正月14日
子供らが幼児を背負って「オカイツリに参りました」と言ってゼニサシを持って家々を廻り物を貰って歩く。(『県史民俗編下』)

・カイツリ、伊予市郡中付近
浜の青年がカイツリに来ていた。(『県史民俗編下』)

・カイツリ、南宇和郡、正月11日夜
若衆2人が一組になって、夜着を着るなど変装して家々を門付けして廻る。各家はそれを予期していて餅や銭を渡した。もし宵の口から戸締まりをして対応しない家があったりすると、ケチだと悪評をたてられ、悪戯されたりした。(『県史民俗編下』)

・カイツリ、津島町御槇
七軒の家から米や餅を貰ってきて、それを小豆粥(フクワカシ)にして食べると夏病みしないといっていた。(『県史民俗編下』)

・カイツリ、津島町岩淵
ゼニサシを作って、これを持って家々を訪問しホービキセン(ホービキは一種のくじ賭博。藁しべに銭を通しておいて、それをくじ引きしたもの)をもらった。(『県史民俗編下』)

・カイツリ、津島町下灘
子供らが手に手に竹棹を持ち、家の窓や門口から竹棹を差し入れ、その棹先で餅を釣り上げて帰る。(『県史民俗編下』)

・カイツリ、瀬戸町川之浜、節分
節分に子供らがカイツリと呼ばれる縁起物(フシの木を削って花型につくり、これを竹に刺し、その先に松の芯や松葉をさした一種の熊手)を作って親類に持参し、代わりにお菓子や銭を貰う。(『県史民俗編下』)

・カイツリ、川内町井内、1月
夜、子供が家々を廻って「かいかいかい」と言いながら戸の隙間から三、四寸の藁のこよりをさしこんで餅を貰う。(現存せず)

・オカユツリ、松野町目黒、正月14日
カッツリともいい、オヘンド(乞食)して歩く。昼間子供がゼニサシを二本なって、それを木師屋の作ったカシボンにのせて、「オカイツリに来た」といって村の各戸を廻る。来られた家では、その盆に米か餅をのせてやる。そしてこの米で16日の朝のトキノカユを炊いて食べる。(『宇和地帯の民俗』)

・オカユツリ、津島町御代川、正月14日
この粥を食べると夏病みしないという。(『宇和地帯の民俗』)

・オカユツリ、松野町上家地、正月14日
ワカシ(若衆)もこれに参加する。彼らは夜、女装したりして変装して廻る。そして集めた米、餅をその夜トマリヤドで炊いて食べる。娘もこれに参加した。(『宇和地帯の民俗』)

・オカユツリ、弓張、正月16日
オカユツリでもらってきた米で粥を作って食べる。

・オカユツリ、旧一本松村、正月14日
(旧一本松村教育委員会に写真あり)(『宇和地帯の民俗』)

・ホタルカケ、松野町上家地、正月14日夜
正月14日の夜、ワカイシが、新婚の家の前の麦藁あるいは米糠の俵で舟を作り、舳を家の方に向ける入船(縁起が良い)、その反対の出舟を作ったりした。(『宇和地帯の民俗』)

・ホータロクビリ、津島町、正月14日
厄年の人の家の前に、その家から薪を持ち出して作った。(『宇和地帯の民俗』)

・ホータロクビリ、津島町岩淵、正月14日
カイツリの待遇がまずい家への悪戯のこと。厄年のいる家へ青年が船をつくって持ちこんだ。(『県史民俗編下』)

・ホタルククリ、南予、正月14日
カイツリの待遇がまずい家への悪戯。好評の家には藁製の宝船を持込み祝福する。(『県史民俗編下』)

・ホタルバン、内海町平碆、正月14日
カイツリの悪戯の例 村の船2、3隻が山上にあげてあったり、寺の石の六地蔵が家の入口や娘の枕元にあったり、井戸水が汲めないようになっていたりなど。(『県史民俗編下』)

・ホタルカケ、広見町目黒、正月14日
新婚の家にホタルカケをしていた。(『県史民俗編下』)

2001年06月06日

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