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隆光大僧正の墓石 on 2017-12-28

2018年06月03日 04時00分51秒 | 奈良情報

2017年12月28日、平城宮跡(奈良市二条町)の北側にある佐紀古墳群を中心
に散策をしている最中に本日紹介する隆光(りゅうこう)大僧正の墓石を見つけました。

この地は超昇寺(ちょうしょうじ)跡で現在は佐紀こだま保育園(かっては佐紀幼稚園が
あった)の敷地の裏側(南側)にあります。

隆光大僧正の墓石の基本情報

所在地:奈良市佐紀町2715
問い合わせ先:隆光僧正顕彰会事務局・山城町延命院内 TELは0774-86-5171
生年月日:慶安2年2月8日(新暦換算1649年3月20日)
没年月日:享保9年6月7日(新暦換算1724年7月26日)


所在地のGoo地図を添付しておきます。
 
近くには佐紀神社があります。


上の写真は隆光大僧正の墓石です。


上の写真は卒塔婆


上の写真は隆光大僧正の墓石であることを示す標石


上の写真は現在に残る超昇寺(現在廃寺)の住職などの墓石





上の2枚の写真は現地説明版


隆光大僧正は、慶安2年(1649)この地(大和国佐紀村)の河邊家に生まれ、長谷寺等で
学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設しました。
「生類憐れみの令」を綱吉の母・桂昌院に進言し、その援助で大和の社寺修復に
尽くしました。特に永禄10年(1567)松永久秀が焼き、142年間雨ざらしの東大寺
大仏殿再建に当たり、東大寺の公慶上人を助け再建した功績は大きい。

晩年は故郷の超昇寺(現在廃寺)に引退し、享保9年(1724)に亡くなりました。

上記の記述とだぶる部分もあるがWikipediaより隆光大僧正について引用紹介します

1658年(万治元年)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学した後、奈良・醍醐で密教を
修め、儒学・老荘をも学んだ。1686年(貞享3年)5代将軍徳川綱吉の命により将軍家の
祈祷寺である筑波山知足院の住職となったの機に、急速に綱吉の帰依を得た。
10月3日に江戸城黒書院で安鎮法を修している。1688年(元禄元年)には知足院を
神田橋外に移して護持院と改称してその開山となった。1695年(元禄8年)には
新義真言宗の僧では初めて大僧正となっている。
宝永4年2月25日隠居し、駿河台成満院へ転住する。
しかし、綱吉の死去と共に失脚。宝永6年(1709年)には江戸城への登城を禁じられ、
筑波山知足院への復帰願いも認められず[要出典]、失意の内に大和に帰郷し没したという。
墓所は大阪府太子町と奈良市の佐紀幼稚園裏の2カ所にある。
綱吉及び綱吉の生母桂昌院の寵を受け、生類憐れみの令を発令することを勧めたと
されていたが、生類憐れみ政策の研究が進むと政策が開始された時期は貞享2年以前と
考えられており、隆光主因説は後退している。また、京・奈良の寺社の再建を
綱吉・桂昌院親子に奨めた人物でもあり、幕府の財政悪化の遠因ともなった。


最後にこの付近から観た復元された平城宮第1次大極殿の写真を添付しておきます。




関連サイト:

 僧・隆光ゆかりの超昇寺跡(奈良市佐紀町)/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第25回 - tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」 (goo.ne.jp)

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