近江国(北郡)にも一向一揆
=湖北十ケ寺と一向一揆、元亀争乱=
えらい堅い題名ですが信長軍が浅井軍を滅ぼした時期の
争いを元亀争乱といい、その裏側(にあってあまり一般的
には知られていない)にあるもう一つの戦いで近江湖北に
ある十のお寺(一向一揆衆)は戦いました。 そんなお話です。
勿論私も故郷にあった史実ですが今回の講座で初めて知
りました。
元亀争乱の最後の舞台 虎御前山(信長砦)と小谷山(小谷城)
箕浦、さいかち浜合戦で戦った一向一揆衆
十ケ寺の一つ、福田寺の境内に「殉教万人塚」と刻まれた塚がある
そうです。元亀2年(1571年)5月に湖北の地で起きた一揆衆と信
長軍との戦いを箕浦(みのうら)合戦、さいかち浜合戦といい、その
弔いの塚です。
どうして近江北郡(伊香、浅井、坂田)に一向一揆が
時代は足利義昭・織田信長が勢力を伸ばしている時で信長が本願
寺を破壊するとの動きを察した大坂本願寺は顕如が突如攻撃を
開始したのです。門徒衆に送った顕如の檄文は壮大な動員を蜂起
させ、いわゆる「石山合戦」が始まりました。
湖北十ケ寺の一つ福勝寺を見学 同寺の門(拡大します)
湖北十ケ寺
”湖北も例外ではなく” 「湖北十ケ寺」とよばれる寺院が本願寺との
パイプ役になり反信長体制がしかれました。 この十ケ寺はある意味
では砦であったようです。門徒衆が壊滅することを防ぐ為に長男はこ
の寺に留まり後方支援を、次男以下が戦いに加わったようだとのお
話もちょこっとでました。従い土塁や堀などが築かれてそれが今も残
っています。 (湖北十ケ寺については: 湖北十ケ寺 に掲載があります)
福勝寺に残る土塁 土塁、堀の解説
(拡大します)
一向一揆の戦いは
浅井軍と信長軍が箕浦やさいかち浜でぶつかった合戦ですがこの
浅井軍を構成していたのが顕如の依頼で蜂起した門徒衆、それは
湖北十ケ寺の一向一揆だったのです。
しかし、彼らの戦いは浅井軍の目指していたことではなくて、信仰を
守るため、信仰生活のために戦った一向一揆であろうと参考にして
いる歴史雑誌「みーな」の中の論文です。
湖北の元亀争乱
元亀元年(1570年)6月、織田信長の近江侵攻が開始され以降元
亀4年(天正元年)8月の小谷城落城までの3年間を元亀争乱と呼ん
でいます。そのきっかけは信長の横山城の攻撃だそうです。以降信
長の手を緩めぬ攻撃が続きます。
姉川合戦図 現地の看板より 解説(拡大します)
上洛命令を黙殺する朝倉義景の攻撃、浅井軍の信長離反、信長の
朽木谷経由での京への退散。その後体制を立て直して姉川合戦、
さらには今日の主題、一向一揆が蜂起し箕浦やさいかち浜で秀吉軍
との合戦。最後は信長が虎御前山の本陣から浅井軍に総攻撃をか
け浅井三代50年の歴史は幕を閉じます。これが湖北の元亀争乱の
あらましです。
朝倉義景の居城跡 (一乗谷)
近江は歴史の宝庫
今日の話題、このことを知るきっかけはいつもの通り滋賀県教育
委員会文化財保護課主催の講座とさらに今回は長浜市教育委
員会の皆さんの案内での現地見学です。近江は特に戦国時代の
歴史の舞台です。奥が深いことだと思いますしついついこんなマニ
アックな日記になってしまいました。
元亀争乱で浅井軍で戦った下坂氏の館 解説(拡大します)
今回の現地見学会では十ケ寺の一つ、福勝寺と下坂氏館跡を
見学しました。下坂氏は北近江の土豪で京極氏、浅井氏に仕え、
面白いのは浅井氏滅亡の後信長の誘いを断って帰農した人物
だそうです。もう生きるか死かの生活はいやだと云ったのかどう
かは兎も角として、信長のお声に背いてよくぞ生き伸びたともの
だと思うのですが・・。
下坂氏館での写真、解説
(下の写真はクリックで拡大します)
虎口跡 堀跡 縄張り図など 解説
上の解説文にある門と不断光院
参考文献: 1.当日配布の資料
2.2010年6月発行 「みーな」 vol.107
(この日記に記載の大部分をこの二つから拝借いたしました)
お断り:当日の講座、現地での説明そして上記資料を参考に日記を書きました。
しかし誤解、間違いが多々あるかもしれませんが素人の趣味の世界と
どうかお許しください。
今日もご訪問くださいましてありがとうございました。
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写真展のお知らせです
わいわい写真クラブ作品展
期間:2012年10月14日(日)~10月21日(日)
開館時間:10:00~20:00
土日:18:00迄
月曜日:休館です
10月21日:16:00迄
会場:市立野洲図書館ギャラリー
野洲市辻町410 077-586-0218
指導:八田正文先生
Kennyも二点出展します。 皆様のご来場をお待ち
申しあげております