石川県内の旧北国街道をゆく!
旧北国街道は、
その昔源平の頃では木曽義仲が京都に向けて進撃し、
江戸時代では、
参勤交代で加賀の大名行列が金沢江戸を往復し、
--
奥の細道では松尾芭蕉が南下して通った道である。
-----
旧北国街道はどのルートだったのか?
当時の物はどれだけ残っているのか?
そんなブログの記事を残したいと思っていた。
そしてオイラには強い味方がある。
まつお出版「北陸街道紀行」だ。
通称、味方の本さ
こうやってはじまったこのシリーズ。
いよいよ今回が最終回です。
じゃじゃじゃ~ん!!!
さて今回はここから、
今日は、朝早くに来ました。
そして味方の本
щ(゚ー゚щ)ラストカモーン!
赤矢印からのスタートです
では行こう。
この時間帯だと、まだ涼しくて気持ちいいです。
と思いきや、早くも強い日差しが
えっ道ないんですけど・・・、
もしかして、ここ行くんかい・・・
こりゃ最後にして、最大の難関ルートになる予感がするぜ
でもオイラは行くぞ!
今までだってかなり無理してきたんだ!
最後はきっちりと踏破するんだ
倒木が道を塞ごうとも、
土砂崩れが行く手を阻もうとも、
変な虫が顔にまとわりついたって、
オイラは!旧街道を前進するのみ
おっ!フェンスにアスファルト発見!
案内の木も立っていた。
北陸自動車道に出ました。
あの橋を渡ります。
これがあって助かった。
現代の北陸自動車道の上に、旧北国街道が渡るとは、新旧の公道ここに交わるですね。
味方の本にもあったけど、
越前まで、おおむねこんな丘陵地帯を通って行くことになる。
高速道路はその丘陵地帯をザックリと削りとって分断しています。
反対側の丘陵地帯に渡り入って行く。
右側になんかある。
1773年宝暦十二年三月末 加賀千代女吉崎参詣往還
そうか松任千代女もここを通ったんだ。
「かさとりの山や笑ひのもどかしき」
道が合流します。
歩きやすい道はうれしいねぇ
うむ。
ここに入っていくのか、
村だ。
三木という集落です。
大通りを
旧街道は横切るのだ。
うーむ
草が生い茂っている。
やっとアスファルト道路
なんかあるよ。
案内石標だ。
ふむふむ
これまでもいろんな街道を紹介する案内標を見てきたね。
各町によっていろいろ種類はあったね・・・。
しばらく北陸自動車道沿いに旧街道が進む。
また案内石標だ。
それによると、
この橘には宿場駅で使う駅馬が17頭飼育されていたんだって。
ちなみに大聖寺は11頭、動橋は14頭、月津は22頭置かれていたと。
橘の集落に入る。
ここが県境の町になるから、
当時も加賀国最後の村だ。
越前側からすると加賀国最初の村となる。
こういう街道沿いで国境のお宅って、忍だったりする可能性もあるんでは
藩の密命により、家前を通る者を監視してたりさ・・・。
さて旧街道はというと、また丘陵地帯に入っていく。
神社か、
いろいろ想像するんだけど、
街道沿いの加賀国最初の神社なら昔は相当多くの人が立ち寄ったはず。
道中の安全祈願、加賀国に入った感謝
今では誰も立ち寄らない神社か・・・(しんみり)
林道は涼しくていいね。
お地蔵さん。
むむ
水汲坂。
昔は水は貴重でしたからね。ここで水が汲めたんだろうね。
そして、
味方の本にもあるが、
橘の宿址
ここに宿場や茶屋があったとある。
こんな所に宿場とは、
そしてここで道が二手に別れるが、
右は吉崎(蓮如道)で 左は細呂木(旧北国街道)
当然、旧北国街道へ向かう。
またまたこんな感じに
ん!
あっ!ゴルフ場だ!
フェアウェイが眩しいね。
でもオイラはゴルフ興味ありません。
旧街道はゴルフクラブハウスに向う道路につながって、
しばらくはこの道を行きます。
はい
片山津ゴルフ倶楽部。
なんと!
これか!
クラブハウスには入らず、まっすぐ進みます。
ここもまっすぐ
なんと広大な畑!
梨園です。
ほら
さていよいよ・・・・
味方の本の加賀国編も、
さらに中世以来、宿駅が置かれていた橘の茶屋跡、かつて一向一揆の一大拠点であった吉崎御坊へ至る道との分岐点を過ぎ、
ゴルフ場と果汁園の間の細い道をしばらく進み、国境の一里塚の碑を過ぎると越前(福井県)との国境に着く。
味方の本ありがとう、大いに役に立ちました。
番所があった場所。
!!!
ついに到着。
加賀国と越前国の国境のしるし。
お国境名号搭である。
ゴールです。
こちらが加賀国で向こうが越前国です。
今日はこれだけ進みました。
我ながらようやったわ。
いろいろ思い出すぜ。
旧北国街道・・・・。
多くの事を知ることができた。
またいろいろ発見して大変勉強になりました。
よっしゃー!
石川県の旧北国街道を踏破したぞ~!!!
完
【ヒゲ親父】
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旧北国街道は、
その昔源平の頃では木曽義仲が京都に向けて進撃し、
江戸時代では、
参勤交代で加賀の大名行列が金沢江戸を往復し、
--
奥の細道では松尾芭蕉が南下して通った道である。
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旧北国街道はどのルートだったのか?
当時の物はどれだけ残っているのか?
そんなブログの記事を残したいと思っていた。
そしてオイラには強い味方がある。
まつお出版「北陸街道紀行」だ。
通称、味方の本さ
こうやってはじまったこのシリーズ。
いよいよ今回が最終回です。
じゃじゃじゃ~ん!!!
さて今回はここから、
今日は、朝早くに来ました。
そして味方の本
щ(゚ー゚щ)ラストカモーン!
赤矢印からのスタートです
では行こう。
この時間帯だと、まだ涼しくて気持ちいいです。
と思いきや、早くも強い日差しが
えっ道ないんですけど・・・、
もしかして、ここ行くんかい・・・
こりゃ最後にして、最大の難関ルートになる予感がするぜ
でもオイラは行くぞ!
今までだってかなり無理してきたんだ!
最後はきっちりと踏破するんだ
倒木が道を塞ごうとも、
土砂崩れが行く手を阻もうとも、
変な虫が顔にまとわりついたって、
オイラは!旧街道を前進するのみ
おっ!フェンスにアスファルト発見!
案内の木も立っていた。
北陸自動車道に出ました。
あの橋を渡ります。
これがあって助かった。
現代の北陸自動車道の上に、旧北国街道が渡るとは、新旧の公道ここに交わるですね。
味方の本にもあったけど、
越前まで、おおむねこんな丘陵地帯を通って行くことになる。
高速道路はその丘陵地帯をザックリと削りとって分断しています。
反対側の丘陵地帯に渡り入って行く。
右側になんかある。
1773年宝暦十二年三月末 加賀千代女吉崎参詣往還
そうか松任千代女もここを通ったんだ。
「かさとりの山や笑ひのもどかしき」
道が合流します。
歩きやすい道はうれしいねぇ
うむ。
ここに入っていくのか、
村だ。
三木という集落です。
大通りを
旧街道は横切るのだ。
うーむ
草が生い茂っている。
やっとアスファルト道路
なんかあるよ。
案内石標だ。
ふむふむ
これまでもいろんな街道を紹介する案内標を見てきたね。
各町によっていろいろ種類はあったね・・・。
しばらく北陸自動車道沿いに旧街道が進む。
また案内石標だ。
それによると、
この橘には宿場駅で使う駅馬が17頭飼育されていたんだって。
ちなみに大聖寺は11頭、動橋は14頭、月津は22頭置かれていたと。
橘の集落に入る。
ここが県境の町になるから、
当時も加賀国最後の村だ。
越前側からすると加賀国最初の村となる。
こういう街道沿いで国境のお宅って、忍だったりする可能性もあるんでは
藩の密命により、家前を通る者を監視してたりさ・・・。
さて旧街道はというと、また丘陵地帯に入っていく。
神社か、
いろいろ想像するんだけど、
街道沿いの加賀国最初の神社なら昔は相当多くの人が立ち寄ったはず。
道中の安全祈願、加賀国に入った感謝
今では誰も立ち寄らない神社か・・・(しんみり)
林道は涼しくていいね。
お地蔵さん。
むむ
水汲坂。
昔は水は貴重でしたからね。ここで水が汲めたんだろうね。
そして、
味方の本にもあるが、
橘の宿址
ここに宿場や茶屋があったとある。
こんな所に宿場とは、
そしてここで道が二手に別れるが、
右は吉崎(蓮如道)で 左は細呂木(旧北国街道)
当然、旧北国街道へ向かう。
またまたこんな感じに
ん!
あっ!ゴルフ場だ!
フェアウェイが眩しいね。
でもオイラはゴルフ興味ありません。
旧街道はゴルフクラブハウスに向う道路につながって、
しばらくはこの道を行きます。
はい
片山津ゴルフ倶楽部。
なんと!
これか!
クラブハウスには入らず、まっすぐ進みます。
ここもまっすぐ
なんと広大な畑!
梨園です。
ほら
さていよいよ・・・・
味方の本の加賀国編も、
さらに中世以来、宿駅が置かれていた橘の茶屋跡、かつて一向一揆の一大拠点であった吉崎御坊へ至る道との分岐点を過ぎ、
ゴルフ場と果汁園の間の細い道をしばらく進み、国境の一里塚の碑を過ぎると越前(福井県)との国境に着く。
味方の本ありがとう、大いに役に立ちました。
番所があった場所。
!!!
ついに到着。
加賀国と越前国の国境のしるし。
お国境名号搭である。
ゴールです。
こちらが加賀国で向こうが越前国です。
今日はこれだけ進みました。
我ながらようやったわ。
いろいろ思い出すぜ。
旧北国街道・・・・。
多くの事を知ることができた。
またいろいろ発見して大変勉強になりました。
よっしゃー!
石川県の旧北国街道を踏破したぞ~!!!
完
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