昭和18年、杉並に住んでいた時、40歳の父は、ある時スコップを出してきて、額に大粒の汗をかいて庭に穴を掘り始めた、穴はみるみる大きく、深くなっていった。「?」と疑問が生じたが、面白かったのでそれをじっと見ていた。「庭に大きな穴がある」と私は認識したが、それ以上の認識には至らなかった。父はその後遠くへ去って行ってしまった。遠くとは海外のことであった。やがて戦争がはげしくなり、母と祖母が私に分厚い帽子(防空頭巾)を持たせて、その傍から離れることを禁ずる、繋がれた犬のような毎日が始まった。父が予想していたのだろうが、爆撃が頻繁に襲ってきた。「空襲警報」と叫びながら走っていくメガホンの声があるごとに、母と祖母は、私たち兄妹を押し入れに押し込んだ。はるか上空であるが、暗闇に不気味な飛行機のエンジン音が聞こえ、力なく吠える高射砲の音が間欠的に聞こえていた。これが何を意味するかは私にはわかっていたが、眼前に凄惨な光景を見たわけでもないので、身の危険が差し迫っているとは思わなかった。あるとき数軒先の近所に爆弾が破裂したらしい、大きな破裂音がした。家の中では危ないと思ったのか、母と祖母は、私たち兄妹を父が作った穴に押し込んだ。祖母が出口をふさぐ形で居座り、何事かあらぬことを繰り返しつぶやいていた。祖母の足元をかいくぐり庭に出ようとすると祖母はしっかりと私の足を抑えて出るのを許さない。その無理な姿勢で空を見上げると無数の縫い鉢のような物体が上空に輝いて舞っており、そこに向かって綿菓子のような白い雲がゆっくり上昇し、力なく落下していた。ずっと後になって、縫い針は焼夷弾、白い雲は高射砲と推認したが、恐怖ということを知らない年齢だった私には、一連の行動はゲームのように楽しくさえあった。後に母から聞いた話だったが、祖母がつぶやいていたのは「南無阿弥陀仏」の連呼だったらしい。
戦後71年。平和が当たり前の常識になっているわが国は、ほとんどの人が戦争の悲惨さを直接経験していない。戦争は日本の市民と相手国の市民の憎しみあいでもなければ決闘でもないのに、戦場は市民と市民の決闘、殺し合いである。これは、それぞれの政府が自国民をして相手国への憎悪を掻き立たせ、戦争に駆り立てる憎悪の工程が、もっともらしい論理を作り上げて、さまざまな局面で用意される。戦争という理不尽を根本的になくさなければいけない。国際的な紛争を防ぐ外交の力、そしてそれぞれの市民が政府に戦争の準備をさせないような力を付けないといけないが・・・。
戦争の生なましい実態を目撃し、語れる人が大方世を去ろうとしている。私も幼少期にその一端をかすった程度にこの戦争に触れた一人である。小児だった私の目に触れ、体験したことなど、記録としての力はないだろうが、生きている限り私の記憶は消すことはできない。しかしやがて記憶は証拠能力もなく、あっけなく消されてゆく。だから、戦争が残した様々な記録を大切にし、ゆめゆめ修正したり黒で塗りつぶしたりしてはならない。これらの記録を反省を込めて見つめる力を蓄え、その評価を巡って論争をやっても構わないが、戦争という理不尽をそれぞれの政府に選択させない国際的な力に変える必要がある。この力を蓄え行使することが、戦争を起こさない歴史を作ることになる。今更ながらであるが、(未来の)歴史は作れるが、(過去の)歴史は作り変えることはできない。
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