気候も穏やかな地中海世界で一・二を競う気候の「バラの花咲く島」という意味のロードス島と名づけられたこの島は天然の良港も有し、西にクレタ島、東にキプロス島を控えシリア・パレスチナ・エジプトへの通商路に位置する。
通商立国ゆえ地中海の覇者ローマの安全保障下に入り、見返りにローマの不得手な海軍を提供した。こうして信頼できる同盟者として、ローマの指導者予備軍の勉学のための最高学府としても機能した。
キケロはアテネに留学し、カエサルの暗殺者となったブルータスもアテネに続いてロードス島でも学んでいた。
何事にもよらず愛しはしてものめりこむ男ではなかったカエサルは、ここに1年ほど留学を続けた。 彼の留学が時々中断されたのは、小船で数時間の距離にある小アジアでことが起きるたびに、私兵を組織しておっとり刀で馳せ参じたためであった。
少し話を戻して、24歳のカエサルは、身の安全のためローマから国外脱出の必要に迫られた。そしてこのロードス島への留学となったのであった。
道中キリキア海賊という獰猛な海賊に捕らわれ身代金を要求された。カエサルは20タレント(4300人の兵士を1年雇える金額)を要求されたが、豪胆かつ自己顕示欲の強い彼は大笑いして「お前たちは誰を捕まえたか知らないのだ」と言い自ら50タレントに値上げした。
残忍さで有名なこの海賊に対し、身の安全と金策(借金)の可能性の両方を天秤にかけ、ぎりぎりの線が50タレントとはじいたのであった。これはカエサルの生涯の金銭哲学とも言えるもので、金を使うとき必ず両天秤にかけたのであった。
身代金を抱えて従者が戻るまでの38日間、眠りたいときに眠り、したいと思うことをし、海賊たちがうるさく騒げばうるさいと叱り、海賊たちの武術訓練や娯楽に参加し、ボディーガードに囲まれた重要人物然として過ごした。
身代金と引き換えに自由になった途端に近くの町で船と人を集め、海賊達を捕虜にし、海賊の財宝を奪った、おそらく50タレントはちゃんと取り返したのであった。そして海賊たちは、全員が絞首刑になった。その後、何事も無かったようにロードス島での学生生活を始めた。