つぶやき、遊び・仕事・日常

一日の出来事のあれこれを雑多に記録していきます

靴職人

2022-02-23 06:53:16 | 日記
おいらの偏見もあるのかもしれませんが、靴職人と言う言葉にはあまり良い印象は伝わってきません。
某お相撲さんだか芸能人とかの息子さんもそうらしいが、それでもそんな印象はなかなかかわらない。
だが、高級靴の本場イタリアではちょっと事情が異なるようだ。
松岡正剛氏だ。

◆イタリアの優れた靴職人はみなダンテを読んでいるそうだ
 ここでいうダンテとは、あのダンテ・アリギエーリのことで、イタリアを代表する13~14世紀の詩人・哲学者である。
 それは「神曲」に代表されるように、極めて難解な書物でもあるはずだ。
 それでもダンテのどの章が好きかということと、靴を作ることは密接に関係しているという。
 
 翻って日本人はどうだろう。
 効率化の名のもとに、日本文化の本質が排除されてしまってはいないか。
 日本人は源氏物語や徒然草のここが好きだという思いと、日常生活やビジネスとが関係のない社会になってはいないか。
 日本的なるものの中には、世界に通用する普遍性を十分に持ちうるモノ・コトが潜んでいるはずだ。
 のっぺりとしたグローバルリズムなる荒波に揉まれて、日本文化の良さを見失ってはいないか。
 そんな状況は、グローバルとローカルとの間(ま)の取り方がわからなくなっていると感ずる。
 日本人は、日本文化についてもっともっと学ぶべきだ。

 たしかに。知識や能力が不足するのはいい。だが日本文化を見失ってはいけないのかもしれませんね。

聡明を増すが

2022-02-22 06:36:07 | 日記
人の話を聞いて学ぶことは良い。
読書で知識を増やすこともいい。
だが、それだけでは不十分なようだ。
中村天風師の言葉によれば人間にとって必要なそれはこうだ。

◆自らの責任はどこにあるのか
 「知る」ことは、聡明を増すことである。
 「考える」ことは、心を磨くことである。
 「行ずる」ことで、自らの責任を果たすのだ。
 人間は、「知る・考える・行ずる」という一連の行為によって、一個の人間に宿る小さな命が、
 外なる自然の偉大な生命剣圏と融合するのだという。
 そのことで、一人の人間として「私は力の結晶だ」と実感をもできるものらしい。
 なんだかわかったようなわからないような話なのだが、少しだけわかったことは「行ずる」とは、実践することのようです。

 台湾の李登輝元総統に次のような日本語の一文があるそうだ。
 「知識を得て、それをもとに考えながら、理想や目標を掲げるだけなら、
  リーダーとしてまだ為すべき役割の半分しか仕事をしていないと私は考えます。」
 その残りの半分は、「行ずる」こと、実践することであることは言うまでもないのでしょう。

 インドネシアのことわざにこんなのがありました。
 一握りが山になり、一滴(ひとしずく)が海となる。
 自分一人の力は小さいけれど、それでも実践をすることにより、世の中は少しずつ変わっていくと信じたいですね。

運ばない物流

2022-02-21 06:58:30 | 日記
日経新聞からの受け売りなのだが、とても興味深いコラムがあった。
物流会社は、一般的には運んでなんぼという感覚だと思う。
だが、顧客目線では、運ぶことに価値を感じているわけではないようだ。
彼らは、運ぶことはコストの発生であり、できるならば運びたくはないと考えているのではないか。
そんな仮説を立てた人物が、「運ばない」という価値の提供を始めたそうだ。

◆「運ばない物流」の提案
 金沢市に本拠を置く3PL(サード・パーティー・ロジスティックス)のビーイングホールディングスがそれだ。
 メーカー・卸・小売りの物流センターを同じ施設内に集約して拠点間配送を不要にするというアイデアだ。
 日本の伝統的な商慣習では、卸(問屋)は、小売り店舗に個別配送することが原則だ。
 だがそれでは効率が悪いし、小売りサイドでも何十社の卸の荷受けや検収は煩雑だ。
 そこで小売りが通過型のセンターを作り、そこに卸が一括納品するスタイルが広まった。
 卸は個別配送する手間がなくなるので、小売り側にセンターフィーを支払い、小売りはその費用で自社で個店配送するわけだ。
 このセンターフィーは、取引の力関係で決まるため、多くは小売りはセンターフィーで差益を得ている。

 小売りは一見有利なようだが、こうしたセンターフィーに利潤を頼っていると、本業=売買差益での利益創出が不得手となってしまう。
 なので、ビーイングホールディングスは、3PLとしてセンター作業の工程単位で緻密な原価計算を行い、
 卸と小売りが納得できる料率まで提案している。
 むろん、その過程で自社が利益を得ていることは言うまでもないのだが。

 →なるほど、たしかに無駄には運ばないというのは、メーカー・卸・小売りの全ての利益につながるのかもしれませんね。

努力できない

2022-02-20 07:03:00 | 日記
残念なことだが、人間には能力差が確実にあると思う。
で、能力のない人はどうするのかと言うと、「才能のない人は人一倍努力をしないと、才能ある人に追いつけない」と言われます。
論理的には正しそうですが、その前提に疑義があります。

◆努力できない人は、頑張っても努力できない
 ひろゆき氏の発言を参考にしていますが、努力の重要性には異論がありません。
 才能のない人が努力するのは必然なのですが、では誰でも努力ができるのでしょうか。
 実は、「誰でも努力できる」という前提が誤っているのではないでしょうか。
 努力によって解決できることは、限られています。
 さらに言えば、この世には努力したくてもどうしても努力できない人もいます。

 これは、ある種の無理ゲーではないでしょうか。
 世の中には努力したくても、努力ができない人もいます(おいらもそうかも)。
 にもかかわらず、「努力しなさい」と言われてしまいます。
 社会をリードする優秀な人々は、「努力する」ことは普通のことなんでしょう。
 努力できる人は、努力できない人がいるという考えが抜け落ちているのでしょう。
 だから、「やればいいじゃん」と言いますが、多くの人々はそれが出来ないのです。
 考えてみれば、「努力できる」というのも、ある種の才能なのかもしれません・・・
  
 →そういった才能のない人々は、また別の道を選んで進むしかないようです。
  そうそう、おいらもそっちだと思います。

麒麟と駑馬(きりんとどば)

2022-02-19 06:59:22 | 日記
詩人サミュエル・ウルマンの「青春」は有名だと思う。
「青春」とは年齢のことではなく、物事に取り組む姿勢そのものだというやつだ。
若くてもやる気がなければそれはすでに青春を終えているし、年齢を重ねてもやる気を失わなければそれは「青春」真っ盛りという訳だ。
だがそれは、功成り名を遂げた老経営者にもてはやされたと聞くと、また違った風景が見えるものだ。

◆麒麟の衰うるや、駑馬これに先立つ(きりんのおとるうや、どばこれにさきだつ)
 この詩が評価され読み継がれてきたのは、「まだまだ若い連中には負けない」という老経営者のの気持ちと共鳴したからなのだ。
 もちろん老兵には老兵の良さはある。 
 だが組織の活力と言う観点から考えてみれば、年寄りがいつまでも先頭に立っているべきではない。
 プラス面よりも、マイナス面の方が圧倒的に多いということをしっかりと考えねばならない。

 麒麟(きりん)とは、一日に何千里も走る駿馬のことだ。
 そして、駑馬(どば)とは並みの馬のことだ。
 どんなに素晴らしい麒麟でも、年齢を重ねれば駑馬にも劣るということらしい。

 これは企業経営者にその例を多く見る。
 創業者はたしかに非凡な能力で企業を急成長させた。
 だがここにきて、その成長は頭打ちだ。
 それを認められない老経営者は、冒頭のサミュエル・ウルマンを引き、老いた自分を正当化するのだ。
 おいらがかってお世話になった企業も、そんな状況ではないのかとちょっと心配だ。