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江古田古戦場碑

2007年01月15日 06時26分25秒 | Weblog

所在地  中野区松が丘二丁目29番地、35番

このあたり、哲学堂公園から野方六丁目にいたる
新青梅街道沿いの一帯は、文明9(1477)年
太田道灌と豊島泰経らが激戦を繰り広げた
ところです。ここでの合戦は、享徳の乱
(1454~1482)という長期にわたる内乱の
中での戦いでした。

享徳の乱は、古くからの豪族に支持された
関東公方足利成氏と、太田氏が仕える関東管領
上杉氏とが対立するなかで、結城・武田氏により
管領上杉憲忠が殺害されたことが原因で起きました。

この乱により関東は二分され、幕府などの支援を
受けた上杉方は、武蔵・相模・上野をおさえました
が、そのとき、江戸城を根拠地とした道灌は、
武蔵国の領主たちを支配下にまとめ、戦を有利に
すすめるために重要な役割をはたしました。

ここでの合戦は、武蔵野の開発を行ってきた豊島氏
にかわって、太田氏が武蔵野支配を確立するうえで、
大きな意味をもっていました。

以上 中野区教育委員会作成 立て札より
            (昭和57年2月)


昭和31年に建設された碑文は次の
内容が書かれている

文明九年(1477)四月十三日上杉定正の臣
江戸城主太田道濯は関東管領上杉顕定及び定正を
襲うて敗走せしめた長尾景春の党豊島泰明を
平塚城に攻めて帰ったが泰明の兄豊島泰経等
石神井練馬両城より泰明救援のため馳せ来るを
迎えて江古田原沼袋の地に激戦し、
泰経は翌14日敗死し、後遂に石神井等を
陥れた
この事は史籍に明徴有り道灌の偉業の一つに
数うべきであらう。
道灌江戸築城以来ここに5百年わが区は道灌戦蹟
の地に因み碑を建てて永くその事績を伝えんと
するものである。
       昭和31年10月1日






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