月のカケラと君の声

大好きな役者さん吉岡秀隆さんのこと、
日々の出来事などを綴っています。

吉岡刑事物語・その42 / 窓枠の青空・14

2010年02月03日 | 小説 吉岡刑事物語




「筒井先生っ、お願いします!」

当直室から初療室に駆け込んでいった瞬間、
看護士の切羽詰った叫び声が飛んできた。さっと視線を当てた部屋の中央には、
救急隊員によって運ばれてきたストレッチャーが一台、その上には、
自殺を図って除草剤を飲んだもののあまりの苦痛に怖くなり、
「死にたくない、助けてくれ」と瀕死の状態で自ら救急車を呼んだ20代半ばの男性が、
意識のない状態で横たわっていた。筒井は瞬時の速さで時間を計っていく。
119番コールから患者が院内に搬送されるまでの時間経過は約50分。
急性毒物中毒患者に胃洗浄が効果を成すタイムリミットは一時間。
筒井は心電図のモニターをさっとチェックしたあと、

「胃洗浄します、生食!」

半ばパニック状態に陥っている新米の看護士に冷静に指示を下し、
患者の身体を左下側に向け直してから吐しゃ物のこびりついた口に
気管内チューブを経口挿管して生理食塩水で胃の内部を素早く洗浄した。

「活性炭用意して!」

続けて看護士に指示を飛ばしつつ、土気色に変色した患者の顔から
モニターへと筒井が視線を移したその瞬間、心電図の波形がフラットになった。

「カウンターショック!」

即座に心臓マッサージに切り替えた筒井は看護士に向って叫び、
慌てて除細動器を取りに走る看護士の足音が初療室内に響いていく。

死ぬなよ、まだやることが沢山あるだろう、生きたいだろう? 

心の中で患者に語りかけながら筒井は心臓マッサージを繰り返した。
全力で胸部を圧迫しながら心電図のモニターを再度チェックする。
フラットのままだ。
筒井は更に手首に力を込めながらストレッチャーの上に再び視線を戻した。
そこで、体全体の動きが止まった。
そこに横たわっているのは、吉岡だった。
吉岡がそこに眠っていた。
眠っているようにみえた。
濡れそぼった白いシャツを着て、その左肩から指先までが何故なのか、
真っ赤な紅色に染まっている。

「・・・ヒデ?」

不可思議な光景に唖然としたまま、筒井は吉岡に呼びかけた。
返事はない。

「ヒデ?」

吉岡は眠ったままでいる。

「おい、ヒデ、」

筒井は両手を伸ばして吉岡の肩を揺らした。
吉岡は瞳を開かない。

「起きろよ、ヒデ」

照明灯の光に照らされた吉岡のほの白い顔は、揺さぶられるごとに、
ゆらり、ゆらり、と左右に力なく揺れていく。

「起きろっていってるんだ」

言いようのない不安が、筒井の足元を掬うように這い上がってくる。
筒井は吉岡の両肩を更に強く揺らした。

「起きろよ、ヒデ、ふざけんなよ、起きろっていって・・」

「筒井先生!」

背後で誰かの叫び声がして、筒井は後方に振り返った。
先程とは別の看護士が悲痛な顔つきで筒井を見つめている。

「血圧測定できません」

意味が飲み込めずに筒井は再びストレッチャーの上へと視線を戻した。
吉岡が深い眠りに落ちている。
心電図のモニターがその頭の先で無機質な線を平坦に描いていた。
不可解な表情を浮かべたまま、筒井は視線を元に戻して、
吉岡の顔を見つめ直した。

眠っているんだよな、ヒデ、そうだろ?

吉岡は応えない。

眠ってるんだろ? 

子供の午睡を髣髴させるような無垢な顔で、
吉岡は安らかに目を閉じつづけている。
筒井はその顔をじっと見つめ続けた。

起きないなら俺が起こしてやるよ。もう起きろ。

筒井の両手は無意識のうちに吉岡に心臓マッサージを施し始めていた。

起きろよ、ヒデ、起きろ。

視界の端に心電図のモニターがチラついている。
筒井はありったけの力を込めて吉岡の胸部を押し続けた。

起きろって言ってるんだ、ヒデ、起きろよ。

眠ったままの吉岡に向かって、筒井は言葉を投げかけていく。

目を覚ませよ、ヒデ。

周りで看護士たちが何か叫んでいるようだった。
筒井は構わず心臓マッサージをしつづける。

起きてくれよ・・・

全力で胸部圧迫をしつづける筒井の額に、いつしか玉の汗が浮かんでいた。

覚えてるだろ、高校の野球部の合宿のとき、いつもおはようって
起こしてくれてたじゃないか、俺のこと。あの時みたいに言えばいいんだ、
おはようって。簡単なことだろう? 頼むよ、ヒデ、目を開けてくれ・・・

縋るように見つめる筒井の視線の下で、吉岡は目を瞑ったまま、
遠くやわらかな距離を静謐に保っている。

なにやってんだよ、ヒデ・・・

汗なのか涙なのかわからない玉の滴が筒井の頬に零れ落ちていった。

起きるんだ、ヒデ・・・

満身の力で心臓マッサージを繰り返している筒井の手首の下で、
ボキ、と肋骨の折れる音がした。見かねた誰かが横から止めに入り、
筒井はその手を思い切り横に振り払った。

「カウンターショック! 除細動器持ってきて!」

無我夢中で筒井は叫んだ。

「何やってるんだ、早く除細動器持ってきて!」

戻ってくるんだ、ヒデ、目を覚ませ、帰ってこい!

(もういいよ)

ふいにやわらかな声がして背後に振り返った筒井の目線の先に、
吉岡が佇んでいた。
見慣れたブルーのチェックのネルシャツとジーンズに身を包んで、
すこしとぼけたような笑顔を向けている。
ざらついていた周囲の雑景が、
すっと無音の中に立ち消えていった。
筒井は目の前に立っている吉岡の姿を茫然と眺めながら何度か瞬きをし、
ややしてから身体を向け戻して再びストレッチャーの上に視線を戻した。
そこにもやはり吉岡がいる。
深く、静かな、眠りの底に落ちている。
状況を把握できぬまま、しばらくその寝顔をぼんやりと見つめていた筒井は、
やがてゆっくりと後方に身を回した。

(もういいんだよ)

吉岡が、やさしく笑う。

(ありがとう)

やさしく笑って、

(もう充分だよ)

そしてそっと頷いた。

「・・・なにが・・・もういいんだよ・・・ヒデ?」

立ちすくんでいる筒井の喉の奥から、
言葉となった気持ちがやっと掠れ出てきた。

「充分なわけないだろう・・・」

穏やかな微笑みを浮かべた吉岡の瞳に、
ふっと切なげな翳がよぎっていく。

「そんなわけないだろう・・・ないだろう、ヒデ・・」

(筒井、)

「行かせないぞ、俺は」

筒井は我に返ったようにはっきりと吉岡の言葉を遮り、
そして両の拳を固く握り締めた。

「お前を向こう側になんて渡さないからな」

意を固めた表情でぐっと見つめ返した筒井を、
吉岡はただそっと静かに見つめているだけだった。
泉のように澄徹として、月の光のように慈悲深い眼差しを向けたその姿は、
とても静かだった。
物静かに透き通っていて、そして、
とても遠かった。

「ヒデ、俺は、」

筒井は吉岡へと一歩足を踏み出した。その瞬間、
背後からガシっと誰かに右腕を掴まれた。

「見捨てないでくれ・・・」

驚いてストレッチャーに振り返った筒井の顔を、
自殺未遂の救急患者が取りすがるような表情で見上げていた。
さっきまでそこに眠っていた吉岡の姿はいつの間にか、
また元の男性患者へとすり替わっていた。

「助けてくれよ・・・死にたくないんだよ・・・」

筒井の腕をきつく片手で握り締めながら、
自殺未遂を図ったその患者は懇願の言葉を吐き続けた。

「見捨てないでくれよ・・・あんた医者なんだろ・・・助けて・・・」

義務感と焦燥感の渦に巻き込まれながら、
筒井は後方の吉岡へと振り返った。
しかしそこにはもう、
誰の姿もなかった。
ほの暗く長い廊下がぼんやりと、
初療室のドアの向こうにひっそりと続いているだけだった。

ヒデ!

背後から患者に腕を掴まれながら筒井は暗闇に向って叫んだ。

ヒデ!!

必死の叫び声は、薄暗い廊下へと手ごたえもなく吸い込まれていく。

行かないでくれ・・・

「ヒデ!!!」

自分の叫び声とともに筒井は布団の上に撥ね起きた。
部屋の窓の障子が、真新しい朝日を白く吸い込んでいる。
朝食の準備をしているらしい食器の重ね合う音が、
古い旅館の廊下の奥から微かに流れ聞こえていた。

夢だったんだ・・・

寝汗でぐっしょりとなったTシャツの首元を片手で引き伸ばして新鮮な空気を入れながら、
筒井は左横に敷かれた布団に目を向けた。そこに眠っているはずの吉岡の姿はなく、
その一つ向こう側に敷かれた布団の上で萩原がぐっすりと眠りに入っていた。
筒井は咄嗟に布団から飛び上がって寝ている萩原を踏み越しながら
入り口のドアへとつづく仕切り襖を勢いよく開け広げた。
目線の先に吉岡が立っていた。
三和土を上がったすぐの上がり框に、まるでずっとその場にいたかのように
すくっと佇んでいる。
早朝の散歩にでも出掛けていたのか、
パーカーの上にネルシャツを重ね着したその姿からは、
うっすらと朝霧の気配が漂っていた。

「どこいってたんだよ、こんなに朝早く。驚かせるなよ」

安堵のため息をつきながら筒井は言って、
それからふと吉岡の顔をまじまじと見つめ返した。
おはよう、といつもなら笑って言い返すはずの吉岡は、
今朝に限って黙ったままその場に佇んでいる。
風のささやきに耳を傾けているかのような表情で、
ただそっと静かに筒井の顔を見つめていた。

「ヒデ、」

筒井は呼びかけた。吉岡は表情を変えない。

「寒いだろ、早く部屋に入れよ」

吉岡の顔に、ふっと何かに気付いたような表情が浮かんで、
その口がわずかに開きかけた時、ゴボっと大量の血がそこから溢れ出てきた。
慌てて口を塞いだ吉岡の指の隙間から、真っ赤な鮮血がとめどもなく零れ落ちてくる。

「ヒデ!」

ふわりと前方に倒れかかった吉岡の身体を駆け寄った筒井が抱きかかえた。

「ハギっ、救急車!!!」

筒井の叫び声に寝ていた布団から飛び起きた萩原は、
あわてふためきながら廊下へ一歩足を踏み入れた瞬間、
血まみれになった二人を目にしてその場で凍りついた。

「何やってんだよハギっ、早く救急車!!!」

筒井の怒声に萩原はハッと我に返り、
敷き散らばった布団に足元を取られながら
黒電話の置いてある枕元まで戻って大急ぎで緊急ダイヤルを回した。

「ヒデっ、しっかりしろっ、すぐに助けがくるから!」

筒井の呼びかけに、意識を失いかけながらも吉岡は必死に頷こうとする。
喀血は止まらずに、吉岡の胸元を深紅色に染め抜いていく。
    
「ヒデ、大丈夫だから、大丈夫だからな」

懸命に見つめ返してくる吉岡の体からふいに力が抜け、
抱きかかえている筒井の腕の中でぐらりと重くなった。





つづく
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