愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

戦時期の戦争関係祭祀と地域社会1

2009年02月18日 | 信仰・宗教
1 戦争と神社祭祀
 宗教研究においては、教団・教義・儀礼・信者の諸要素の関連を見ていく必要があるが、戦前の神社神道においては、教団は国家と結びついた神社界であり、教義は神道教義であり、儀礼は神事・祭式であり、信者は氏子さらには国民と捉えた上で、それぞれの絡みを分析する必要がある。これまでの国家神道に関する研究では、制度史など国家からの視点での成果は多いが、実際に行われた戦争祭祀や、戦時中の氏子(国民)の生活との関連にまで踏み込んだものは少ない。
 まず、戦争と神社祭祀を考える上では、当時の神社観を把握しておく必要がある。これまでの多くの論考で紹介されている資料であるが、文部省発行の『国体の本義』(昭和12年5月)に記載された文章が、昭和12年当時の国家による神社観をうかがい知る上で参考となる。
 「神社に斎き祀る神は、皇祖皇宗を始め奉り、氏族の祖の命以下、皇運扶翼の大業に奉仕した神霊である。この神社の祭祀は、我が国民の生命を培ひ、その精神の本となるものである。氏神の祭に於て報本反始の精神の発露があり、これに基づいて氏人の団欒があり、又御輿を担いで渡御に仕へる鎮守の祭礼に於て、氏子の和合、村々の平和がある。かくて神社は国民の郷土生活の中心ともなる。更に国家の祝祭日には国民の日の丸の国旗を掲揚して、国家的敬虔の心を一にする。而してすべての神社奉斎は、究極に於て、天皇が皇祖皇宗に奉仕し給ふところに帰一するのであって、ここに我が国の敬神の根本が存する」
 この『国体の本義』が著されたのが昭和12年5月であることは興味深く、この時期に「国民の郷土生活の中心」であり「我が国の敬神の根本」として神社が位置づけられ、強調されている。『国体の本義』が刊行される以前と以後では、国家による神社観が同一のものと扱うことは避けるべきで、当然、国民の神社観についても、この時期以降、変遷が見られる可能性がある。
 また、「氏子の和合、村々の平和」と記されているが、国民の神社観を把握する際に、氏子の問題についても時代的変遷が見られることも前提として考えておかねばならない。氏子制度については「明治2年5月に、公議所において『氏子改』の採用が議に上り、同年9月集議院においてその検討が進められ、翌年6月にはキリスト教徒の多いとされた九州諸藩に『氏子調仮規則』が施行され、翌4年には戸籍法と『氏子調規則』『郷社規則』が一斉に発布され、全国民あまねく氏子として戸長と神社とに届け出、『氏子札』と通称される守札を受けて所持すべきものと定められた。同時に神社に勤める神官は、氏子帳を神社に備えつけ、出生や氏子入りの届け出のたびにこれを登載し、毎年11月に管轄庁へ提出すべきものとされた。(中略)しかし社会体制の近代化に即応した戸籍制度を運用していく上で、この氏子改制度は妨げになる観を呈したため、明治6年5月には廃された。したがって氏子の制度を積極的に国民組織として運営することはやめたものの、政府は依然氏子の慣行を法制上認めて、風教上はこれを大いに助長して行く方策を採った。すなわち同15年に内務省が出した達にも、『各町村鎮座氏神ノ儀ハ、其土地ニ就キ従来一定ノ区域有之儀ニ付、各自信否ニ任セ猥ニ去就スベキモノニ無之』としている。氏子は江戸時代からひきつづき一定の地域のものとして扱われた。」(『国史大辞典』吉川弘文館より)と、以上のように説明される。歴史学や民俗学・神道学において近代、特に明治中期以降の氏子制度に触れた研究成果があるのか充分承知していないが、昭和10年代においては氏子制度に関する史料を散見することができる。まずは、『神道研究』第二巻第一号(昭和16年)の亀田信章「昭和十五年神道界総観」の記述である。亀田は次のように述べている。
 「神祇界五十年の懸案であつた神祇に関する特別官衙設置の問題も、内務省神社局を神祇院に昇格拡充する内務省案が第七十五議会を通過して(二月)、愈七月一日から開設されることになつた(中略)斯くて大政翼賛運動の構想も具体化し、国内新体制建設の力強き第一歩が一億臣民の協力によつて踏み出された時、同運動の基底ともなるべき隣組、部落常会をして神社中心のものたらしめねばならぬとの声が、單り斯界のみならず有識者の間に起つた この声は、氏子制度の確立こそ国内新体制組織に魂を与へるものであるとの叫びと関連して真摯に研究もされ具体化されもして、神社を中心に隣保組織を結束せしめ、神職が之を指導するといふことは神職の対時局策の重点として取上げられるに至つたのである。(中略)茲に於て隣保組織の根底を神社中心とするといふ必然性は新体制組織と睨め合せて先づ従来混沌としてゐた氏子制度の確立を以て喫緊の解答とする問題を提起するに至つた」
 亀田は、神祇院の設置とともに、大政翼賛運動の基底は神社を中心に隣組、部落常会とすべきことを主張し、国内新体制に魂を与える方策として「氏子制度の確立」を強調している。氏子制度は、明治初期から昭和15年段階には、国家制度としては「従来混沌としてゐた」ことがうかがえ、昭和15~16年にかけては氏子制度に関する論議が高まった時期といえる。神社を支える根底である氏子の制度についても、時代的変遷が見られ、国家・国民の神社観は、この時期に変化したと推察できる。なお、神祇院関係の資料目録である神社本庁調査部編『神祇院関係資料目録』(1978年、早稲田大学図書館蔵、昭和20年に神祇院考証官で、戦後神社本庁に勤めた岡田米男の資料目録)を眺めてみても、「氏子制度中改善整備ヲ要スル事項ニ対スル各都道府県意見(神社主務課長事務打合会)」(昭和16年)、「府県社以下神社ノ氏子制度ニ関スル問題」(昭和16年)、「氏子制度ニ関スル調査(全国神職会)」(昭和16年)、「氏子崇敬者ニ関スル法規」(昭和16年)など氏子制度に関する史料が見られ、昭和16年に神祇院の方針で国民が神社の氏子として把握・管理されようとしていたことがわかる。(実際に氏子制度・法規がどのように施行されていったのかは現在確認中。)
 戦争と神社に関する一般的な説明としては、「日中戦争が開始されると神社や神職は戦勝祈願や祈祷などの活動も行った。国民精神総動員運動が組織されると、神社への集団参拝の励行など国民の精神的統合のために神道・神社は以前にもまして重要な役割を果たすようになった。こうしたなかで、昭和15年、神社局を改組して神祇院が設立された。これまでの神社局が神社・神職の管掌を主たる業務としていたのに対して、神祇院は国体論を背景にした国民教化(敬神思想の普及)の役割も期待されて発足した。これに対応して全国神職会も統制と教化機能を強めた大日本神祇会に改組された。」(『日本小百科 神道』東京堂出版、2002年より)とされる。戦争の開始及び神社局から神祇院への改組が、国家・国民の神社観の変化の契機と説明されがちであるが、この点は昭和10年代において年次ごとに、国家・神社・教義・儀礼・氏子(国民)それぞれの関係を視野に入れた、さらなる詳細な分析が必要かと思われる。ここでは、昭和12年、昭和16年に国民の神社観が大きく変化する契機があったことを仮説として提示しておきたい。

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