今治市菊間町のお供馬は、加茂神社境内の馬場にて、馬に鞍や布団やさまざまな装飾具をつけて、幼児から中学生までの少年が乗り子(騎手)となって、鳥居近くからスタートして約300メートルの馬場を一気に走り込む行事である。馬を曳くのは口引とよばれる大人である。馬は丁重に扱われ、三重県の上げ馬神事のように興奮させたりする行為は見られない。なお、乗り子と口引は祭りの一週間前から毎日海に出て潮垢離をするといい、精進潔斎が求められる神事である。
お供馬が行われるのは、毎年10月第3日曜日(かつては10月10日、それ以前は10月20日)に行われる今治市菊間町浜の加茂神社の例大祭。お供馬とは、行事に参加した馬が、神輿の行列にお供してお旅所まで行くことからそのように呼ばれるが、愛媛県指定無形民俗文化財になった際に「お供馬の行事」という指定名称となり、それまでも「お供馬」の呼称はあったものの(昭和2年発行の『愛媛県に於ける特殊神事』に「御供馬」とある)、地元では「走り馬」とか「走り込み」が一般的に使われる語彙であった。対外的に観光行事としてPRする際には「お供馬」が用いられ、現在ではこれが一般名称となっている。
加茂神社のある菊間は、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の荘園「菊万荘」であった。時代は応永年間頃からであり、室町時代には同神社の競馬会の費用を出していた荘園である。県、市が発行する刊行物には、地元史料に明応4年(1495)「侍競馬」の記述があり、500年以上の歴史のある行事だと地元では認識されている。実際、今年のお供馬の際の神社前での紹介アナウンスも「600年の歴史」ということを強調している。現在でも上賀茂神社の競馬会には、「菊万荘」の名前の馬が出走するが、歴史的にも京都の競馬会と関係性が深い。競馬会の費用負担と、馬の供出を行っていたとされる。
お供馬の由来について具体的に述べると、明応4年(1495)の遍照院の古文書の中に「侍競馬」が出てくるといわれる。『菊間町誌』や平凡社『愛媛県の地名』にもその記述はあるが、実は原典、出典については明示されていない。
さまざまな刊行物に「侍競馬(さむらいけいば)」が引用されが、500年以上の歴史を有すると紹介されるが、この「侍競馬」が室町時代の同時代史料としては検証が必要かもしれないことは以前から確認しないといけないと注視していた。
菊間町誌537頁(1979年)をよく見てみると「遍照院の古文書に「明応4年侍競馬白石」の文字がある。」このように記述され、その古文書が明応4年に記されたものとは確定できない書き方になっている。後世に編纂された史料に「明応4年侍競馬白石」と書かれている可能性もある表現である。引用を重ねるうちに「明応4年」が独り歩きした可能性もあり、その由来、起源は、県の文化財として、また、将来、記録作成を行う場合、確認が必要である。
なお、明応4年の数年後の文亀元年の遍照院文書(愛媛県史にも掲載されている。遍照院は加茂神社の神宮寺)に、「加茂の馬場」の記述があって、西暦1500年頃には加茂神社に馬場があったことは確実性が高いといえる。ただし、そこで現在のような「お供馬」が行われたかどうかは定かではないし、「侍競馬」が「サムライ」(武士)が行っていた「競馬(けいば)」だと解釈するのも今一度考えなおさねばならない。由緒に関する確実な史料の検討。これはどの行事にも言えることであるが、案外、わかっているようでわかっていない。
ちなみに、菊間町誌や伊予史談会郷土古文書目録に紹介されている菊間の地元史料を拝見すると、天明8年に「馬場作り」との記述があり、これは祭りの前の竹垣づくりのことのようで、その頃には既にお供馬が行われた可能性があることと、天保7年8月に「競馬」の文字あった。また、文化13年に牛鬼(うしおに)の記事が確認できる。つまり、1700年代後半~1800年代前半には現在と同じような祭りだったと推察できる。それ以前は今後の課題であり、単に「中世の明応4年からの500年の歴史のあるお供馬」であるかどうかいま一度検討を要する。
そして菊間町誌にも紹介されている遍照院文書を遍照院さんのご協力で先日拝見させていただく機会があり、閲覧、確認してみると、菊間のお供馬の「侍競馬」の記述の原典(出処)は文政9(1826)年7月21日遍照院鎮守賀茂大明神勧請謂書であった。末尾に「三永十郎左衛門記端ニ見、法佛山寛応記」とあった。「寛応」は遍照院住職で、宝暦2年10月卒、1730年頃~1752年<菊間町誌589頁より>に住職であった。それを文政9年7月21日に実順が修復した記録である。(この史料は2002年に刊行された『種の貴布禰さん―愛媛県菊間町種貴布禰神社史』に既に紹介されていました。)明応4年にお供馬が行われていたかは史料上では実証はできないが、一応、「明応4年侍競馬」の出処は確認することができた。500年の歴史というのは歴史的事実としてただちに実証はできないが、「明応から続く歴史があると言われている」という伝承レベルでの話は江戸時代後期にまで遡る可能性がある。
お供馬が行われるのは、毎年10月第3日曜日(かつては10月10日、それ以前は10月20日)に行われる今治市菊間町浜の加茂神社の例大祭。お供馬とは、行事に参加した馬が、神輿の行列にお供してお旅所まで行くことからそのように呼ばれるが、愛媛県指定無形民俗文化財になった際に「お供馬の行事」という指定名称となり、それまでも「お供馬」の呼称はあったものの(昭和2年発行の『愛媛県に於ける特殊神事』に「御供馬」とある)、地元では「走り馬」とか「走り込み」が一般的に使われる語彙であった。対外的に観光行事としてPRする際には「お供馬」が用いられ、現在ではこれが一般名称となっている。
加茂神社のある菊間は、京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)の荘園「菊万荘」であった。時代は応永年間頃からであり、室町時代には同神社の競馬会の費用を出していた荘園である。県、市が発行する刊行物には、地元史料に明応4年(1495)「侍競馬」の記述があり、500年以上の歴史のある行事だと地元では認識されている。実際、今年のお供馬の際の神社前での紹介アナウンスも「600年の歴史」ということを強調している。現在でも上賀茂神社の競馬会には、「菊万荘」の名前の馬が出走するが、歴史的にも京都の競馬会と関係性が深い。競馬会の費用負担と、馬の供出を行っていたとされる。
お供馬の由来について具体的に述べると、明応4年(1495)の遍照院の古文書の中に「侍競馬」が出てくるといわれる。『菊間町誌』や平凡社『愛媛県の地名』にもその記述はあるが、実は原典、出典については明示されていない。
さまざまな刊行物に「侍競馬(さむらいけいば)」が引用されが、500年以上の歴史を有すると紹介されるが、この「侍競馬」が室町時代の同時代史料としては検証が必要かもしれないことは以前から確認しないといけないと注視していた。
菊間町誌537頁(1979年)をよく見てみると「遍照院の古文書に「明応4年侍競馬白石」の文字がある。」このように記述され、その古文書が明応4年に記されたものとは確定できない書き方になっている。後世に編纂された史料に「明応4年侍競馬白石」と書かれている可能性もある表現である。引用を重ねるうちに「明応4年」が独り歩きした可能性もあり、その由来、起源は、県の文化財として、また、将来、記録作成を行う場合、確認が必要である。
なお、明応4年の数年後の文亀元年の遍照院文書(愛媛県史にも掲載されている。遍照院は加茂神社の神宮寺)に、「加茂の馬場」の記述があって、西暦1500年頃には加茂神社に馬場があったことは確実性が高いといえる。ただし、そこで現在のような「お供馬」が行われたかどうかは定かではないし、「侍競馬」が「サムライ」(武士)が行っていた「競馬(けいば)」だと解釈するのも今一度考えなおさねばならない。由緒に関する確実な史料の検討。これはどの行事にも言えることであるが、案外、わかっているようでわかっていない。
ちなみに、菊間町誌や伊予史談会郷土古文書目録に紹介されている菊間の地元史料を拝見すると、天明8年に「馬場作り」との記述があり、これは祭りの前の竹垣づくりのことのようで、その頃には既にお供馬が行われた可能性があることと、天保7年8月に「競馬」の文字あった。また、文化13年に牛鬼(うしおに)の記事が確認できる。つまり、1700年代後半~1800年代前半には現在と同じような祭りだったと推察できる。それ以前は今後の課題であり、単に「中世の明応4年からの500年の歴史のあるお供馬」であるかどうかいま一度検討を要する。
そして菊間町誌にも紹介されている遍照院文書を遍照院さんのご協力で先日拝見させていただく機会があり、閲覧、確認してみると、菊間のお供馬の「侍競馬」の記述の原典(出処)は文政9(1826)年7月21日遍照院鎮守賀茂大明神勧請謂書であった。末尾に「三永十郎左衛門記端ニ見、法佛山寛応記」とあった。「寛応」は遍照院住職で、宝暦2年10月卒、1730年頃~1752年<菊間町誌589頁より>に住職であった。それを文政9年7月21日に実順が修復した記録である。(この史料は2002年に刊行された『種の貴布禰さん―愛媛県菊間町種貴布禰神社史』に既に紹介されていました。)明応4年にお供馬が行われていたかは史料上では実証はできないが、一応、「明応4年侍競馬」の出処は確認することができた。500年の歴史というのは歴史的事実としてただちに実証はできないが、「明応から続く歴史があると言われている」という伝承レベルでの話は江戸時代後期にまで遡る可能性がある。