1960年、私は広島の東洋工業(現マツダ)の工場見学をした。その工場は私の先祖の生業である牡蠣養殖の漁業権を買い取って埋め立てて立地していたので、子供の頃に見た光景の変わりようには驚いたものだった。
そこではキャロルという超小型車が生産されていたが、組み立て工が生き生きと働いている姿を見て、日本は工業国になるのだと明るい気持ちとなった。この工場の一角に「無駄を省いて贅沢をしよう」というスローガンが貼ってあった。なかなかの名文句だ。みんなも贅沢なキャロルが買える時代がくるよとささやいているようだった。
2017年の今、朝の散歩で町並みを歩いていると、当時は贅沢だった車は一戸一戸の住宅のフロントに配置され、10メートルおきにゴミが収集車を待っておかれている。
大田区によると可燃ゴミは年間20万トン近くという。これを2トン収集車で清掃工場に持ち込むとすれば、延べ10万台の車が1年間使役されている計算となる。
省エネが大切だと言われているけれども、やはりゴミを減らすことが本質なのかなと思う。
我々は目先を変えた商品をたくさん売り込み、買い込み、使い切れず、食べきれず、ゴミをたくさん排出するくらしのシステムを文明にしてしまったようだ。この文明では四六時中車は走り続け、工場や事務所は夜間も操業し、街の灯りと自動販売機の灯りは止むことはない。経済成長というのはこんな風景をもっと作り出すというのなら、おかしなことだ。生産と廃棄は同量だから生産力は廃棄力だといえる。その廃棄力には限界がある。一言に言えば我々は生き物に合わない文明をどんどん築こうとしている。
問題に気づきつつも我々は マツダのような大企業が牽引して経済成長をせねばこの暮らしは持たない、自然エネルギーも必要だが間に合わない、原発再稼働もやむなしと言う現政府の主張を退けるパワーは持たない。今日現実の文明が、持続可能ではない石油と原子力で支えられていることを知りつつも、その打開策を示さずに脱原発、自然エネルギー変換を迫る主張だけではことは進まない。足下から産業の構造を改めながら徐々にやるしかない。
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