主郭東西に天守級の建物があった
水口岡山城 滋賀県水口町
新たに発掘の二か所から石垣、瓦、礎石 などが
実感ですね、秀吉の城、本当にあったんや
第三次発掘調査現地説明会で案内された現場を見て
Kennyの滋賀から情報発信
(このブログの掲載期間:11月28日~12月4日)
今回(第三次)はお城の主郭部、その東西両端を発掘
下の写真をご覧ください。三筋の街、水口町の航空写真です。
そして、緑の山がお城のある大岡山(現在の古城山)です。
山頂の白く細長い地が水口岡山城の主郭部分です
(水口町紹介パンフレットの写真に私が加筆)
西側 主郭部(山頂部) 東側
水口町の、その昔の大手道から見た大岡山
今回の発掘からこんな事が分りました
出てきた石垣や瓦、礎石から 主郭(山頂部)の東西両方に天守級の重
層建造物(二階建て以上の建物)があったと推定できる。
それは同じ規模の天守があったとは考えにくく、石垣の並びや若干
の規模の違い(実際発掘に携わった解説員の ”強いて云えば” またそ
う考えたいとお断わりの上で)から東側が主の天守級、西側に同規模
の櫓があったのではと。
なお、お城と云えば天守を思い浮かべるけれど、この城にいわゆる天
守があったかどうかは現時点不明だそうです。
余談です:
・・らしいです: 天守と天守閣 : 本来、天守と呼ぶ方がよろしいようで、天守閣
は通俗的に使われているとか。
(ご参考) ウィキペディアの部分引用:
「てんしゅ」の漢字表記は「殿主」「殿守」「天主」なども当てられる。
天守閣(てんしゅかく)という呼称は明治時代前後に見られるよう
になった俗称である。建築学の学術用語では「天守」(てんしゅ)が
用いられている。
新たに見つかった石垣
東端
瓦葺建物の礎石とみられる
西端
石階段
石組溝
根石(建物などの土台石)
異なる種類の瓦が大量に
東端からは: 例えば大溝城(高島市)の瓦が転用されていた
こんな風にいろんな形の瓦がごろごろと埋まっていました
当日会場で展示されました
水口岡山城築城時に制作された軒瓦 (同展示品、以下同じ)
西端からは: 矢川寺など寺院の瓦が転用されていた
側石に石仏を転用(パンフレットから)
これだけ当時の宝物を見せて貰ったら!
さほど大きな山でもないし、お城・砦(跡)の多い滋賀県に住んで、
ちょこっと城跡歩きをしている私のような者でも、まあ、それなり
の程度の城跡(それ程期待は・・)かと思っていましたが、なんと
今回の現地説明会は目からウロコものでした。
本当にあったんだここに! 威容を誇る拠点城郭が
破城
関ヶ原の合戦で西軍が破れ、東軍(徳川)によって東海道を睨む
秀吉にとって超重要拠点だったこの城も叩き潰されたのですが、
石垣に纏わりつくように、叩き潰されたのかこれらの瓦礫を見て、
なるほど、物語風に聞いていたこのお城、今日の見学でしっか
りと実像を見た気がしました。
水口岡山城
天正13年(1585)、秀吉は中村一氏(かずうじ)にこの城を築かせ
ました。このころは既に東海の徳川家康や関東の北条氏は秀吉
にとって敵対する勢力であり東海道を眼下に見据え、鈴鹿峠を望
む立地のこの水口は東国への足掛かりとして重要な城でした。
当日参加者が頂いた資料
次に期待
これからも発掘調査は続き、近い内に現地説明会も期待できるそ
うです。
参考資料:当日頂いたパンフレット(上の写真)、ウィキペディア
ちょっと余談
見えていました、山頂の広場から鈴鹿の槍ヶ岳、鎌ヶ岳。 こんな
山容、初めてみました。
鈴鹿山系 鎌ヶ岳
今日もご覧くださいましてありがとうございました
kennyさんは、さっそく現地説明会に行かれたのですね。
>東側が主の天守?
やはり、そうですか。
先日行った時、大手からまっすぐ見える東側に天守があったのでは?という話を聞いていました。
発掘調査から、それが推定できるようになったのでしょうね。
>山頂の広場から鈴鹿の槍ヶ岳、鎌ヶ岳
いや~気をつけて見れば、見えるものなのですね。
私は全く気がつかずにいました。
山頂広場からここがなー、と思いにふけり、麓、そして更に目を遠くに向けると、△の山が目に飛び込んできました。 めりいさん、コメントありがとうございます。 Kenny