自分は人から見てどう見えるか?このような疑問の発出は長い人生の中で自覚したことはまずなかったように思う。人とは主観的な動物であり、自分の生存、そして安楽で幸せな存在の形を信じ、求め、もだえ苦しむことすらある。幸せの形は、定式がないわけで、幸せの内実は何があるのか、ということも価値観の差として千差万別だから、「幸せになる」「幸せにする」と言っても相手から見れば、妄想の範囲で勝手にイメージするにすぎない。そんな風に深く考えると、人は人、我は我、お互いに干渉するのをやめましょうという哲学が自分の行動様式を規定していきかねない。これは一見賢い選択のようだが、実際上は人と人が交流する社会という物は、こんな風にはなっていないのであって、人と人とはいつでもどこでも、そして些細なことで衝突し、軋轢のオンパレードの中で、傷を負いながら、そして傷を負わせながら、ことを収めていくのが一生であろう。自分の哲学を貫いていると思っている自分にとっては、このような軋轢が激しくなると、次第に自分が不幸ではないかという気持ちがわいてくる。だから人は人、我は我・・という考えは、社会から逃げて自分の幸せを遠ざける思想かも知れない。 . . . 本文を読む