そして話が進むうちに、もう一つは人間とお化けの対比が浮かんだ。アリとゾウは交流がなく目線はそろわない、お互いに無関心に生きる関係だ。ゾウにはアリが見えない。アリはゾウの全体葬が見えない。多摩川の鉄橋をさかさまに持ち上げて跳ね飛ばすほどの怪力を持つ巨大怪獣ゴジラは、もぞもぞ動いている人間の動きなどは姪に入らない。ゴジラの行う破壊に人間を困らせる意図はない。映画では、人間がゴジラを最初から不倶戴天、邪悪としている。人間のリーダーは無効を知りつつ、あらゆる近代兵器、最後には核兵器を使うトンチンカンを世論に問う。銃弾が目暗打ちされる。武装した人間に、巨大怪獣は人間の存在を認め敵意を発見する。この「未知との遭遇」は、話し合いも交渉もなく、いきなりの格闘となり、文明がめちゃくちゃになる。映画はこのめちゃくちゃになる経過を滑稽な見世物にしている。
人間とお化けは幻想的同一体である。人間は自ら築いた文明を見て、「キャー!お化け」といって怯え、お化けはその人間を見て、「キャー!お化け」と言って暴れる。一方は陽で一方は陰である。人間はゴジラの中に潜り込み、ゴジラも人間の中に潜り込む。近代文明の下では人間とお化けはお互いを必要とする関係、または求めあう関係になり、やがて幻想的な同一体になる。ゴジラとのドタバタは対テロ同盟や福島原発事故などでのモグラたたきの姿と重なる。「キャー!お化け」と言い合う事件が続かなければ現代の文明は維持できなくなるという逆説。こんなことが、この映画が重たい喜劇映画として存在理由なのだと思った。
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