今年はまもなく80歳になる。時の流れは否応なく暴力的であるので、齢のことを忘れて、他人と物事を約束したり、一緒に計画することは困難になろう。若い時は80まで生きながらえるとはつゆほど思っていなかったが、もう残された未来は自分にはないから、後は「人生の店じまい」の潔さをどう実現するかを考える。おそらく来年以降はそういうことで身の始末を実施する過ごし方となろうか。ここまで来るには長かったのか短かったのか正直わからない。これまでの人生を充実して過ごしたのか、それともむなしく過ごしたのか、正直わからない。反省を込めながら、一方では達観し、さらに別の一方では、自分がいなくなった時の子供や孫たちのこと、日本という国のこと、世界のことなどを心配することが加速度的に大きな比重を占め始めている毎日である。 国民はうすうす気づいていると思うが、日本は社会が壊れつつある。いやもう半壊していると言っても差し支えない。その大きな責任は国民が時の政権に、「米国隷従」「大企業優先」の二つの大方針を、安穏と許し続けてきたからだと考える。
日本の運命を議会制民主主義に任せるのは、合理的だが、日本の国民はこれを形骸化する選挙制度を許した。司法の選挙(最高裁判事の任免)はもっと形骸化している。投票率は激減し、国の運営に国民が関与することが遠のいていった。これが質の悪い選良を生み、巨大与党の貴族・官僚政権を作り、少子高齢化、東京一極集中が止まらないいびつな構造の国家ができあがってしまった。
日本の政治の劣化は、経済の破綻(格差)に加え、すべての資産をオジャンにするハイパーインフレーションを呼ぶのではないかと思うが、その時には、すでに憲法は死に、必然的に独裁(アジア的専制政治)が現れ、そのもとで国民がどのような辛酸をなめるのかと思うと居ても立っても居られない思いがする。
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