昨日と一昨日、嶺町文化センターまつりがあり、私はかりんを会場に持ち込んで小袋に詰めて皆様に渡していった。二日で優に100ケは運んだように思う。かりんはなぜか喉に効くそうである。「かりん」と書いて並べておくと、皆様はほとんどかりんを知っていた。そういえばロッテだったか、かりん“のど飴”が市販している。
私は今まではかりん酒にするだけであるが、妻はかりんはちみつ漬けを作り、子供たちに与えていたらしい。かりんは独特の艶があり、深いあめ色が魅力である。舐めるより眺めていたい気がする。何年か前、イギリスの青年からゼリーを贈られた。彼は我が家のかりんで作った欧風の「かりんゼリー」(写真1)を何瓶か作り持ってきてくれた。そのままにして眺めるだけでいまだに食べなかったことを今思いだした。
昨日、嶺町文化センターまつりの会場で、見知らぬ人から声を掛けられた。「どなたかな?」といぶかる私に、「これ、お宅のかりんで作ってみた“のど飴”なの、いっぱい作ったからお礼にお届けしたくて」と人懐こい笑顔が近づいてくる。差し出されたのは美しいラベルまでついている瓶づめだった。おまけに私の名前までラベルに刻されている。
「?」と呆然と立っていると、横から「これ、あなたの家のかりんで作ったの、私が渡してあげた」と声が。見ると、私の家にかりんを収穫に来たA さんだった。「そうか、かりんはリレーされてBさんにも渡っていったのか-」と納得した。これで友が一人増えるかもしれない。.
私は、生ごみを段ボール箱の中で堆肥にする方法を教えてもらい、5年間実践している。やり方が簡単なので苦痛もなく、家庭の生ごみはすべて自分の庭の中に戻しているが、こんなことをしている私に何人かの同調者が出てきて、トマトの会を作り、私と一緒にトマトや明日葉を育てている。野菜や果物は育てるだけでなく、長持ちさせる、不足に備えるなどの目的で加工をする。食品産業とはそういう循環型産業だ。これは農業の一部だが。私たち(トマトの会)は、このまねごととしてトマトをスムージーにしたり、明日葉パウダーにしたり、一人勝手な循環生活を楽しみたいと思っている。
循環生活は一人ではできない。何人かの仲間が必要だが、使命感や技術開発マインドを共通に持ってやることは(この歳では)難しい。疲れるばかりである。そこで卑怯だが、自分が使用できる空間と時間の範囲で、失敗もまた楽しと、楽しんでやりたいものだと思っている。
タタミ1畳ぐらいの土地に大きく育ったかりんの木が毎年恐ろしいぐらいに実をつけるのを私はいつも感動して見る。ほとんど何もしないのにものすごい数の果実を生んでくれる寸土こそ大切だ。しかし、私は果実を見て、「これは自然のプレゼント」なのだという講釈はたれないことにしている。人間と自然とを対立させない。人間こそ自然の部品なんだという気持ちでいられるのが良いと思う。そんな気持ちでかりんの木を挟んでその果実をみんなが分け合うがよい、人と人がつながると、プレゼントにも温かみが出るような気がする、そんな気持ちがしている。
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