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大山捨松の生涯 ~その情熱と志~

2021年05月09日 04時14分16秒 | Weblog

大山捨松(1860~1904)の生涯について調べていたら下に添付の動画が

見つかりましたので紹介します。

大山捨松の生涯 ~その情熱と志~

子孫で歴史ライターの大山格さんが解説されています。

 

上の写真は鹿鳴館の華として活躍した大山捨松

出典:英雄たちの選択「“明治”に挑んだ女性 ~“鹿鳴館の華”大山捨松の実像~」

[NHKBSプレミアム] 2020年11月25日 午後8:00 ~ 午後9:00 

 

これからは明治4年(1871)11月12日(新暦換算1871年12月23日)に横浜を出発した

岩倉使節団の一行として11歳で米国に留学した大山捨松に関する記述です。

 

  
   上の写真は留学生のリストです。
   出典:泉三郎 著 誇り高き日本人 国の命運を背負った岩倉使節団の物語(2008)

   
   上の写真は駐日米国公使 デ・ロング夫人と女子留学生(5名)
   出典:幕末明治 古写真帖 新人物往来社 (2003)Page76

   
   上の写真はWikipedia(岩倉使節団)で使用の米国留学女学生
    左から、永井繁子 (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、
    山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳。

   5人の略歴は下記のとおり(Wikipediaより)年齢は出発時
   永井しげ:永井繁子(ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘
                        (旧幕臣・永井久太郎の養女)。
   上田てい:上田悌子(うえだ ていこ)、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、
                     後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。
   吉益りょう:吉益亮子(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘、
                       1885年以前に死去。
   津田うめ:津田梅子(つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・津田仙の娘。
   山川捨松(やまかわ すてまつ)、満11歳、会津藩の国家老・山川尚江重固の末娘。


   

   

   上の2枚の写真も女子留学生に関する資料
   出典:詳説 日本史図録 第2版 山川出版社(2008) Page212
    女子留学生の派遣は開拓次官・黒田清隆の建議による。

Wikipediaによれば

5人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人は病気を理由に
その年のうちには帰国してしまった。
逆に年少の捨松、永井しげ、津田うめの3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していった。
この3人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に
寄与していくことになる。

大山捨松はアメリカに渡っていた兄の山川健次郎の知人の仲介で、コネチカット州
ニューヘイブンの会衆派の牧師レオナード・ベーコン (Leonard Bacon) 宅に寄宿し、
そこで4年近くを一家の娘同様に過ごして英語を習得した。

このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコン

(捨松より2歳年上)である。

アリス・ベーコンは後に女子英語塾の英語教師として来日します。

出典:NHK BS3 英雄たちの選択

大山捨松はニューヨーク州のヴァーサー大学を卒業した後、ニューヘイブン病院で

2ヶ月実地看護に従事し、看護婦の免許を取得した。

上の写真はバーソー大学の卒業記念写真より 出典:NHK BS3 英雄たちの選択

 

11年間の米国生活の後、捨松は明治15年(1882)11月22日帰国。

その頃の日本では20歳までに結婚をすることが多く、捨松にも結婚話があったがすべて

断り、明治16年(1883)11月8日に軍人の大山巌と結婚することとなります。

大山巌は前妻を亡くし、前妻との間には3人の子供(下記 By Wikipedia)がいました。

長女/義娘: 信子(のぶこ、長井荷風『不如帰』浪子のモデル)
次女/義娘: 美津子(みつこ、夭折)
三女/義娘: 芙蓉子(ふよこ)
四女/義娘: 留子(とめこ、『鹿鳴館の貴婦人』の著者・久野明子の祖母)

 

結婚後、大山巌との間に3人の子供(下記 By Wikipedia)を育てています。

五女: 久子(ひさこ)
長男: 高(たかし、海軍少尉候補生、練習航海中の事故で殉職)
六女: 永子(ながこ、流産)
次男: 柏(かしわ、考古学者、戊辰戦争研究家、公爵、妻は近衛文麿の妹・武子)
 孫:梓(海軍主計士官、広島大学教授・歴史学者、柏の長男)
 孫:桂(海洋生物学者、柏の次男)

「鹿鳴館の名花」と謳われ、日本の西洋化、社会奉仕、女子教育に貢献した。

明治33年(1900)、津田梅子とともに女子英学塾(後の津田塾大学)を創立した。

上の写真は鹿鳴館でのチャリティー風景 

チャリティーで得た収入は看護教育の資金などにされた。

上の写真は晩年を過ごした那須塩原の別荘

大正8年(1919)2月18日、スペイン風邪に罹患し死去 享年59歳

墓は那須塩原市にあり夫の大山巌の墓(上の写真の正面)の右手に並んで葬られています。

 

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