期せずして霊山登山と信長・伊賀衆
のかかわりあいに巡り合えました
=あそこの寺はなー、信長が焼いてしまいよったんや=
霊山山頂から伊賀市内を望む
訪ねたところが伊賀忍者の里:
所属の山の会で三重県伊賀市にある霊山(れいざん:765m)登山に
参加しました。登山口までの途中、農作業中のおじさんに、前に見える
山のどの峰が霊山の山頂かを聞きたくて声をかけました。ご親切にも
仕事の手を休めてこちらに来られました。あの山並みのどこそこ、としか
お答えを予想していなかったのですが、おじさんのお陰で表題の新しい
発見(ああ、ここがそうやったんや!)に恵まれた次第です。
霊山の麓に再建された霊山寺
JR関西本線、仲間の後に付いて柘植駅を降りたらそこは戦国時代に
活躍、そして日本中に忍者の町として知られる伊賀市でした。
その日の登山、霊山が何処にあるのかも知らずに兎に角草津線に乗車。
柘植で降りるまで伊賀市の伊賀忍者の町に行くとは気が付いておらず、
登山はできるし道中では興味津津、周辺をきょろきょろと。しかし町おこし
の幟以外に忍者の里を偲ぶ物は目に入ってはきません。 ところが、
あの山の上にあるお寺を信長が焼いてしまいよった!
そこで当のおじさんが、ビッグプレゼントを下さいました。 さっそく聞き
かじった薄識を現場で振り返ることができました。
麓のお寺にはこのような石仏が
焼き討ちと言う先入観からかなにかもの悲しい感じがします。 山道にも何箇所か
石仏(六地堂とか)がありました。
信長が伊賀衆を集落とも壊滅:
最近のセミナーで教わった史実で確かに信長は伊賀衆を集落共々壊滅
させています。それは佐々木六角を観音寺城で滅ぼした直後です。
理由は常に合戦に敗れると伊賀に逃げこんだ六角、つまり伊賀が六角
を匿ったことが焼き討ちに繋がるのだそうです。
今も、伊賀の皆様の心の中から消え去ること、忘れることのない史実だっ
たのです。それからもう400年以上が過ぎています。伊賀、甲賀忍者の
背景については近い時期に改めてブログに記録したいと思っております。
山頂の案内板です
ここには焼き打ちの記述はない
小説「梟の城」は伊賀衆の物語:
今、40年以上前に読んだ司馬遼太郎の「梟の城」を改めて読んでいます。
物語では信長への復讐、さらに没後は秀吉に向かって行きます。刀の鍔を
足場に塀を乗り越える術、忍者の役目などの背景をしっかり頭に入れて
読めるとことで、この歴史小説の新鮮さを感じております。
期せずして歴史の一端を垣間見ることも出来、霊山は素晴らしい登山となり
ました。この山に連れて行ってくれた山の会リーダ、GTOさんに感謝です。
(この日記は9月24日ー30日まで掲載します)
今日もご覧下さいましてありがとうございました