私は大阪が好きだったので、大阪の紡績会社に就職した。大阪、京都、奈良、兵庫の古い町並み、お城や神社、王将の坂田三吉関係者との出会い、大阪弁・・これらは今は遠い記憶にしかないけれど、この数年、「維新」とがが、カジノやらインバウンドやらでせっかちな都市計画を企てているのに悲しみを抱いていた。
実は私の出生は、大阪に機縁するのではないかと思うことがある。わが祖先は、広島でカキ養殖を営み、毎年、瀬戸内を舟をこいで水の湊大阪にわたり、掘割に停泊して牡蠣舟の「居酒屋」を営んでいた。私は想像を交えて、ちょっとした大阪での風景を作文にしてみた。その書き出しだけど・・・・・・・・
♪ 山が高うて おかかんが見えぬ
おかかん恋しや 山憎や♪
日長の夏が過ぎ、風の通りも良くなる10月の声を聞くと、瀬戸内の浪静かな入江を南に受けたこの村の湊から近在の半年契約の若者や娘を乗せた牡蠣船が今年も海路を大阪へ向かう。牡蠣船は倉橋島の船大工さんの伝統工芸品のような仕立ての帆船、ここに牡蠣を満載し半年にわたる出稼ぎの旅に出る。1899年に生まれた父、当時満7歳の道資の生家は、朝日丸という帆船を所有し、毎年、生きの良い青年たちを乗組員として、他の5-⒍軒の農家と共同してこれまで養殖に専念していた作業場を片付け、船を清掃すると内海の案内に熟達した船頭と男女の従業員を乗り組ませて大阪へと押し渡っていった。
朝日丸は二本マストの三百石、20メートル程の帆船で、出港の時は紺地に白く船名を染め抜いたフラフをしょう頭高く掲げて故郷を後にした。秋の陽を一杯に浴び白帆を上げて美しい島々の間を航行するのは慣れた者にはいつも軽やかな昂奮を呼び起こさずにはいられなかった。中にはまだ不便だった陸路を避けて初めて見る大阪へ旅する、便乗の客なども混じっていた。
♪♪ 向洋(むかいなだ)出る時ゃよう 涙が出たがよぅ・・
金輪や森山のうやれ 唄で超すよう♪
とのど自慢の船頭が歌った。・・・・・以下略
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