CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

岩国城大釣井

2005年05月21日 06時43分47秒 | 岩国情報
立て看板の文を要約引用

この大井戸は慶長13年(1609)築城と同時に
つくられたもので非常時の武器、弾薬等の
収納の役目や敵に包囲された時の脱出口の
機能をもった井戸と伝えられています。
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清願寺マリア観音立像---由宇町

2005年05月20日 06時04分41秒 | 岩国情報
マリア観音は隠れキリシタンの信仰した聖母マリアを観音様に
擬したものと思われますが、なぜ清願寺にあるのか判りません。
一説によれば明治時代にある人が処分に困り寺に預けたものとも
言われます。
子安観音として安産、子育てにご利益あるということで
土地の人々に信仰されています。

写真の堂の中にあります。

清願寺は臨済宗天竜寺派の古刹で山号は霊松山。
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岩国城跡旧天守台について

2005年05月19日 05時50分15秒 | 岩国情報

岩国城跡旧天守台について
(現地のたて看板の文より引用)
 岩国城は江戸時代には珍しく山上に築かれた近世城郭である。
 この城郭は毛利氏の一族、吉川広家が慶長8年(1603)に
着工同8年に完成したが元和(げんな)元年(1615)一国一城令
により取り壊された。
城郭の中心となる天守台は古式穴太積み(こしきあのうづみ)と
呼ばれる石積みを基本としながらも戦国時代に地方独自の石積み
の技術の加わった形で造られた構造物である。
天守台の石垣は大きめの石と隙間に詰めた小さめの石からなり隅部
の角石には算木積みの技法が見られる。
その隅部には反りがなくほぼ直線上の稜線に仕上げられており、
見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りに
なっている。
これにより戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間みることができる。

The original site of Iwakuni Casle

The original Iwakuni Casle was built on the top of this
mountain in the 17th century.
It was a unique casle for its time.
Kikkawa Hiroie,feudal lord of Iwakuni,began to build his
casle in 1603,and it took five years to finish.
In 1615,however,the casle was mandated to destruction by
order of Tokugawa Shogunate Government's policy of one
casle per country.
The basic groundwork of the casle site was laid with stones
in a style of the old Anoo masonry,a expert group of stone layers.
The were noted for their own unique stone-laying skills during
the warring years of the 16th and 17th centuries.
This masonry form consisted of laying large stones,and filling
the openings with smaller ones in a pattern of parallel crosses.
The four corners of stone-built foundation had no curved shapes,
but had straight,standing,stone-laying lines.
The stone walls emphasized practical purpose in the form of
pyramid,rather than showy beauty.
From this knowledge about the casle,we can better appreciare
its uniqueness and practical strength,as the strategic thinking
of Lord Kikkawa.
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由宇町における漁業

2005年05月18日 05時15分23秒 | Weblog
由宇町沖は好漁場であるが明治の初期(1870頃)の
漁業専業者は12-13戸程度であった。
明治中頃(1890頃)は海運業の衰えに対して逆に
漁業が盛んとなり現代は75戸程度の漁業専業者が
います。
年間漁獲高は約350tで主な魚種は小型底引き網に
よるイワシやエビ類などです。
最近は「獲る漁業」から「栽培漁業」へ脱皮の
努力がされています。
由宇町の歴史民族資料館(0827-63-1515)には
漁業に関する色々な展示があります。
写真は資料館にある底引き漁船の模型
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浄念坊----由宇町有家

2005年05月17日 05時53分17秒 | 岩国情報
立て札を要約引用

江戸時代から明治中期まで、北海道・日本海沿岸
瀬戸内海にかけて手広く廻船業を営んでいた重岡家
(新屋あたらしや)の明治期の当主重岡富次郎は
当時由宇最大の帆船「大招福丸」1300石積みなど
数隻の船主でした。
有家にお寺がないため当地に浄土真宗説教所を
開き仏法をひろめていました。
明治13年(1880)大島郡伊保田村にあった
深光寺の一部を当地へ移し本山の許可を得て
浄念坊を開き地域の聞法の場としました。

裏庭の大きな蘇鉄は日向(宮崎)から船で
もってきたものと伝えられています。
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藤井氏旧井戸跡---由宇町上北

2005年05月16日 06時02分24秒 | 岩国情報
ゆうの史跡・文化財めぐり(Page51)及び立て看板を要約引用

藤井氏は鎌倉御家人で安芸の国田万里(現竹原市)の地頭でした
大内氏の時代に6代の藤井美濃守正次の時康暦元年(1379)戦功
により由宇郷の領主となりました。
15代藤井壱岐守義正の代大内氏と毛利氏の戦いの時どちらにも
加勢せず弘冶元年(1555)帰農してこの地に館を構えました。
のち藤井氏の祖先は大いに栄えて由宇で酒屋(藤屋の屋号)を
営み由宇海岸に藤屋開作を築造しその功で町年寄を勤めました。

藤井氏井戸跡の碑は広島三国屋の藤井正端が文政4年(1821)
玉垣とともに建立したものである。
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由宇峠(小瀬・上関往還跡)---由宇町

2005年05月15日 06時26分51秒 | 岩国情報
ゆうの史跡・文化財めぐり(Page16)及び立て看板を要約引用

江戸時代の岩国藩内の主要道路は山陽道(西国街道)の他に
石州街道、竪ガ浜街道、小瀬・上関往還の4本があった。
小瀬・上関往還は山陽道の小瀬の渡し場を起点に和木、今津
海土路(みどろ)、藤生(ふじゅう)、通津、長野、由宇
日積(ひづみ)、大畠、遠崎、柳井、伊保庄を経て上関に至る
60Kmの公道であった。
由宇村での小瀬・上関往還の経路は通津から長野の辻堂峠を越え
生屋(しょうや)へ出て由宇川沿いに由西を経て長田尻から
由宇峠を越え日積大原に至るもので写真の由宇峠付近は雑草で
夏場には歩きにくいと思われる。
現在は農道として利用されていますが明治30年頃由宇川沿いの
県道(437号線)が整備されるまでは由宇と伊陸(いかち)
日積を結ぶ交通のメーンルートでした。
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からすでの食事(2005-5-7)---和木町

2005年05月14日 06時16分59秒 | 岩国情報
5月7日(土)に和木町に岩国短大の川口先生の個展
を観に行った時にKuimono Bar からすに寄った。

1300円のランチを食べた(写真)

TEL:0827-52-0299
住所:山口県玖珂郡和木町和木4丁目6-16
(2号線で和木町から大竹市の県境の小瀬川
  にかかる栄橋の手前)

主なメニュー(昼のランチ)
 日替わり   850円
 ロースカツランチ 850円
 ヒレカツランチ  930円
 カラスコース  1800円
 気まぐれコース 2400円

詳細な紹介はこちら
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NLP(夜間着艦訓練)解説

2005年05月13日 06時14分45秒 | 時の言葉
岩国基地では5月17日から5月20日の18:00より
22:00までNLP(夜間着艦訓練)が行われます。

陸上着艦訓練(FCLP)には2種類あります。
 FCLP=Field Carrier Landing Practice
昼間に行われるものをDLP=Day Landing Practice
夜間に行われるものをNLP=Night Landing Practice

航空母艦の甲板は大変小さく、艦載機がここに着陸するには
非常に高度な技術が必要とするので艦載機パイロットは常に
訓練を繰り返して徹底的に感覚を覚える必要があり訓練されて
います。

現在は90%以上が硫黄島で実施されていますが、岩国でも
実施されることがあります。

訓練は空母に設置されているものと同じ光学着陸誘導灯、
模擬甲板灯火、着陸拘束施設、訓練管制施設などが設置
されており着艦誘導将校の目視立会いのもと実施されます。

タッチアンドゴーと呼ばれる摘艦後すぐに出力を上げて
再離陸する訓練も含まれる。
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回天の誕生までの経緯と回天訓練基地

2005年05月12日 06時16分08秒 | 旅行記
Human torpedo Kaiten used by Japanese imperial navy
at the last stage of world war II:
the torpedo is operated by a pilot and explodes
with him at the target.
Initially proposed in 1943 summer by lieutenants
Nishina and Kuroki, the plan was first rejected
due to its consequence, but finally adopted in
Feburaly1944 because of a hopeless situation.
4 training bases were created in Yamaguchi
(Ohzu island,Hikari,and Hirao) and Oita prefectures
(Ohkami) with 400 apparatus.
昭和18年(1943)日本軍は制空、制海権を失い敗戦を
続けていた。このような状況下で2人n成年士官(黒木大尉と
仁科中尉)が回天の開発研究を重ねついに回天を完成させた。
回天の訓練基地は山口県と大分県に設置され1375名の搭乗員の
訓練が行われた。
回天は400機製造された。
写真は山口県大津(おうず)島の回天発射訓練跡地で2005年
5月2日に撮影したものである。
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