矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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青春の苦しみ(6)

2025年01月08日 03時56分10秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

6)呪い

 学生会館で百合子と会ってから、行雄は彼女への想いが“重圧”として感じられてくるようになった。 彼はそういう自分の心境変化を不思議に思うのだが、どうしようもないことなのだ。なぜ重圧なのかと自問自答する。

 お前は百合子の肉体に魅惑されているだけではないのか。 オスがメスを欲しがるように、お前は獣のように彼女の肉体を求めているのではないのか。お前が望んでいるのは、本能に基づく肉欲の充足だけではないのか。

 そう自問すると、もう一人の行雄が答える。 いや、そんなことはない。俺は確かに百合子を愛しているし、その愛は純粋で崇高なものだ。彼女に書いた詩は、自分の真心であり本心なのだ。俺は献身的に百合子を愛していけると思う・・・

 しかし、自問自答は果てしなく続いていった。 結局、行雄は自分の中に、矛盾する二人の人間を見い出すようになる。一人は崇高な愛を貫く純真な自分であり、もう一人は、肉欲の本能に駆られ獣のように突き進む自分であった。そして、そのどちらも自分の“正体”だと思えるのだ。

 行雄は、できれば崇高な愛を貫く自分だけでありたいと願うのだが、もう一人の獣のような自分の存在を否定することができなかった。 俺の心の中には、神聖なものと野獣のようなものが並存している。その両面性を否定することはできないのだ。

 そう考えると、百合子への想いが複雑で矛盾したものに思え、彼の心に重圧として感じられてくる。 もう一つ、行雄が重荷に思うのは、彼女への“劣等感”というものだろう。 大柄でふくよかな百合子を眼前にすると、彼はいつも圧迫されているように感じる。その圧迫感はどうしようもないものである。

 百合子への肉体的な劣等感は、しばしば恐怖につながることがある。 それは行雄が欲情を感じる時に、往々にして起きるものだ。彼は百合子の肉体の中に、埋没していく自分を想像する。彼女の太い大腿部に挟み込まれていく自分を意識して震える。 欲情が強ければ強いほど、恐怖に震える度合いも深まる。 こうした心理的な葛藤は、行雄の心を次第に重苦しくさせていった。 

  しかし、もう一度百合子に会いたいという気持は高じるばかりであった。学生会館で彼女と会ってから数日後、行雄は再び百合子にデートを申し込むことにした。 ところが、いざ電話をかけようとすると、また重苦しい気分に陥り受話器を手にすることができない。

 彼は30分近くも思い悩んだあげくに、逡巡しつつもようやく受話器を取り上げダイヤルを回した。不安が胸を締めつける。 低い声で「もしもし」と呼びかけると、今日は始めから百合子の声が受話器から聞こえてきた。

「村上です、先日はどうもありがとう。 またお会いしたいと思うんですが、明日かあさっては都合はどうですか」と丁寧に尋ねると、百合子は無言のままでいる。 彼女が当惑しているような気配が感じられ、断られるのではないかという不安に行雄は焦りを覚えた。彼は自己防衛的に身構え、彼女の返事次第では、自分は対抗的な言辞を弄するかもしれないと予感する。

 百合子がようやく答えた。「ええ、いいですよ。 あさってだったら、午後2時頃に歌舞伎研究会にいます」 その返事に行雄は満足しなかった。先日は学生会館の面会所で会ったではないか、どうして今度はサークルの部屋で会わなければならないのか。

 彼は不機嫌そうに言った。「僕は歌舞研のメンバーじゃないんだ。 二人だけで話せるどこか他の所で会ってもらいたいんだけど・・・」 すると、百合子は畳み掛けるように“ぶっきらぼう”に続けた。「何かご用ですか、別に用はないでしょ!」

 その吐き捨てるような冷たい言い方に、行雄は憤まんのあまり絶句した。 彼が何も答えないので、さすがに百合子も相手を傷つけたと察したのか、「それでは、あさっての3時頃、この前お会いした学生会館の面会所でどうでしょうか」と、事務的な調子で言ってきた。

 この瞬間、行雄は百合子の“憐れみ”を受けたと解し屈辱感に震えた。彼は怒りを爆発させた。「いいです! もういいです! もう会わなくてもいいんです!」とヒステリックに叫んだ。 百合子は行雄の返事にびっくりしたのか、「ふん、そうですか、それはどうもすみません」とあわてて答えた。

 行雄はガチャンと乱暴に受話器を切った。憤まんやる方ない気持になり、百合子のことはもうどうなってもいいと思った。 勝手にしろ、俺も勝手にするから・・・百合子の“お情け”にすがってまで、俺は彼女に会ってもらいたいと思うものか!

  今日の電話のやり取りで、彼は自尊心を傷つけられたと思い、相手に卑屈にひざまずいてまで会ってもらうものかと自らに誓った。 行雄は決然とした気持になり、春休みの間に百合子にデートを申し込むことを止めようと決意した。

 どこか悲壮な感じにはなるが、一方で清々しい気持にもなった。 これで、俺はもう百合子の“呪縛”に囚われることもなく、自由に伸び伸びと生きていけるのだ。百合子の魔力から解放され、新しい生き方をしていけばいいのだと、行雄は自分に言い聞かせた。

  しかし、百合子から自分を切り離したと思ったとたんに、行雄は心に穴がぽっかりと開いたような空虚な気持になった。 解放感と同時に居たたまれない気分に襲われた彼は、急に旅行がしたくなった。浦和にいると、忘れたくてもどうしても百合子のことを想い出してしまうからだ。

 それならば、できるだけ遠い所に旅行してみよう。 行雄はそう考えると九州へ行こうと思い立ち、翌日早速、書店で九州の地図や観光案内を買ってきて計画を練り始めた。 国鉄の時刻表とにらめっこしながら、旅行のおおよそのスケジュールを決めると、彼はその日のうちに交通公社に行き、九州一周の周遊券を購入してきた。

 旅行が決まったからか、行雄は家に戻ると唐突に百合子に絶交状を書きたいと思った。可愛さ余って憎さ百倍だ! それは退路を断たれた武士(もののふ)が、背水の陣で敵に決死の戦いを挑む心境に似ていた。彼は数枚の便せんに乱暴な文字で殴り書きしていった。

 

「中野百合子様

 僕はこれまで、どれほど君を愛し慕ってきたかは分かるだろう。昨年の暮れに君に書いた手紙は、僕の真実の心を伝えたものだと今でも思っている。 眠れない毎日が続く中、僕は心の底からの気持を君に打ち明けたのだ。

 今年になって、君は一度だけ僕に会ってくれた。僕は嬉しかった。君と僕の未来が開けてくるように感じられた。 ところが、その後の君の態度はどういうものだったろうか。僕が再びデートを申し込んだ時、君はどういう態度を示したか。

 僕が丁寧にデートを申し込んだ時、君は何と答えたか。「何かご用ですか、別に用はないでしょ!」と答えたではないか。 なんと冷たい返事なのか! なんと血も涙もない仕打ちなのか! それが、心から君を慕っている者に対する返事なのか!

 僕は愕然として、地獄の底に突き落とされたような感じがした。二度と立ち上がれないような気がした。悪魔に打ち据えられたような思いがした。 君は冷血漢だ! 血も涙もない人間なのだ。 僕は許さない、絶対に許さない! 僕の心を踏みにじった人間を許すものか!

 僕は明日から旅に出る。旅に出て君を忘れようと思う。 これが決別の時だ。もう二度と君とつき合うことはない。 僕を地獄の底に叩き落した君は悪魔だ。そうだ、悪魔だ! 悪魔を許すものか! 絶対に絶対に許さない。

 君は呪われるがいい。呪われろ、呪われろ! いや、僕が呪い殺してやる。必ず呪い殺してやる! 君も僕を呪うがいいだろう。大いに呪え! お互いに呪い合って死ねばいいのだ。 絶交しよう。絶交して全てを忘れよう。全てを忘れて生まれ変ろう。それしかない。

 さよなら。 最後にお願いが一つ、僕が書いた手紙は全て焼き捨ててほしい。君から届いた手紙も僕は焼き捨てる。これで全てが終りだ! 呪いが天地に通じるだろう。ああ、哀れなり、哀れなり、それが人の世の常だ。 さよなら。

村上行雄」

 凶暴な手紙を書き終えると、行雄は決然とした気持と悲壮感に満たされていた。この手紙を出せば、百合子との関係が終る。それも運命だと自分に言い聞かせながら、彼は机の引出しから百合子の手紙を取り出した。その夜、彼女の手紙は燃やされ灰になった。

 翌日、行雄は絶交状を速達便で百合子に送った後、母に「九州を旅行してくる」と素っ気なく告げて家を出た。 まだ肌寒さが残る日だったが、彼は“行く先”はここよりきっと暖かいだろうと思いつつ電車に乗った。

 

7)交友

 大学3年の新学期が始まる直前に、行雄は九州旅行から帰宅した。 彼は“吹っ切れた”気持で新学期を迎えたが、登校してみるとその気持が更にフレッシュになる思いがした。それは文学部の校舎が新築され“生まれ変わった”からである。

 新校舎は馬場下の交差点を挟んで、大学の本校舎から数百メートル南側の所に完成していたが、中心に建っている文学部教員の研究室は地上11階、高さ37メートルのモダンな造りで、その姿から「国連ビル」の愛称で呼ばれるようになっていた。

 そして、すぐ側には半楕円形の屋根をいただいた収容人員1万人の記念会堂があるため、新校舎の周辺はいたって華やいだ雰囲気を醸し出していた。 行雄は半ば浮き浮きとした気分で、キャンパスに新しく出来たばかりの長いスロープの歩道を踏みしめるように上っていった。

 新学期最初の授業が行なわれる小さな新教室に入ると、すでに30人ほどの学生がいるので驚いた。 一般教養課目の講義ならいざ知らず、フランス文学の専門課目の講義に、これほどの数の学生が詰めかけたのを見るのは初めてである。

 しかし、これも当然なのかもしれない。 大学2年までは、高校時代からフランス語を習っていた学生だけのクラスに行雄は入っていたのだが、3年からは、大学で初めてフランス語を受講した学生も加わったため、クラスメートの数が一挙に倍以上に増えてしまったからである。

  行雄の両隣りには、授業で初めて顔を合わせる男子学生が座っていた。 2年前の入学式直後に会ったことなどがあるので見覚えはあるが、一緒に授業を受けるのは初めてである。すぐ後ろにいる高村宗男という学生は、安保闘争の時に何回かデモに誘ったことがある。

 「やあ、久しぶりだな」と互いに挨拶して雑談していると、教室の後方に、中野百合子が友人の渡辺悦子と共に入ってくる姿が見えた。 一瞬ギクリとしたが、行雄はそ知らぬ顔をして高村と雑談を交わしていた。狭い教室の中は、そのうちに40人近い学生で“すし詰め”状態になった。

 クラスメートの数が増えたことと、新学期でしかも新校舎での初めての授業だというので、出席が急増したのだろうと行雄は思った。 やがて、仏文学概論の担当であるO教授が教室に入ってきて、講義が始まる。学生達の私語や雑談でザワザワしていた室内は、いっぺんに静まり返った。

 一時間ほどして講義が終ると、学生達は三々五々教室を出ていく。百合子も渡辺らと数人で去っていった。 行雄と高村は連れ立って表に出た。雑談しながらスロープの歩道を下りていくうちに、二人はお茶でも飲もうかという話しになり、本校舎の近くにあるW喫茶店に入った。

 高村は秋田県出身で、一浪したあと大学に入ったので行雄より一歳年長であった。中肉中背で比較的がっちりした体格をしており、茫洋とした風貌だが気さくな人柄なので行雄は以前から彼に親近感を抱いていた。

 コーヒーを飲みながら話しているうちに、高村はマスコミを、その中でも特に新聞記者を目指していることが分かった。大学3年になったばかりなのに、もう自分の進路を決めているのは珍しいではないかと行雄が言うと、高村は新聞記者が自分の適性だと答える。

 行雄は少し羨ましい感じがした。彼は自身の将来については何も固まっていない。 大学院へ進んで仏文学研究の道を歩もうかと思ったり、出版社に就職しても良いかなと漠然と考えている程度で、高村のように明確な進路があるわけではなかった。

 フランス文学の雑談を交わしているうちに、高村はバルザックが大好きだということが分かった。「俺のような秋田出身の田舎者は、バルザックが好きになるんだよ」と言って彼は笑う。この後、高村は興に乗ってしまったのか「谷間の百合」から「ゴリオ爺さん」に至るまで、滔々とバルザック論をまくし立てた。

 強靱なリアリズムで社会の実態にメスを入れたバルザックの精神が、新聞記者志望の高村の心を捉えているのだろうか。 バルザックの本など二、三冊しか読んでいない行雄は、軽く質問したりして“高村節”に聞き惚れていた。この男の卒論は、尋ねなくてもバルザックにもう決まっているなと思うと、行雄は苦笑した。

 「やあ、俺ばかりしゃべり過ぎたようだな。すまん、すまん」と高村が言った。「いや、いいんだ、面白かったよ。バルザックは知らないから、もっと聞きたいくらいだよ」と行雄が答える。 すると、高村は一呼吸置くと、大きな目を見開くようにして前屈みになり「ところで、君はうちのクラスの中野さんと仲良くしているんだって?」と聞いてきた。

 行雄は突然、現実の世界に引き戻されたように感じた。すぐに答えることができずにいると、高村は「この前、友人の徳田から聞いたんだ。徳田って、今度同じクラスになった男だ。君はまだ知らないだろうから、近いうちに紹介するよ」と畳み掛けてきた。

 行雄はようやく落ち着きを取り戻して「いや、中野さんとはもう付き合っていない。いろいろあってね・・・」と答えた。 高村は行雄の返事など意に介さないかのように続ける。 「中野さんはとても良い人だと聞いているぞ。徳田がそう言っている。徳田は最近、彼女からノートを借りてばかりいるからそう言うのだろうが、すごく親切だそうだ。

 さっき教室で中野さんを見ていたら、とても感じの良さそうな子じゃないか。余計なお世話だろうが、どうして彼女と付き合わなくなったのだ?」と高村が聞いてきた。 まさに余計なお世話だと思いながら「いや、いろいろあってね」と、行雄は同じ返事を繰り返すしかなかった。それにしても、自分と百合子の関係がクラスメートの噂になっているのかと思うと、彼は“束縛”されているような窮屈な感じがしてならなかった。

 高村はこの後、徳田誠一郎というクラスメートの話しを続けていったので、行雄は勧められるままに彼と会ってみようという気持になった。 高村は「あいつは面白い男だよ、翻訳のアルバイトに夢中なんだ。金を稼いでいるから、今度彼に一杯おごらせよう。授業にはほとんど出てこないが、シュールレアリスムの中山教授の講義だけはいつも出てくる」と言う。

 授業の予定表を見ると、中山教授の講義は4日後にあったので、行雄と高村はその日に徳田と付き合ってみようということになり、W喫茶店を出た。

  4日後のその日の午後、中山教授の講義が小教室で行なわれた。授業に出てきた学生はわずか6、7人で、新学期初日の時とは大違いであった。百合子や渡辺悦子らの姿は見られなかった。 シュールレアリスムの詩の講義などは人気がなく、高村もこういう授業には初めて出席すると言っていたが、徳田はどういう訳かいつも受講するのだという。

 何だか変だなと思いながら、行雄が初めて会う徳田を見ると、彼は背は低いががっちりした体格で眼鏡をかけており、茶色い背広の上下を着ていた。 細目でいつも微笑を絶やさない表情で、どこか“気障っぽい”感じがしてならない。年齢は行雄や高村より上ではないかと見られる。

 三人で後で付き合おうと雑談していると、中山教授が胸を張るようにして入ってきた。 この教授は50歳台中頃といった感じで、小太りの赤ら顔に蝶ネクタイを付けている。風采が良いとは言えないが、縞模様の派手な替え上着に身を包んでおり、いかにも気障っぽい印象を与える。

 中山教授と徳田の共通点は“気障っぽさ”にあるのかと、行雄が勝手に推測していると講義が始まった。教授が得意とするポール・エリュアールだとか、ルイ・アラゴンなどの詩が次々と出てくる。 行雄はシュールレアリスムの詩はあまり好きではないが(好きになる以前によく分からないのだ)、徳田はよほど気に入っているらしく、中山教授に質問までする始末だ。

 高村も行雄と同様によく理解していないようだったが、ともかく1時間の授業が終った。中山教授が来た時と同じように“颯爽”と教室から出ていくと、三人は席を立った。 徳田がすぐに「きょうはビールでも飲みに行こうよ」と言った。

 行雄はふだんビールを嗜んでいないので「喫茶店じゃないの?」と聞いたが、高村が「たまにはビールでも飲もう。君は真面目すぎるんだよ」と言うので、行雄もしぶしぶ従うことにした。 時間に余裕があるので、三人は文学部の校舎から歩いて高田馬場駅の方へ向った。

 駅の手前で、徳田がよく利用しているというビアレストランに入った。時刻がまだ夕方前なので、店内はそれほど込み合っていない。 三人は外が良く見える窓際の一角に座ると、徳田と高村が生ビールや摘み物を適当に注文した。二人は一緒によくビールを飲むのだという。

 生ビールが来て型通りの乾杯の仕種を済ませると、徳田が早くも上機嫌で饒舌になっていく。 「村上君、これを機によろしく。僕はけっこう酒が好きでね、ビールはしょっちゅう飲んでいるんだ。ワインも好きだね、フランスのものもイタリアのものもよく飲む。 ところが、高村といったらワインは駄目なんだ。この男は純和風かな」

 徳田が高村に目を向けて喋ると、「当り前だ、俺はお前のように“バタ臭く”はない。秋田だからな、何と言っても日本酒が一番だ」と高村がやり返した。 そして、行雄に向って「徳田がさっきの中山教授の講義によく出席する理由が何だか、分かるかい?」と聞いてきた。

 もとより、行雄には知る由もないので首を横に振ると、「授業嫌いの徳田がいつも出るのは、あのキザな教授が彼の恋人の叔父さんに当たるからなんだ・・・」と付け加えた。 「おい、もうそんな事まで“ばらす”のか」 徳田が遮るように高村に言ったが、その表情には満更でもないという思いがありありと浮かび出ていた。

 「A(アー)クラスにね、小野さんという女の子がいるんだ。その子が徳田の恋人ってわけなんだよ」「へ~、そうなの」高村の暴露発言を受けて、行雄が徳田の顔をまじまじと見つめた。 「う~む、お前にそう暴かれてはどうしようもないな」彼は高村を責める口ぶりで言ったが、嬉しそうに笑い声を上げた。

 それから、徳田と恋人の小野恭子の話しに花が咲く。小野は叔父である中山教授の影響もあって仏文科に進学してきたが、そこで昨年、徳田と知り合ったという。 高村と徳田がまるで議論の応酬でもするかのように、恋人と恋愛関係、はてはセックス論まで話しを展開していった。二人は生ビールをお代りする。そして、恋愛論議はさらに白熱する。行雄は羨ましい気持で二人の雑談を聞いていた。

 「村上君、われわれだけ話していてご免よ。実はね、高村も好きな女の子がいるんだ。 僕らのB(ベー)クラスに山西さんという子がいるだろう。彼女に高村が惚れているんだ」今度は徳田が暴露した。 「そうなのか」行雄の視線が高村の方に向く。

 「うむ、でも競争相手が多いからな」 その後の高村の話しによると、誰もが“美人”と認める山西美佐には、A・B両クラスの何人かの男子学生はもとより、彼女がクラブ活動をしている「テニス同好会」のメンバー、さらには彼女の高校時代の友人らが山西にアプローチしているというのだ。

 ずいぶん競争が激しいなと行雄は苦笑したが、その途端、彼は中野百合子のことを思い出した。彼はあわてて百合子の幻影を打ち消そうとする。彼女との関係は終ったのだ、もう全てが終ったのだと自分に言い聞かせた。

 徳田と高村は暫く山西の話しをしていたが、そのうちにまた小野恭子の話しに戻っていった。 徳田が小野と肉体関係を持っていると聞いて、行雄は仰天した。「婚前交渉」などはとんでもないという古い倫理観を持つ行雄にとって、徳田と小野の関係は目が眩むように思えるのだった。

 いろいろ話しを聞いていると、徳田は行雄より3歳も年上なので“世慣れて”いることは理解できる。 しかし、男女間の倫理というのは、年齢差によって大きく変わるべきものではないだろう。倫理の根本とはそういうものだ。行雄は男女間のセックスについては極めて保守的だったので、徳田の話しを聞くうちに不愉快な気分になってきた。

 ところが、徳田と小野の関係は実に上手くいっているらしい。徳田が彼女を思いやる様を聞いていると、気配りというものに最も疎い行雄には、感心することが多々あるのだった。これも“年の功”なのかと思ってしまう。 いや、年の功と言うより性格の違いなのだろう。徳田には、持って生まれた他人への優しさというものがあるようだ。

 徳田と高村は生ビールを何杯もお代りしていたが、行雄もようやく二杯目を注文した。二人の話しを聞きながら相づちを打ったり、感想を差し挟んだりしているうちに酔いが回ってきた。 もうそろそろお開きになるかなと思っていると、徳田が急に神妙な顔付きになって行雄に語りかけてきた。

 「ところで、村上君。君は中野さんのことをどう思っているんだ? 君は“残酷”な男だな・・・もう中野さんとは付き合わないというのか?」 突然、百合子の話しを突き付けられて行雄は動揺した。酔いがいっぺんに冷めたようだ。暫く答えられずにいると、徳田はさらに続けた。

 「お節介かもしれないが、僕は中野さんからノートを借りたりしているうちに、彼女から君との関係についていろいろ話しを聞いてしまったのだ。 絶交状を彼女に送ったんだって? 中野さんは相当ショックを受けているようだ。君はもう彼女と付き合うつもりはないというのかね。君は本当は彼女が好きなんだろう? ちょっとしたことで絶交状を出すなんて、君も激しすぎるよ。 もう少し考え直したらどうなんだ。高村だってこうして心配しているんだ。どうなんだね?」

 百合子が、自分との関係で徳田と相談していることに行雄は驚いた。そんなことは想像もしていなかったのに、現実はそうなのだ。 行雄は何と答えたら良いのか言葉が見つからない。黙っていると、今度は高村が語りかけてきた。

 「余計なことかもしれないが、徳田が言うように、中野さんとの付き合いをもう一度考えてみたらどうだ。彼女は良い人だよ。 君はどうも真面目すぎる。こうと思い込んだら、どんどん頑なになる癖があるからな。全学連でやっていた時と同じだよ。 もし今でも彼女に好意を持っているなら、もっと気楽にフランクに接していったらどうなんだ?」

 徳田が“追い撃ち”をかけてきた。「女なんて、みんな気紛れでわがままだよ。特に若い子はね。 小野だって約束を破ることもあるし、体調が悪いからと言ってすっぽかすこともある。急に不機嫌になったり、むくれたりするのはしょっちゅうだ。 そんなことを一々気にしていたら、付き合ってなんかいられないよ。若い子はみんなわがままなんだ。その位いのことは、こちらも考えておかないとね。

 君はどうも“完全主義者”のようだな。全てが完璧に進んでいくなんてあり得ないよ。 中野さんだって完璧ではない、いや、君だって僕だって誰だって完璧な人間などいるはずがないじゃないか。彼女に好意を持っているなら、もっと気持に余裕を持って付き合っていったらどうなの?」

 二人の攻勢に行雄はタジタジとなったが、何も返事をしないのは失礼だし、気分を害したように受け取られてもまずい。「もう少し考えてみるよ」と答えたのが、精一杯であった。 百合子の話しが一区切りつくと、酒席の話題は八方破れに広がっていった。若者の会話はエネルギーに溢れている。

 吉永小百合やケネディ兄弟、マリリン・モンローから宇宙飛行の話しまで際限なく広がっていく。文学も野球も芸能も政治もごちゃ混ぜだ。 二人に「もっと飲めよ」と言われ、いい加減に酔っ払ってきたのに行雄は三杯目の生ビールを注文した。

 プロ野球の話しになると、徳田と高村の会話が熱を帯びてきた。特に徳田は背が低くてずんぐりしているのに、高校時代に野球部に在籍していたせいか、腕まくりをして太くて長い右手の指を自慢げに見せた。「ピッチャーはこうやってボールを握るんだ」と言って、親指と人差し指、中指を広げたり曲げたりする。

 プロ野球で前年、42勝をあげた西鉄ライオンズの稲尾和久投手の話しを始めると、徳田は椅子から腰を上げて、稲尾の投球術やコントロールの素晴らしさを、身振り手振りで得々と説明していくのだった。 この頃になると、酔いが回って三人はかなりの酩酊状態になった。やがて高村が「もうこの辺で切り上げよう」と言った。

 行雄はその言葉を待っていたかのように、よろけながら立ち上がると「お代はいくら?」と徳田に尋ねた。 「いいよ、今日はいいんだ。僕が誘ったから全部持つよ!」徳田が上機嫌に答える。「そうはいかないよ、割り勘にしよう」と行雄が言うと、高村が「いいんだ、いいんだ。徳田はバイトで荒稼ぎしたんだから、今日はご馳走になろう」と言って、レストランの出入口の方へさっさと歩き出した。

 行雄は徳田に礼を言うと高村の後に従った。 三人は高田馬場駅から帰宅の途についたが、行雄は滅多にない飲み方をしたので酔いが回り頭が重かった。あの二人が百合子との交際を促していたことが、執拗に脳裏に迫ってくる。 友人としての思いやりなのか、それとも単に面白がって余計なお節介をしているのか。行雄はあれこれ考えながら帰宅したが、自分の部屋に入ると意識が“もうろう”となり、そのままベッドに倒れ込んだ。


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