「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

「英語で授業」を真面目に考える

2010-10-26 22:00:05 | 授業
ブログの更新は滞っているが、最近もいろいろな活動に参加している。もちろん、その中で最大のものは地元フォーラムだが、今回はその数日前に他校へ授業参観に赴いたときの話。

お邪魔した学校は私の母校であり、高校時代のことが懐かしく思い出された。2つの授業を半分ずつ見させていただいたのだが、教えあったりペアワークがあったりで楽しい授業だった。

研究協議の話題の一つが、新指導要領で示された「英語で授業」の話。授業者の先生曰く、英語での授業はこれまでにも試してみたが、一生懸命活動してくれる生徒でさえ、成績は思うように伸びず申し訳なく感じた。進学に耐えられるような力を付けさせるために、英語での授業は封印している、と。

私は、ずいぶん前のエントリーで、今頃になってお上から「英語で授業をしなさい」と面と向かって言われることの気恥ずかしさについて触れた。(大学4年の教科教授法の授業で、「fireには「解雇する」という意味があるんだよ」と真面目な顔で(O原先生に)「教えられた」ときの気恥ずかしさと重なる)正直なところ、そんな思いがあり、英語で授業について、今更まともに論じることは野暮だという態度を取ってきた。

しかしながら、最近の動きを見ていると結構多くの方が、この件に関して気にし始めているらしい。研究協議のときには残念ながら私の考えを述べる時間が十分になかったので、一通りのことをここに書いておきたい。

最初にはっきり述べておきたいのは、おそらくインプット中心の授業展開では限界があるということ。英語で授業という発想の源はインプット仮説だということを今までに書いてきた。諄いようだが、これは英語のシャワーで自然と英語の力が身についていくという考え方であることを確認しておきたい。コンテントベースの授業と言い換えることもできるかもしれない。

この授業の最大の弱点は繰り返しが意図的にデザインできないこと。仮にそれを試みるというのであれば、よほど注意深く設計されないかぎり、この手法の根幹であるコミュニケーション自体が崩壊する。すでに知っている話を定着のために繰り返し聞かされれば、生きたコミュニケーションにはならないからだ。(言うまでもなく、ここでのコミュニケーションとは、純粋な(主に指導者と学習者間の)意味のやりとりを想定しているのであって、生徒同士の定型会話的会話ごっこではない。念のため)

ところが、定着をもたらすのは繰り返しとインパクトに他ならない。教室から出てしまうと目標言語との接触が困難になるEFL環境ではそれを意図的に作らざるを得ない。だから、英語で運営することに拘りながら、指導効果も上げるつもりならば、その原点であるコミュニケーションの純粋な追求をあきらめる他はない。(ここが、英語による授業の大きな矛盾点の一つでもある)それでは、どうしたら良いかというと、学ぶべき言語材料を明確にして、なるべくコミュニケーションに近い形を保ちながら、有機的な繰り返しができるように授業をデザインするのである。

結局のところ、行き着く先は、時間と手間をたっぷり掛けたディクト/コピーグロス、あるいはリテリングだと考える。(「読み→書き」をコピーグロス、「聴き→書き」をディクトグロス、「読みor聴き→話し」をリテリングと想定しています。リテリングを二つに分ける表現があればこっそり教えてください)すなわち、前のエントリーで述べたように、読んだもの、聴いたものをしっかり理解し、そこで使われた馴染みの薄い表現を定着させ、それを使って理解した内容を表現させるのである。

これまでにも何度も述べているが例えば以下のような手順が考えられる。

1 導入・・・内容に関する身近な話しで関心を高める。前時から続きの場合は、既習の内容を簡単な問答で振り返る。

2 1周目・・・あらかじめ、トピックや主人公、場面、時間など内容把握のポイントに対する意識を高めておいてから、リスニング+黙読(できればポーズの多い音声で)プラス英問英答で大まかな内容を確認。

3 新出言語アイテムの確認・・・語彙・表現・文法などで未知のものについて簡単に説明する。

4 語彙表現の音読・・・フラッシュカードを用いて新出の語彙・表現を音で定着させる。最初は音の確認のラウンド、2回目は意味と音の結びつけのラウンド、3回目は意味を見て即座に音を表出させるためのラウンド。

5 2周目・・・リスニング+黙読の2回目。今回はパラグラフごとに英問英答で細部まで内容確認。リスニング+黙読が終わったときにテキストを伏せさせるのがポイント。つまり、アシストつきのリテリングである。このときに、フラッシュカードで学んだ新表現をうまく使って答えさせるような発問をする。適宜、リファレンシャル・クエスチョンを交え、コミュニケーションの形が崩れないように配慮する。

6 音読・・・各種音読により定着の促進を図る。

7 内容のリライト・・・本文中のキーワードを与え、内容をリライトさせる。

8 リテル・・・リライトした内容を口頭で発表する。

おそらく、英語を使った授業の多くでこれと大差のない「型」が使われるのではないだろうか。リテルのあとに自分の感想や意見を述べるという活動(本来の意味でのアウトプット)が必要だという声も聞こえてきそうだ。しかし、そこを重視して授業ができるくらいの条件が整っているなら、ハナから手の込んだ指導など不要であり、それこそ、いきなりディクト/コピーグロスから始めればよい・・・・

さて、実は、ここまでは前振り。これからが私の「英語で授業」に対する本心だ。

上記のような活動の繰り返しを通して「ことば」に対して払われるべき敬意・造詣の念は育まれうるだろうか。素材の文を、単なる素材として扱い、そこから必要な表現を拾って行くだけでことばの深みや豊かさに敏感になれるのか。生徒に対して外国語は単なるツールにすぎないというメッセージを送っていることにならないか。国語の授業に置き換えれば、粗筋だけとって、あとは知らなかった漢字と表現を覚えておしまいということだ。表層のみが掬われて、繊細なニュアンスや奥行きは捨てられてしまうのである。

初級の学習者がことばの深みや豊かさを求めるためには、母語の助けも必要になる。そこをも目標言語に拘れば、先に書いたコンテントベース式オールイングリッシュ授業の迷宮に、再び足を踏み入れることになるからだ。母語を用いて深さ豊かさを求めることを、英語の習得には無関係で無駄だと一蹴する人もいるようだ。しかし、「ことば」を教えるものとしてそこを切り捨てるのは、私にはどうしても納得がいかないのである。


音読といい、イヤよイヤよも好きのうちというか、アンビバレントでごめんなさい・・・

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