大山祇神社のある大三島は、現在、大三島町と上浦町にわかれる。大三島町には、大山祇神社をはじめ、多くの三島信仰に関わる社寺、史跡が残るが、上浦町側にも三島信仰に関わる史跡を確認することができる。特に、横殿社とよばれる上浦町瀬戸にある社は、大三島で最初に大山祇神社が祀られた場所として、地元の人から篤く信仰されている。『三島宮御鎮座本縁』によれば、「三十三代<崇峻天皇事>己酉二年依神託、大山積皇大神、従播磨国、伊予国小千郡鼻繰瀬戸嶋遷之小千益躬崇祭之、但木枝鏡掛令祭之云々、三十四代豊御食炊屋姫天皇<推古御事>端政二甲寅年、依勅命、初而三島瀬戸浜、大山積御社造立給横殿宮申則今此旧跡存、四十二代文武天皇御宇大宝元辛丑年、小千玉澄、奉勅命、横殿宮同嶋乾方遷辺礒浜、此所悪神在為災、依之玉澄五龍王南山頂鎮座、此時礒辺大蛇有万物惑呑人、此蛇乾方飛去所蛇嶋云」とあり、大山積神(大山祇神社では祭神を大山「積」神と表記している。)は、まず崇峻天皇の時代に大三島の南西部に位置する上浦町瀬戸に祀られて、大宝元年に辺礒の浜(現在の大三島町宮浦)に遷宮したとされている。これが歴史的事実がどうかは不明である。実際、大山祇神社が発行している『大山祇神社略誌』では、神社はもともと神体山である鷲ヶ頭山(かつて「神野山」とも呼ばれていた。)を磐座として拝していたのであり、この山を望むことのできない瀬戸を大山祇神社の創祀地とするのは、『三島宮御鎮座本縁』の記述に無理があるのではないかと記している。現在、神社の祭である産須奈祭と瀬戸の横殿宮は関係していないなど、大山祇神社祭祀とは切り離されている。しかし、瀬戸の地元の人達は、横殿社を「もとみや」と呼び、神社創祀の地として信じて疑わない。瀬戸には、横殿社の他に「みたらしの井戸」といって、大山祇神社の神饌水として使用されていた井戸も残っている。大山祇神社の創祀の歴史については、いまだ不明な点が多いが、この上浦町瀬戸の伝承は無視できないものと思うのである。
2000年10月09日