愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

南予の郷土料理「ふくめん」

2009年03月20日 | 衣食住
南予地方の郷土料理に「ふくめん」があります。この語源について考えてみました。

農文協の『聞き書愛媛の食事』によると、「こんにゃくとそぼろの料理」。「白身魚を蒸し、白身だけをとりだし、ふきんにつつんでもみながら水にさらして脂をとる。弱火で煎り、そぼろにして・・・」とあります。

語源は「こんやくがそぼろで覆面しているのでふくめんといい、「福面」の佳字をあてる」とあるが、これが正しいとは思えません。

祝事の料理なので「福」をもたらすコンニャク「麺」で、「福麺」となったと考えるのが妥当でしょうが、そんな簡単なことではないようです。

『日本国語大辞典』(小学館)に「ふくめ」という項目があり、「魚料理の一種。干した鯛、かます、鮫などの肉を細かくむしって、すりつぶしたもの。〔料理物語-20〕」とあります。

この出典となっている『料理物語』は、寛永20年(1643)に刊行された書物で、江戸時代初期の代表的な料理書です。

「ふくめ」が、今から400年前の江戸時代初期に「魚の身をすりつぶしたもの」の意味で使われていたことは確かです。そして、南予の「ふくめん」は魚のそぼろであり、類似点があります。

つまり、南予海岸部の郷土料理である「ふくめん」は、もともと「魚のそぼろ」が主役の料理だったのではないか。これに様々な品が加わっていき、後にコンニャク麺が加わっていったのではないか?と推察できます。

こんにゃくを主とする郷土料理「ふくめん」が山間部ではなく、海岸部にあるのも不思議だと思っていましたが、魚料理の「ふくめ」が原点だとすれば、納得がいきます。


削りかまぼこ

2008年07月06日 | 衣食住
八幡浜の削りかまぼこ。魚肉練り製品の加工品。かまぼこを干して削ったもの。

6月にみのもんたのテレビ番組で取り上げられていたらしい。県外から注文が八幡浜の蒲鉾店に殺到しているようで、品薄になっているとのこと。数日前、地元のスーパーでも売切れていたみたい。

我が家にもあったので、写真に撮ってみたが、主にはおにぎりにまぶして食べるが、ごはんのふりかけ代わりでもおいしい。また、うどんの具として「じゃこ天」と一緒に入れるのも美味。

ただ、これは愛媛県全域の常識かと思いきや、そうではない。

八幡浜生まれの私にはごく当たり前の食品だが、中予地方出身の妻にとっては、日常ではなかった。

パンの値上げで、ふりかけやお茶漬けのりが売れ行き好調と聞くが、この削りかまぼこも、ご飯食に合うので、しばらく注目食材として売れ行き好調が続くかもしれない。

蚊帳にまつわる民俗

2006年10月01日 | 衣食住
蚊帳にまつわる民俗   06年10月1日


蚊帳は、古い文献には「蚊屋」と記されていることが多い。

材料は麻が一般的。

蚊帳は奈良時代頃からあるが、庶民に普及したのは江戸時代。

奈良時代に編纂された「日本書紀」に蚊帳の記述あり。

蚊帳の産地で有名なのは近江(滋賀県)の八幡。

二人用の蚊帳は4反の布が必要なので、とても高価。嫁入り道具の一つでもあった。

「好色一代男」に江戸時代の蚊帳の挿絵あり。

蚊帳にまつわる禁忌(タブー)
 蚊帳は一日で縫い上げるもので、近所の人にも手伝ってもらう。
 妊娠中の人に蚊帳に入ってもらうと縁起が良い。
 蚊帳は七日盆(七夕のこと)に洗うもの。
 家で死者がでた際には、蚊帳は四方の一つをはずして三方で吊るす。
  ←だから、普段は三方で吊るしてはいけない。
 蚊帳の吊り始めは、吉日を選ぶ。
 5月に蚊帳を吊り始めると幽霊がでる。
 雷がなっている時は、蚊帳に入ると良い。
 9月になったら蚊帳を吊ってはいけない。
  ←9月に吊るなら、雁(かり)の絵を描いて貼る。
   ←秋に、蚊帳の中で雁の声を聞くと災いから逃れることができるという
    俗信から。

南予地方と蚊帳
 「蚊帳待ち」の習俗・・・・旧暦6月23日には蚊帳を吊ってはいけない。
  ←江戸時代初期に、宇和島の和霊神社の祭神、山家清兵衛が殺害されたのが
   6月23日で、蚊帳の中で斬られて殺されたので、南予地方では、6月2
   3日には、いくら蚊が出ていようとも、蚊帳を吊らずに我慢して寝る、と
   いう慣習がある。

火打ち石のとれる「火打」

2006年08月27日 | 衣食住
内海村(現愛南町)油袋(ゆたい)地区の小字に「火打」というところがある。そこには、学名「放散虫チャート」の岩層がある。チャートは、昔は鉄片と打ち合って発火する火打ち道具として使われたもの。内海村内でもこの場所にしか見られない岩層であり、昭和60年に内海村指定文化財となっている。火打ち石が採れる場所の地名が「火打」。

ちなみに、私も講座等で火打ち道具を使っているが、火打ち石はメノウ。火口は、艾(もぐさ)を消し炭(蒸し炭)にして発火させている。

籌木(クソベラ)について

2001年06月10日 | 衣食住
上浮穴郡面河村に行った際に、籌木(ちゅうぎ)の話を聞いてみた。これは『面河村誌』にも少し紹介されており、気になっていた話題の一つだったからである。
そもそも面河ではトイレットペーパーを使用するようになったのは、終戦後の物資の不足が一段落したころだったという。紙でお尻を拭く行為は戦後からであるという話にも驚かされたが、それ以前に使っていた籌木の使い方がいまいち私はイメージがつかめず、この話をすることを少々嫌がる地元の老人に強引に聞いてみた。
当然、籌木とは用便(大便)の際に、尻をぬぐう木片で、またの名前を「落とし木」とか「掻木」と言っていたそうだ。幅は約3㎝、長さは約15㎝の薄い木片で、材はスギもしくはモミの木を使っていた。いずれも木の肌触りが良く、柾目の良い木材を、自分の手で割って作っていた。便所には、備え付けの木箱が置かれ、その中に籌木を何本も入れておき、用便が終わると、まずは木片の片面でおおまかな残り便を取り除き、そして、裏面で細かい残便を処理していた。木の肌触りは柔らかいので、痛いというわけではなかったらしい。用済みになった籌木は、別の木籠に入れておくことになっていた。直接便壺に入れてしまうと、後に便を肥料として使用する場合に、困るからだということである。用済みの籌木がたまったら、川に流しにいって処理をした。
籌木といえば、『餓鬼草紙』に描かれる排便風景の中で紹介されているが、このような用便処理方法が、約50年前まで日常的に行われていたのである。

2001年06月10日

縄文文化と「縄文的文化」

2001年04月03日 | 衣食住
縄文文化が今ブームであることは、以前にも述べたが、カシやシイ等のドングリ類や根茎類の植物食に関する民俗が、考古学の世界でも縄文時代から連綿と続く文化であると見なされ、多くの報告がある。渡辺誠の『縄文時代の植物食』(雄山閣、昭和50年)をはじめとする一連の成果や橋口尚武「調理」(『縄文文化の研究2 生業』雄山閣、平成6年)などである。
私も、四国山地を調査していて、トチやシイ、彼岸花などに関する食文化や焼畑の聞き取りをしているとき、「これは縄文文化の名残りなのだな。現代にも縄文文化が息づいているんだ!」と感銘にひたりながら話をうかがってしまう。
ところが、冷静に考えてみると、これらの民俗が、縄文時代に遡るというようにどのように証明できるのか、疑問にも思ってしまう。稲作文化のように、研究が進んで、弥生時代から連綿と続くことが実証されているのとは対照的に、縄文時代にまで歴史を実際にたどっていくことは困難である。よって、これらの民俗をもって「縄文文化の残存」と断定することは、民俗学の立場からはできないような気がするのである。
そこで、私は逃げの一手ではあるが、これらの民俗を勝手ながら「縄文的文化」と名付けてしまった。
近年、発展史観にもとづく縄文研究の覆しを試み、縄文文化が実は豊かであったと叫ばれているが、こういった主張も一つの史観に過ぎないとも思ってしまう。つまり、高度経済成長期を背景とした時代には、時代とともに歴史は発展するという見方が前提にあり、縄文時代は弥生時代よりも遅れた時代であったとの認識が当然のようにあった。これが近年、社会情勢が変わり、経済成長を前提とせず、むしろ、無意識のうちに環境問題との絡みで縄文時代を再評価する流れが出てきているのではないか。縄文文化における野生植物利用などの研究が進むのも、これが現代に連綿と続くと主張するのも、環境問題などの今の時代背景に基づいた史観の一つであるといえるのではないだろうか。
民俗学の立場からは、篠原徹が『海と山の民俗自然誌』(吉川弘文館、平成7年)の中で次のように述べている。
「野生植物利用の採集技術・調理技術の民俗だけが一気に時代を遡ることができるとどのように証明できるのであろうか。少なくとも中世以降の野生生物利用(堅果類のアク抜き技術など)に東日本・西日本の差異があることを認めたとしてもそれがどうして縄文時代以来連綿として続いたものの差異と検証できようか。しかも焼畑をする山村として照葉樹林文化論からいえばまさに縄文時代の残存した地域といういうのは標高のかなり高い地点(椎葉・祖谷・椿山・白峰・北上山地など)みある。そこは照葉樹林帯というより落葉広葉樹帯に近く、わずかな縄文遺跡の存在はあっても密度は低地や低山帯に比べて少ない。そして人々の伝承や文書によればせいぜい中世に人が住みついたにすぎないところが多い。焼畑文化が稲作文化に先行する農耕文化とすれば、そしてそれが列島外からの文化の伝播であるとするならば当然低地の縄文時代の遺跡は密度ばかりでなく、遺跡の性格の上でもそれが焼畑を示すものでなければならないが、それは考古学的には必ずしも妥当であるとは言えない。」
私は今後も、ドングリ類や根茎類の食文化についての聞き取りを行っていくつもりだが、「縄文文化の残存」という一種の夢を抱きつつも、やはりこれは「縄文的文化」の域を出ず、これを「縄文文化」と断定するには研究の発展を待たなければいけないと考えながら調査をしていこうと思っている。

2001年04月03日

「シャク」という方言

2001年04月02日 | 衣食住
愛媛県南予地方では、うるち米のことを「シャク」と呼ぶ。この方言の分布について調べてみたが、不思議な分布をしており、少々驚かされた。徳川宗賢編『日本の方言地図』(中公新書)にその分布図が載せられているのだが、「シャク」は愛媛県および九州南半から沖縄にかけての地域の方言なのだ。私は沖縄・南九州・愛媛とつながる方言の分布域については、これまで類例を知らなかった。「シャク」の方言を私が実際に確認している事例としては、愛媛県では八幡浜市、南宇和郡一本松町、大分県では北海部郡佐賀関町があり、実際には愛媛県南予地方から大分県、南九州、沖縄にわたる分布と限定できそうである。
『日本の方言地図』に「シャクの類は南方系のことばであるようだがその由来は不明である」と述べられているように、由来・語源についてはよくわからない。ただ、「南方系」ということが気にかかる。私は愛媛県の中でも宇和海に面した南予地方は南方的要素の強い民俗が存在するのではないかという仮説を抱いている。例えば闘牛(牛のツキアイ)などがそうであるが、瀬戸内海沿岸地域とは異なる文化領域が南予にはあると考えているのである。そのため、「シャク」の方言の分布には強い興味を惹かれてしまう。うるち米という生産・生業に関する方言であるため、これは沖縄・南九州との稲作文化の関連も視野に入れて解明すべき問題ではないだろうか。
ただし、由来・語源を追求していきたいと思うものの、未だ手がかりはつかめていない。

2001年04月02日

学芸員の自己内省-民俗展示に思うこと-

2001年02月23日 | 衣食住
 古き良き時代のモノを展示して昔を懐かしむ。懐古主義や一種のロマン主義的に民俗を捉えようとする展示は少なくない。学芸員がそれを意識する、しないに関わらず観覧者はそういった立場で展示を見ることになる。これは民俗展示の一般的な観覧態度であり、民俗が時代とともに伝承されなくなり、消滅しつつあるという考え方に立った見方である。
 民俗展示がそういった側面だけではないことを、平成一一年四月二三日から六月一三日まで愛媛県歴史文化博物館で開催されたテーマ展「裂織りの美・技・こころ-佐田岬半島の仕事着-」の準備に関わることにより実感することができたので、今回、それを書き記しておきたい。その実感とは、民俗展示と地域文化の変容との関わりについてである。
 このテーマ展は、愛媛県歴史文化博物館が収集してきた、佐田岬半島で昭和四〇年代まで使用されていた裂織りの仕事着を中心に紹介した展示である(註1)。裂織りの仕事着は、愛媛では佐田岬半島以外ほとんど確認できない貴重な資料であるにも関わらず、地元佐田岬では、かつて当たり前に使用していたものであって、佐田岬以外には見られないものだという認識は地元の人々には全くなかった。当然、資料保存とか伝承活動を行うといった意識もなく、使用されなくなって捨てられるべき野良着として扱われていたのである。我々は、テーマ展を開催して、この裂織りが全国的にも珍しいものであることを、地元の方々に知っていただきたいと思い、展示を計画した。 展示準備にあたり、博物館館民俗研究科では佐田岬半島へ聞取り調査に頻繁に赴いたが、その際に、現地佐田岬では「裂織り」という言葉を聞くことはなかった。地元呼称としては存在しない言葉だったのである。展示タイトルを決定する際にも、展示担当者の間で、現地で聞くことのできない「裂織り」をタイトルに入れるのではなく、現地名である「ツヅレ」、「オリコ」を優先すべき等の議論があった。しかし、全国で一般的に知られている「裂織り」の方が、人を惹きつけることができると判断し、展示用ポスターにもツヅレの写真を掲載し、これを「裂織り」として広く宣伝したのである。
 案の定、展示閉幕後、地元佐田岬においても「裂織り」の呼称を聞くことができるようになった(特に公的機関の職員や、地元の地域おこしサークルの方々から)。また、佐田岬の先端にある三崎町内では、裂織りが地元文化のアイデンティティを表すものとして、裂織りのロビー展が開催されたとも聞いている。また、平成一二年九月には伊方町でも町見郷土館主催で「ツヅレの現在・過去・未来」という裂織りの展示が行われた。愛媛県歴史文化博物館での展示を契機として、現地の方々が「ツヅレ」を客体化して捉え、「裂織り」という現地名を誕生させたのと同時に、捨てられかけた野良着が一変して、地域文化を象徴するモノに変容することになったのである。展示前には、我々も意図していたとはいえ、その現実を目の当たりにすると、現実に対する責任を痛感することになった。
 民俗は消滅するだけではなく、変容しつつ存続していくという立場に立つのであれば、その変容・存続に、マスコミや観光客と並んで博物館の民俗展示も関与しているのである。展示することで、地元の方々が足元の民俗を見つめ直すきっかけとなるからである。そして消滅しつつある民俗は存続する可能性を持つが、存続と同時に変容を伴う。その変容に対しての責任も展示の際には自覚しておくことが必要なのだろう。
 呼称の新たなる定着は博物館活動による「裂織り」に限ったことではない。例えば常設展示室に展示してある「茶堂」(城川町周辺にある一間四方の茅葺きの小堂)を例に挙げると、「茶堂」という呼称はもともと地元では一般名称として用いられたものではなかったようで、その契機は昭和五三年に文化庁により「伊予の茶堂の習俗」として「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されたことであると言われている。「茶堂」の文化財選択を受けた城川町ではこれを町のシンボルとして町挙げての保存活動に取り組んでいる。「茶堂」が現在では地域文化の象徴として完全に定着しているのである。そして愛媛県歴史文化博物館でも常設展示室にてこれを「茶堂」として紹介している。文化財行政により保存されつつ変容していった例と言えよう。
 このように、博物館活動や文化財行政に限らず、民俗調査や研究を行う上では、民俗が動態的なものであることを認識すべきで、我々学芸員も民俗の変容の渦中にいる存在であるといった「自己の客体化」も必要なのかもしれない。この展示を通してそういったことを考えてみた。


(1)『資料目録第4集 佐田岬半島の仕事着(裂織り)』愛媛県歴史文化博物館、一九九九年
 今村賢司「愛媛県佐田岬半島の裂織りの仕事着」『月刊染織α』二二一、一九九九年

(補注)
上記は「季刊歴博だより」19号(愛媛県歴史文化博物館発行、1999年9月)に掲載した文章を一部改変したものである。

2001年02月23日


古代のあしぎぬ-正倉院展より-

2000年05月21日 | 衣食住
 私の勤務する愛媛県歴史文化博物館で、5月20日に「よみがえる正倉院宝物-再現された天平の技-」展が開幕した。この展示は、日本文化の源流として古代の技術を今に伝える正倉院宝物の復元模造品約70点を中心とするもの。展示資料は戦前に帝室技芸員、戦後は人間国宝作家らが制作した物で、いずれも正倉院宝物の制作当初の姿を模している(現在は、宮内庁正倉院事務所と奈良国立博物館に保管されている)。
 天平時代の雰囲気を味わうことができるので、一見の価値あり!

 伊予国関係の資料としては、「伊豫国調白あしぎぬ」(「あしぎぬ」の漢字がATOKの文字パレットで探しても見つからない・・・。いとへんに「施」の旁の字です。)が展示されている。正倉院に伝わる調あしぎぬのうちで、国名が判明しているのは、常陸、武蔵、丹後、伯耆、伊予、土佐の6か国であるが、各国それぞれにあしぎぬの織密度や経糸、横糸の太さが違っている。規格化されていたわけではないようだ。天平18(746)年に献納されたもので、「伊予国越智郡石井郷戸主葛木部龍調あしぎぬ六丈」の墨書があり、上下に国印が押されている。(手許にあった『愛媛県編年史』を確認すると、「上方に国印、下方に郡印が押されている」とあるが、どういったことだろう。単なる『編年史』の記載ミスだろうか? 気になるなあ・・・。)
 それにしても、「あしぎぬ」は平織りの絹で、「悪し絹」から派生した語と言うが、実物を見るととても悪い(粗い)絹だとは思えない。古代の技術の高さを実感することができます。
 この展示は、6月18日(日)までです。

2000年05月21日

明浜町の「うど貝」

2000年05月17日 | 衣食住

 先日、東宇和郡明浜町を散策したのだが、平成8年に、明浜の町おこし活動をやっている方々から「うど貝」という珍味を食べさせてもらったことをふと思い出した。
 うど貝とは何物ぞ?
 当時、朋友岡崎直司氏から「明浜で、今度、うど貝という珍しい貝を食べる機会を得たので来てみんか」と誘われたもののどんな貝なのか分けわからず・・・。
 手許にあった広辞苑を引いても「うど貝」なんて載ってない。
 「独活の大木」の諺どおり身体大きく役立たずの貝を想像し、石灰岩に寄生するという情報はもらっていたので、日吉村出身の地質学者大野作太郎が石灰岩の中から発見したミーコセラス貝(アンモナイト)の姿も頭をかすめた。
「そんな物食べておいしいのだろうか・・・。」半信半疑、私は参加してみたのである。 うど貝とは石灰岩の中に自ら穴をつくり、そこに寄生する貝であった。すまし汁にして食べてみたが、これが美味。明浜はかつて石灰基地であったため、他の地方では食べない(もしくは石灰岩が近くにないから生息しない)うど貝を、食する文化を発達させたのだろう。(明浜の町おこしの素材として活用できるか?)
 うど貝を食べた数日後、「明浜うど会通信」なるものが送られてきた。浜の人の行動の速さには驚かされたが、驚いてばかりもいられない。うど貝を食べさせてもらった以上、私も何かやらなくてはと思い、「うど」の語源について調べてみたのである。
 「うど」とは、「うつ(空)」が変化した語のようである。『続無名抄』という江戸時代の随筆に米が空っぽになることが「コメウトニナル」と表現されている。現在の方言を調べてみると、山口県祝島、徳島県美馬郡、愛媛県、高知県幡多郡、大分県など、四国から九州にかけての地域では洞穴のことを「うど」と呼んでいる。愛媛県中島町では「うどあな」ともいっている。東海地方になると、うどは川岸のえぐれているところをさすらしい(日本国語大辞典参照)。これら古語、方言をかんがみ、「うど貝」を漢字で表現するとすれば「空貝」となろうか。
 「明浜うど会」も漢字で書くと「空会」。しかし、それでは味気ない。私なりに「うど」を掛けていうなら、「有道」に掛けてみたい。これは曹洞宗の道元禅師が著わした『正法眼蔵』によく出てくる言葉である。仏道修行に励んで怠らないことを指すが、進むべき道を持つことが大切であることも意味している。つまり、進むべき道有りて修行すれば自然とさとりの道に近づくことができるということである。
 「明浜うど会」(今も活動しているか不明だが)は発足して間もないまさに「空」の会であろうが、「空なれども進むべき道は有り」、様々な町おこし活動を通して中身を充実させていく、これが明浜の「うどの精神」とでも言えようか。

2000年05月17日

鏝絵(こてえ)について

2000年05月10日 | 衣食住
 五十崎町の山本茂慎氏から、鏝絵(こてえ)に関する資料を送っていただいた。内子町・五十崎町の鏝絵分布マップである。
 実は、現在、愛媛では「えひめ鏝絵の会」の会員により、鏝絵の調査が進められている。(鏝絵は地域の隠れた文化財だということで注目されつつある。大分県ほどでは無いけれど・・・。)
 そもそも鏝絵とは、民家の母屋や土蔵の壁、戸袋などに、龍や恵比寿、大黒などを、漆喰をもってレリーフしたもの(図像学的に非常に面白い!)。江戸時代末期に入江長八によって作られたのが起源といわれている。明治時代になり、その弟子たちや多くの左官によって全国に広まった(といわれている)。入江長八とは、「伊豆の長八」とも呼ばれ、1815年に伊豆の松崎町(現静岡県)生まれ。江戸の商家等に彩色をもった鏝絵を多く製作している。鏝絵は長八が江戸日本橋茅場町の薬師堂建立にあたり、柱に漆喰で龍を彫刻したことにより広まったといわれている。明治10年に明治政府が主催した「内国勧業博覧会」に出品した鏝絵が花紋賞牌を受賞。新聞のニュースとなって長八の名が全国へ広まった。長八の作品については、現在、伊豆の長八美術館等にて保存、展示されている。
 この鏝絵の分布としては全国各地に散在している。最も多く確認されているのが大分県で、700点程。504点確認されている愛媛県はそれに次ぐ多さである(えひめ鏝絵の会調査、平成11年3月現在。ここ一年でさらに発見されているので600点くらいか。このままいけば、大分の700点を越えるか?)。

全国的な特徴を大まかにまとめてみると以下のとおりになる。
気仙左官(岩手県)
「高さ約1メートルの丸物の唐獅子など、立体彫刻的。花弁一枚一枚を造り、組合せ牡丹にするような丁寧な仕事」
小杉左官(富山県)
「全長8メートルに渡る壁面から約15センチ浮き出た双龍は彫刻的。色付や、細かい描き込みは繊細で絵画的」
石州左官(島根県)
「入母屋屋根妻側一面に装飾。下絵を用いる。目玉にガラス。彫刻を埋め込んだような奉納額は立体的」
東予の左官(愛媛)
「梁隠しを兼ねた小規模な鏝絵。彫り込みは浅い。円形の梁隠しの中いっぱいに表現する」
安心院・日出の左官「多彩で鮮やかである。繊細な鏝絵から簡単に仕上げた鏝絵まで多様にみられる。彫り込みは少ない」
(参考:石井達也「鏝絵の地域的分布と左官技術の展開2」『左官教室』No.513)
 昨年3月に佐渡の相川郷土館を訪れた。そこには土蔵の扉に巨大なムカデの鏝絵が施されていた。実に大がかりなもので、富山といい、日本海側の鏝絵の装飾の派手さには驚かされる。愛媛や大分は総じて小振りな鏝絵が多いようだ。

 この鏝絵は、建築様式に変化により、白壁とともに消えようとしている。
 左官職人の技と芸術が、見向きもされないまま、消滅しようとしているのだ。
 この鏝絵については、大分の藤田洋三氏、東大名誉教授の村松貞次郎氏によって、評価がなされ、その影響で愛媛でも岡崎直司氏、越智公行氏、そして今回資料を送っていただいた山本氏らが発掘、調査活動を行っているが、大分県の安心院や日出のように行政も絡んで保存活動が展開できれば理想的。(唯一の例は、東予市の「雲龍」の鏝絵。近藤誠さん達の尽力のおかげです。)

 それにしても、大分の藤田さんが鏝絵の写真集を出す準備をしていると言ってたけれど、もう刊行されたのだろうか。早く見てみたいものです。

(参考までに私の方で以前まとめた鏝絵関係文献目録を掲載しておきます。)

2000年05月10日

鏝絵関係文献目録

2000年05月10日 | 衣食住

鏝絵に関する文献目録(稿)
『消えゆく左官職人の技 鏝絵』、1996年、藤田洋三、 小学館
「宇佐・院内・安心院地域にみる鏝絵」長田明彦・藤田洋三・貞包博幸、大分大学教育学部
写真集『鏝絵』(刊行予定)藤田洋三、石風社
『季刊銀花』49号 「豊の国の鏝絵」、1982年、澤渡歩、文化出版局
『季刊銀花』64号 「サフラン酒の蔵」、1985年、藤森照信、文化出版局
『季刊銀花』114 夏の号 特集 鏝絵「文明開花」、1998年、文化出版局
『日出の鏝絵』 「日出町史」所収、1986年、藤田洋三、日出町史
『地域政策・鏝絵連合王国』、1993年、村松貞次郎、自治省
『特集左官読本 漆喰って何だ』 建築知識5月号、1989年
『鏝(KOTE)-伊豆長八と新宿の左官たち-』、1996年、新宿区立新宿歴史博物館
『伊豆長八』、1980年(復刻)、結城素名、伊豆長八作品保存会刊、芸艸社
『伊豆長八作品集 上・下巻』、1992年、松崎町振興公社
日本の『創造力』御一新の光と影、1992年、日本放送出版協会
『名工伊豆長八』1958年、白鳥金次郎、伊豆長八作品保存会
「松崎に現存する伊豆長八の作風について」、菅原篤、明治大学
「稲荷神社本殿の彫刻・作者伊豆長八について」高橋直司
『開かずの間の冒険』1991年、荒保宏、平凡社
『左官教室』21 「古きをたずねて新しきを知る」、1958年、池戸庄次郎、黒潮社
『左官教室』142 「こて絵彫刻工法」、1968年、池戸庄次郎、黒潮社
『左官教室』442 特集/大分鏝絵シンポジウム 庶民の文化「鏝絵」に光!、1993年、黒潮社
『左官教室』466 鏝絵通信その21「京都の鏝絵-鏝絵探訪2-」、1995年、今井明、黒潮社
『左官教室』471 特集/大分の鏝絵「宇佐・院内・安心院地域にみる鏝絵」、1995年、長田明彦・藤田洋三・貞包博幸、黒潮社
『左官教室』477 鏝絵通信その25「安心院町鏝絵シンポジウム」、1993年、沢畑亨、黒潮社
『左官教室』479 鏝絵通信その27「石州左官をおっかけて井沼田桝市(その2)」 、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』479 鏝絵通信その28「石州左官児島嘉六について」、1996年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』482 鏝絵通信その30「ナンバン漆喰と土佐漆喰のルーツ」、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』483 鏝絵通信その31「宇佐左官と石灰」、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』484 鏝絵通信その32「こて絵の世界展」、1996年、中島忠雄、黒潮社
『左官教室』484 鏝絵通信その33「若桜街道・鏝絵観察記」、1996年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』486 鏝絵通信その33「石灰を食べる話」、1996年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』487 鏝絵案内 全国「鏝絵の会」及び鏝絵資料(1)、1997年、黒潮社
『左官教室』488 鏝絵通信その34「終わりか始まりか?」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』489 鏝絵通信その36「美作路(津山近郊)巡検同行記」、1997年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』489 鏝絵通信その37「赤崎町タック谷鏝絵紀行」、1997年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』490 鏝絵通信その38「東北に鏝絵を求めて」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』491 特集/鏝絵の保存について 「金太郎のお引っ越し」顛末記、1997年、岡崎直司、黒潮社
『左官教室』491 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』492 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方2」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』493 鏝絵通信その39「初めてのヨーロッパ」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』495 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方3」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』495 鏝絵通信その41「東北に鏝絵を求めて2」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』496 「鏝絵の技法と鏝絵にみる保存の在り方3」、1997年、佐藤和佳子、黒潮社
『左官教室』496 鏝絵通信その43「鏝絵は地霊の刻印だ」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』498 特集/「大黒様の里-奈義町の鏝絵-」、1997年、黒潮社
『左官教室』498 「奈義町は岡山の鏝絵王国」、1997年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』498 鏝絵通信その45「エコミュージアムin津山」、1997年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』500 鏝絵通信その47「ロマネスクな鏝絵を求めて」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』501 「左官職人の技-高橋興一の鏝絵-」、1998年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』501 「日野鏝絵紀行」、1998年、上田勝俊、黒潮社
『左官教室』501 鏝絵通信その48「INAXエクサイトヒルは不滅だ!」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』503 特集日本のロマネスク2 鏝絵、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』503 鏝絵通信その50「オ石灰探偵団四国路を行く!パート1高知編」 1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』505 鏝絵通信52「オ石灰探偵団四国路を行く!パート3愛媛今治編」 1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』506 「土壁に泥の鏝絵-驚くべき土壁のいのち-」1998年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』506 鏝絵通信その53「再び長野を訪れる」1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』507 「左官職人の技・伊予の鏝絵写真展」1998年、岡崎直司、黒潮社
『左官教室』507 「こうして鏝絵は残った」1998年、近藤誠、黒潮社
『左官教室』507 鏝絵通信その54「再々東北へ」1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』508 鏝絵の地域的分布と左官技術の展開、1998年、石井達也、黒潮社
『左官教室』508 鏝絵通信その55「群馬三国街道を歩く その1」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』509 鏝絵通信その55「群馬三国街道を歩く その2」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』510 「漁村の土蔵と鏝絵-丹後の舟屋集落にみる土蔵と鏝絵-」、1998年、赤松壽郎、黒潮社
『左官教室』510 鏝絵通信その57「書を捨てよ田舎を歩こう」、1998年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』512 「『招福辟邪』鏝絵」、1999年、岡沢まどか、黒潮社
『左官教室』512 鏝絵通信その59「瀬戸内鏝絵連合王国」、1999年、藤田洋三、黒潮社
『左官教室』513 鏝絵案内 全国「鏝絵の会」及び鏝絵資料(2)、 石井達也、黒潮社
『小杉左官 竹内源三』 富山県小杉町史、1991年、田村京子、富山県小杉町
『小杉左官鏝絵の名人竹内源造』1994年、小杉町史編纂室
「嘉飯山も鏝絵」『嘉飯山郷土研究会会報』8号、1994年、中島忠雄・山本浩一郎
「庶民の美9 漆喰絵」『芸術生活』250、1970年、高橋正雄、芸術生活社
「思楽老コテばなし」斎藤隆介『職人衆昔ばなし』1967年、池戸庄次郎、文芸春秋社
『鏝なみはいけん石州左官の技』大田市役所
「蔵飾り」上田勝俊 五彩庵文庫(自家版、鳥取市)
「石州左官の技写真展」町並み交流センター(島根県大田市)
「大黒様のさと-奈義町の鏝絵-」赤松壽郎(自家版、岡山県御津町)
「御津町の鏝絵」赤松壽郎(自家版、岡山県御津町)
「愛媛県東予地域鏝絵と左官職人たち」越智公行(自家版、愛媛県今治市)
「東予市鏝絵地図-愛媛県東予市楠河・庄内・吉岡地区にみる鏝絵調査報告書-」1997年、愛媛県立東予工業高等学校建築科「鏝絵研究会」
「白壁に残る左官職人芸 鏝絵」『アトラス』2、1997年、越智公行 (有)インデクス内・アトラス編集部
「酒蔵の意匠」『アトラス』10、1999年、岡崎直司、(有)インデクス内・アトラス編集部
『月刊土佐』32号 特集漆喰妻飾り、1986年、和田書房
『熊本の鏝絵』1992年、石井清喜、長野工業50年史
『職人文化の世界』1987年、大分県宇佐風土記の丘歴史民俗資料館
『常設展示 豊の国・おおいたの歴史と文化』1998年、大分県立歴史博物館
『まちのデザイン 歩き目デスは見た!』1997年、岡崎直司、創風社出版
『デザイン発見・壁絵のある家』1~4、1988~9年、松味利郎 京都書院

鏝絵関連文献
『日本壁の研究』1942年、川上邦基、水土文庫
『日本壁の研究』1943年、川上邦基、竜吟社
『日本壁の話』1980年、山田幸一、鹿島出版会
『ものと人間の文化史 45 壁』1981年、山田幸一、法政大学出版局
『石灰群書』1980年、涌井荘吉、日本石灰協会
『土佐石灰業史』1975年、織田清綱、津久見石灰協業組合
『上方左官物語』1989年、大阪府左官工業組合
『左官職昔ばなし(遠州浜松松浦左官一家の覚書)』1976年、松浦伊喜三私家版
『佐渡相川の歴史・資料集八 「相川の民俗工」』1986年
『気仙大工気仙かべ技術写真帖/匠達への誘い』1981年、平山憲治、大船渡職業訓練協会
『気仙大工の歴史とその人物群像』1982年、平山憲治、大船渡職業訓練協会創立30周年史
『 工伝』1975年、須田昌平、文寿堂印刷所
『沓亀』伊藤菊三郎(覚え書き)
『基礎知識5月号』1989年、建築知識社
『日本壁の研究』1954年、中村伸、相模書房
『左官技術』1971年、鈴木忠五郎、彰国社
『日本建築学会標準仕様書・同解説』15・左官工事、1975年、日本建築学会(編)、技報堂
『左官工事』1981年、小俣一夫、井上書院
『日左連』日本左官業組合連合会
『日本の近代建築史 上』藤森照信、岩波書店
『明治を伝えた手』1969年、朝日新聞社
『レンズは見た-映像四十年の軌跡-』、1992年、新田好
『津久見石灰史』1975年、織田清氏綱、津久見石灰協業組合
『馬路教育史』1978年、馬路教育史編纂委員会
『三陸のむかしがたり 第18集』1997年、三陸老人クラブ連合会
『INAXBOOKLET 日本の壁』 Vol5、1985年

2000年05月10日

愛媛の「縄文」文化

2000年05月08日 | 衣食住

 最近、「縄文」がブームになっている(ような気がする)。
 これまで、縄文時代から弥生時代、そして歴史時代への移行を論じるにあたっては、採集狩猟経済から生産経済へ発展するといった進化論的な考えがそこにあった。エンゲルスの野蛮から未開へ、そして文明へという発展法則に照らし合わせて、縄文(イコール野蛮もしくは未開下位)、弥生文化(未開中位)、そしてその後の文化(文明)を見てきた感がある。学校で教わる歴史の教科書にもその視点ははっきり見えるし、研究者の間でもそうである(あった)。
 近年、東北地方において相次いで高度な文化を持つ縄文遺跡が発掘され、縄文史観がくつがえされており、また、東北文化研究センター(赤坂憲雄氏)の提唱する「東北学」は「ひとつの日本からいくつもの日本」と称して、東北をベースに民族史研究を行うことで、これまでの西日本(畿内)中心史観を揺さぶろうとしている。
 さて、ここ愛媛でも、「縄文」を視野に入れた新たな研究成果が生まれている。近藤日出男氏の食文化史の研究である。先日刊行された『四国食べ物民俗学』(アトラス出版)は、近藤氏が四国山地をフィールドワークし、ドングリやトチ、彼岸花、トウキビなどの食文化が「縄文」から連綿と続くものであることを紹介している。これまで、愛媛の民俗研究では「弥生」は見えても「縄文」までは視野に入っていなかったと思う。その意味で近藤氏の成果は画期的である。
 これまで発展法則に基づいた縄文観ではあったが、現在にも縄文文化は身近に息づいていることを目の当たりにすると歴史も違ったように見えてくる。 2000年05月08日

郷土料理さつまの由来

1999年10月21日 | 衣食住
 「さつま」は八幡浜をはじめ、南予地方一帯の郷土料理として知られている。白身の焼き魚の身をほぐし、白味噌、麦味噌を好みに合わせてすり鉢ですり合わせ、これに線切りにしたこんにゃく等を加え、麦飯の上にかけて食べる料理である。
 この「さつま」は南予独特の料理かというと、実はそうではない。東予地方の海岸部つまり燧灘沿岸部にもあれば、山間部の上浮穴郡久万町にもある(註1)。ただし、久万町のさつまには海の魚ではなく、ウグイやアメノウオといった川魚を用いている。また、南予地方と豊後水道を隔てて位置する大分県南海部郡の米水津村にも、郷土料理としてさつまがある。私も、平成七年に米水津村に民俗調査に行った際、調査先でご馳走になったのであるが、名称、作り方、味ともに八幡浜のさつまと同じだったため驚いたことがある。案外、さつまの分布域は広いようである。
 さて、このさつまの名称の由来については、これまでの民俗学関係や郷土料理関係の研究を見ても紹介されていないようである。八幡浜でこれまで聞いたところでは、由来について諸説あるが、はっきりとしたことはわからない。
 ①薩摩国(鹿児島県)から伝わったからという説。
 ②さつまを御飯にかける際に、御飯を箸で十字に切っておくと、きれいにかけることができる。この、茶碗に十字の模様が、薩摩の島津家の家紋である「丸に十字」に似ていることからついたという説。
 ③夫が妻を助けて作る、つまり妻を補佐するという意味の「佐妻」からついたという説。
 残念ながら、①、②、③のいずれも客観的な裏付けはなく、信憑性は低い。薩摩国と関係があるのであれば、料理のさつまのことを「薩摩」と表記することがあってもよいのだろうが、そういった例は南予においても、南予以外においても確認することができない。また、発音のアクセントについても料理の「さつま」と国名の「薩摩」とでは異なっており、これらは無関係と考える方が適当である。②、③の説は、本来的なものではなく、後から考え出され説明手段であろう。このように、八幡浜地方の郷土料理さつまの由来は謎が多く、今後、さらに情報をあつめた上で判断しなければいけない問題といえよう。

註1 『聞き書 愛媛の食事』農山漁村文化協会 一九八八年

1999年10月21日掲載