愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

「よもだ」の話

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
 八幡浜地方には 「よもだ」という独特の方言がある。常識に対して文句言う者(「文句たれ」と地元では言うが。)、言わなくてもよいことを言ってしまう者、筋道の外れたことを言う者、行う者、これが「よもだ」の意味するところである。 調べてみると、この方言は八幡浜だけではなく、中、四国一帯に聞くことができる。ただし、地域によってニュアンスは異なる。大三島町、菊間町、砥部町、面河村など、越智郡から中予地方にかけては「文句たれ」の意味はなく、「なまけ者」や「不精者」の意で用いられている。『日本国語大辞典』(小学館)によると、香川県や岡山県では、はっきりしないさま、ぐずぐずしているという意味の方言で「よもよも」が紹介されている。岡山県児島では「ぐずぐずせずに、早く行きなさい」を「よもよもせずに早う行け」という。徳島県では酒に酔っぱらって言いがかりをつけることを「よもくれる」という。「よもさく」という方言は、山口県大島では、のろま、鈍い者を指している。
 これらに共通するのは「よも」である。この言葉はおそらく「四方山話(よもやまばなし)」ともいうように「四方」つまり「いろんな」という意味であろう。
 このように考えると、「よもだ」とは四方八方いろんなことを言って、結局筋道が通っていないことを言う人ということになる。つまり、八幡浜人が集団で論議している時に、四方八方喋ってしまい、周囲からは「文句たれ」と思われてしまう。そして「よもだ」と見なされるのである。そこには八幡浜の常識や慣習が前提として存在し、そこから外れていることが「よもだ」とも言える。これこそ「よもだ」の真実なのではなかろうか。
 「よもだ」に対しては、それを心底嫌ったり、罪悪的に扱う感覚は地元では見られない。一種、南宇和郡でよく言われる「とっぽさく」(おおげさなことを言う者)に通じるところがある。しかし「よもだ」に「おおげさ」の意味はない。やはり、語源は「四方(いろんな)のことを言う者」が転化して派生した、独特の方言なのだろう。いろんなことを言うことは、決して悪いことではない。周囲が少々迷惑する程度である。
 八幡浜という土地柄の雰囲気、慣習について、それを享受することができず、違ったことを言ったり、行動したりすると「よもだ言うな」と言われてしまうのである。このように、八幡浜の常識、慣習から逸脱する者を指した言葉とするなら、「よもだ」は八幡浜人以外の感覚を持ち合わせた、グローバルな人間のこと指しているのかもしれない。また、我々八幡浜人も他の土地に行くと、その土地の常識に馴染めず、「よもだ」になってしまう可能性もあるのである。

1999年10月21日掲載


唐獅子の分布と歴史

1999年10月21日 | 八幡浜民俗誌
八幡浜地方の秋祭の主役の一つに唐獅子(獅子舞)があるnq舞は県下全域に見られるが、東中南予それぞれに特徴があり、八幡浜地方は当然、南予型に分類することができる・型の特徴は、名称がカラシシ、もしくはアラジシ(南宇和郡)と呼ばれ、獅子の中に青年二人が入って、華麗な衣装を身につけた少年の打つ太鼓によって舞われるものである。特に八幡浜市、西宇和郡、大洲市、長浜町に多く伝承され、南宇和郡の海岸部にも見られる。中予地方の獅子舞は、南予と同じく二人立ちではあるが、緩急激しく頭を振り、太鼓のリズムも南予に比べて早いのが特徴であるq供が獅子をあやす事もない圏地方には東予市周辺にムカデ獅子といって、ユタンの中に青年数名が入り、獅子の体を横に大きく広げた獅子が多く伝承されており、また、今治市周辺には継獅子と呼ばれ、青年が基壇となり、その肩上に獅子頭を冠った子供が乗る曲芸的な獅子舞があるS般を眺めてみると、東中予に比べて、南予地方の獅子舞はテンポが緩やかで、曲芸性も見られず、温和な印象を受ける。
 さて、八幡浜市内において現在、唐獅子を伝承している地区は、五反田、片山町、日土町梶谷岡、舌間、川名津、松柏、古町の七箇所である。芸態は各地区とも殆ど同一で、起源は同じと思われる。しかし、八幡浜の唐獅子がいつ頃始まったのかは、史料が見あたらないので不明である。しかし、三瓶町朝立では、唐獅子を明治十六年に五反田から伝習したという口伝があり、それ以前には存在していたと思われる。ところが、当の五反田では、三瓶町朝立に伝えたという話は確認できず、逆に三瓶町から日土方面に伝わった唐獅子を五反田が習ったと言い、また、川舞から伝わったとも言われ、伝承が錯綜している。梶谷岡と松柏の唐獅子も、百三十年前に川舞から伝わったと言われ、八幡浜においては明治時代初期頃に始まっていたと推測できるbr>  ただし、五反田を例に挙げると、戦後間もなくから唐獅子の奉納は途絶え、昭和四十年頃まで中断していた時期があった。それを復活させたのは、地元の青年団組織であり、地元の祭りの活性化を意図していたという・A青年団だけでは長期にわたる継承は困難で、昭和五十年頃に「五反田唐獅子保存会」を結成して、現在、その会員により継承されている。このように、同じ唐獅子と言っても、それを支える伝承母体は、時代とともに変化しているのである。

1999年10月21日掲載