歴史の宝庫、滋賀を歩けば
=清龍寺徳源院(京極氏菩提寺 米原市)=
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:12月21日~12月27日)
清龍寺徳源院 (滋賀県米原市)
お寺の案内版 庭園
(クリックで拡大します)
京極氏の菩提寺です
お寺は滋賀県米原市のJR柏原駅から歩いて20分の北西方
向にあります。このお寺で目を見張るというか、今回紹介した
かったのは京極氏歴代の墓塔・供養塔である石造の宝篋印
塔(ほうきょういんとう)が30余基も集められて、並んでいること
です。
京極氏歴代の宝篋印塔
解説板 宝篋印塔配置図
(小サイズはクリックで拡大します。以下同じです)
集められている
京極氏第22代高豊が寛文12年(1672年)に近隣に散在し
ていた歴代の宝篋印塔をここに集め、順序を正して整備した
ものが現在に伝えられている京極家の墓所です。
5代高氏(道誉) 初代氏信
京極高氏(道誉)
ちょっと知っている名前を上げてみます。京極氏第4代目道誉
(どうよう)です。派手好きで婆娑羅大名(ばさらだいみょう)とも呼ば
れています。このお寺の近くに北畠具行(きたばたけともゆき)のお
墓があります。後醍醐天皇を中心とする倒幕計画に加わり失敗
後道誉によって鎌倉へ護送される途中、元弘2年(1332)この
地で斬首されましたが、一方で道誉は幕府に減刑を嘆願します
が叶わぬこととなったそうです。
19代高次 三重の塔(22代高豊の建立)
京極高次
浅井三姉妹お初さんの旦那様です。なんでも幼少のころは信
長のところへ人質に、成人して秀吉に仕えていたそうです。関ヶ
原の合戦では徳川方に付き大坂からの軍を大津で足止めにす
るなど功を上げて京極家の継続のきっかけを築いた武将です
よね。京極氏はうまく時流(誰が天下を取るか)を読む事に長け
ていたようです。
北畠具行(ともゆき)の墓(米原市)
解説板
京極氏、六角氏ってややこしい
えらそうにこんなブログを書いていますが、ほとんどすべてが当
日の県や地元の研究員さん、お寺の住職さんからお聞きしたこ
と、頂いた資料を参考に単に私の言葉で記載しているに過ぎま
せんです。そこで京極氏、六角氏を簡単にこんな具合に。
宇多天皇
・
・
佐々木経方
・
・
佐々木秀義
|
佐々木定綱
|
佐々木信綱
|
大原重綱 高島高信 六角泰綱 京極氏信
(ウキペデア、手元資料から)
やがて近江は北部が京極氏 南部は六角氏が治めます。同
じ家系とは言っても当時は内部抗争が絶えず、京極氏は跡継
ぎ騒動の間に家臣の浅井氏に主が移り、北部は浅井三代と
変遷しますがわずか三代で信長に屈します。一方六角氏は猛
威を振るいますが最後はやはり信長に滅ばされます。
京極氏館跡 観音寺城跡(六角氏)
伊吹山の麓、伊吹神社境内全域 安土の繖山(きぬがさやま)一帯
京極氏は浅井氏に保護され小谷城には主郭よりも高い位置の
京極丸に収まり、信長攻撃もかわしてその後も家を残します。
京極氏は伊吹山、山麓に拠点を置きます。六角氏は安土の観
音寺城が拠点です。
ちなみに京極氏は京都の京極高辻に館を、六角氏は京都の六
角堂に屋敷を構えたからそのように呼ばれています。
(この項はKennyの理解です)
Kennyのブログ現地訪問レポート:
京極氏の拠点、館についてはここを
六角氏の観音寺城についてはここを
道標もしっかりしています 散策地図(駅で入手)
JR柏原駅周辺
滋賀県教育委員会文化財保護課が月によっても異なりますが
ほぼ毎週のように歴史探訪イベントを開催して下さっています。
今回は米原市柏原(かしわばら)町を歩きました。なんと元弘の変
(南北朝時代)から戦国時代そして柏原宿の江戸時代まで頭を
切り替えながらその時代の様子を遺跡や今に残る古民家など
を実際に目にして歴史を遡ることが面白いです。
このブログではその内、京極氏について、特に徳源院を取り上
げました。JR柏原駅に観光地図が用意されています。散策ル
ートはそれで十分です。
今日もご訪問頂きありがとうございました
滋賀県下の各地の史跡を訪れると、佐々木氏の関わりが各所にでてきますから。あ、ここにも・・・という感じです。
徳源院の宝篋印塔がずらりと並んで居るのは、やはり壮観ですね。
10月下旬に訪れたときに、そう感じました。
歴代の墓は、菩提寺が分散していたりしたのでしょうが、大半はやはり近江国にあったのでしょうか。
徳源院の境内に、道誉桜がありました。春の時期に訪れるのもいいでしょうね。
訪れたことのある史跡について、違った視点からの内容を、
楽しみながら拝読しました。ありがとうござます。
今年の4月に、水上勉作『湖笛』という小説を通して、京極高次が京極家を再興するまでの紆余曲折を知りました。「若狭守護群記」を参考にして書かれた作品のようです。水上勉の思いが重ねられた高次像でしょうけれど、京極家再興というその生き様は興味深いものでした。
佐々木氏を源流とする京極氏が菩提寺を残し、六角氏が巨大な観音寺城跡を残したというのも、面白い対比です。徳源院で京極氏の子孫が現存されているということはお聞きしましたが、六角氏の方はどうなんでしょう。廃絶したのでしょうか・・・・。
ご存じだと思いますが、佐々木氏、六角氏については佐々木哲氏が、ブログサイト「佐々木哲学校」で考証されていますね。
http://blog.sasakitoru.com/theme/f361799872.html
私はまだ、ほんの一部を拝読しただけにとどまるのですが。
「京極氏は・・・・京極丸に収まり・・・」
小谷城の京極丸の由来はそういうことですか。何度か訪れていますが、「京極丸」の由来は意識していませんでした。なるほど。
ひょっとして・・・と思い、手許の『復刻 浅井三代記』をスキャンしてみると、ちゃんと記述がありました(駅の売店で衝動買いして以来、積ん読本になっています)。
巻第九の「京極入道利角齋上平ニ館ヲ被移事」という条です(p244)。
永正14年に京極高峯入道利角齋が浅井と「中和の時」(講和ということでしょうね)の後に、「小谷ノ内ニ丸ヲカマヘ京極丸ト名を付、己ガ山取ノ内ニウツシ奉テ守護シ申セシガ・・・」と記されています。浅井が江北を完全に平定し、京極入道の野心も消えた段階で、再三の要望を聞き入れて、天文8年5月、上平に館を移したとのことのようです。(記録はあるものですね。事実の確証は判断できませんが)
積ん読本を繙く機会になりました(感謝です)。
ちょっと、蛇足ですが・・・ 婆娑修羅 は 婆娑羅 ですね。
冠句の表彰式で長浜に行ったとき、浅井三姉妹の講談がありました。人脈関係の系図に京極氏の名前がありましたので、今回のブログにその時のことを重ねました。
三十余基並んだ墓塔、供養塔を見て、Kennyさんが発信されたいという思いが伝わってきます。
滋賀に残る歴史、居住人としても、身近に感じるようになってきました。
(今日は私も「冠句集」を振り返ってUPしました)
「大半はやはり近江国」なのか、多分ネットでヒットしたんだったと思いますが「散在していた近隣から集めて」とあったように思います。「道誉桜」 実はしまったと後悔です。 400年以上も前の桜が・・、まさかと思ってしまったのがまずかったのですが、樹木なら400年生きていてもおかしくないですよね。いつもロマンとして史跡を受け入れているのですがこの時ばかりは・・・。疲れていたのかな(笑)。それで写真もありません。このように自分で簡単に撮れる写真は拝借したくないというこだわりがまた邪魔をしています。
「京極丸」、一瞬ドキっとしました。 それ違うよ、かとおもいました。何回か現地を訪ねて案内にあったんだと思います。何の疑問も感じずに書きました。そうですか、記述がありましたか、これからは自信を持って覚えておきます。何かあればこのブログを開きます。
そして道誉が上平に館を築いたんですね。忘れていましたがどうして浅井家滅亡後もしっかりと家を残すことが出来たのか一度調べたいとは思っていました。今回のブログは本筋ではないので信長の攻撃をかわしてとだけにしました。
佐々木哲氏、初めて聞きます。先ずはアドレスに訪問してみます。『湖笛』も二階のガラクタ置き場にあったような気がします。いずれにしても覗いてみます。今読むとまた新鮮な気持ちで、親近感(怒られるか)を持って読めるかもしれません。
初滑りをして昨晩帰ってきました。 返礼コメント遅くなりました。 Kenny
これだけ滋賀の郷土史を見たことがなく、佐々木氏の系図も今回初めてみました。六角氏、京極氏も名前だけしか知りませんでした。つい数年前まではそうでした。茲愉有人さんも述べられているように佐々木氏が歴史を作ったんですね、これは大きいです。そんな人々は滋賀県人としてなにか身近に、仲間意識(言い過ぎか)を感じます。まったく同感ですね。勉強も、返信コメントもせんと雪で遊んでいましたて遅くなりました。 Kenny
茲愉有人さんもおっしゃっておられるように、違った視点で書かれたブログを読ませていただいて勉強になりました。
私も今年10月に清龍寺徳源院を初めて訪問しました。それも県文化財保護協会のイベントでした。柏原宿も初めてです。
Kennyさんは徳源院さんに絞ってブログを書かれておられますが、柏原宿もいい街並みでした。
東山道と中山道の交点もあり、徳源院さん以外のお寺や上平寺城跡などここも歴史が点在するところですね。本当に滋賀県は史跡の豊富な県です。
ところで清龍寺徳源院は何代目かは定かでないのですが
どちらも京極家当主の戒名をとっていて檀家の無い京極家の菩提寺だそうです。
徳源院の住職さんの話で2つ印象に残っています。
ひとつは、歴代の宝篋印塔の中で1つだけ小さいものが
ありましたが、それは京極家を没落させた殿様が恥じて
自分のお墓は大きいものを建ててはならないと遺言したこと。
もう一つは、今も残っておられる京極家の子孫の方がお江さんの直筆と思われる手紙を寄贈されたことです。
大河ドラマの放送もあり、タイムリーでした。10月には納経堂に展示されていました。
今回も本当にいろいろと情報をいただき、ありがとうございました。おもしろく参考になります。今後ともいろんなところのご紹介をお願いします。
どっかに記録がないか調べて追記できればと思います。是非紹介したいですね。重ねてお礼申しあげます。
確かに柏原宿は歌川広重の絵にもある老舗といい、もぐさを主とした話題、他にも和宮の話とか、この宿場町の特徴として面白いですね。 Kenny
1)
御案内した手許の衝動買いの『浅井三代記』についてですが、ネットで内容が全文見られることを発見しました。直接該当は次のところ。
『浅井三代記』巻九 全文
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/asai9.html
そして、これのソースは
「隆慶一郎わーるど 文献史料室」
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/index.html
ここから全巻にアクセスできるようです。
高峯についてネット検索すると、コトバンクで
京極高峯 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 を入手しました。
?-1546 戦国時代の武将。
京極高清(たかきよ)の子。近江(おうみ)(滋賀県)守護。家臣浅井亮政(すけまさ)が実権をにぎり,近江小谷(おだに)城をきずいて居城にしたため,たびたび小谷城を攻めたが成功せず,京極氏は衰退した。天文(てんぶん)15年1月15日死去。通称は三郎。号は利角斎。
ところが、この人物、ウィキペディアには記載無し。高清の子として記載があるのは2人で高吉、高広です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E6%B0%8F
ネット検索で見た範囲で得られる家系図、系譜では、「宇多源氏系図8」
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/genji_another/genji_uda/genji_uda8.html
に、高清の系譜として4人出てきます。
こちらでは、高峰、高吉、上坂高景、高延が並列に並び、今度は高広が消えています。
なぜでしょうねえ。疑問が残ったままです。
2)上平寺城の件
ネット検索での受け売りですが、
「永正年間(1504-21)、京極高清によって築かれ、麓の上平寺館、城下も整備された」そうです。
ぶらり歴史めぐり 上平寺城 :「歴史屋本舗」
http://www.rekishiya.com/burari/joheiji.html
京極道誉は、どこに住んでいたのでしょう? ウィキペディアには、明確な記載がないようですね。
京極氏の項にも、勢力圏の記述はありますが、本拠地の記載がないようです。
佐々木氏信の項には、「弘安6年(1283年)には近江守へと任ぜられ、この頃には後に京極氏の菩提寺となる清滝寺(後の徳源院)を創建している」という記載はありますが。
3)道誉桜の件
徳源院を訪れた時のパンフレットを引っ張り出してみました。
確かに、2代目と3代目のことを記載していますね。
探訪当日、枯れ枝の道誉ざくらの記録写真を撮っています。これはかなりの古木です。その傍に平成3年10月日付の説明板があり、それも撮っていました。そこには樹齢約300年云々と記載されています。
入手パンフレットの書き方で見ると、これは2代目の道誉ざくらのことをさすのではないでしょうか。つまり、2代目と3代目の桜が境内に併存している。よく見ると、パンフレットの写真の直ぐ下に、境内見取り図が載っていて、両者が門の左右に配された図になっていますね。
三重塔を撮った写真の1枚の左側に2代目の枝振りが1/3程度写っているのもありました。2代目、3代目が併存しているのです。
道誉ざくらはいわば名誉名称みたいなものですよね。品種名は別にあるのですから。道誉が植えた事実、あるいはその伝承を継承すること、させることに、道誉の思いあるいは美意識を伝えるという意義があるのでしょうね。
一方、検索していて、こんな記事を発見しました。
「佐々木六角氏の家紋考察」(近江歴史回廊倶楽部のサイト)
http://ohmikairou.org/col115.html
序でに、ご参考まで。
関連文献、ありがとうございます。 ブログも3年を過ぎました。結構情報が蓄積出来まして、日記を書くときに振り返って資料や情報を利用出来ます。茲愉有人さんから頂いた情報は大変助かります。 Kenny
デスクトップに置いていたのを、別ホルダーに移そうと思って、再度開いて見て、気づきました。
第4項を引用しますね。こういうことでした。
私の疑問・関心事の半ばは、ここに回答がありました。
京極氏は、鎌倉時代の仁治2年(1241)に近江守護大名佐々木信綱の四男氏信が、近江半国(愛知、犬上、坂田、浅井、伊香、高島)を与えられて、京都の館があった京極高辻の地名から京極氏を名乗ったことに始まる。近江における本拠地を柏原館(米原市清滝)にかまえ、菩提寺清滝寺を建立、一説には、伊吹山中腹の太平寺に山城を構えたという。
近江における守護大名(今の県知事)は、本来南近江の六角氏であるが、室町幕府成立時の京極導誉の活躍、応仁の乱における持清の活動など、本家六角氏をしのぐ勢力を持った。その後、内紛になり弱体化するが、16 世紀初頭には、京極高清が伊吹山麓上平寺に館をかまえ、以後浅井氏が戦国大名化するまで、坂田郡を拠点に北近江の戦国大名として続く。なお、京極氏は、江戸時代丸亀藩などの4大名家と二旗本本家で存続しており、鎌倉~明治維新まで続いた希有な大名家である。