田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

ブラジル交遊録(1)

2015年06月27日 09時48分00秒 | ブラジルと私(ブラジルをかじる)

ブラジル移民という言葉は、私にとっては、暗い時代に日本から貧困を逃れて、とにかく行きさえすれば……道が開かれるといった一縷の望みをかけた日本農民達を連想させる。こう言えば、単に客観的、傍観者的にブラジル移民達を知識として認識してきたことを白状していることになる。
 日本は今でこそ、食うに困らない国になったとして、全ての国民が日々の食生活に不足という要因を忘却して久しい日が続いているが、明治維新から大正、昭和の20年(敗戦の年-1945年)にかけて、言い換えれば開国・近代化の道を歩み続けている期間は、それはほぼ80年にもなるが-農業の生産力も低く、また地主制度などの制約要因があって農村は貧しく、労働力と兵士の供給源となっていた。
 ブラジルへの日本人の移民は、明治時代の終わり頃(1908年)から始まった。ブラジル移民の行われた背景は、コーヒー園の収穫労働力の募集に応募したものである。移民達は当初から移住=定住を決意してブラジルに渡ったものではないことは、当然のこととは言え、あまり気の付きにくい点である。暗くて不景気な日本を離れて、未開の大地に一攫千金を夢見て、4~5年くらい頑張って故国に錦を飾ろうという、素朴なヤマッ気を持った人々が、あるいは自分の職業(商売)に見切りをつけ、借金を一時的に棚上げしてもらったりして、気負ってやってきたのである。もちろん移民は、大がかりなものは民族移動という歴史性、社会性を帯びている。だから国際間の労働力の移動という現象だけを観察していては、何一つ本質に迫れるものではなかろう。けれども私のスタンスは、ブラジル移民とは何かということを掘り下げることにはない。私の興味の対象は、日本語を喋り、日本の農村から飛び立っていった人達が、彼の地でどのように農業によって自分たちのエコノミーとエコロジーを築いてきたかへの関心である。このことを知る機会は今をおいてはないのではないかというのが私の発想である。というのは、日系人は次第に現地に同化され、日本語が次第に衰退しつつある。後20年もすれば日本語を喋る日系人はごく一部になるに違いない。日本語が生きているうちに、コミュニケートしなくては、良い情報に巡り会うことはできないと考えるのである。私のブラジル行きの欲望なり、ニーズというのは、この程度のものである。したがって前述した傍観者的なスタンスから少しも出ていないことを再度確認したい。
 以下の文は、私がブラジル旅行中に寝床の中や、移動中の車の中で認めたメモや雑文を時系列的に綴ったものである。つまり日記状になっている。私の関心は観光旅行者の持つものと基本的に同列であると思うが、ここでは自分の感情に任せ、感性の命ずるがままに、あちこちに筆を飛び火させながら、何の重点もない記述にしている。この方法がブラジルにおける私の体験を生でパックする最もいい方法であると確信するからである。
 パラドックス的な言い方になるが、日系社会がブラジルに定住を果たしたことは、ブラジルに渡った移民連にとって、やはり成功であったと言わざるを得まい。農家の2、3男や、失業者達の救済事業としての目的でしかなかった移民事業は、移民側から見れば、未知の大陸で存分に活躍、雄飛する夢に励まされ、自分の能力を開花させる舞台として、その機会を掴んだという認識であったに相違あるまい。この認識が人々を鼓舞したのである。またブラジルの大地は、当時の日本の政策がどうあれ、十分に豊かな大地であり、能力のある人々の前には、前途を明るく照らす数々の事業が見えていたのである。とはいうものの、結果的には、少なくとも農業においてはどうやら一攫千金を得た人は皆無に等しく、移民達はコーヒー園での苦渋労働と待遇の悪さに呻吟し、当初に契約した稼ぎ先に留まる者は少なく、逃げ出すような形で、ブラジルの中を転々とする羽目になる。 (続)


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